この夕日まで 3
14
真夏の山は勇敢だ。この木々や病院をその身に乗せても怯まないパワ-を感じる。その木々や草は山の力を貰い深い緑を纏い、その茎や幹は太く育ち、それを目的に集まる虫や鳥は山へと歌を聴かせる。そう考えるとなんとも素敵なことだ。
長い坂は少し角度を上げて上の方へと続いて行く。周りの緑で海こそ見えないが、それは窮屈ではなく眺めこそが価値を産む景色とはまた違った美しさがある。
「冬美ちゃんの友達、いい子だね」
坂を登っていると、沙織が急に言った。
「ん? うん、なんで?」
「エレベ-タ-前の会話、聞いちゃったから」
「ああ、そうなんだ」
「化粧品くらい、貰っとけばいいのに」
「……だから、お返しが面倒臭いんだよ」
「別に、何も返さなくてもいいでしょ」
「そんなわけにはいかないよ」
「じゃあ、べつに安い物でいいでしょ?」
「だーめ。私、見栄っ張りだからっ」
「はいはい。困った子だ」
くだらない会話をしながらでも足は進むし時間は流れる。しだいに少しずつ緩やかになっていく坂。それは頂上が近づいてきたということでもあった。
「もう夕暮れだね」
冬美が空を見て呟いた
「うん、ちょうど良かった」
沙織は坂の上から放たれる橙色を見ると嬉しそうに言う。
「ちょうど良かった? って?」
「うん、タイミングが大事だから」
「……どうして?」
「夕日は、何処からでも見ればいいってものじゃないんだよ。特別な物だから」
首をかしげる冬美に沙織は笑いかけた。
15
「……ここが一番上?」
冬美が言った。沙織は頷く。緩やかな坂道は平たくなりその先には広場が顔を覗かせた。
景色を隠す木々などの障害物は何も無い。そんな環境と広さを持つ芝の生えた広場。
「……沙織さん、あれ」冬美は正面を見つめていた。
そして一歩一歩進んで行く、まるで何かに取り憑かれた様に。
でも、気持ちは分かった。沙織もそうだったからだ。
「先、崖になってるから気をつけて」
冬美の背中に言うと、小さく頷いた。
目の前には崖の少し前で立ち止まった冬美。沙織は無言で隣に肩を並べた。
二人の後ろに影が伸びる。
その夕日は二人をオレンジ色に照らした。
「……綺麗」と呟く冬美。
沙織にはわかった。そんな言葉が出てしまうことが。ふと、素晴らしい、とか、絶景、とか、そんな言葉が口から出てしまうことが。
「でしょ?」
視界には広い海が広がっていた。窓枠なんかに収められ、遮られることのない、壮大な海。
その波の音までも聴こえてきそうだ。力強さを感じ、共に白い泡の弾ける音が耳に残響を残す波。再び波を打っては砂浜に立つ人間の耳に右から左へと、左から右へとステレオのように涼しい音を繰り返し届ける。
ここで目をつぶれば、そんな情景が浮かんでくる。
でも、それだけでも美しいのに。
ここで冬美が口にした、「綺麗」に繋がる言葉は、きっとそれが全てではない。
夕日は特別な物。きっとこの意味が分かってくれたはずだ。この場所からその姿を見てしまうと、照らされる肌で納得してしまう。
神々しい……
その橙色は金色にすら見えた、お釈迦様がこの世界に現れたならばこんな光を放つだろうと思う。その色は空に広がり、海に広がり、眩しい絶景を作り出す。
けっして威圧的なものではない。その光は優しさを具現化した存在の様であり自然と涙さえ誘う、そして「私は生きてる」と改めて実感させるのだ。
これが、自然に出来上がった景色なのだから地球は恐ろしい。
「ここから手紙を送れば……天国にも届きそうだね……」
冬美がいった。
「天国?」
沙織が訊くと、景色を見つめたまま冬美は頷く。
「私のお父さんがいる、天国に……」
「お父さんって」
沙織が尋ねると、冬美はこっちを見て笑った。もちろん意味はわかった。
「……知らなかった」
担当でありながら家庭状況を全て把握してなかったと恥じた。確かに本人の病状が書かれた資料だけでは理解は難しい。お見舞いには母親一人で来ていたので微々たる疑問は感じていたのだが。
