ある物語
石濱ウミ
・・・
とろり、と蜜を溶かしたような春の夜。
押し殺した泣き声が、響く。
「…………しぃーーッ。静かに」
それを
窓の外では、禍々しくも美しい大きな赤い月が闇い部屋の中を覗いている。
泣いているのは、一人の女だ。
涙に濡れた目の辺りは、月明かりに照らされて
恐怖に怯えて揺らぐ瞳には、目の前の男の姿が映しだされている。
その女は、実に美しかった。
男は、もう一度手を伸ばして、今度は女の涙を拭うと「泣き止んでくれた御礼に一つ、お話を聴かせてあげる」と言いながら指先についた涙を舐めた。
男は濡れた唇で艶やかな笑みを浮かべる。
「……ある人たちの、お話だ。
その人たちは、ね? 皆とても個性的で並外れた美しい容姿をして、大きな古いお屋敷に住んで居る。
美しい、という一言で表すのは違うかな。
君が、ひと目で僕に見惚れてしまったように彼らの姿は、誰だって惹かれずにはいられない夜明けの兆しを映す空のような、期待や不安、奇妙な懐かしさのように胸を疼かせるんだ。
……何故かは分かるだろう?
彼らが、そうでなければならない理由を、僕の姿に魅せられたときから君は既に気づいている筈だ。
花が蜜蜂を誘うように……誘われるままに蜜蜂が花から花へ渡るように、彼らが美しいことも、またそれが彼らにとっての当然の
勘の良い君なら……ほら、ね?
だからこうして君に、お話を聴かせてあげることにしたんだ。
僕の物語を……。
聴きたい?
今となっては、もうずっと昔。
もちろん夜、だった。
今夜と良く似た甘い匂いのする春の、夜。
地平線の近くにある所為で、赤く大きく見える月が駅舎の三角屋根の尖塔の向こうに覗く、その禍々しくも美しい夜。
その駅舎のプラットホームには若い女性が、ひとり。
ベンチに腰を掛け、少し俯くようにして伸ばした両脚の、つま先を見ていた。
滑らかな頬は、とろりと月明かりに照らされ、触れたら指先が仄赤く染まりそうだと思ったのを今でも、覚えている。
僕は、そっと近くまで寄ると、その女性を改めてじっくり観察し始めた。
膝丈のスカートは、伸ばされた細っそりとしたふくらはぎを
長い睫毛が白い頬に影を落とし、憂いを湛えた横顔は不思議な美しさがあった。
捉えどころのない、雰囲気というのだろうか。その姿は、どことなく幼さを残しているのに、何故かひどく似つかわしくない淫らなものが
やがて、視線を感じたのだろう彼女が顔を上げる。僕の方を見て、驚いたように形の良い薄い唇を僅かに開けた。
僕は中折れ帽子に指を掛け微笑み、驚かせてしまったことを詫びる。
すると彼女は、臆することなく僕に向かって艶然とした笑みを返したんだ。
すっかり心を奪われてしまった僕は、彼女に見惚れていた。
そう……君のように。
彼女から目を離すことが出来なくなってしまった僕は、いつものように片手をコートのポケットに入れると、掌に良く馴染んだ物に触れその感触で心を落ち着かせようとした。
お互いに探り合うように見つめ合っている間も、彼女は真っ赤な薄い唇に笑みを浮かべたまま決して目を逸らさず、そのあまりにも大胆で遠慮のない仕草に驚いている僕は、それをどう理解したら良いのか分からなかった。
僕の知る大抵の女性は、君のように、いつだって恥ずかしそうに俯き、逃げ出してしまうから。
捕まえて欲しくて逃げ出す癖に、引き留めておくには、ちょっとした手荒なことをしなくちゃならないのが面倒で、そうは言ってもそれすらも愛おしくあるんだけれどね。
そうしながらもポケットの中の手は、常の如く、片手で簡単に開閉出来るように取り付けたサムスタッドの突起を親指で擦ることで逸る気持ちをなだめながら、二人の間合いを測っていた僕に声を掛けてきたのは――
彼女の方だった。
そうなんだ。
彼女こそが、こうして僕が存在する理由。
僕の物語が、始まった瞬間。
僕の
気づいた時には彼女に組み敷かれ、僕は冷たい地面を背中に感じていんだ。
僕を見下ろす彼女の赤い瞳は、夜空の赤い月と良く似ていた。思わず手を伸ばし彼女の滑らかな頬に触れ、
彼女はそんな僕の首筋に赤く濡れた薄い唇を押し当て、そろそろ新しい仲間が欲しかったのだと言って笑ったんだ。
そう、これが僕の物語のはじまり。
……おや、また泣いているの?
素敵なお話だって、笑ってくれるかと思ったのに。
でも、そうだね。
分かってしまったかな?
残念ながら君を、仲間にすることは出来ないんだ。
何故なら君の泣き顔はとても綺麗だから。
苦痛に歪む顔もきっと、さぞかし美しいのだろうね。
…………嗚呼、やっぱり
なんて、綺麗なんだろう………………」
男の居なくなった部屋に、窓の外の月だけが無惨に変わり果てた女を見下ろしていた。
《了》
ある物語 石濱ウミ @ashika21
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