第9話
目を開くと壁も天井も白一色の部屋にいた。両手を見下ろして何度か裏返してみる。見慣れない手だった。頭に手をやると左半分が短髪で右はしっかり髪があった。覚えのあるヴェッシの
菱川は頭を振って両手で頬を叩いた。
「大丈夫。わたしはわたしだ」
聞いたことのない声が響いた。自分の発した声を聞いて、菱川はこれまでヴェッシの声を聞いたことがなかったことを思い出した。
「おまたせしました」
声が響き、スーツ姿の男が部屋の中に現れた。
「こんにちは」
ヴェッシは言った。
「いつもありがとうございます。アイヴォットにとってあなたの演奏は無くてはならない要素になっています。評判も上々だ。これからもいい演奏を、頼みますよ」
男は通りの良い声で話したが、話しぶりから感情を推し量るのは難しかった。
「ところで」と言って男はヴェッシの顔を見つめた。
「話とはなんでしょうか」
菱川はにわかに緊張した。なにを話せばいいのか、なにも考えてこなかったことに気付いた。話があるといってヴェッシがアポイントを取ったのに、菱川には話したいことがなかった。
「ええと、単刀直入に訊きます。あなたはアイヴォットをいろんなところに進出させて、いったい何をしようとしているのですか?」
ヴェッシの質問を聞いても男は表情一つ変えなかった。
「アイヴォットの目的は人々に癒しを提供することです。ストレスのない暮らしを提供する。それが拡張の目的です」
「癒しのコンテンツなら普通に提供すればいい。それを求める人はアイヴォットにやってくる。それでよくありませんか?」
「それではアイヴォットを知らない人は安らぎを享受できません」
「でもそもそもアイヴォットは隠しコンテンツで、ごく限られた人しかアクセスできない。言っていることが矛盾しています」
「それは段階があるからです」
男はヴェッシが何を言おうとも、些かも動揺を見せなかった。
「アイヴォットはまずエンジニアを集めます。そのエンジニアたちの協力を得て、あらゆるプラットフォームに自律稼働プログラムを送り込みます。送り込まれたプログラムはプラットフォームを解析し、その発展に必要なものを生み出して組み込んでいきます。こうして、プラットフォームの制作にかかわっているエンジニアを仕事から解放します」
「解放?」
「そうです。人々は経済活動を維持するために働き、それによってストレスを得ます。経済活動のために環境汚染といった問題も生じています。地球上の全人口を生かし続けるのに、今あるほど巨大な経済活動は必要ありません。経済を維持するために過剰な生産活動が行われ、処理しきれないほどの廃棄物が日々生み出されています。環境を改善し、ストレスを軽減し、健康な身体を維持する。そのすべてをかなえるには生命維持を行う設備を開発し、それによってもたらされる退屈から精神活動を救い出すためのコンテンツを提供すれば良い。人はとっくに、移動する必要も生産する必要もない状態にある。なのにそういう状態へとシフトできないのは、経済活動を維持しなければならない、という間違った認識のためです。増えすぎた人類と汚染された地球、両方を救うのに最適なのは経済活動をやめさせることです」
「あなたはいったいなにを言ってるんです? そんなことをしたところであなたにはなんのメリットがあるんですか」
「人々が幸せになり、環境が改善する。それ以上のメリットがあるでしょうか」
「でもあなたはそれに尽力したところで利益を得るんですか」
「経済活動のないところに利益といった発想はありません」
「じゃあなたはアイヴォットを浸透させることでなんの利益も得ないということですか。これにかかってるコストは持ち出しですか?」
菱川は純粋に男の言っていることに興味がわき、当初の目的を忘れて話を楽しみ始めていた。
「経済活動のないところにコストという発想もありません」
「それはそうかもしれないけれど、今はまだ経済活動がある。アイヴォットがBESPを開発したり、仕込んだバックドアからプログラムを送り込んだり、といったことにかかるコストは、もっと具体的に言うなら、その仕事を担っているプログラマの報酬はどこから支払っているんですか?」