「私が生まれてすぐなんだって。だから、顔も見たことないんだ」
「……そう」
「私、よく空を見ながら、心の中でお父さんに言うの。私は元気ですって……お父さんは寂しくない? ……って」
夕空を飛ぶ鳥が低い声で鳴く。冬美はゆっくり目線を上げると、その姿を追ってみる。
「天国は、きっと遠いよね、あの鳥達も行けないくらい」
「……そうだね」
「だから、病院の病室からじゃ、私の声なんか聞こえない」
「そうかも……」
「でも、不思議だな」
「何が?」
「ここからなら、届く気がする、天国まで、ちゃんと……」
夕日は海に浸かりだす。その橙色はより一掃海に広がり、その様子は海の水温がぐんと上がったように見えてならない。
その沈む夕日の眩しいこと。
それでも見てしまう姿は昼間とは違った種類の輝き方に見える。それは太陽と夕日が同じ物ではないかもしれないとさえ想像させた。
「……綺麗」
冬美は呟いた。
その素晴らしい景色を見つめ、「天国に届く」と思ったのはきっと、無意識に冬美の心が悟ったのだ。
もし、太陽と夕日が同じ物でないとしたら。
きっと、あの輝く場所は天国だ。
そう、思わせたのだ。
「風は……天国まで、行けるかな」と訊かれる。
「うん、行けるかもね」
「なら私、次からここに来た時は――」
手紙を書いた紙を、折って……
紙飛行機を作って……
それを風に乗せて……
天国のお父さんまで、届ける……
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そのまま八時を回った。面会時間は九時までだし、そろそろ戻らなくてはならない。夕日が沈んだあともまだ眺めていた冬美だったが、沙織に言われると素直に頷き登ってきた坂を下り始めた。
夕日は月へと選手交代。夜空には半分ほど欠けた月がすでに光っていた。
太陽の日の出と違って、月が上って来る姿は確認するのは難しい。星達だって知らない間に囁き始め、気がつけば空を飾っている。多分、人は暮れた空を見上げて一日が終わったと開放感を感じるものだから、夜空は大忙しで準備をするのだろう。
もっともその夜を合図に、夏の虫たちも大忙しの時間を迎える。自分が一番だと言わんばかりに草むらで鳴き声のボリュ-ムを上げ、それぞれの歌を奏でるのだ。
「沙織さん、今日はありがとう、帰って休みたかったでしょ?」
「うん、疲れたよ~」
「ごめんなさい」
「ばか、冗談っ。外に出て少しは楽になった?」
「うん、毎日ずっと病室だから、なんだかすっきりした」
「またお散歩に行きたい時は、遠慮無く言ってね」
「……沙織さんには迷惑かけられないよ」
「一応、病院から給料頂いてますからね。――あ、一人で行ったら駄目だよ? 手術前に何かあったら大変なんだから」
「でも……うん、分かった。じゃあ、またお願いしようかな」
病院へと帰って来ると沙織は冬美と一緒に病室まで歩く。冬美は病院の入口時点で、「ここで大丈夫」とうるさく言ったが、看護師の沙織はそんなわけにはいかない。
病室で検温を済ませて、「よし、熱は大丈夫みたいだね、体調は?」
「え~と……お風呂入りたい」
「勝手に入りなさい、気分はどう?」
「んー……眠い」
(・・この子、天然かしら)
とりあえず大丈夫だと判断する沙織。これから婦長へ報告に向かわなければならない。お散歩と言う名前の残業も終わりだ。
「それじゃあね」
沙織は病室の入口から冬美に手を振る。冬美も疲れた表情で振り返した。久しぶりに長く歩いたのだ、疲れるのも無理は無い。沙織は早く休ませてあげたい一心で早々と病室を後にした。
「婦長、戻りました」
ナースステ-ションで資料に目を通す婦長に声をかける。
「ああ、沙織さんおかえりなさい、調度良かったわ」
「調度?」
「ええ、冬美ちゃんの手術日決まったから」
17
「……朝?」冬美はカ-テンの隙間から漏れる朝日に顔を照らされ目を開く。「あ~あ、よく寝た」
ゆっくりと体を起こすと目を擦る。一息ついた後で時計に目をやると7時半だった。
