この夕日まで 8

      36


 あれから数ヵ月が経って、冬美には余命半年が伝えられた。

 その間こそ沙織や友達には普通に接してくれた冬美だったが、余命半年を迎えると面会は母親しか受け入れなくなり笑顔が消えた。

 死ぬことを理解していたからこそ、「お返しが面倒臭い」と大事な友達から物を貰わなかったのだろう。それが近くなったのだから、今は優しくされるのすら嫌なはずだ。

 それに、冬美は苦痛に耐えていた。足なんて殆ど動かないし、手も不自由、頭痛にも日々悩まされた。

 看護師である母親は知っていたのだ。この苦しみを。余命が少しだからと言って自宅に返し、迅速な治療が出来ず脳腫瘍に苦しむ旦那の姿を見たからこそ、奇跡を信じて病院に。

 事故だと聞かされていた旦那の死が脳腫瘍だったと沙織が知ったのは、冬美の余命を知りすぐの事だった。隠していた事も、頭の怪我の事も謝られたが、これは定めであって誰も悪くない。隠されていたからこそ、冬美と明るく楽しく接することができたのは事実なのだ。

 出会った頃を、いまでも何度も思い出す。

 思い出せば思い出すほど、沙織はまた、冬美が心から笑う姿が見たかった。

 だけど、その希望は薄いだろうと思っていた。

 ――のだが、その笑顔が見れたのは夏。

 学生達なら夏休みを後に控えた頃だった。

 母親以外誰とも会わなかった冬美は、ある日突然、人を待つようになる。

 それから少しずつ、笑顔が増えた。


「冬美っ」と母親の声に呼ばれる。

 冬美は病室のベットから無心で空を見ていたのだが、その声で我にかえる。

「あ、なに?」

「お母さんもう帰るけど、リンゴジュ-ス買ってこようか?」

「あ、そっか、うん。じゃあ私も行こうかな、見送りついでに」

 車椅子に乗って廊下に出ると、母親が押してくれた。

 休憩室の正面まで来ると、「じゃあお母さん待ってるから買ってきなさい」といって百円玉を手渡される。自分で買うこともリハビリになる。

 冬美はお礼を言ってから中へと入って行った。

 自動販売機へと向かうと、先客の男性が立っている。どうやら、なにを買うのか少し迷っているようすだった。

 その男性は一度振り返ると、慌ててボタンを押した。

(お気遣いせずに、ごゆっくり)

 と願う冬美だが、すでに男性は場所を空けてくれていた。それを確認すると冬美は車椅子を前へ進める。

「――あ」

 見ると、リンゴジュ-スのボタンには売切れのランプが光っている。この病院のリンゴジュースは不思議と人気があるようで、よく売切れになる。なので慣れてはいるのだが、やはり残念だ。

 このとき、ふと近くにいる先客の男性と目が合う。

 そして、何かに気づく。

(……あの、人?)

 まさかそんなはずはないが、しかし……

 どう見ても、夢の中で冬美に写真を手渡してくれた……あの人?

 あの、彼……?

