この夕日まで 2
7
八時半を回ると、病院に訪れていた面会客も少しずつ数を減らしていく。病室で退屈をしていた冬美は再び休憩室までやってきてくつろいでいたのだが、もう数人を残すだけだ。この病院の面会時間は九時までなので、あとわずかしかない。
あいかわらず窓の外に視線をやっていた冬美だったが、「ジュ-ス飲みたい!」という声を聞いて、室内を見た。
まだ小さい子供が休憩室にある自動販売機の前でダダをこねている。
「だ~め」
母親は首を振る。だが子供はなかなか動こうとしない、これには母親も困り果てている様子だった。子供の物欲は大したもの。ジュ-ス一本で座り込みでも行いそうな勢いなのだ。
「……これで、いいかな?」
冬美は子供の傍まで寄って行って、そう声をかけた。それと同時に、自分が手にしていた缶ジュースを差し出す。
「くれるの?」
すでに自分の手に取った後で子供はそう訊いてきた。
冬美が微笑んで応えると、喜びを隠せない子供と、「ごめんなさい」と申し訳なさそうな母親。そして二人で何回も頭を下げながら休憩から出て行った。
「………」
その姿を見送ると静まる休憩室、昼間と同じく自分一人となった。
「まあ、いっか」
冬美も買ったばかりの缶ジュ-スだった。それゆえにやや未練があり、再び自動販売機を見たが、その姿がさっきの子供と重なるような気がして諦めることにした。
「優しいじゃない」
と後ろから声があった。振り向くと、入口から沙織が顔を覗かせていた。
「あ、沙織さんっ」なんだか冬美は嬉しくなって笑顔になった。
「可愛くて優しいとか、反則じゃないの?」
「もーう、そんなんじゃないよ」冬美は少し照れた仕草をとりながら自動販売機を見た。「恥ずかしいんだけど、私もジュ-スが大好きだから」
「そう」
沙織は呟き、冬美の後ろ姿に優しい視線を向けると自動販売まで歩き出す。数歩で着いた販売機、沙織は自分の財布から小銭を取り出した。「それじゃあ、優しい冬美ちゃんに沙織さんがご馳走してあげましょうか」
「えっ、そんな大丈夫! 自分であげたんだから!」
「だ~って冬美ちゃんったら、ジュ-スあげたのはいいけど未練あるような顔してるんだもん」
「う……」図星をつかれてなにもいえない。
「欲しい?」
「……ほしい」
「よろしい」
「ごめんなさい……」
小銭が入り自動販売の底で音を立てると、ジュ-スの下で暗く並んでいたボタン達が全て赤く光った。
「お母さん、来てたよ。だから呼びに来たの」と沙織が言った。
「あ、そうなんだ」と冬美は嬉しそうに返事を返す。
「先行ってるから、好きなジュ-ス選んだら病室戻ってね」
「うん、すぐ戻るっ」
沙織は休憩室の扉をくぐり、冬美は自動販売機へと近づく、そして手を延ばしたかと思うと溜息ながらに手を下ろした。
「……もう」
返却レバ-を強く回すと、数回の金物音が休憩室に響いた。
8
「遅いわね、冬美」と冬美の母親がいった。
「はい、何してるのでしょう?」
先に病室へと帰ってきた沙織は担当者変更などの話しを進めていた。その話は数分に渡り母親はパイプ椅子に腰掛けその話を静かに聞いていた。しかし休憩室で自動販売機のボタンを押すだけにしては戻りが遅いので、二人で首を捻ったのだ。
「まぁ、病院内で迷子なんてことも無いでしょうし」
沙織が言うと、「あの子なら分からないかも」と母親。二人でクスクスと笑う。
母親に会うのは初めてになる。冬美の綺麗な黒髪は母親譲りだと思った。肩まで伸びた髪は生き生きとしている。だからこそか特別なお洒落などしていないが整って見える。どことなく目付きや口元も似ている気もするし、不思議と伝わる優しさが何よりの類似点だろう。
「髪は肩までなんですね」
沙織は言った。生きて来た月日を感じさせない髪質なものだから、女として不思議に思ったのだ。冬美と同じ位に伸ばしても全く恥にはならないはずだ。
「ええ、洗うのが大変で」
「ああ、なるほど」
二人でまた笑ってみる。
「冬美、喜んでたでしょう?」と訊かれた。
「と、言いますと?」
「沙織さんが担当になって、冬美、喜んでたでしょ?」
まるで分かり切ったかのように言った。
「あ~、どうなんでしょうね」
さすがに正直に、「はい」とは頷けずこう返すしかなかった。
この時廊下から病室に近付いてくる足音が耳に入る。
「も~何してたの」と母親はいった。
「ごめん、だって……」
そこには缶ジュ-スを両手で持つ冬美がいた。
9
「え? 買いたかったジュ-スが?」と沙織はいった。
冬美は、病室に帰ってくるのが遅れた理由を、「欲しかったジュースが売切れだったから」と語ったので沙織は呆れてしまった。
