第1話 審問官は魔術で死者の記憶を視る

 この世界を創った偉大なる魔女は言った。

 すべての命あるものに等しく魔力を。そして、魔力を扱う術を与えよう、と。

 誰もが崇める偉大なる魔女の祝福。それを拒絶する騎士があった。外へ向かう魔力を内循環させて力に変える。

 魔術士を狩る騎士たち。異端の騎士だ。

 その者たちの名を、エレミヤ聖典騎士団という。



 × × ×



 エレミヤ聖典騎士団に派遣されていたテオドア・オラニエ審問官は、それまで編んでいた魔術式にそっと魔力を込めながら魔術を展開した。

 騎士団内の捜査官ルドガーの要請に応じて、高負荷魔術を行使する。これはテオドアの仕事だ。

 テオドアの淡褐色ヘーゼル眼に鮮やかな黄緑色の灯がともるとき、展開した魔術がテオドアを呑み込む。テオドアの『おれ』という自我の上に別の『俺』という記憶メモリーが走る。

 そしてその記憶メモリーは、唐突にはじまり、自我を侵食して唐突に途切れた。

 記憶が溶けだし接続が解ける。やがて、深淵に抱かれるように意識が落ち、落ちて、落ちた。

 そして、そして、そして——。





「……——審問官! ……テオドア・オラニエ上級審問官、今すぐ目を覚したまえ!」


 落雷のような鋭い大喝で、白くぼやけて濁っていたテオドアの意識が浮上した。

 ぱちり、と一度瞬いて、更にもう二度ゆっくりと瞬きをする。ぼんやりしていた視界と頭が、徐々に輪郭線を捕えだす。

 どうやら昏倒していたらしい。そんなことを思いながら、テオドアは指先にわずかな痺れを感じて息を吐いた。この痺れは、直ぐに治るだろう。経験則で判断し、失ったものはないか頭と身体に魔力を流す。至って平常通りの魔力反応が返ってきてテオドアは安堵した。

 でこぼこした硬く冷たい床で、テオドアは仰向けになっていた。

 焦点が合いはじめた視界には、無機物と有機物が映りこむ。アーチ構造で築かれた石造りの高い天井、オレンジ色の光を放つ吊り下げられた洋燈、救護部隊をあらわす緑色の腕章をつけた救護員が不安そうにテオドアの顔を覗き込んでいる。

 横を向けば、かつて生命を宿していた体躯がひとつ。そして、体躯の奥の壁際で複数人の騎士団員に取り押さえられている黒い男がひとり。

 テオドアが起き上がろうと上半身を動かしたところで、救護員の腕が動きを制した。


「テオドアさん、いけません。魔力の過剰消費で倒れたんです。もう少し休んでください」

「エジェオ救護員。オラニエ上級審問官を甘やかすな。その男は魔塔から派遣された審問官だ。騎士団内部で起きた事件を解決してもらわなければならない。……早く起きたまえ、オラニエ上級審問官! お前の異名が『天井知らず』だってことは、もう知れ渡っているんだぞ」


 眉を吊り上げて冷徹に言い放つのは、意識消失していたテオドアを起こすよう叱咤した捜査官だ。


「おれが寝ている間に事件だって断定できたのか、ルドガー」

「敬称もしくは官職名をつけたまえ、オラニエ上級審問官。君はいつもそうだな、いつになったら学習するのかね?」

「はは、失礼、ルドガー捜査官殿」


 硬い床の上で仰向けのまま笑うテオドアを見下ろす捜査官ルドガーの顔は、逆光になっているからそう見えるのか、それとも気を失ってしまったテオドアに落胆してか、酷く険しいものだった。

 ルドガーの存在を厳めしいものにしているのは、なにも表情筋だけじゃない。

 皺なくアイロンがけされた隊服、首までキチリと閉じられたボタン、一筋の乱れもなく後ろに撫で固められた濃茶の髪。黒く縁取られた四角い眼鏡、鋭く光る吊り上がった深緑の眼、薄情そうな薄いくちびる。

