この夕日まで 7
35
沙織は、静かに病室へと踏み入った。
いつも楽しみな時間だったはずの病室の空間が、息苦しい。冬美の顔を見るのが恐い。
「あれ? 沙織さん? 残業になったの? さてはミスして居残り?」
と、冗談を言って笑顔を作る。そうだ、最初からそうだった。
この笑顔に助けられていた。
何も、知らずに。
「沙織さん? 元気ないね? どうしたの?」
もう、そんな優しい顔を作らないでほしい。優しいことをいわないでほしい。
あまりに……あまりに……酷すぎる……
「冬美ちゃん……」
「ん?」と首をかしげた。
沙織は力を振り絞り、ゆっくり口を開く。
「余命が短いって……知ってたの?」
一瞬、時が止まった。
冬美は少しだけ驚いた顔を見せた。それから平然と、
「うん」
といった。
「……冬美ちゃん、ごめん、私」
なんで、どうして謝っているのか、沙織自身も意味がわからない。
「沙織さんは、悪くない」
冬美は下を向いて、小さな声で言った。
「でも……」言葉が詰まる。
そんな沙織に冬美がいった。
「でも、じゃないよ。沙織さんまで、そんな顔しないでよ」
「………」
「そんな顔するのは、私だけでいい。死んじゃう本人だけでいいんだよ」
「そんなこと、言わないで」
それを聞くと冬美は急に顔を上げて、まだ見たことのない形相で沙織を睨んだ。
「じゃあ、なにか変わるの? 沙織さんが謝れば、私は死なないの? 助かるの?」
「………」
「勝手だよっ! 最低だよっ! 治るとかさっ! 信じろとかさっ! よくも看護師が言えたものだよっ! 私死ぬんだよっ! 未来なんてないんだよっ!」
「冬美ちゃん……」
「今もいえる? 必ず助かるって。治るって。言ってくれる? ねえっ! 沙織さんっ!」
冬美はベット横の棚に乗る私物を、叩くようにして払い退ける。様々な物が飛散し、床に落ちて転がった。
冬美は涙を流しながら、泣き声で叫んだ。
「死んじゃう人の気持ちなんてわからないのに、謝ったりしないで! みんなに悲しい顔して欲しくないから笑ってきたのに! 私の気持ちまで殺さないで! みんな死ねばいい! 沙織さんなんか死んじゃえ!」
冬美はまだ棚に残る缶ジュ-スを掴み沙織に投げ付けてきた。そして、頭を抱え俯いた。
缶ジュースは沙織の頭部に当たり、床に転がる。
「――私! 生きたいよ! 死にたくないよ!」
それから沈黙が流れ、彼女のすすり泣く声だけが聞こえた。
沙織は、看護師であるはずの自分はなんて無力なのだろうと思った。死を覚悟して、無邪気に振る舞っていた冬美。そんな優しい少女に、自分は何もできない。
「――そうだね」と沙織はいった。「私なんて死ねばいいのにね。早く、死ねばいい」
沙織がそう呟くと、その声で冬美はゆっくりと顔を上げた。
「え――、さ、沙織……さん」
沙織の頭部から流れる血は、顔と白衣を真っ赤に染めていた。
冬美は床に転がる缶ジュースを一度見て、またすぐに沙織に視線を戻す。
「ご……ごめんなさ、い」
血の量が多いからか、冬美の手が震えていた。
沙織は、「……代わって、あげようか」と呟き、冬美に近づいて行く。
「早く……沙織さん、治療……血が……」
しかし沙織は何も言わず、ベッドに座る冬美を抱きしめた。
そして言う。
「私の……血をあげる。私の心臓をあげる。脳をあげる。命をあげる」
二人の涙がいくつもベットに落ちて、小さな音を鳴らした。
「だから……冬美ちゃん、生きて」
冬美は沙織に強い力で抱きついた。
「沙織さん……ごめんなさい、本当にごめんなさい……」
沙織は小さく首を振って、「辛いなら、一緒に死んであげる。だからもう大丈夫だよ」
冬美も首を振る。「嫌、そんなの嫌、本当に、ごめんなさい……」
彼女が頷きさえすれば、一緒に死のうか、という気持ちは本物だった。それくらい、冬美のことが大事だった。
心から、生きて欲しかった。
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