主観人関色

@soichiro729

主観人関色

主観人関色

 赤い夕日に照らされた校舎は生徒に別れを告げられ、1時間ほど経つと寂しい群青色をする。今日も中学が終わり退屈な先生の退屈な授業を終えた。しかしもっと退屈なことに、いや不幸なことに今週はトイレ掃除だ。クソみたいな生徒のクソをしたところを掃除するだなんて屈辱でしかない。部活には所属していないので掃除が終わればすぐに帰宅する。部活に入ってない理由をゆうとすれば、馬鹿馬鹿しいからだ。協調性やなんだのと語る顧問の偉そうな態度やそれにへいへいする生徒の姿、ちょっと運動ができるくらいで調子に乗って、友達を心の中で見下す中学生と一緒にいると、言葉にならないほど吐き気がするからだ。こーゆー奴らはだいたい学校ができない。

 僕には母親がいない。僕が5歳の頃に病気で死んでしまったらしい。だから写真の中で僕を大切に抱っこする母と、かすかに残る記憶の中の母しか僕の中には残されていない。母は美術の先生だった。母の部屋には、150種類以上の色の絵の具が置いてある。それは僕にとって母の形見のようなものだ。普通の人なら赤と言ってしまう色が10種類はあったように思う。そのおかげで僕は色に少し詳しい。もう母がいなくなってから今年で9年経つが、いまだに寂しい時がある。参観日、体育会、クリスマス、正月、誕生日……。ことあるごとに寂しさは感じるが、この寂しさにも慣れた。 

 

 そう思っていた……。

 

 道徳の授業で出された、家族についてを考えなさいという自主課題を下校中に考えてみたが、あまりわからなかった。家にある父さんのpcで家族について調べてみた。画像の中に映る家族がどんどん出てきて、画像をスクロールすればするほど家族が丸くなって、なんだかオレンジ色いやバーミリオンに見えた。羨ましい、寂しい、母親が欲しい。次の日好きではないが話す何人かの友達に母親からしてもらったことを聞いてみた。小さい頃は出かけたり、料理を作ってもらったり、病気の時には看病してもらうらしい。驚いたのは耳アカを母親にとってもらっていたという友人もいた。母親の膝の上に頭を乗せ耳にたまった汚いものをとってもらうそうだ。もしかすると目をつぶってこの行為をしてもらうことで母という存在を感じることができるかもしれない。

 

 休日、父親から3000円をもらい、横浜にそのような店があるらしいので行ってみることにした。一応どこに何があるかは家で調べたから、分かっていたが、とにかく値段が高い。30分5000円を基準にどんどん値が上がっていく。どうやら40代50代の叔父様が入るのが普通らしい。歩き回って最後の店の前に来ると30分1000円の店を見つけた。

 不気味な雰囲気のあるその店は、外装からもそれを感じることができるほどだ。外には、黒猫の置物や何匹かの烏の置物がいる。はっきりした目は見つからないが、ずっとこっちを見つめているようにも思える。黒い扉にはwelcomeとかかれていた。思ったより重たいその扉は小さく、中学2年の僕でも少しかがんで入らないといけないくらいだ。中に入ってみると内装までも不気味だった。わかりやすくゆうと、占い師がいそうなそんな部屋の中だ。奥には1人の女性が座っており「1000円」とだけ言ってじっとしていた。おそらく1000円を支払えという意味なのだろうと思いそれを出すと、久しぶりに食べ物にありつけるハイエナのように素早くその1000円を取った。「こいつぁはやべぇや」思わず口にしてしまった。大きな帽子の中から見える顔は40代前半に見え、化粧はしていないようだったが美人に見えた。その女性は正座して彼女の膝を指さすのでそれに従い僕は膝に頭を乗せる。初めての経験に動揺したがすぐに落ち着いた。10分ほど経つと女性が妙な手捌きで僕の耳の中を何かを探すようにしていた。「モニュ、モニュニュニュニュ」こんな音がした後になんと、耳からくにゃくにゃとそれぞれスライムのように様々な形をしながら自由に動き回る色が出てきた。この世のものとは思えないものが自分の耳から出てきたことに、本当に目が飛び出そうなほどびっくりした。そのとき女性は僕が驚くのも想定内というそんな表情で説明を始めた。

