君が笑ってくれるなら 【KAC2022】-④

久浩香

君が笑ってくれるなら

 宮涅きゅうでつの父の宣王せんおうは、中興を果たしたものの、徐々に政治に倦んでゆき、異民族征伐で滾った血を、女の肉体で鎮めるようになり、晩年の千畝せんぽの役において大敗した事がとどめとなり、どっぷりと女色に耽るようになった。


 忠臣達は、もちろんこれを諫めたが、ついに、いかにも見せしめと言わんばかりの理由で、杜伯とはくという大夫だいふを処刑し、諫言する者のいなくなった城内の後宮には、方々から少女や年頃の娘達が集められた。


 褒姒ほうじもその一人だった。


 ほう国の大夫は、宣王から言いがかりめいた粗相を理由に罪に問われ、処刑を免れる為に、彼女を貢ぎ物として献上したのだ。


 しかし、宣王が褒姒ほうじと遭う事は無かった。

 彼女が後宮に入った頃、彼は杜伯とはくの亡霊に苛まれており、懊悩の気晴らしにと向かった郊外での狩りで、亡霊の放った矢に撃たれて崩御した。


 宮涅きゅうでつは、父の死に安堵していた。

 それというのも、宣王が女色に溺れるようになった頃、巷には『月将昇、日将没、桑弓箕袋、几亡周国』という童謡が流行り、それは、女によって国が亡ぶ事を示唆した歌だったからだ。


 宣王も、それは自分の事を謡っている歌だと考えていたのだろう。山桑の弓や萁の矢筒を売っている者達を捕らえては処刑させた。


 その宣王が、本当に亡霊の手にかかった、とは言わないが、少なくとも矢によって殺害されたのだ。これで、予言めいた童謡は成就し、厄災は去ったと思ったのだ。


 宮涅きゅうでつが幽王として即位し、晩節を汚した父に代わり政道を正すのに3年かかった。

 その間、彼の后と息子は、王太子の城に留め置かれていた。王の後宮には、宣王の愛妾達が占拠していたからだ。前王の手のついた女達である。そんな場所に愛しい妻と息子を不用意に移せば、義母の風を吹かせ、どんな仕打ちをするか解ったものではなかった。

 しかし、彼女達を粗略には扱えない。彼女達も、それが解っているので、これまで通りの暮らしを謳歌していた。

 宮涅きゅうでつは、彼女達を説得する手段に、童謡を使った。

 つまり、出家を促しても愚図る愛妾に向かって、

「国を亡ぼす“月”は其方であったか?」

 と、幽閉を言い渡した。


 彼女達に仕えていた者や、愛妾となるために連れて来られた女達だけになると、数こそ多いが、処理は速やかになった。

 出家に付き添わす者、国へ帰す者、臣下に下賜する者、このまま後宮に留まらせ、后に誠心誠意仕えさせる者と、身の振り方を振り分ける最中、外の空気を吸いに外廊に出た彼は、重々しい曇天の薄暗い中庭にて、そこにだけ月明かりが差しているかの様に浮かび上がる、白梅の化身の如き褒姒ほうじに引き寄せられ、交合した。


 褒姒ほうじは、自分が何をされているのかも、解っていないように、ただ、自分の肉体を弄り、息を荒げる宮涅きゅうでつの成すがままになっていた。

「あ…っ」

 破瓜の痛みに、声を漏らしはしたものの、彼女の体は冷たいままであった。


 宮涅きゅうでつは、しん侯の娘である申后を愛していたし、彼女との間に儲けた宜臼ぎきゅうを王太子に据えていた。

 だから、褒姒ほうじが、自分の命じるままに姿勢を替え、足を開く生き人形の如きである事は都合が良かった。

(自分は父とは違う。后を愛しているのだ。この女を抱くのは、今だけだ)

 と、自分に言い聞かせながら、褒姒ほうじにのめり込んでいった。


(何という事だ。私は褒姒ほうじを、愛しているのだ)


 褒姒ほうじが孕む頃には、宮涅きゅうでつはもう、自分の気持ちに嘘がつけなかった。


 体が馴染んでくれば、褒姒ほうじも反応はする。

「ん…」

 と、息をつめ、

「は…ぁ…」

 と、しどけない声を漏らす。眉間に皺を寄せ、涙で滲んで潤む瞳に、欲情をかきたてられ、痛くしてやれば、哀れめいた高い声を響かせ、なんとも辛そうに喘いで絶頂を迎える。

 だが、それだけであった。終わってしまえば、空虚が残った。

 宮涅きゅうでつは、褒姒ほうじが男子を産んだ頃にようやく、彼女に足りないものが、しん后と抱き合っていた頃のような、心の充足感である事に気が付いた。


 褒姒ほうじには、それが無かった。

 彼女のあまりに美しすぎる顔の虜になるあまり、それまで気が付かなかったが、褒姒ほうじは、膨らむ腹を撫でている時も、吾子を抱いていても、一度も笑った事が無かった。


(あれほどに美しい顔だ。笑った顔は、どれほど素晴らしいのだろう)


 それからというもの、宮涅きゅうでつは、褒姒ほうじを笑顔にする事だけを考え始めた。


 その第一歩として、しん后と宜臼ぎきゅうを廃して放り出して、褒姒ほうじを后に、彼女の産んだ男子を太子に据えた。

 女として、最高の栄誉を与えたのだ。

(これで喜ばぬ筈が無い)