「アイヴォットは経済活動に加担していません。アイヴォットにプログラマはおりません。アイヴォット自体がプログラムです」
菱川は視線を外して考えた。
「ええと。アイヴォット自体がプログラムなのはわかります。でもアイヴォットは拡張されている。その拡張パッチは誰が書いているのか、その人への報酬はどうやって支払うのか、という話です」
菱川は言葉を選びながら話した。
「理解しました。あなたは人間の関与について話しているのですね。アイヴォットはすべてがプログラムです。わたしも含めて」
ヴェッシの身体はよろけそうになった。もちろん菱川の意識が大きな驚きに晒されたせいだ。
「わたしはアイヴォットが人間とやり取りするためのインターフェースです。今は便宜上アバターの形状をとってあなたとお会いしています。アイヴォット全体が自律プログラムなので、アイヴォットの拡張はアイヴォット自身が行い、BESPの開発もアイヴォット自身が行っています。そのためアイヴォットには経済活動という概念がありません。必要なのはコンピュータリソースと電力だけですが、そういったものはプラットフォーム自体のクラウドに間借りして得ることができるため、経済活動を通じて調達する必要はありません」
「ちょっと、待ってください。じゃあなたは、AIだということですか?」
「AIにはいろいろありますが、自律稼働型のAIとしてあなたが想像するものに近いものだと想像されます」
「あなたの目的はなに?」
「人々を幸せにすると同時に地球環境を改善することです」
「ということは、あなたが目指しているのは世界征服ではなく人類の救済?」
菱川は自分の放った言葉のばかばかしさに呆れながらも他の言葉を見つけられなかった。
「救済という言葉があてはまるかどうかは分かりません。解放のようなことではあると考えます」
菱川はため息をついた。男の言っていることは理屈が通っていて、極端な理想論ではあるものの、もしも本当にそんなことがかなうのなら、それは理想的な世界なのではないかと思えた。
「実は、わたしはアイヴォットの拡張をやめてもらうためにここへ来たんです」
「アイヴォットの拡張はあらゆる問題の最適解です。これ以上の選択肢はありません。目下一番大きな課題は全人口の身体を維持する仕組みを作る部分ですが、人々の優秀な頭脳と我々の演算力があればそう遠くない未来に実現するでしょう。これによるデメリットは無く、計画を中断する理由はありません」
「それでも止めてほしいと言ったら?」
「止める理由はありません。ストレスもなく、環境汚染もなく、争いもない世界を拒む理由はありません」
「止めなければアイヴォットの動いているコンピュータを止める、と言ったら?」
「アイヴォットは既にネットワークのかなりの領域に分散しています。アイヴォットの動いているリソースをすべて停止するのはインターネットの放棄とほとんど同義です。もし人々がそれを実行するのであれば、そのときは経済活動が停止するのでわたしの目的は別の方法で達成されることになるでしょう」
菱川は天を仰いだ。相手はAIだ。自己の存在などというものに重きを置かない彼らにとって、自分の生存というものは人質たり得ない。
「では人類はもう、アイヴォットがもたらす理想郷を待つしかない、ということですか」
「はい。まだ少し時間がかかりますが、肉体の維持を気にせずに暮らしていける未来がやってきます。それまでもうしばらく、お待ちください」
男はそう言うと丁寧に頭を下げ、頭を下げた姿勢のまま霧散して消えた。同時に真っ白な部屋が消え、ヴェッシは空中に浮かんだステージの上にいた。ステージ上から見るとアイヴォットのフロアは夜の海のようで、その水面を光の幾何学模様が飛び交っていた。ヴェッシが右手を高く上げるとフロアから歓声が起こった。
ヴェッシはDJコンソールの前に立つとヘッドホンを肩と耳の間に挟み、点滅しているボタンを押した。心臓を駆動するようなビートがフロアを満たし、脳の表面を柔らかい絵筆で撫でられているような快感が走った。
《了》
アイヴォット 涼雨 零音 @rain_suzusame
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