この夕日まで 5

      24


「あら、沙織さんおはよう」

 朝七時、沙織を見つけた婦長が言う。

「おはようございます婦長」

 連休明けの沙織は二日振りのナ-スステ-ションで頭を下げる。

「おはよう。さっそくだけど、採血の当番だからお願いね」

 そんな沙織に婦長が言う。

「あ……そっか」

 朝にはこの試練があるのだ。採血は苦手ではないし、ほとんどの患者は痛みを我慢してくれるものの……

「……ここ二日間、採血当番は誰が?」

 沙織が訊いてみると、近くにいる同僚の女性看護師を指さす。その同僚はこちらを向いて、「なんですか?」と尋ねてきた。

 沙織はいった。「冬美ちゃんの採血、どうだった? ちゃんと大人しくしてた?」

 同僚はにっこり笑って、「そりゃ~もう、ね」

 なんとなく意味はわかった。「……はぁ」

 不思議と申し訳なくなり、同僚に、「ごめん」と頭を下げる。それから363号室へと向かった。

 沙織は、「おはよ~」といって病室に入る。「冬美ちゃん……どしたの?」

 ベットの上で、布団を頭まで被って隠れている者が一名。

「……採血ですよ~」と、その忍者に言う。

 返事はない、ただの屍のようだ。……というわけにもいかない。

「出てきなさい」

「冬美は、現在、行方不明です」

 布団の中から、小さな声があった。

「嘘つけっ! ほら採血っ!」

 数分が経つと、363号室では、「痛ーい!」の声が響いていた。


 それから数時間。

 医師に付き添って回診を終えると一息つく。

 沙織はステ-ションで冬美の手術資料をじっと見つめ、術後に行われる処置やケアプランに何かミスがないか、これが最善か、といった事を繰り返し考えていた。

「さて……と」

 沙織は資料を閉じる。そろそろ昼食の準備に取り掛からなければならない。

 まずは検温回りがあるのでナースステーションを出たのだが、出たところで人とぶつかりそうになる。相手はすぐに頭を下げて、エレベーターのほうへ歩いて行く。

 その人物は……

「あの男子って……冬美ちゃんの……」沙織は急に、「そう言えば」と思い出した。「告白、どうなったんだろっ」

 エレベーターへ向かったなら帰りだろう。そして今日来ていると言うことは、すでに返事を聞いたに違いない。

 彼氏になったのか、どうなのか、こうなると気になって仕方がない。沙織は冬美の検温も兼ねてさっそく病室へ向かった。


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「ま……また血を採るの?」

 沙織が病室に入ってくると、冬美は両手で布団を持ち上げ、顔の半分を隠す。

「私は吸血鬼か」

 そう言って沙織は体温計を差し出す。冬美は安心した様子でそれを受け取った。

「でさ、どうなったの?」さっそく沙織は訊いた。「今来てたの、例の彼だよね?」

「あ、うん、登校日の日程知らせに来てくれたんだ。行けないけどね」

「そう……。で、あれから結局?」

「ああ、断ったんだ」

「断った……そうなんだ」

「うん」

 冬美は体温計を返しながら頷いた。

「心の支えはいらなかったか」と沙織はいった。

「だって、沙織さんがいるし」

「ごめんねえ、私が美しいのはわかるんだけど、女じゃ恋人候補にならないんだ」

「もう、そうじゃなくて」

「わかってますよ。ごめんごめん。ま、私って、それはそれは頼りになるからね」

「注射しなければね」

「おいっ」

 といって、沙織はげんこつをするふりをする。

 二人で笑い合ったあと、「……あのね」と、冬美が改まって言った

 沙織は体温を記録しながら、「んー?」と答える。

「……じつは、私、好きな人いるんだ」