 という宮涅きゅうでつの思惑は見事に外れたが、その様な、現実世界の手垢でしか無いものになびくような女でなかった事を、嬉しくも思った。


 宮涅きゅうでつは、褒姒ほうじを常に横に置き、様々な歌舞音曲をはじめ、滑稽な寸劇、奇形の動物や人間を見せた。そういった物を見せながら、ふと宮涅きゅうでつが気づいた事があった。

 ある時、余興として、酒を運んできた侍女の一人を、閹人えんじん──宦官に与えてみたのだ。宦官といえど性欲が無いわけではない。まして、王の命令だ。宦官は、宮涅きゅうでつに許しを請う声を上げ、逃げようとする侍女の絹の衣を引き裂いた。

 その夜、いつもなら、いたす前には彫像のように冷たい褒姒ほうじの乳房が、温かかったのだ。


 褒姒ほうじはそれが気に入ったのだと思い、余興が定番となり、淫事もより凄惨さを増す中、危機を報せ諸侯を集める狼煙が上がった。

 宮涅きゅうでつ自身も、

「何事か!」

 と、狼煙台へ向かうも、それは間違いであった。


 そんな事を露知らぬ諸侯は、次々と軍兵を率いて都へと馳せ参じてくる。宮涅きゅうでつは、王として彼等にあらましを説明して帰したが、その様子を隣に並んで眺めていた褒姒ほうじが、不意に、

「フッ」

 と笑い声を零した。一度、零れてしまうと、それを抑えられなくなったようで、

「フフフッ、ホホッ、」

 と、唇に指先を添えて、わらった。


「!?」

 宮涅きゅうでつは、言葉が出なかった。諸侯を無意味に集めてしまい、彼等への説明に無駄な時間を取られてしまった苛立ちに、その間違いを犯した兵を、どのように処刑してくれようか、と、腸が煮えくりかえっている中、唐突に、夢の中でも焦がれ求めた褒姒ほうじの、思い描いていた以上に艶やかな彼女の微笑んだ顔があったのだ。


「可笑しゅうございますね。宮涅きゅうでつ様」

 褒姒ほうじは、笑みを湛えたまま、宮涅きゅうでつの懐近くまで寄り添って来た。褒姒ほうじは、姿形が美しいのはもちろんだが、香りも良い。鼻から息を吸い込むと、鼻孔の中に溜まったその香りで、増々、褒姒ほうじを欲しくなる。

 その香りが強く漂い、わざわざ嗅がなくとも、宮涅きゅうでつの鼻の奥を擽ってきた。


「可笑しいといえば、どうしたものか…私、体が火照ってしまって…」

 そう言って、宮涅きゅうでつを見つめた褒姒ほうじの瞳は、とろりと憂いを帯びて、口角の上がる唇は艶めかしく濡れていた。

 顔が上気しているのは、当たり前だ。彼女の体からは、じっとりと靄がかったようになっていて、はだけた胸元まで淡いピンクに色づいていた。


 褒姒ほうじは、宮涅きゅうでつにねだった。こんな事は初めてであった。褒姒ほうじによって誘われた宮涅きゅうでつの指先が、彼女の内腿に触れると、もう彼女が欲しがっている証がつたっていた。

「アアアッ!!」

 どんな淫売でも、これほどあられもなく乱れはしないだろう、と思わせる程に、彼女はあえかな体を揺らし、宮涅きゅうでつの男を絞り尽くした。褒姒ほうじという牡丹に犯されたのは宮涅きゅうでつの方だと言っても過言ではなかった。


しかし、それは1日だけの事だった。

翌日にはもう、褒姒ほうじはもう白梅のように清楚であった。

同じ褒姒ほうじであっても、牡丹に抱かれる恍惚を知ってしまった宮涅きゅうでつにとって、白梅への物足りなさは、以前の比ではなかった。


宮涅きゅうでつは、狼煙を上げさせた。

だが、もう最初の時のように、諸侯と会おうともせず、褒姒ほうじに耽った。

二人のあげる嬌声は、諸侯の耳にも届き、彼等の憤懣がまた、褒姒ほうじを笑わせ、彼女を火照らせた。


さて、廃されたしん后と宜臼ぎきゅうは、しん侯の元に亡命していたが、しん侯は、ついに機が熟したとばかりに、連合を組んで反乱を起こした。


宮涅きゅうでつのあげる狼煙には、もう誰も集まらなかった。

紀元前771年。鎬京こうけいを王都とする西周は消滅した。



 ★☆★



「ねぇ。『“お笑い”の文章を書いた』って言ったよね?」


 1DKの浩香の部屋を訪ねて来た彼女の姉は、彼女が、彼女自身を知る人間の中で、自分の妄想を話せる、唯一の人間だ。

 その姉に、浩香は、“KAC2022”用に書いた文章を読ませたのだ。


「うん。そだよ」

 と、突貫工事の妄想を繋げたにも関わらず、どうにか期限内に書き終える事ができた喜びに、嬉しそうなドヤ顔で、座ったまま腕を突き上げ、さながら阿波踊りのように手を動かしながら肯定する浩香に、姉は深い溜め息をついた後、

「これの、どこが、“お笑い”だっつーの?」

 と、ヒステリックをギリギリ押さえられたかどうかは微妙な声で、冷ややかな目を向けて言い放つ。


 浩香は、キョトンとしながら、踊る手を止めて首を傾け、

「だってぇ。褒姒ほうじ、笑ったんだよ。それに、女一人を笑わす為なんてバカげた理由で、国を亡ぼすって…そりゃ、まぁ。当時の人達にとっちゃ、笑いごとじゃないけど、それは、悲劇トラジディじゃなくって喜劇コメディだよね?」

 と答えた。

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