 そういうものが、ルドガーの印象をより堅く厳しいものにしていた。初めて会ったときから変わらずお堅いな、と状況にそぐわない感想をぼんやりと浮かべながら、テオドアは薄いくちびるが鋭い声を発するのを聞いた。


「オラニエ上級審問官。それで、君は見たのか? 第三部隊隊長を殺害した犯人を」


 声まで硬質で柔らかさの欠片もないのは、相変わらずか。腕組みをしてテオドアを見下ろすルドガーは、少しばかり意識を失っていたテオドアの頭の具合だとか身体の具合だとか、そんなものには興味がないらしい。

 テオドアの隣で、物言わぬ冷たい体躯となって横たわるデラクレスにさえ、興味がないようであった。

 捜査官であるルドガーの頭の中にあるのは、事件のこと。それから、その事件を早急に解決することだけ。そのために、わざわざ外部組織である魔塔からテオドアとその上司を呼び寄せて、審問官なんて役職をつけたのだから、相当の事件解決主義者である。

 テオドアが赴任している騎士団は、エレミヤ聖典騎士団と呼ばれる異端の騎士団だ。エレミヤ聖典騎士団が異端と呼ばれる所以は、その在り方にある。

 この世界を創った偉大なる魔女エレミヤは言った。

 すべての命あるものに等しく魔力を。そして、魔力を扱う術を与えよう、と。故に、この世界では誰もが魔法を学び、息をするように魔術を使う。

 高難度の魔術は、行使する際に供犠サクリファイスを必要とするけれど、生活魔術などの簡単な魔術は供犠サクリファイスを必要とせずにノーリスクで使うことができる。それを魔女の祝福といってありがたがっているというわけだ。

 偉大なる魔女が与えた祝福と、彼女が残した教えをまとめた教典、そして各地に遺された遺産。それらを管理し信仰するのがエレミヤ聖典教会だ。聖典教会は国境を超えてあらゆる国家、権威に影響力のある教会である。

 その教会の中で、教会の守護者であり、信仰の守り手であるにも関わらず、魔女の祝福を拒絶して力を得た異端の集まりがある。悪行を働いた魔術士を狩る者、魔術士の天敵。

 その者たちの名こそ、エレミヤ聖典騎士団である。

 魔力と魔術を拒絶する騎士団に、魔術士であるテオドアやその上司を招くだなんて、正気の沙汰じゃない。正気の沙汰ではないのは、テオドアとその上司も同じ穴の狢。天敵である騎士の巣窟に乗り込んで居を構え、渡り合おうなんて。獅子の群れに兎を放つのと同じこと。

 とにもかくにも、騎士団内部で日常的に起こる事件処理のためだけにテオドアの上司を説得し、今から一か月前に騎士団へ魔術士を迎え入れたのが、ルドガーという男である。


「ルドガー捜査官殿。デラクレス隊長が殺害された、という証拠がでたんだな?」


 寝たきりでは格好がつかない、と起き上がったテオドアが、険しい顔をしたままのルドガーに問う。

 そもそもテオドアが昏倒する羽目になったのは、騎士団本拠地にある砦城西棟1階にある屋内演習場に呼び出され、ルドガーに要請されるがままに魔術を使ったことにある。

 テオドアが既に死したデラクレスに魔術を使い——ショックで倒れた、というわけだ。


「よくある稽古中の事故じゃないんだな?」

「違う。致命傷となった脇腹の太刀傷から毒物反応が出た」

「なるほど。それなら確かに事故じゃない」

「だから尚更、君の証言が重要となってくる。……オラニエ上級審問官、君が見たことを話してくれ。デラクレス第三部隊隊長を殺害したのは誰だ」


 ルドガーの硬い声に冷気が宿る。切長の目がすぅ、と細められてより鋭く尖った。白絹の手袋に覆われた長い指が、組んだ腕を叩いている。あれは、ルドガーが催促しているときの癖。