「……ん、え?」

 じっと見つめる冬美を不思議に思ってか、男性はそう言った。

「あっ、いいえ」

 なぜかとっても照れてみる。そして、その場にはいられずに引き返す。

「どうしたの?」入り口から覗いた母親が冬美に訊いてきた。「リンゴジュ-ス、いらないの?」

「う、うん」

「本当にいいの?」

「お母さん行こうっ」


 たぶん、こんな感じだったんだと思う。

 その日の話を、冬美は沙織に何回も、満開の笑顔で何回も話してくれた。そのために頭の中で再現できるのだ。

「……行こう」

 思い出から現在の一年後に帰ってきた沙織は、車のキ-を捻りアクセルを踏んだ。


      37


 長い坂。

 すでに綺麗に染まりつつある空。

 窓の外には休憩室からよく見えていた海が居座っている。いまでも病院の様々な患者を癒し続けていることだろう。

 病院を過ぎると緑に囲まれた。

 ここを……二人で歩いた……

 あの頃のことを、すごく鮮明に思い出せる。

 車の窓の外に、登っている途中の自分達を見掛けそうなほどに。

 じきに、坂道は平坦になる。丘に到着したのだ。

 狭い車内から外に出ると、視界は広がり正面には夕日が広がった。

 あの夕日だ。

 見ているだけで涙を誘う。

 沙織は歩みを進めた。

「――あれ?」

 丘の先を見ると、誰かが一人、たたずんでいる。

 あの姿……

「勇樹君?」

 背後から声をかける。

 その彼はゆっくりと振り返る。

「……沙織さん」

 もしかしたら、私ではなく、冬美に呼ばれたような気がしたのかもしれない。だから少しだけ淋しい顔を返した。

「来てたんだ」と、沙織は正面を見据えたまま、彼の隣に並んで立った。

 彼は頷いて、「さっきまで思い出していました、あの日から今日までを」

 この言葉にふと視線を向ける。

 壮大な絶景が広がっているのに、まるでその景色が見えていないような瞳。

「……そっか」

 これだけ返事をすると視線を正面に戻す。

 やはり悲しみは消えない、いや、さらに掘り起こしてくれる。

「……忘れるために来たの、弱いわよね、私」

「………」

「……でも、きっとそれでいいの」

 絶景を前にゆっくりと瞼を閉じるとオレンジの光が遮断され視界は暗闇になった。

 その、暗闇の世界には、あの、彼女の姿があった。

 優しく笑う冬美の姿。

 しかし沙織は首を振って、脳裏から冬美の姿をかき消す。

「もう……いいの、思い出すのが辛い、早く忘れたい……」

 沙織は目を閉じたまま呟いた。隣できっと、彼も頷いてくれると思った。

 しかし、「間違ってます」と彼は言った。

 沙織は目を開けて彼に視線を向ける。その表情は悲しそうではあるが、沙織の気持ちに頷くようすはまったくなかった。

「それじゃあ、駄目なんです」

 彼は夕日を見つめながら続ける。

「忘れるとか、辛いとか……冬美はそんな気持ちを与える為に生まれてきたんじゃないんです」

「………」

「生きる希望、生きる意味、優しさ、勇気、笑顔……冬美が残してくれたのは、そんなものばかりなんです」

「………」

 沙織の頬に雫がつたう。

 そうだった。

 あの子の担当になった時に、誓った、婦長に言った。

 ――私、思いました、あの子には笑っていて欲しいって、あの、笑顔を奪ったらいけないんだ……って。

 自分の気持ちを皮肉に思う。馬鹿げてる。今の自分の姿は冬美を悲しませるだけだ。

 そして冬美は言った。そんな顔するのは、死んじゃう本人だけでいい、と、だから笑ってきた……と。

「馬鹿だなあ……私」

 正面で怒鳴られたのに、その気持ちにはまるで答えられていない。

 そう言えばいつか、冬美が教えてくれた。

 辛くなった時は、あと、一秒だけ長く生きればいい。

 一秒なんて簡単なもので、きっと一秒長く生きれたなら、もう一秒だけ長く生きようって思える。

 それを繰り返して、ずっと繰り返して、今、私は生きてます。

「冬美ちゃん……」

 彼女は、あまりに強く、そして優しすぎた。

 生かすことを、神が、この世界が、運命が、拒むほどに。

「勇気君」

「はい」

 沙織はここから飛ばしてしまう予定だった写真を取り出して彼に差し出した。

「勇樹君が、持ってるといいよ」

「……いいんですか?」

 彼は驚いた様子で受け取る。沙織は頷いた。

「うん、私は看護師。これから出会う患者さんに迷惑がかからないように、気持ちを切り替えなきゃ」

 彼は初心を眺めて、嬉しさが溢れ出そうな表情をしていた。

 沙織は笑顔を返すと、また夕日を見つめた。彼も写真から夕日へと視線を移す。

「僕、冬美に手紙を送りました」

「……そう」

「……届くでしょうか」

「……ええ、きっと」

 絶景の中で輝く夕日は、冬美の輝きそのものに感じられた。

 ずっと忘れてはならない記憶。

 この、現実から逃げてはいけない。

 もう、忘れるなんて思うのはやめよう。

 沙織は何回も心に誓った。

 これからも思い出さなければならない。

 沢山の思い出を。

 彼女の笑顔を。

 この、夕日までの……出来事を。

                                                    

《完》

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