 「これはあなたの心の中を視覚的に見えるように映し出した、あなたと私だけが見えるもの、これを主観人関色というの。正直、ものというのは少し違うけど、そんなこと問題じゃないわ。あなたの心の中といっても、あなたの人間関係に関することをこの色と動きで表しているのよ。」

僕は正直何を言っているかわからないという顔をしていたが、その女性は構わず説明し始めた。

「あなた中学生よね。多分あなた信頼できる友達もいないし、あまり喋ったこともないでしょ。ほらあなたから出た主観人関色をみて。はっきりとした青、赤、黄、緑、辛うじてオレンジがあるわね。それぞれの色は動いてるけど、絶対に交わっていない、いや、交わらないように動いているんだわ。この色の種類と動きがあなたからみた人間関係を表しているの。あなたは人を見るときに、これはこんな人!この人はこーゆー人!というように決めつけてしまう。だから人のことが実際よりも馬鹿らしく見えてしまうの。こーゆー見方をする人は自分のことを同じように自分はこーゆー人!と決めつけてしまうの。そんな心当たりないかな?」「はい……。あります。」たしかに心当たりがあった。最近人の外面的な部分を馬鹿にしてばかりで内面的で大切な部分を見れていない気がする。外面的な部分で人を判断するから、中身をみないから、その行動を理解できずに馬鹿にして、この人はこんな人と決めつけてしまうのかも。だから友達ともあまり仲良くできていないし、学校はよくできるのに、どこかぽっかり穴が空いたような、そんな生活しか最近は送れていない。悩みを相談できる先生や心から信頼できる友達を欲しいと思ったことはあるが、人を馬鹿にしていたが故に自分の気持ちに素直になれず作ろうともしなかった。自分が馬鹿にした人を信頼するなんて、一番の馬鹿がやることだと思ったから。このことを女性に伝えた。「よくわかってるね。君、勉強はできるのね。勉強は。そーゆー人に特に多いのよ、色が交わらない人。プライドが高い人。学校での成績が全てと思って、自分よりできない人を蔑むのよね。」イラついたが、間違いではなかった。「これからは君次第だけど、この主観人関色をもっと多種多様な色にして、言葉にできないほど混じり合わせて、けれども綺麗な芸術的な色にしてみたいと思わない?」


母の日記を読んだことがある。その日記の初めにはこう書いてあった。

 

 3月3日。大切な息子が生まれた日に。

今日から日記を書こうと思う。今日は赤と青と黄と緑が交わったら何色になるんだろうかと思って、絵の具を混ぜてみると黒に近い色になった。黒は全てを打ち消す、全てを自分の色に変えてしまう色。×0と同じ役割だと思う。でも人がまじあったらどうなるだろう。たとえ黒色が含まれていてもとっても綺麗な色になると思うな。たとえ100でも200でも、1000でも何万種類の色があっても、色の数が増えれば増えるほど綺麗になるんだろうな。私の息子には多くは望まない。ただその色の一つに含まれてみんなと調和して、綺麗な色渦のひとつになってくれさえすれば。


この日記を読んだのは小学生の4年生頃だったから意味はわからなかったが、いま鮮明にその内容を思い出し、理解した。僕の主観人関色を充実させることが母の願いにつながるのなら、僕はなんだってする。