 これ以上、雑談をしていると雷が落ちるな、と思いながら、テオドアはデラクレスが殺害された場面シーンを回顧するように目を細めた。

 そう、テオドアは確かに視た。

 犯人らしき人物がデラクレスを刺殺する場面シーンを。現場に居合わせてはいないけれど、テオドアにはそれを視る術がある。

 どうやって? ——魔術を使って。



   ×   ×   ×



「デラクレス隊長、個人演習につき合ってもらえませんか」


 低いのに妙にはっきり耳に届く声に、思わず振り返った。そこにいたのは、藍色の髪、琥珀色の眼の男。精悍な顔つきで、仏頂面をした第三部隊副隊長だった。隊服の襟と肩に縫いつけられた隊章と階級章が、そう示している。

 エレミヤ騎士団の西棟3階の廊下で呼び止められ、個人的な演習——つまり手合わせを申し込まれた。

 途端、心臓が期待と驚きで動悸しだす。少しばかり呼吸も早くなって、体温が上がる。頬も緩んでニヤけているだろう。


「いいだろう、30分後に演習場入口で。空いている場所を押さえておく」


 それだけ言って、副隊長には背を向ける。歩いていたのは数歩だけ。すぐ駆け足となって、ある人物を探すべく階段を駆け降りた。

 背後を警戒していたのになにもなかったから、更に驚き、膨れる期待で胸が一杯になり、気も緩んでしまったことは否めない。


「イーヴォ、すまない。どこか空いている演習場はないか? 30分後に使いたいのだが」


 目的の人物を見つけるのは容易たやすかった。

 エレミヤ聖典騎士団第一部隊隊長のイーヴォを見つけ、思わず真っ直ぐ駆け寄った。騎士たちの詰所や執務室、待機室などがある西棟2階の廊下で、だ。

 話しかけられたイーヴォはゆっくりと振り向いた。銀色に艶めく癖のない長い髪が、振り向きざまにフワリと揺れる。冬の泉のような青い眼は平淡で、よく言えば冷静だと表現できるのだろう。


「それならば屋内演習場が空いているぞ、デラクレス」

「そうか、よかった。助かった、イーヴォ」

「……もしかして、いつものアレか?」


 イーヴォの表情が僅かに濁る。眉間に寄る皺、下がる口角。それについては気にも留めずに、問いについて肯定するよう頷いた。


「ん? ああ、そうだ。いつものアレだよ。珍しく誘われたんでね、俺が場所を押さえることにしたんだ。いつもは不意打ちで来るのに……なんでだろうな?」


 答えた声が、思いもよらず跳ねていた。少しだけ心拍数が上がって体温が高くなる。くすぐったいような、痒いような。そんな感覚。それを誤魔化すように、なんとなく手癖で目を擦る。

 そんな様子に、イーヴォは呆れたようにため息を吐いて小言を言いだした。


「私が知るわけがないだろう。それにしてもデラクレスよ、いつまでアレの勝手に目を瞑っていてやるつもりだ? 隊長のお前の首を狙っているとか、隙を見ては襲っているだとか、悪い噂を聞いているが」

「ははは、いつまでもだ! 今、磨いてやってる最中なんだから」

「可愛がるのもほどほどにしろ。1年後には第三部隊の隊長から外れている予定なんだろう? ……儀式は順調か?」

「儀式は順調だ、心配するな。今まで感じていたものが感じ取れなくなる感覚は新鮮で面白いぞ。まあ、アレはいいんだよ、アレはあのままで。このままなにも知らずに俺に挑んでいればいい」

「……うっかり殺されてからでは遅いぞ」


 どうやらイーヴォの小言は忠告だった、らしい。適当に聞き流して、目を擦る。どうしてか目に違和感があったから、つい。手癖で擦ったせいで、どこか傷つけたのかもしれなかった。