「う、うん。あの子供にあげたのが最後だったみたいで。だから別の階の自動販売機まで……」
少し恥ずかしそうに冬美は缶を見つめた。
「この子、リンゴジュ-スが大好きなの」ふふふ、と母親が笑う。
冬美の手元を見てリンゴのジュ-スだと言うことは沙織も分かっていた。「へぇ、そんなに好きなんだ」
「この子、二日に一回は買うのよ。本当に好きみたいで」
沙織はやはり、「へぇ」と頷くしかない。なんだか冬美の可愛らしい一面を見た気がした。
「あの、本日お母さんはこちらにお泊りで?」
沙織は母親へ問う。親族は宿泊も許可されている。
「いいえ、今日はこれで、沙織さんなら安心して任せられるし」
「そ、そんな、まだ担当初日ですし」沙織は慌てて手を振る。
「お母さん、このジュ-ス、沙織さんが買ってくれたの。お金、もらっちゃって」
冬美は母親に告げる、沙織はわざわざ言わなくてもいいと口パクで訴えたが冬美はそういうわけにもいかないとばかりに首を振る。
「え? そうなの?」
「いえいえ、いいんです」沙織は母親が財布に手を伸ばす前に言った。「二日に一回の楽しみを子供にあげられる冬美ちゃんに感激しちゃっただけですから」
「子供に……?」母親は不思議そうな顔をしたが、数秒もすれば、「ああ」と事情を飲み込んだ様子で沙織に頭を下げた。以前も同じ事があったに違いない。「優しい担当者で良かったね」
母親からのこの問いに無垢な満開の笑顔で答える冬美。先程母親に聞かれた「沙織さんが担当になり喜んでいたでしょう?」の問いは照れもあり上手くごまかしたものだが、今回ばかりは、「ほらね」といいたげな目を向ける母親に何も言えなかった。
この後、数分だけ会話をすると母親は病室を後にした。沙織は母親に付き添ってエレベ-タ-まで見送ることに。
その途中、「きっと父親の影響なんです」と母親はいった。
「父親って?」
「リンゴジュ-ス、好きなんです。お酒が飲めない人だから」
「ああ、なるほど」
健康思考な父親だなと少し感心してみる。
「それにしても沙織さん、娘のために、ありがとうございました」
改めて頭を下げられて、慌てて手を振りながら、「いえいえ、百円ですから」
ここで調度良くやってきたエレベ-タ-が開く。母親は中へと足を進めてから振り返った。
「あの子ね、その百円を持ってないから」
「百円を、ですか?」
「あの子、お小遣は二日に一回、百円でいいって言うから」
エレベ-タ-の扉はゆっくりと閉じた。
10
「お父さんが好きなんだって? リンゴジュ-ス」
病室に戻った沙織はベットに座る冬美に言った。
「え? ああ、お母さんから聞いた?」
「うん、少ない少ないお小遣のこともね」
「あはは……恥ずかしいな」
二日で百円。つまり月に千五百円程度。入院中とはいえ女子高生には少ない。
でも、なんでそれだけ? なんて聞かない。沙織は冬美が考えそうなことがわかったいたから。
「私……通院とか、今回の入院とか、お金沢山使わせてるから」
「……まったくもう、子供のくせに」
大事な気持ちだと思う。人間味のある優しい気持ち。でもそれを得るために、それが分かるために背負う物が、今の現状なら、少し辛い。
「百円じゃ化粧品も、洋服も買えないでしょうに」と冬美の頭を撫でる。
「入院患者には必要ないし、それにジュ-スが買えるもん」
そんな冬美に、「糖尿病になったら、入院長引くぞ~」と冗談をいうと、「わっ! それ困る!」と彼女は慌てた。
二人で笑い合ってから、そろそろ沙織は病室を後にするために立ち上がる。
「明日は出勤?」と聞いてくる冬美に頷き返えす。彼女は嬉しそうな顔をしてくれた。一瞬でも孤独を忘れてくれたなら有り難い。看護師だって、消灯のあと暗くなった廊下をナ-スステ-ションまで歩くだけ間だけでも淋しく感じる時もあるのだから、若い彼女はきっとそれ以上。九時に消灯なんて自宅では有り得ないだろうし、友達とだってずっと遊べる。電話だってできる。
沙織は廊下の窓から空を見上げる。
(……晴れるのかな、明日)
所々に雲、だがそれに消されず星もしっかりと浮かんでいる。
そう言えば、子供の頃の天気予報は夜空だった。夜、庭に出て見上げた空に、雲が限りなく少なく、星が沢山出ていれば、晴れ。そう、信じてた。
「晴れるだろうな」
あそこへ行ってみようか、久しぶりに。と思った。
11
子供の知恵も捨てたものじゃない。翌日の空は立派な晴れ。
今日は早番なので仕事は夕方までだし、調度良かった。
早朝に出勤した沙織は引き継ぎ用紙に目を通す。昨夜の患者の容態や投薬メモなどが記されいるのだが、特に異常は無い。冬美もよく寝ている様子だ。運動もしていないし若さゆえに寝れない事もあるだろうと心配していたのだが、良かった。
