この夕日まで 4
20
仕事が一段落ついた沙織は廊下を歩き冬美の病室へと向かっていた。しかし彼女が病室にいないのは分かっている。というのも、現在は母親と一緒に、担当医から手術の説明を受けているからだ。
でも冬美の心境を考えると心配で落ち着かなくなり、病室へと足を向かわせてしまった。
「あれっ?」と、363号室の入口から覗いた沙織は驚きの声をあげる。「冬美ちゃんっ」
ベットの上には冬美が座っていたのだ。冬美はベットに取り付けられた机の上でなにやら手紙でも書いていた様子だったが、沙織の声が耳に入り顔を上げる。
「あ、沙織さん?」
冬美のほうはとくに驚く様子もなくいった。
「え? 手術の説明は?」
その問いに、冬美は机の上を片付けながら平然と答えた。
「あ~、お母さんに任せたんだ。難しい話、分からないし」
「本当に、聞かなくても、いいの?」
「……うん」
沙織には微笑んで見せた冬美だが、その声は暗い。
気持ちはわかった。自分の手術の説明を聞きたくない人などいない。なので、こんな時の人間の感情は決まっている。
「沙織さん」
「ん?」
「私、少し怖い」
「……分かってる」
沙織は冬美を撫でながら頷いた。冬美はまだ中学生、当たり前だと思う。
「いざ手術となると、話も聞きたくない。……私、弱いよね」
「そんなことないよ」と沙織は首を振った。「誰でも怖い、みんな怖い、でも大丈夫だから、ね」
「本当?」
「うん、約束する」
「私……治るよね?」
「うん。約束する」
「……ありがとう」
どこかぎこちなく笑う冬美。そんな姿は見ていたくないが、手術が終わるまでは結果は出ないのだ。そんな彼女を前にして、沙織が悩むわけにはいかない、沙織は明るく笑うと冬美に言った。
「じゃあさ、この沙織さんが教えてあげようか? 手術のこと。それなら聞けるでしょ?」
「えっ? お医者さんじゃなくても、できることなの?」
「説明くらいわね。看護師を舐めてもらっちゃ困るよ。私たちは手術も診断もできないけど、知識も技術も超一流なんだから。私、医学は得意教科だったし」
そういって腕を組んでみせる。すると冬美は、「頼もしいかも」といってくすくす笑った。沙織はその顔が見れただけでも嬉しかった。
もっとも手術の子細な説明は義務付けられていることから、どのみち近いうちに改めて説明はあるのだろうが、いまは怖がっているし、親交度の高い自分が簡単に説明してあげようと思った。
21
男性医者は、レントゲンを貼ってから話した。
「そうですか、冬美さんは来ないと」
「ええ」
「……分かりました。そういう患者さんもいらっしゃいますし、娘さんにはまた改めて話しましょう。しかしせっかくお越し頂いたお母さんにすぐお帰り頂くのも失礼ですので、今日はお母さんお一人だけにでも」
母親はゆっくり頷く。それを見て医者は話した。
「前も少し説明しましたが、今回の手術は成長ホルモンの分泌を妨げ発育不全をもたらす下垂体にできた頭蓋咽頭腫という腫瘍を切除するものです。この腫瘍自体は良性で経鼻的手術を用いて切除を行う予定です。この手術は視野が狭く腫瘍によっては選択できない場合もありますが、患者への負担は通常より少なく軽い方法だと言えます――」
一方、363号室で同じく沙織から説明を聞いていた冬美は首を傾げた。
「経鼻的手術?」
「うん。鼻とか口から器具を入れて脳に直接アプロ-チする手術方法。腫瘍部位が下垂体にあって、尚且つ大き過ぎず堅過ぎない状態だからこそできる手術だよ……ん? どうしたの?」
説明の途中から少し嬉しそうな顔をしてしまう冬美。
「沙織さん、難しいけど……それってもしかして、えっと、頭を切ったり、しないの?」
「え? うん、頭は開かないけど」
「じ、じゃあ、もしかして髪、切らなくてもいいの?」
「髪? うん、まあ、そうだね」
「やった~! 私! それが心配で心配で!」
「んー? 冬美ちゃん、それで悩んでたの?」
「あ、うん、だって、腫瘍自体は良性で手術をすれば取り除けるんでしょ?」
「……まあ」
「お父さんに怒られるとこだったよ」と冬美が言う。
「お父さん?」
「お母さんって、ロングヘアーにしても似合うと思わない?」と逆に問われる。
「あ、うん、思った」
「昔はそうだったんだって」
「へえ。ああでも、私には洗うのが大変だからって」
冬美は一度、沙織に笑いかけて説明する。「私が生まれる前に、お父さんとお母さんが話合ったんだって」
父親は、生まれてくる子供もきっと綺麗な黒髪を持っているはず、と語ったらしい。
そう言う父親に母親は、「子供を立てるのも親の仕事ですね」と話し、冬美が生まれた際は自分はセミロングにして子供を輝かせると言った。父親は優しく微笑んで頷いたらしい。
「そう……だったんだ」
「でも私、物心ついたときにそれをお母さんから聞いて、私だけを目立たせようなんて猛反対したんだけど、お父さんとの約束って言われると何も言えなくて……」