 けれど、そんなもの。イーヴォの忠告も目の痒みも、真面目には取り合わずに不敵に答える。


「ふは、そんなことあるかよ。アレは狼だ。群れの頭を噛み殺そうとはしない」


 そう言ってイーヴォと別れて西棟の階段へ向かう。屋内演習場を使うためだ。そうして、降りる階段の前で、第三部隊の隊章をつけた男に呼び止められた。


「デラクレス隊長!」


 焦茶色の眼、枯れ草色の髪を中央で分けた髪。中肉中背で顎には傷がある。書類の束を抱えたその隊員は、にこにこと愛想笑いを浮かべながら話を続ける。


「あれ、隊長。珍しいこともあるんですね。——と屋内演習場で、ですか」

「……?、…………」


 不思議そうな顔をして尋ねる隊員の声、特に一部の音にノイズが走る。聞き取れなかった名前に不快を感じて、顔を顰めた。

 その不快はじわじわと胸の内に広がって、やがて腹まで下がってムカムカしだす。それだけじゃない。うっすら頭の奥も、ズキズキと痛い。

 だから隊員の存在は、無視をした。スイッチを切るように表情を消して階段を降りてゆく。


「え、え? 隊長、デラクレス隊長?」


 背中にかけられた声は、戸惑いと不信とで揺れていた。けれど、それをかえりみることはない。隊員に横柄な態度を取るのは、いつものことだ。珍しいことではない。

 けれど、無視をされた隊員は不満に思ったか、それともなにか用があったからなのか。随分と長い間、なにか言いたそうに見つめていたようで、背中にずっと視線を感じていた。

 それがどうにも不快で苛立たしくて、駆け足で階段を下り、真っ直ぐ目的地へ向かったのだ。






 石造りの高い天井に剣戟の音が響く。

 ここは西棟1階にある屋内演習場だ。第三部隊副隊長との約束の場所。だから必然的に剣の相手は副隊長だ。夜を思わせる藍色の髪、不敵に輝く琥珀の眼。その眼の奥は、闘志によって爛々と赤紫色に燃えている。


