二〇二一年・明日も共に

 あまり品がいいとは言いがたい店名を掲示した行灯をずらり並べたビルの足元、往来を楽しげに語らいながら行き交う人々、スポーツのパブリックビューイングを放映する店の、路上まで溢れた客たちが交わすグラスにジョッキ。

 昼夜逆転、酒と性とお喋り、逞しき人間の営み。

 一頃は夜になるとすっかり静まり返って、閑古鳥が啼くどころか隙間風にタンブルウィードがごろごろ転がっていくのではあるまいかという様相を呈していた宿木橋界隈、かつてのそれとは比ぶべくもないが、徐々に賑わいが戻って来つつあった。

 他のゲイ・タウンにおいては自粛要請期間中も「保証もないのに何が自粛って話よ!」とロックな姿勢で営業を続けていた店も多くあったようで、宿木橋はこのまま衰退し崩壊してしまうのではないかと危惧する声もあった。組合では営業自粛に足並みを揃えようとしていたが、国からも自治体からもろくなサポートも受けられない状態で時短営業など自ら首を絞めるようなものだと夜間営業を再開しようとする店がちらほら見えていたのが、中寉が「かけっこのお祭り」とこき下ろした例の祭典を控えた初夏の頃。

 宿木橋の、いまや顔役、あるいは首領と他称されるに至ったオーナーは、

「ここはじっと我慢。止まない雨はないし、明けない夜もない。健康でさえいれば、必ず」

 一軒ずつ店を回って説得に当たり、のみならず少額とはいえ身銭を切って金を配った。組合に所属する店舗と従業員たちの生活が困窮しないよう、彼は自ら汗をかいて君はそっちあなたはこっち、どこからか見付けてきた仕事を回したり、承の『緑の兎』のようにランチ営業に活路を見出だした店舗の手伝いに行かせたり。生活の維持にさえ困窮してしまった者はオーナーの所有するマンションの部屋での共同生活をして苦境をしのいだ。

 承はオーナーの資本というものがどれほどのものであるか見当もつかないが、彼は間違いなく宿木橋のメシアとして在った。彼がやって来たばかりのころには、口さがない連中は「あの金髪と中国人はハゲタカだ」などと言って距離を置こうとしていたものだったが、実際に救いの手を差し伸べられ、彼にすんなり従った者も、そうではなかった者も含めて、宿木橋に客足が戻るころには元通りに営業を再開出来るようにならなかった店が一軒もなかったことを思えば、オーナーの悪口を言う者は一人としていなくなっていた。

 このところ、オーナーはほとんど二日と開けず開店前の承の店にやって来る。

 ランチ営業しか出来なかったころも、龍、あの中国人を遣いに出して、テイクアウトを買ってくれていた。二人分どころか十人分二十人分、注文を入れて買っていくのだ。言うまでもなくそれは、彼が一時的に世話をしている宿木橋で働く者たちのためであった。

「痩せましたね」

 中寉が拵えたオムライスを、旨そうに食べる彼のこけた頬に、承は言った。

「そりゃあ」

 彼は苦笑する。アクリル板の仕切りで隔たれた隣、龍の頬に付いたケチャップを拭った親指をぺろりと舐めて、

「夜の営業が出来るようになるまでずっと一日一食、中寉くんの弁当しか食べてなかったからねえ」

 初耳であった。

「身体を壊してしまいますよ。仰って頂ければ、もう少し何かこう、栄養バランスも考えて作って差し上げましたのに」

 厨房から出てきた中寉が困惑した声で言ったが、オーナーは肩を竦めて笑うばかりだ。

「でも、堪えた甲斐があったよ。とりあえずみんな無事にこうして営業再開出来て、お客さんたちも戻ってきた。マンションに住ませてた子たちも少しずつ減ってきたしね。なかなか全部元通りとは行かないだろうけど、世界がどんなでも逞しく生きていかなきゃいけない。独りでは無理なことも、みんなで助け合ってさ。そうしたら、いつか俺たちが困ったときには、みんなで助けてくれるでしょう?」