久しぶりの散歩がよほど疲れたのか、いつも7時には目を覚ます冬美にしては少しだけ遅い起床だ。
廊下が少し騒がしくなってきていた。そろそろ朝食だからだ。冬美は早々と洗面室へと向かうと、顔を洗って病室へと戻ってきた。
「おはよう冬美ちゃん」
「あ、沙織さん、おはようございますっ」
病室には沙織が来ていた。昨日の私服ではな、勤務中なので当然白衣だ。やはり患者からしたらこっちの方が違和感は無い。
「朝からどうしたの?」
「冬美ちゃんの大好きな採血ですよっ」
「……や、やっぱり」
「さ、腕出して」
「は~い……」
冬美はベットに上がり、腕を出す。
「今日も、痛い?」
恐る恐る冬美は聞く。毎朝の事だが何回打っても注射ばかりは好きにはなれない。それに注射のテクニックや癖は看護師ごとに本当に違う。
「今日も、ってな~に? これでも注射は自信あるんですけど~」
沙織は冬美の腕にゴムチュ-ブを巻きながら言った。
「だって~……腕に針が刺さるんだよ……」
「目、つぶっときなさいっ」
「……痛い?」
「上手にやりますから」
「はぁ……」
冬美は仕方なく目を閉じ沙織は注射機を腕に近付ける。
「――ちょっと待って」冬美が目を開けて言う。
「もう、な~に?」沙織は溜息ながらに言った。
「……痛い?」
「我慢しなさいっ!」
「か、変わって、くれないよね?」
「私の採血しても意味ありませんからねっ」
「はぁ……」
再び目を閉じた冬美。数秒後には、「痛ーい」の声が363号室に響き、それと同時に沙織の笑い声が聞こえた。
「――あ、そうそう」
病室から出ていく前に沙織はいった。
「な、何? もう採血は嫌だよ?」
「ちがうちがう。手術のこと」
「手術、そっか、うん」
「今日、採血の結果に問題が無かったら、多分、一週間後になると思う」
「……一週間、か」
「今日、お母さんにも一緒に担当医から詳しい説明あるから、一週間の間、冬美ちゃんは安静にしとくんだよ?」
「散歩も駄目?」
「んー、そうだね」
「わかった、安静にしとく」
「じゃ~、沙織さんは仕事に戻りますね」冬美の頭を撫でながら言う。
「うんっ、頑張ってね、注射とか失敗しないように!」
冬美は相変わらずの笑顔で答えると、沙織は手を振り病室を後にした。
「………」
沙織は病室から出ると、少し歩くスピ-ドを落とす。
いまの笑顔、出会った時と同じだ。
こっちの不安を消すような、笑顔。
不安がある。でも、そんな自分のせいで相手まで不安にさせたくない、そんな意図で笑ってくれる。
「手術……か」
不安に決まってる。
そんな患者に気を使われるなんて看護師失格だ。
冬美の優しさに甘えているだけ。
「……よし、お仕事頑張ろうっ」自分の両頬を叩いた。
18
日が高く昇り昼を迎えると、病院内は訪れるお見舞い客の声で賑やかになる。
そんな声を羨ましいそうに聴いていた冬美だが、自分の病室にも友達が顔を出した。
「あ、有香! 真二くんも!」
「おはよ~冬美!」
有香はそう言うと、恒例のように冬美の髪をグチャグチャにする。
「あ~っ……もう」
真二は笑ったあと、「今日も部活だから少ししかいられないけど、一応顔くらい見せないとな、あっこれ、食べてよ」
真二はベットの横に置かれた棚にビニ-ル袋を置いた。
「もう、いらないって言ってるのに。ごめんね……」
冬美が申し訳なさそうに言うと有香が、「気にするな」と返し、そんな有香に真二が「お前が言うな」とツッコミを入れている。
「あ、プリンも買ってきたよ! ちゃんと2個! 私と冬美のね」
有香が袋を持ち上げて言った。
「俺のは無しかよ!」
真二は2度目のツッコミを入れている。こんな光景を見ているのが冬美はとても好きだ。早く病気を治して日常生活を取り戻したいと強く思う。
「真二くんが食べていいよ」と冬美と言う。
「まじ? それじゃあ、北川の優しさに甘えて」
「こら真二! いいわけないだろ!」
有香からチョップをくらう真二。冬美は笑って眺めていた。