「ははは、今日の趣向はなかなかにいいぞ! 面白いな、どんな手を使った?」

「それを答えると?」

「違いない!」


 笑いながら剣を振るい、腹の底でぐつぐつと煮立っている愉悦を、溢れださぬようしっかりこらえる。楽しい、楽しい、楽しい! これは、楽しいという感情だ。

 けれど、二度、三度、と剣を打ち合わせる度に、どうしてか動きが鈍ってゆく。繊細な動きができない、呼吸も制御コントロールできていない。

 視界に映るのは、ノイズ混じりで顔の半分が見えない副隊長。見えない、副隊長のキリリと締まった美しい顔が、よく見えない。

 けれど、ノイズに掻き消されてもなお光る琥珀の眼の奥で燃える仄暗い赤紫の灯だけは、よく見えた。

 そして、副隊長の剣に追い詰められていることも、わかっている。わかっていて、それが嬉しいと感じていた。

 そう、この瞬間までは。


「ああ、楽しい! 楽しいな! だが、この楽しい時間も残りわずかだ。俺はそろそろ隊長を辞める。後継はロウを指名しよう。後継はロウだ、——ではない」


 そう冷えた声で副隊長に告げて、目の前の副隊長を物を見るような無感動な目で見やる。

 言葉に驚いたのか、態度に驚いたのか。副隊長は大きく目を見開き茫然とする。


「……っ、まさか、——いて?」

「いくら——がアレの太刀筋を——も、まるで——ない。これで——しい」

「そんなに——が——か⁉︎」

「アレは——た。至高の——騎士だ。第三部隊の——相応しい」


 会話の端々にノイズが混じる。自分が吐いた言葉すら、自分の耳で聞き取れない。

 言い終わると同時に、少しだけよろめいた。そうして、もう終いだと言わんばかりに剣を鞘に収めて副隊長に背を向ける。

 背後では、ガランと剣を投げ出す音、駆け寄る足音。それから、大きく叫ぶ悲痛な声。


「それ——相応しい! 貴方に——いる、——!」

「——では——よ。そうやって——うな、——には。せいぜい——しか——ない」


 言っている間に痺れて震えはじめた自分の指先を一瞥いちべつし、けれど気にもとめずに言葉を続けた。


「まあ、——を用いて——は、初め——だった。そこは評価——いい。だが、——い」


 少しだけ。ほんの少しだけ上擦った声ののち、それとは真逆の硬い声。喉からでている使い分けられた声が、まるで他人のよう。追い縋る副隊長には背を向けたまま、拒絶の意思をはっきりと示した。

 途端に背後で膨れ上がる殺気と、消失する気配。

 その状況に、歓喜した。込みあげる感情は、なんと名前をつければよいだろう。

 気分のおもむくまま声を張り上げて宣言をした。


「だが、——う。——は本物だ。——は、俺の——!」


 そして。

 ふ、と背中から抱き込まれるように優しく腕が回る。次に感じたのは、脇腹への灼熱の痛み。切り裂かれたのだ、とわかったのは、抱き締められる腕から解放されて石畳の床に倒れ伏したときだった。


「さようなら、デラクレス隊長。あなたの間違——を——だ」


 一方的な別れの言葉と去りゆく足音を聞きながら、自嘲した。薄笑いを浮かべて浅く呼吸を行い続ける。

 じわじわと身体を蝕んで意識と血液を垂れ流そうとしているのは、おそらく毒だ。

 寒い、冷たい、とにかく寒い。流れた血は凝固する気配を見せずに広がってゆく。

 これで終わりか、と目を閉じる。と、バタバタと慌ただしく駆け寄る聞き馴染んだ足音がひとつ。そして、駆け寄ってきた人物に、半ば乱暴に抱き起こされた。


「デラクレス隊長! なにがあったんだ⁉︎」


 最後の力を振り絞り、閉じた目蓋をゆっくり開けた。視界に映ったのは、藍色の髪。驚愕で見開かれ揺れる琥珀の眼。澄んだ琥珀にホッとする。薄目で見た副隊長の凛々しい顔は、毒混じりの血で汚れていた。

 だから、力の入らない腕を持ち上げ、副隊長の頬に触れる。血を拭うどころか、余計に被害を拡大してしまったのだけれど。


「隊長……っ」


 悲痛な声は、胸の内をくすぐった。死に対する恐れは、もはやない。

 それでもなにか話そうと息をしたら、今度はゴボゴボと咳き込んで吐血した。口の中が気持ち悪い、けれど、今は、この男に、最後の言葉呪いを。

 そういう意思が働いたのか、否か。

 生涯最後の言葉は、意外なほどクリアに発声できた。


「……自由に生きろ、ロウ。俺の後を継ぐ必要は、ない」


 そうしてそこで、意識がブツリと途切れた。



   ×   ×   ×



 魔術で読み取った死者の記憶を思い返したテオドアは、ため息をひとつ。深く吐き出した息が垂直に上がり、少しカビた匂いのある空気と混ざって拡散してゆく。

 精神が上書きされるような感覚は、仕事でなければ可能な限り味わいたくない。『おれ』という自我の上に『俺』という記憶メモリーが走る。あの感覚だけは、思い出したくないものだ。

 それでもこれはテオドアの仕事だ。不快な思いに耐えながら、テオドアは自分の脳に刻まれたデラクレスの記憶を呼び覚ます。

 今もまだなお鼻の奥の粘膜に張りついて消えない血臭、犯人の瞳に映った青白い顔は、目蓋を閉じても鮮明に浮かび上がってくる。もう動かず、もうなにも生み出すことのないものに変わり果ててしまったデラクレス。