引き継ぎが終わると、窓からのぞく空に目が行く沙織。自然と笑顔になった。
「あら、晴れ空を見て笑えるなんて心が綺麗なものね」
そんな沙織に横から婦長が声を掛けてくる。
「ああ、今日は冬美ちゃんと外を歩こうと思っていたもので、晴れてよかったなーって」
「それはいいわね。あの子、あまり外には出ていないみたいだし」
「はい。少しは運動しないとストレスも溜まりますよね。あの子の性格だと、自分から我儘は言ったりしないですし」
婦長は深く頷く。
「わかったわ。じゃあ、お願いね」
沙織が頷くと、婦長も空を見上げた。「……綺麗よね、なぜ空は自分を青色だと決めたのかしら」
「え? それは、う~ん」
たまにこんな難しい事を言ってくる。婦長は話を続けた。
「空は、知っていたのかもね」
「え?」
「青色は人の集中力を高めると言うわ。それに涼しさや安らぎも与える」
「ああ、はい」
「きっと空は知ってたの、思い詰めた時、何かに悩む時、安らぎたい時、人は自分を見上げるって」
「………」
「でも、様々な人に見上げられて少し照れた空は、夕方になると、綺麗なオレンジへと色を変える。きっと、空は唯一の欠点だと思っていたでしょうね。でもそろそろ、その橙色すらも人の魂を癒すって事、気づいてきたと思うわ」
沙織は正直、幾年が過ぎても婦長の感性には敵わないと思った。まさか、行きたい場所までバレてるなんて。
「綺麗でしょうか、今日は」と沙織は訊いた。
「沙織さんにこんなに見つめられれば大丈夫、今にも赤くなるわ」
そういって婦長は他の看護師に呼ばれ歩いていく。
「あ、婦長」一つ伝え忘れていた。
「なにかしら」と婦長は振り返る。
「二日に一回のリンゴジュ-ス」
「……リンゴがなに?」
「それが、冬美ちゃんの美貌の秘密です」
婦長は小さく笑ったあと、「ありがとう、今から買いに行かないとね」
12
じきに夕刻。青い空が照れ始めるのもそろそろだった。
雀の高い声色から、烏が主役の時間となり、病院と平野を繋ぐ長い坂を一台、また一台と車が下っていく。
「冬美っ、明日、また来てもいい?」
今日は一人でお見舞いに来た有香が帰り際にエレベ-タ-の前で言った。
「それは私からのお願いだよ~。それじゃ~あべこべっ」
空いてる日には顔を出してくれる有香は本当に有り難い。お礼を言っても、「私が会いたいんだから~」なんて上手い言葉でごまかされるし複雑な気持ちだ。
「い~の~、冬美のせいでお見舞い品何も持ってこれないんだからさ、せめて顔くらい見せないとね」
確かに冬美は、「入院は自分のせいなんだから絶対に何も持って来ない事」と友達にうるさく言っている。もっとも、花束や軽い食べ物まで断って人の善意を全く受け入れないわけではなく、人によっては高価な物も持ってくるし、学生が貧乏なのは冬美も重々わかるためにいっているのだ。
「ファンデ-ションとか化粧品一式、買ってきてあげようか?」
有香はお洒落もできない冬美に、せめてもと思っていう。
「もう、大丈夫だってばっ」冬美は首を振る。
「あ~らそうですか。私程度が相手ならスッピンで調度釣り合うってことね」
有香はツンとしてみせた。
「ま~たそんなこといって」
「だって、それくらいで迷惑とか考え過ぎなんだもん」
「ちがうよ。私は退院した後にわざわざお返しするのが面倒臭いだけっ」
冬美はそう言って笑った。
有香は小さく溜息を吐くと、「……そう。お返しがお目当てだったんだけど、だったら意味が無いか」といって笑ってみせた。
下方向のボタンを押すと、じきにエレベ-タ-の扉が開く。有香はそこへ早々と乗り込んだ。
振り返ると明るく言う。「美味しいプリン見つけたんだけど、明日、食べる? これくらいならいいでしょ?」
「本当? 食べるっ。さっすが優しいっ」
「残念っ、冬美を太らせる作戦よっ」
笑い合い、手を振り合うと扉は閉まった。
いつもなら、ここで少し淋しくなる所だが、「――ん?」
今日はそんな間が与えられる前に後ろから肩を叩かれた。
「沙織さん?」
振り返ると沙織が立っている。「お風呂、まだだよね?」
「うん、まだだけど」一応答えたが冬美はその前に言いたい事があった。「私服、なんだ」
勤務が終わった沙織は当然私服。なぜか看護師はいつも白衣のイメ-ジがあるものだから、ちょっぴり違和感がある。
「あ~ら私、私服がそんなに似合わないかしら?」
冬美は慌てて首を振って、「何か、用事?」
沙織はそう聞かれると身を乗り出して言った。「散歩、行かない?」
「え? うん! 行きたいっ!」
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