 こう言って、「美味しいなあ、中寉くんの作る飯は本当に美味しい」と幸せそうにオムライスを頬張るのだから、聖人と言われても仕方がない。

「ごちそうさま。開店前の忙しい時間にいつも悪いね」

 受け取れないと言っても金を出し、つりは要らないと手を振って出ていく。彼の腹の中にどういう思想があったとして、……例えば仮に彼らが本当に「ハゲタカ」であったとしても、宿木橋では彼の側に付く者が多そうだ。

 開店して間もなく、じわじわと人が入ってくる。元々「いま一杯なんです」なんて言うことは滅多になかった『緑の兎』だが、席数を減らしてしまったのでこのところ、「申し訳ありません」と中寉が謝る姿をよく見るようになった。嬉しいことではあるが、もどかしいことでもある。この日もオープンからほどなくして席が埋まり、中寉は独楽鼠となっててきぱきと働き回っている。もう一人いたあのアルバイト、……中寉のことを「了くん」と呼び、とても仲のいい友達になっていた彼は、就職活動をしながらもせっせと働いてくれていたのだが、夏前に辞めた。年上の、聴けば承と同じぐらいの歳の彼氏が「面倒見てやるから」と同居に誘ってくれたのだと言う。

 だもので、いまこの店は承と中寉二人しかいない。

 感染対策以前の問題として、これ以上席数を増やしたら、二人が追い付かなくなってしまう。時おりミツルの店から、料理上手のオランダ人のヤンに手伝いに来てもらいつつ、週に二日の定休日を設けて何とかやっているという状況だ。忙しいのは有り難いが、大変である。それでも、来るのはコーヒーを飲みながら本を読んだり、ちょっと高いウイスキーを緊張しながら一杯だけ呑んで帰ったり、ソファ席で静かに語り合ったりする、まあそれほど喧しくはならない店なので、流れる空気そのものは穏やかなものであるが。

 カウンターの二人連れが帰っていった。そのタイミングで、またドアベルが鳴る。いいよ、行け、と中寉に目で合図し、承がテーブルを拭く。「いらっしゃいませ」といつものように応じた中寉の声を左耳に聴きながら、「マスター、ジントニックいい?」という客のオーダーに「かしこまりました」と応じる。

 二人連れと入れ替わりに、入って来たのも二人連れであるようだ。以前来たことがあっただろうか? 中寉より少し背が高いぐらいの、小柄な男、もう一人は承と同じほどの背丈をした男で、年齢は共に二十代の半ばほどか。バーテンダーをしているからには承も人の顔を覚えるのは得意であるが、しばらくカウンターから離れてオムライスをサーブする側に回っていたので、ちょっと勘が鈍っている。中寉は珍しく親しげに二人と立ち話をし、承が拭いたカウンターへ導く。……背の低い方は、何となく見覚えがあるような気がするな、と思いながら、彼の口からスコッチの銘柄を告げられたとき、あ、そうか、ああはいはい、と承は記憶が蘇るのを覚えた。

 中寉を拾う少し前までよく来ていた客である。

 スコッチの銘柄を端から順に制覇しようとしているのか、いつも違う銘柄をロックで頼み、カウンターの隅っこで文庫本を読んでいた姿を承は思い出した。いつも独りで、のんびりと過ごして帰っていく男はきっとゲイなんだろうなと思っていたけれど、出会いや縁を求めて積極的に動くタイプには見えなかった。オーナーの「面接」の際に言った理想とする店の、象徴的な客であった。

 ハイボールとビールを出して、カウンターの中に戻ってきた中寉に、「あっちのテーブル席の客、さっきからうとうとしてるから、ちょっと声掛けて来い。何ならコーヒーもあるとでも言って」と指示を出す。仕事中はきちんとしている中寉は、背筋を伸ばして、