 第三部隊隊長であるデラクレスを殺害した者。それは壁際で拘束されている黒い男、第三部隊副隊長ロウであった。

 最も目をかけていたらしい副隊長に殺害されるだなんて、最期の瞬間、デラクレスはどう思っただろうか。言いようのない感情に胸を掻き回される中、デラクレスが深く感じていたものは、副隊長のあたたかな腕。そして、事切れる寸前、デラクレスが見つめていたのは、琥珀色の瞳、夜の藍色をした短髪、顰められて歪んだ端正な顔。

 テオドアは、自分が死の瞬間を体験したかのように身体を震わせて目を閉じた。いまだ朦朧とする頭の額を左手で覆いながら、渋々答える。


「ああ……た。視たよ、一応。あれは……第三部隊副隊長ロウの顔……だった、と……思う」

「なんだそれは。君は視たのだろう? 第三部隊隊長デラクレスの死に関する記憶を」


 ルドガーが怪訝な顔をして髭のないツルリとした顎をさすった。ルドガーの言いたいことは、よくわかる。視た、のだから、それが真実なのではないか、と。魔術に親しみのない騎士団員ならではの意見である。


「オラニエ上級審問官、容疑者の顔をしっかりと確かめたまえ。君が視たのは、あの男の顔か?」


 ルドガーが演習場の隅で拘束されている男を指差した。ロウを取り押さえているのは、どうやら彼と同じ第三部隊の人間だった。柔らかく波打つ枯れ草色の髪を短く刈った男と、癖のない銀の髪を肩口で切り揃えた男。どちらも顔は見えないけれど、第三部隊を表す隊章が襟と肩に縫いつけられている。

 同じ仲間に拘束されている男は、どこか静かに怒っていた。琥珀色の瞳、夜の藍色をした短髪、そして怒りを宿して表情を失くした端正な顔。間違いなく、デラクレスの記憶の中で視た顔だ。

 けれどテオドアは、自信なく首を横へとふるりと振る。


「間違いない……と思うんだが……確証がない」

「オラニエ上級審問官。君は死者の記憶を読み取れる魔術を使うんだろう? ならば、君が視た光景が真実ではないのか?」

「それはそう、なんだけど」

「君が開発した魔術はとびきりだと聞く。それなのに自信がないと言うのか」


 皮肉めいたルドガーの問いに、テオドアはゆっくりと深く頷いた。今回ばかりは本当に自信がないのだ、と肯首するために。

 テオドアが使った魔術はとびきりだ。なにせ、細かい条件はあるものの、生死問わず対象となる人間の記憶を参照することができるのだから。

 だから、テオドアは視た。そして、体感した。

 その上で、テオドアは結論を出すことをためらった。

 魔術は万能じゃない。テオドアは死者の記憶を読み取る魔術を使うけれど、完全な記憶を読み取れるわけじゃない。死者の感情はわからないし、考えていることだって読めない。それは、身体の反応を細かく読み取って類推するしかない、ということ。