「……そう」
「……だから、髪は切りたくない」
命と髪を比べるわけにはいかないが、父親の思いが詰まったその髪のことを冬美を大切に思っていた。
22
「こ、告白された?」
「う、うん……」
手術の説明が一段落ついた所で沙織は冬美に打ち明けられた。
「正直、手術より悩んでるかも~」
「だ、誰に?」
「今日病室に来てた、男子」
「ああ……」
病室を覗いたこともあるから、沙織にもわかった。
そして沙織は不思議だった。中学三年生の冬美がそこまで焦らなくてもいいからだ。冬美なら今までに彼氏の一人や二人いたとしても全く不自然ではない。
「冬美ちゃんって、お付き合いしたこと、ないの?」
「う、うん」
「告白、されたことは?」
「……な、ない」と、冬美は下を向き、照れた様子で言う。
「まじ?」
世の中には不思議な事があるものだ。いや、まず認めたくない。沙織からすればこの上ないほどの女性なのだが。
……いや、美人が故に彼氏がいると予想され、または相手にもされないと考えて、告白なんてできないのか? そう考えれば有り得る話だ。
「焦るわけだねえ……」と沙織は頭を抱える。
そんな沙織に冬美は言った。「ど、どうしよう」
「いや、一応、私は看護師であって、病気のことならともかく、恋の悩みは専門外というか……」
「もう! 沙織さん!」
冬美にここまで困った顔を返されると仕方がない。「わ、わかったよ……冬美ちゃんはどう思ってるの?」
「私は……えと」
上手く言葉が出ない冬美。確かに、語源化が難しい心情もある。こんな時は、一応大人である沙織が道を照らしてやるしかない。
「冬美ちゃんはまだ若いし、別に嫌いじゃないなら悪くない話だと思うよ?」
見た限りは優しそうだったし、夏男といった感じで悪くもなかった。それを思い出しながら沙織は素直に言う。
「そう……かな」
「でも、結局は冬美ちゃん次第だし」
冬美は「だよね」と俯いてみる。しかしすぐに顔を上げて言った。
「沙織さんは、彼氏いないよね?」
「うん……って、はあ? し、失礼なこといわないっ」
「だって、仕事一筋な感じだし……」
「ま、まぁ、本当にいないけどさ」と人差し指で頬を搔く。
「やっぱり」
といわれて、「この野郎」と冬美にデコピンをするふりをする。
「もし、今の沙織さんが私なら、どうする?」
「う、う~ん……」
まさか冬美に無責任な意見は言えないので、沙織は真剣に考える。
正直、現段階の冬美には恋愛がマイナスにはならないような気がするのは正直な意見だ。手術も控えていることだし支えてくれる人が一人でも増えれば精神的にも心強い事には変わりない。
「嫌い、ではないんだよね?」
「……うん。まったく嫌いじゃない」
「じゃあ、いいんじゃない?」
「……うん」
静かに頷く冬美。難しい話だが、意見を求められた沙織としても別に間違ったことを言っているわけではない。
「沙織さん、私――」
冬美は改まったようにそういい、口を開きかけたが、
「あらあら、沙織さんいらしてたの?」
と、母親が説明を終えて病室に帰ってくる。
「あ、お母さんっ」
冬美は言葉を飲み込み、母親に視線を向ける。一方、沙織も冬美の言葉が気になったが、母親の姿を見るとすぐに頭を下げた。
「一人部屋も賑やかになってきたわね。沙織さんには助けてもらってばかり」
こう言って母親も沙織に頭を下げる。
沙織は、「いえいえ」と慌てて両手を振って、「説明はどうでしたか?」
「とても分かりやすくて良かったわ。冬美には明日にでも説明するって」
沙織は、「良かった」と頷いた後で、「困った事があったら何でも言ってください」と母親に伝え、冬美に視線を向けると、「恋の悩みでもねっ」と笑った。
23
消灯が過ぎた病室のなかで、冬美はベットに横になり、天井を見つめている。
寝つけない時は、備え付けられたライトを点灯させて手紙を書いたり本を読んだりすのだが、今日はどうもそんな気分にはならなかった。
「眠れませんか?」
カ-テンから顔を出した巡回の看護師に訊かれる。目を開いていることがわかったらしい。
「いえ、もう眠れそうです」
と冬美は微笑んで首を振ってみせた。こういわないと余計な心配を与える。
「……そう。おやすみなさい」
看護師も微笑んで頷くと、病室から出て行った。
「………」
冬美は天井に視線をもどす。
暗い病室にいると、まるで空間は生きていて、音を発するものである様な気がしてならないと感じさせる。同じ静かな空間でも、昼間なら騒がしく感じるが、夜となれば張り詰めたような静けさを保つ。だから妙に看護師の足跡や、一晩で何度も鳴る救急車の音が際立つ。こんな音を自然と耳が拾って仕方がない夜、なかなか眠れなくなる。
しかし今日はどうだ。看護師が病室へ入ってくる音すら気にならないほどなのだから、それ以外のなにかに集中していたに違いない。