「わかりました、マスター」

 と応じる。さて、と振り返ったら、文庫本の男……、今日パートナーを連れてきた男に、

「あの」

 と遠慮がちに声を掛けられた。はにかみながら彼は、隣に座る男とここで知り合ったこと、来月、このパートナーの実家へ引っ越すこと、東京を離れる前に、思い出のこの店に来ようと思ったのだということ……、を承に告げた。

 そうか。

 ……率直に言って、それはとても嬉しい告白であった。

 この店をやっていてよかった、苦しい時期もありはしたけれど、こうやって無事に再開出来てよかったなあ、と、ぼんやりしていたら視界が滲んできそうなぐらいの嬉しさが込み上げて、承は慌てて仕事用の仮面を被る。

「左様でしたか。それは、ありがとうございます。お二人の前途に幸多からんことを祈念いたします」

 極めて事務的に言って微笑んで頭を下げ、一旦厨房に引っ込む。その耳に、「引っ越してしまわれるのですか」と中寉の声が聴こえてきた。文庫本のパートナーの男の実家はどうやら九州であるらしい。パートナーの「実家」ということはつまり、両親が公認の上ということか。それって、とても理想的だ。承はもちろん中寉のことを両親には紹介していない。中寉の方も親と縁は切れて久しい。二人で居られれば十分と思ってはいるけれど、正直少しばかり羨ましい気もする。

「マスター、さっきのうとうとしてたお客様はお帰りになりました」

「うん」

「あと、カウンターのお二人の背の低いほうの方は、ええと、マスター、お耳を拝借」

「返せよ」

「もちろんです」

 中寉に背伸びをさせることはしない、背中を丸めて。

「三嶋さんにかつて酷い目に遇わされたのが、あの方です。生江さんというお名前です」

 と告げる。

「……マジで?」

「はい。高校生のときの僕がお助けしたのです。お話ししてませんでしたけど、ちょっと前に新宿駅でばったり出会いました。この間の配信ライブの前に、僕が自主練習でカラオケに通ってたころに」

 ということは、あの男は、質は異なるにせよ承の同類である。

「僕がブリーフ穿くようになったのは、生江さんがブリーフを穿いていると教えていただいて、リスペクトしたのです」

 一体どうして急にそんなものを穿くようになったのかと、……似合っていることは認めるが、訝っていた。それにしても、もっと他にリスペクト出来るところないのかあの男には。

「それから、パートナーの方とは昔山王でご一緒したことがあります」

「マジでか」

「触ったり触られたりはしていません。まあ、若いころは僕もちょっと無責任なところありましたから、その点についてはご了承頂けますね? 今僕の目にはマスターしか映っていませんので」

 無論、それを疑いはしない。しかし中寉は「昔から僕、背の高くてスマートな男の人に憧れがあるんですよね。自分が逆立ちしたってそうなれないので」と言って赤い目元を意地悪く微笑ませる。つねったら柔らかい頬をしている男は、くるりと身を翻して厨房の奥へ承を導いた。

「マスター」

 中寉はとても嬉しそうである。中寉が救った男と、中寉とひとときを共有した男が、承の店で出会って結ばれた……、という事実は、承にとっても、胸にくすぐったさが満ちるぐらいに嬉しいことだ。

「あの二人に負けないぐらい、僕たちも幸せになりましょうね?」

 今以上、もっと?

 中寉がぎゅっと抱き着く、ほんの数秒だけで、ああもう早く明日の朝にならないか。もどかしい思いが湧いてきてしまう今以上に、もっと?

「明日も、どうかよろしくお願いします、マスター」

 唇が重なったのは一瞬だけ。

 日々は健やかで在る限り続くし、仮に健やかでなくなったって続いてしまう。蜂蜜のように糸を引いて、もうすぐ今日が昨日になる。

 二人で迎える明日が、共に在る今日になる。

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やがて死ぬ君のため、今のうちに挽歌を編んでおく。 415.315.156 @yoiko_saiko_ichikoro

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