 そういった冬美は、やや恥ずかしそうに顔を伏せる。

「え? そうなの?」

 そう言えば、二日前、病室で話をしていたとき、こんな調子で冬美は何かを言いかけた。

 しかしタイミング良く母親が病室に戻ってきたために聞けず仕舞いだったのだ。

「私、変なこというけど、ちゃんと聞いてくれる?」

「それはもちろんいいけど……やっぱり私を好きとか言わないでね」

「もう! 真面目なんだからっ!」

「はいはい、ごめんごめん」

 こうはいったものの、冬美は頬を膨らませて、「やっぱり内緒っ」と、つんとした。

「なーんだそれ」拍子抜けしたが、別に追求する気はない。「まあ、気が向いたらどうぞ」

 冬美はベットから降りて、「じゃあ私、休憩室行ってくる」

「ああ、リンゴジュ-ス買うの?」

「うんっ」

「昼食までには戻ってね」

「わかってますー」

 二人で病室から出ると手を振り別れた。


      26


 こんな事は思いたくないが、あの丘で、あの夕日を見た後だと、大好きな休憩室からの景色さえ物足りなさを感じる。

 沙織と知り合ってからは日々の寂しさが薄くなり、めっきり休憩室へ来る回数が減ってしまったが、ここ数日、手術が近づくにつれて、再び来る回数が増えてきた。

 あの丘へ行きたい、あの夕日が見たい……そんな気持ちは少しでも美しい景色を求め、休憩室の窓際へと冬美を動かすのだ。

「………」

 外を眺めていると、あの夢のことを思い出した。

 今朝、あの夢を見た。このままずっと、夢を見ていたいと願った朝だった。

 入院してから時々見るようになった夢。

 ベットに座る自分に、一枚の写真を手渡してくれる……あの彼。

「綺麗な写真が、撮れたから」

 やや自信の無さそうな調子で手渡たされるその写真には、空が写っている。

 優しさと壮大さで包み込むような、空の写真だった。写真から溢れ出てきて、広がって、浮かんでいって、病室の天井を大きな空に変えてしまいそうなくらい……

「……綺麗」

 夢の中でそれを受け取った自分は思わず泣いてしまうのだ。

 そして、病室をこんな素晴らしい空の写真一杯で飾りたいと願うのだった。

 冬美は、に、涙をこすり笑顔を作ってお礼を言う。

「ありがとう……」

 いつも、この辺で目が覚めてしまう。

 顔ははっきりと覚えている。あの人は誰なんだろう。どこかで会ったことがあるのだろうか。

 夢の中では彼の名前さえも知っていたはずなのに、目が覚めるとそれも忘れてしまっているのだ。

「……馬鹿だよね、私」

 と、小さく呟く。単なる夢なのだ。それ以上でも、それ以下でもない、ただの夢。

 そんな彼に惹かれている自分はほんとに馬鹿だと思う。

 他人にだって恥ずかしくて言えやしない。

 背後から、「こーら」と沙織の声がしたので、振り返る。「昼食までには帰っておいでっていったでしょ。もう配膳はじまってるよ」

「ああ、ごめんなさい。はーい」

 冬美は缶ジュースを両手で持ち、立ち上がった。


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 あれから何日も流れた。

 本日は少し騒がしい病室。いよいよ手術日。

 手術室への移動は午後四時から、現在病室の時計は三時を指している。

 あと、一時間も経てば移動となる

 病室には母親、それに顔を出さずにはいられなかったらしい有香もいる。もちろん、午前中には真二も、他のクラスメイトも顔を出した。だが病室に大勢でいると邪魔になってしまう場合もあるので仕方なく帰宅を選んでくれたのだ。もっともその有香も、手術が終わる頃には面会時間を過ぎてしまう予定なので、頃合いを見て帰宅することになっている。