この日からとにかく人と関わることを意識して生活してみた。学校というプラットフォームはそのためにあるようなものだから関わること自体は簡単にできた。しかしどうだろうか、人と関わるだけでは色は綺麗に混じり合うのだろうか。あの女性は僕と別れる前にこう言った。「いい人間関係は見返りを求めないgiveから始まるわ。」これはどういうことなんだろうとその晩から考えていた。見返りを求めないgiveってなんだろう。僕の家では普段何かを手伝う時に、その手伝いの対価としてお金をもらったり、物をもらうことがルールとしてあった。だから無償で皿洗いやお風呂の掃除をすることは一切なかった。この考え方は学校でもそうだ。学業や運動をすれば成績という学生にとって価値あるものを得ることができるために、一生懸命勉強し体育や音楽も嫌々ながらもうまくこなしていた。それとは逆に友達関係は一切うまくいかなかった。いや、うまくしようと振る舞おうともしなかった。うまく振る舞うことが自分にとってわかりやすい利益にならないと考えていたから。友達とうまく行っても数学の成績は4から5に上がることはないし、仮に良いことがあるとしても成績表の生活欄に、友達と仲良くできると書かれるほどのものでしかない。正直、中学の僕がこんなふうに考えれているだけで正しいと思っていた。でも多分違う、僕は間違っている。実際に僕の主観人関色はとてもシンプルな色だけで、混じり合うこともなかった。混じり合わないということは多分、人間関係だけじゃなく、これからの未来もシンプルな色で表すことができる、ということも意味している気がする。タレントや実業家など成功している多くの人が孤独に何かしているイメージはない。部下や仲間などと共に辛いことも楽しいことも共有して日々の生活を送っていると思う。ということは僕が意味のないことと考えていたことはたしかに短期的な幸福は感じることができないのかもしれないけど、長期的な幸福は感じることができるはずだ。そうだ、とにかく僕は意味がないと思うことでもとりあえず人のために動いてみよう。


本には人のためにできることの答えが並べられているのは知っていたから、初めは僕はあえて本を読まなかった。自分がされて嬉しいことを基準に、自分で考えて人にgiveしてみたかったからだ。僕は自分が思うがままにたくさんのことを実践してみた。


駅に落ちているペットボトルをゴミ箱に捨てる。

宿題に困っている横の席の友達に声をかけてみる。

わからないことをそれを得意としている人に聞いてみる。

自分が使った後のトイレを一拭きしてから出る。

コンビニの店員さんにありがとうございますと目を見てゆう。


もっともっと僕はたくさんのことをやった。すると一つ分かったことがあった。それは決して人に対してやることだけがgiveではないということ。ものに対して、環境に対して、動物に対してやることも長期的に見れば人に対してのgiveになるし、何より自分が清々しい気持ちになった。ありがとうと言われることがこんなに嬉しいとは思ってなかった。見返りを求めず自分がすべきだと思ったことをすると相手が喜んで勝手に言葉という報酬が返ってくる。時にはものになることもあった。でもうまくいったことばかりではなかった。電車の中でおじいさんに席を譲ろうとすると不満げな顔をされたり、勉強に困ってると思って声をかけると「ちょっと黙ってて」と言われることもあった。これは正直とても悲しかったけれど、感謝してもらった数に比べるとこんなことどうでも良く感じる。


 これらのおかげで僕は前よりもうんと友達と良好な関係をもてているとおもう。女の子ともたくさん友達になれて、表には出さないが内心大喜びだ。同年代の友達だけでなく、担任の先生、ボランティアに参加した時の大学生のお兄さんや定年退職したおじさんとその奥さんなどと言葉にはすごくしにくいけれどお互いを信頼し合う、より良い関係を築けているような気がする。


 何度か、僕はあのお店に行って、また耳から虹色の主観人関色を取り出してみたいと思うことがあった。それから3年の月日が経ったけど、一度も行かなかった。主観人関色をよくしようと思う中で一つ思ったことがある。勉強とはちがい、答えがないからこそ常に考えて考えて考え続けてもがくことは意味がないように思えて、知らぬ間に自分を大きくして、また一つ違うステージにたっている。これは答えがあるとたどり着けない境地だと思う。なぜかはわからない。けど、本当にそう感じる。実感する。だから僕はあの店に行って主観人関色を取り出さない。もしかすると間違っているかもしれないけれど、人と関わり続けて人のいいところをたくさん見つけることで僕の主観人関色は絶対に綺麗になって、母の思いを叶えることができる。そう信じてる。

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