賑やかな病室。たったいま、沙織が病室の外から手を振って歩いて行ったが、他の看護師に注意されるのも時間の問題だろう。
一時間が経つと、真二は急いで部活へと向かった。もう少し居たいと話していたが、今年はいわゆる最後の夏なものだから部活が忙しいのも分かる。
そう、有香だって同じだ。今年で卒業、来年は高校生。受験に向けて勉強があるはずだ。本来なら自宅か塾で必死に問題用紙を相手にしていてもおかしくない。冬美からすれば、自分のお見舞いなど無駄な時間だ。
「有香、高校は決まった?」
「あ、まだなんだよね。正直、こんな時期から勉強始めても意味無いって。受験勉強なんて一週間前からで大丈夫」
「そうかな……」
有香が冬美を思って言ってくれたのは分かった。手術なんてしたらしばらくは勉強なんて出来ないだろうし、すぐに正常な状態に復帰できるとも限らないからだ。
「有香、あのね」
「んっ?」
「一週間後なんだ、手術」
「……そっか、いよいよだね」
「うん、でも。私、淋しくないからね、別に、一人でも大丈夫だからね」
有香は苦笑して、それからつんとした。
「えー? もうかまってくれないの? 暇人なんだから相手してよ~」
「勉強しなさいっ」
「冬美が退院してから教えてもらう!」
「え~……」
「――あ、そんなことより冬美っ。プリン食べようっ」
「うんっ」
優しい気持ちに対して、これ以上余計なことをいうのもよくないので、素直に甘えることにした。
19
病室に金属音が響く。
「あ、ごめんっ」と冬美はいった。
床にはスプ-ンが転がっている
「ちょっと冬美、もう三回目だよ?」
有香はプリンを口に運ぶ手を止めて言った。
「だ、だよね、プリンに失礼だよね……」
「なにそれー」と有香は苦笑する。「まったく洗いに行くのは私なんですからねっ」
「ごめん……」
「ちょっと待ってて」有香はスプ-ンを拾うと病室から出ていく。
冬美はその姿が見えなくなると開いた右手を見つめた。
「なんでだろ」
圧迫でもしてしまったのか、少し痺れが走る腕。
「ほ~ら冬美っ」
すぐに帰ってきた有香は洗ったスプ-ンを渡してきた。
「ありがと」
「……冬美、どうかしたの?」元気が無いのは分かったらしい。
「え? 何でもないよ、手術の事、考えてただけ」
「……そっか」
数秒の沈黙、その間を埋めるように甲高い声で鳴く鳥が二羽、窓の外を横断する。
「んー、冬美、こんな時に言うのは何なんだけどさ」
「うん」
何秒かあってからいった。
「彼氏、作ったら?」
「かれ……は? な、何言ってるの?」
「真二さ、冬美が好きなんだって」
「……は?」
冬美は目を丸くして有香に聞き返す、顔は真っ赤だ。
「頼まれったんだ。伝えてくれって」
有香は平然と話すが、冗談には見えない。至って真面目な眼差しで慌てる冬美を見ている。
「冬美が不安なのは分かる。でも、彼氏いたら少しは変わるんじゃない? 好きな人いたら、病気を治す意思だって今以上に上がるかもしれないし、手術への不安だって……」
「………」
「近くで支えたいって、言ってたよ」
「……そか」
冬美は真っ赤な顔のまま呟いた。
「冬美はどうなの? 彼氏作る気ないの?」
「えー……わ、私はー……」
「真二のこと嫌い?」
「い、いや、そんな事ないけど」
「あいつ優しい、意外とモテるし、いいと思うよ~」
「き、急すぎだよー……」
「仕方ないじゃん、私だって頼まれただけなんだから」
「そ、そうだけど」
予想もしていなかった。入院してからクラスメイトとして顔を出してくれているのだとばかり思っていた。確かに真二は忙しいのに顔を出してくれる。それに明るく励ましてくれたし笑わせてくれた。クラスで人気があるのも知っている。
「冬美、顔真っ赤」
「だ、だって」
「とにかく明日、また来るってさ。返事聞かせてって」
「……う、うん」
「まったく、照れすぎだよ」
「ごめん……」
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