 デラクレスの記憶を読み取ったテオドアは、デラクレスの死因を。彼を殺した犯人を。今はまだ、断定することができなかった。なぜならば。


「こう……参照した記憶にノイズ? のようなものが……」

「ノイズ? ……おい、エジェオ救護員。デラクレス隊長が殺されてから何時間経過したかわかるか? およそでも構わない」


 ルドガーが、テオドアを介抱していた救護員エジェオに所見を求めた。エジェオはビクリと肩を跳ねさせて、少し高めの声を震わせながら早口で述べる。


「は、はい! えっと……通報時刻や死後硬直などから見て2〜3時間ほどです。死亡前に手合わせをされていたと仮定して、の話で見積もり済み、です」

「というわけだ、オラニエ上級審問官。なにも問題はないのでは?」

「大アリだろ。3時間しか経ってないのにノイズ混じりなんて、絶対なんかある」


 そう言って、テオドアはため息を吐きながら石造りの天井を仰ぎ見た。

 テオドアが使った魔術は、完全無欠の魔術じゃない。死亡から4時間以内である、という条件下でほぼ完璧に近い状態で記憶参照を可能とする。そういう魔術だ。

 記憶といっても参照できるのは、身体や脳に刻まれた情報だけ。網膜を通して見た景色や、鼓膜を震わせて聞いた声や音。皮膚が感じ取った熱さや冷たさ。そういうものだ。

 死者の感情や、なにを考えていたのかまでは、わからない。

 その記憶も、死亡経過時間と比例して記憶に混じるノイズの量が増え、不明瞭で不鮮明となる。記憶参照の有効期限は10時間。それ以上経過した場合は、死者の記憶を参照することはできなくなる。

 そして、高難度魔術を行使する際の供犠サクリファイスは心身への高負荷。一度使ってからの再使用は日数制限がかかっているし、記憶参照後は漏れなく意識障害を起こしてしまう。

 そういうミスがあったわけではないはずなのに、ノイズ混じりの記憶を視た。それがどうしても引っかかる。

 歯切れの悪いテオドアに苛ついたのか、ルドガーが眼鏡の奥の深緑の眼をいっそう鋭く尖らせる。


「ミスした訳ではないんだろう?」

「ミスはしてない。でもどうして違和感があるのか……ちょっとよくわからない」


 テオドアが参照したのは、生前のデラクレスの身体が実行した符号データだ。

 体を動かすために必要な骨と筋肉、脈拍と脳波、血流と酸素。そして、膨大な量の生体信号。そういう全身の反応を複写トレースして、客観的に追体験をする。

 脳波を参照できるけれど、具体的になにを考えていたか、はわからない。だいたいこんな感じ、というふんわりとした所感ならば、まあ、わかる。

 それと同じように、感情だって、そう。

 心拍数の変動や発汗状態、筋肉のぎこちなさ、聴覚として耳から得た音声情報などを通して、なにを思ったか、は推測できる。けれど、それが正解かどうかは、やはりわからない。

 けれど、テオドアの仕事は、こういった事件や事故が起こったときに役に立つ。求められるのは、客観的な事実。死者の眼や耳を通して見た事実は、最高の証拠となる。なるのだけれど。


「オラニエ上級審問官。改めて聞く。第三部隊に所属するロウ副隊長が隊長を刺殺したのには、間違いないんだな?」

「……まあ、一応?」


 ルドガーの最終確認に、テオドアは歯切れ悪く頷くしかなかった。不揃いなタイル状に敷いた石張りの床を気まずく見つめることしかできないなんて、なんて不甲斐ない。

 なんとも形容し難い違和感がある、といえば、ある。それは、ないといえば、ない、と言えるのと同じこと。

 死後4時間以内の死者の記憶に、感じ慣れないノイズが混じっていた。ただその一点だけで異を唱え続けるのには、無理がある。

 なぜなら、魔塔の同期である医療魔術士ドクターとともに開発したこの魔術は、実践利用するようになってから、まだ3年も経っていない新しい術式だから。そして、死人がでて審問官が出動しなければならないような事件や事故は、そうそう起こらない。

 つまり、片手で数えるほどしか実践で使ったことがない、ということ。精度が高い、と言えば聞こえはいいけれど、それは分母が少ないから。死者の記憶を読み取れるとはいえ実績の少ない魔術と、客観的で実績のある検証結果。どちらを取るか、という話だ。