「ちょ、ちょっと有香、私よりも緊張してない?」

 冬美は落ち着かない様子でいる彼女に声をかける。

「そ、そりゃあ緊張するよ……」

「私の手術なんだからさあ」

「だからこそだよ」

 その優しさに嬉しい半面、やはり心配をかけるのは辛いと思う。

「有香ちゃんがそんなに心配してくれたら大丈夫よ」

 と横から母親が言った。それには頷いた有香だが、「でも……」と小さく呟く。

「冬美ちゃん、体調はどう?」

 病室に沙織が顔を出す。

「うん、大丈夫」

 冬美は笑顔を返す。沙織は頷いて見せると母親に言った。

「そろそろ、睡眠剤の投与を行います。どうでしょう? 病室だと色々と考えてしまうと思いますし、休憩室で待たれていては?」

 なんだかんだ言ってもやはり心配顔をしている母親。冬美の近くにいれば更に不安が増すと感じて沙織はこう言った。友達も同様だ。

「ええ、そうするわ。有香ちゃん、行こうか」

 沙織に頭を下げて病室を二人で出て行く。

「あと少し、か……」

 二人が病室からいなくなると冬美は少し不安な顔を見せた。

「まったく、不安なら不安って言えばいいのに。誰かいると笑ってばかりなんだから」

 沙織は冬美の頭を撫でながら言った。

「……だって」と冬美は小さく呟く。

「心配かけないために早く治さないとね」

 こう言うと冬美は一度頷いたあと、沙織を見上げた。

「沙織さん、手術って痛い?」

「まさか。痛みなんて、寝てるから感じないよ」

「そっか……」

「手術なんてあっという間だよ。十時間かかるような大手術の場合だって、患者にとっては一秒にしか感じないって言われてるんだから」

「ほ、本当?」

「うん。目を閉じて、一秒後に目を開けたら手術は終わってる。そう言った患者さんを、たっくさん見てきたからね」

「そうなんだ……」

「だから冬美ちゃんのお母さんや友達の方が長く感じるんだよ。私、さっきも頭下げられたけど、手術の間、ずっと祈り続けるお母さん達に私こそが頭を下げたいくらいだよ」

「そうだね、がんばる」と冬美はいったあと、「沙織さんは手術の間、祈ってくれないの?」

「そりゃまあ、看護師は忙しいですから」

「……そっか」

「もうばか、冗談だよ。……手術の間だけなんてとんでもない。冬美ちゃんと出会ってから、ずっと祈ってるよ、私」

 冬美の頭を撫でながらいった。

「……私、やっぱり沙織さんとお付き合いしようかな」

「はいはい」と笑って、「考えといてあげる。でも、元気になったらね」

 沙織はそう言う冬美に錠剤を手渡した。手術前に飲む睡眠導入剤だ。

 そして、それからしばらくあって、「私、頑張るから」と、ベットの上で眠そうな顔をする冬美がこう言った。


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 手術開始から約四時間が過ぎた。

 ナ-スステ-ションで、沙織は仕事の手を止め、宙を見つめていた。

「手、止まってるわよ」

 横から婦長に言われる。

「あ、はい、すいません……」 

 慌てて目の前の資料を片付け、両手で胸に抱える。

「大丈夫? 少し、休憩したらどう?」

「いえ」沙織は首を振った。「大変なのは、私じゃありませんから」

 治る、大丈夫、と言い続けてきた自分がこんな調子では仕方がない。普段通り、堂々と仕事をこなさなければ。

「そうね」と、婦長は賛同したあと、「じゃあ沙織さん、頼みを聞いてくれるかしら?」といってくる。

「頼み? はい」

「保護者の精神管理も看護師の仕事だわ。休憩室に行って冬美ちゃんの母親と少しお話でもしてもらえる?」

「……婦長」

 今、自分は、どれほど彼女の母親と一緒に手術成功を祈りたかった事か……

「はいっ。ありがとうございますっ」

 沙織は大きく頭を下げて、早足でステ-ションから出て行った。



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「どうぞ」

 と、沙織は缶コ-ヒ-が母親に渡した。母親は頭を下げて、それを受け取った。

「きっと大丈夫ですから、元気出してください」

 沙織はこう言ってから母親の座る席の反対側に腰掛けた。

「ありがとう。沙織さんは看護師の鏡ね」

 不安そうな顔をしていた母親は笑みを浮かべる。

「いえ、私なんて……。娘のためにお仕事をがんばる母親には勝てません」

「そのせいで、顔出せない日が多いけど」


「いまだけですよ。病気が治れば、自宅で毎日会えるじゃないですか」

「………そうね」

 と、母親は俯いたまま答えた。前向きな話をしたはずなのに、なぜだか表情は暗く、一瞬沙織は何も言えなかった。

 しかし、このまま黙っているわけにもいかない。

「大丈夫ですって。きっと治りますから」

 それから数秒あって、「あのね、沙織さん」と母親は静かに口を開いた。

「はい?」

「実はね、私も看護師なの」

「えっ? そ、そうだったんですか?」

 沙織は目を丸くする。知らなかった。

「こんな大きな総合病院からすると、すごく小さい病院だけどね」

「は……はあ」

 まさか看護師とは。そうなると大先輩だ。

「なかなか時間が取れないのわかるでしょ?」

「まあ、はい」と苦笑する。

 それなら納得がいく。たしかに看護師は忙しい。紛れもなく自分がそれなのだから。

「でも、忙しいとか、入院費も稼がなくちゃいけないとか、そんなことを理由にして病院に来れないことを納得しようとしようとする自分は、母親失格だと思うの……。そうでしょう?」

 やはり寂しい顔をする母親。その姿を前に沙織は首を振る。こんな顔をされれば先輩などと気にしている場合ではない。仮にも婦長にケアを頼まれてここに居るのだ。

「ちがいます。お見舞いが大事なわけじゃありません、冬美ちゃんは治ると信じてあげる気持ちが大事なんじゃないですか?」

「信じる……」

「病院は娯楽施設ではありません。患者さんの涙だって、しょっちゅう見ます。そんなの誰も見たくない。だから、涙を流して欲しくないから、治ってほしいから、例え病院に来れなくても娘さんのために一生懸命に働く。これって母親失格でしょうか?」