「……眠れない?」
それから三十分が過ぎた頃、夜勤の沙織は363号室に顔を出した。先程の看護師から話を聞いて、気になったのだ。
「あ、沙織さんだっ」
冬美は嬉しそうにして身体を起こす。
「こ~ら、起きるなっ」
「だって眠くないんだもん」
「仕方のない子だ」と沙織は首を振った。「もしかしてさ、まだ告白の事でも悩んでるの?」
「ううん。それはもう大丈夫」
そういう彼女に、じゃあ手術の事? とは訊くまでもなかった。
昼間は強がって見せていたが、やっぱり夜になれば心配になったのだろう。
「大丈夫、絶対に治るから」冬美の頭に手を置いて言った。
「……絶対?」
「うん、絶対」
「……嘘ついたら?」
「リンゴジュ-ス十本買ってあげる」
「な、なんかリアルな数字……ちょっと自信出てきたかも」
ふふふと笑って、「でしょ? さ、早く寝なさい」
そういうと冬美は笑顔で頷き、横になった。
そんな姿を見て少しは安心する。「どれどれ、そろそろ休憩だし、冬美ちゃんが眠るまで居てあげましょうかね」
「本当?」
「お母さんは頑張って働いてるんだから、こんな時くらい変わりになってあげないとね」
沙織は病室に用意されたパイプ椅子を開くと腰掛けた。
「……なんか、ずっと沙織さんが担当だった様な気がする」と冬美が言った。
「どういうこと?」
「通院期間も含めて一年。沙織さんのことなんて知らなかったのに、最初から、ずっとお世話になってるような、そんな気がする」
「……そう」
身近に感じてくれるのは看護師として嬉しい事だ。それを言葉という形にしてくれたのだから、お礼を言いたいのは沙織の方かもしれない。
「でも、手術の前にお礼なんて変だよっ」
これを沙織に言われ、冬美は、「確かに」と苦笑い。
そのすぐ後で目を閉じた冬美は、十分もすれば寝息をたてた。もう夜中の二時を過ぎているのだから、例え眠れなかったとは言え眠かったはずだ。
沙織はその横顔を見つめる。
明日にでも手術をして安心させてたげたいと強く思う。今日の昼過ぎに冬美が訴えた手の痺れも確実に疾患の進行を物語っている。きっとそれが彼女の不安を高めたのだろう。いままで、あんな顔を夜中に見せたことは無かった。
「――沙織っ」と病室に看護師が入ってくる。「救急車着いたよっ」
「わかった、行く」
一度冬美を撫でると、病室から出て行った。
24
「あら、沙織さんおはよう」
朝七時、沙織を見つけた婦長が言う。
「おはようございます婦長」
連休明けの沙織は二日振りのナ-スステ-ションで頭を下げる。
「おはよう。さっそくだけど、採血の当番だからお願いね」
そんな沙織に婦長が言う。
「あ……そっか」
朝にはこの試練があるのだ。採血は苦手ではないし、ほとんどの患者は痛みを我慢してくれるものの……
「……ここ二日間、採血当番は誰が?」
沙織が訊いてみると、近くにいる同僚の女性看護師を指さす。その同僚はこちらを向いて、「なんですか?」と尋ねてきた。
沙織はいった。「冬美ちゃんの採血、どうだった? ちゃんと大人しくしてた?」
同僚はにっこり笑って、「そりゃ~もう、ね」
なんとなく意味はわかった。「……はぁ」
不思議と申し訳なくなり、同僚に、「ごめん」と頭を下げる。それから363号室へと向かった。
沙織は、「おはよ~」といって病室に入る。「冬美ちゃん……どしたの?」
ベットの上で、布団を頭まで被って隠れている者が一名。
「……採血ですよ~」と、その忍者に言う。
返事はない、ただの屍のようだ。……というわけにもいかない。
「出てきなさい」
「冬美は、現在、行方不明です」
布団の中から、小さな声があった。
「嘘つけっ! ほら採血っ!」
数分が経つと、363号室では、「痛ーい!」の声が響いていた。
それから数時間。
医師に付き添って回診を終えると一息つく。
沙織はステ-ションで冬美の手術資料をじっと見つめ、術後に行われる処置やケアプランに何かミスがないか、これが最善か、といった事を繰り返し考えていた。
「さて……と」
沙織は資料を閉じる。そろそろ昼食の準備に取り掛からなければならない。
まずは検温回りがあるのでナースステーションを出たのだが、出たところで人とぶつかりそうになる。相手はすぐに頭を下げて、エレベーターのほうへ歩いて行く。
その人物は……
「あの男子って……冬美ちゃんの……」沙織は急に、「そう言えば」と思い出した。「告白、どうなったんだろっ」
エレベーターへ向かったなら帰りだろう。そして今日来ていると言うことは、すでに返事を聞いたに違いない。
彼氏になったのか、どうなのか、こうなると気になって仕方がない。沙織は冬美の検温も兼ねてさっそく病室へ向かった。
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