 その数字を、事実を、ルドガーは当然知っている。そしてルドガーは現実的な男だ。


「ならば副隊長には、このまま独房で過ごしてもらうしかない。第三部隊のレメク隊員、デヂモ隊員、拘束ご苦労。このままロウ副隊長を地下牢へ連行願う」


 ルドガーの冷徹な決断は、ロウを捕らえていた騎士たちを酷く動揺させた。特に、レメクと呼ばれた癖のない銀髪を肩口で切り揃えた男は、ロウの胸倉を掴んで詰め寄った。


「ロウ……お前にはがっかりだ! あれだけ隊長に目をかけられていたのに、恩を仇で返すとはな!」

「やめろ、レメク。まだ捜査は終わったわけじゃない。……ですよね、ルドガー捜査官」


 デヂモと呼ばれた騎士が、激昂するレメクを嗜めた。そのデヂモの顎には古い傷のような痕が見える。

 どこかで視たような。あの特徴的な顎の傷は、確かデラクレスの記憶の中で視たのではなかったか。テオドアがそれを言い出そうか逡巡している間に、ルドガーが冷徹な判断をしてしまっていた。


「デヂモ卿の言う通り、捜査はまだ終わっていない。いないが、然るべき手続がすみ次第、総長へ報告する。第三部隊ロウ副隊長が犯人である、と」

「おい、犯人断定にはまだ早いぞ」


 思わずテオドアは抗議の声を上げた。けれどルドガーは無慈悲にも首を横へとひと振りする。


「駄目だ。剣の天才であったデラクレス隊長が殺害されたのだ。つまり、犯人は隊長を殺せるほどの実力を持っている、ということだ。ロウ副隊長は、その犯人像にも合致する」

「それはそう、だけど……なら、動機は? なぜ、副隊長が隊長を殺さなければならないんだ」

「君は騎士団内の噂に疎いようだから教えてやるが、団内では第三部隊副隊長が自分の隊長の命を狙っている言動や、実際の演習中に不意打ちで襲いかかるなどの問題行動が多数見受けられている。間違いないな、レメク卿?」

「間違いない。ロウは副隊長の身でありながら、隊長の命を狙って何度も襲い掛かっていた。演習中も、実践時も。何度も隊長に進言したんです、ロウは副隊長にふさわしくない、と。……クソッ、隊長……」


 レメクは憎々しげにロウを睨み、その無抵抗な胸板を叩く。冷たい床に横たわる物言わぬデラクレスを見る余裕もないらしいレメクから言質を得られたルドガーが、テオドアに向かって勝ち誇ったように胸を逸らした。


「そういうことだ、オラニエ上級審問官。よって——」

「わかった、わかりました! ……降参だ、分が悪い」

「本当にわかっているのか? とにかく、現時点では逮捕が妥当であるとしか言えない。オラニエ上級審問官、君の出番はもうない。部屋に戻って報告書の作成をしたまえ」


 ピシャリと拒絶するルドガーの言葉に、テオドアは鋼鉄の壁を幻視した。

 ルドガーが言うように、状況的に、ロウが怪しい。デラクレスを殺せる実力もある。そして、動機らしきものと証言も。それだけだったなら、ルドガーも慎重になっただろう。駄目押ししたのはテオドアだ。テオドアが魔術で視た、犯人の顔。

 だけど魔術で視た犯人の顔には、ところどころノイズが走っていた。デラクレスや犯人の会話も、聞き取れない箇所があった。

 死後4時間を過ぎていない新鮮フレッシュな遺体だったのに。

 くそ、冗談じゃない。おれの魔術が決め手になって、捜査や聞き取りを省略されるなんて、あってはならない。けれど、とテオドアはギリリと奥歯を噛み締めた。

 けれど、きっと、これ以上は取り合ってもらえないだろう。それは経験則でしかなかったけれど、テオドアの口と身体を施錠ロックする。

 口を閉じたテオドアは、もう用済みだ。捜査官の関心を失ってしまった、ということだから。説得すらできないのなら、方針を変えることができないのならば、ここにいても仕方がない。

 それはつまり、テオドアの上級審問官としての敗北を意味していた。






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