「………」

「そんな自分を母親失格だと思う事が、一番間違っていると私は思います」

「………そうよね」

 と、母親は笑みを取り戻して言った。

「生意気、言ってしまってすいません」沙織は頭を下げた。

「いいの。また、悲観的になったら沙織さんに叱ってもらうわないとね」

「そ、そんな、やめてください」

 母親はクスクスと笑ったあと、窓の外を見た。もう暗い。

「冬美は、どんな視界を見ているのかしら、こんな風に真っ暗なのかしら……」

 沙織も外を見た。「どうなんでしょう、ね」

「何か夢を、見ているのかしら」

「かも、しれませんね」


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 目を閉じて。その一秒後に目を開けたら……

(……ここは)

 そこには、綺麗な夕日があった。

 一秒後に目を開ければ、もう手術は終わっていると聞いていたのに。

(あの……丘?)

 もしかしたら自分は死んでしまったのか。

 とっくに一秒なんて経っているのだから。

 だけど、ここが死者の世界だとも思えない。ただの、記憶の場所だ。

「……綺麗」

 死んだのか、生きているのか。そんな事はどうでもよかった。

 もしこれが天国なら、本望だ。こんな綺麗な夕日を見ながら生まれ変われるのだから。

 父親と二人で短い人生の話や笑い話でもしながらゆっくり眺めるのも悪くないだろう。

 そして、まだ生きているのなら、それも悪くない。

 いつまであるかわからない人生の中で、また笑おう。

 それが作り笑いでも、笑おう。

 どんな状況でも命がある事は素晴らしい。

 そんな事は知っている、知っている。

「ん……」

 急に視界が開けた。

 そこには覗き込む二人の姿。母親と、沙織だ。

「冬美っ」

 母親が叫ぶ、沙織はすぐにナ-スコ-ルを押して、「成功だよ、手術、成功したからねっ」と嬉しそうに語りかけてきた。

「……やったね」

 冬美も微笑んで返した。


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術後は特に容体の悪化は無く良好だった。

 数日の間は脳腫瘍手術に見られる頭痛が酷かったが、一ヵ月が経った今ではそれも落ち着いている。友達との面会ももう大丈夫だ。

 しかし気になる点もまだある。

「あ、沙織さん、少し休憩室行きたいんだけど、車椅子、使ってもいいかな」

 と冬美が沙織にいってきた。

「うん。わかった」

 気になること、それは手足の痺れが消えないこと。

 最近は歩行も困難で、車椅子を使用しなければならない日もある。

 これさえ治れば安心感も違うのだが、なかなかそうもいかない。この状況を本人はどう思ってるんだろう、手術は成功したはずなのに。


 心情が顔に出てしまっていたらしく、「そんな顔しないでよ」と冬美にいわれた。「すぐに良くなるって」

「看護師なんですからわかってますよー」しかし、本当にそうだといいのだが。「じゃあ、今日は沙織さんが押してあげましょう」

 沙織は車いすに移った冬美にいった。

「やったね。楽ちん」

 そういって車椅子の上から振り返り笑顔を返す。冬美を喜ばしてあげられると、逆にこちらが少し得をしたような気分になるくらい、無邪気に素直に喜んでくれる。まるで病気だなんて嘘のような笑顔。

「――あ、そうそう」と沙織は言った。

「なに?」

「あとで一緒に写真撮ろうか?」

「写真? いいけど、急になんで?」

「冬美ちゃんは手足の痺れが治れば退院だろうし、私、思い出残したいから」

 そう、冬美が元気になって退院してしまうのは嬉しいけど、淋しくなる。まったく変な理屈だが、家族だと思えるくらいに情があるのだ。退院、それはずっと仲良しで一緒だった妹が上京してしまうような淋しさだった。看護師としては、両手を上げて喜ばなければならないことはわかっているのだが。

「そうだね……うん。私も欲しいな」冬美もやや淋しそうにこう言った。「……沙織さん」

「ん?」

「私が退院しても……忘れない?」

「当たり前でしょ~。冬美ちゃんほど採血が嫌いな患者さんはなかなかいないからねえ。忘れたくても毎朝のように思い出すでしょうねえ」

 彼女はふふふと笑ってから、「……じゃあさ」

「んー?」

「私が死んでも、忘れない?」

 彼女の目は、本気だった。

「……そんな冗談いうと、怒るよ」

 沙織も本気でいう。死ぬ――なんて冬美にこそ使ってほしくない言葉だ。

「ごめんごめん」

 冬美はいつものように笑って、もう夕暮れに差し掛かった空を、窓越しに見上げた。

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