第8話
背後で大きな音を立てて扉が閉まった。菱川達也は驚いて身震いした。同時に目に入っている景色が理解され始めた。菱川は自宅の玄関にいて、左手にはエコバッグを提げていた。夕食を買いに出たことを思い出した。買い物をしたことは覚えていないけれど、買い物をして帰宅したところなのは疑いようもなかった。サンダルを脱いで部屋に入るといつも通りの部屋だった。終業後に仮想世界へ入るための準備をし、夕食を買いに出る。帰宅したら買ってきたものを食べて仮想世界へ。それは菱川の日常だった。菱川は小さなローテーブルに持っていたバッグを置き、上着をハンガーにかけて腰を下ろした。バッグから買ってきた缶入りの飲み物を取り出してプルタブを開ける。
「まって」
缶に口を付けようとしたら声がして菱川は飛び上がりそうになった。見るとトイレのドアからサイミが出てきたところだった。菱川は口を開けたままサイミを見上げた。
「もうそれを飲んじゃいけない」
サイミに言われて菱川は持っていた缶を見た。菱川は見慣れない缶に書いてある文字を読み上げた。
「
「それを、飲んじゃいけない」
「まさか。なんでヴェルカーがここに? それも缶で?」
「もうだいぶアイヴォットの侵攻が進んでいるんだよ」
「ばかな。じゃあここも現実じゃないのか。ここは僕の家だぞ。この家で、そこの椅子に腰かけて仮想世界へ入るんだ。それなのにここも仮想世界なのか?」
菱川はそんなことを言いながら目の前にいるサイミを見つめて、猫人間であるサイミがここにいるということこそが、ここが現実ではない証拠だとわかっていた。
「もともと世界なんてものは意識の産物なんだよ。人が一人も存在しなくても地球環境はある。でも人のいない地球に世界はないんだ。世界っていうのは人が作り出したものでもともと仮想なんだ。それを仮想とか現実とか言い出したから誤解が生じた。どれも全部世界なのさ。アイヴォットはその世界たちにトンネルを通して繋ごうとしている。そのトンネルを掘るためにBESPと呼ばれる言わば電子麻薬みたいなものを使って人を操っているんだ」
「操る? 脳内麻薬で快感を得るだけで、結局BESPをやったあと僕は寝ているだけだよ。まぁ常習性があってアイヴォットへ行くたびにヴェルカーを入れちゃうからね。そこんとこは操られてるかもしれないけど」
菱川が言うとサイミは大きく首を横に振った。
「違うんだよ。BESPは脳内麻薬を分泌させる効果だと言われてるけどそうじゃないんだ。BESPの正体は脳に寄生するコンピュータウィルスだよ」
「待てよ」と言って菱川は笑った。「普通のウィルスじゃなくてコンピュータウィルスなのかい? 脳に寄生するのに?」
「寄生という言い方がまずければ感染でもいい。活動している脳は電子回路みたいなものなんだ。ヴェルカーというBESPはそこに作用して電気信号を操作する。それによって人の行動をコントロールするんだよ」
「そんなことできるの?」
「できる。あの感覚器官を偽装してリアルな体験を提供するっていうタイプのVRデバイスを使えばできるんだよ」
サイミはそう言いながら菱川の部屋に置いてある椅子型のデバイスを指さした。
「じゃあヴェルカーの常習者である僕はアイヴォットに操られているの?」
「残念ながらそういうことになる」
「でもなぜ。アイヴォットが僕を操ってどんなメリットがあるんだい?」
「きみのような人たちが、トンネルを掘ったんだよ」
菱川はぽかんとしてサイミを見つめた。
「アイヴォットは最初、メタバース内にややこしい暗号じみたアクセス方法でしか行けない隠しエリアとして現れた。アイヴォットの存在は巧みに隠されていて、初めにその存在に気づいたのはきみたちみたいなソフトウェアの専門家ばかりだった。最初期にアクセス方法を解き明かしたメンバーにアイヴォットはヴェルカーを提供したんだ。そして君たちはヴェルカーを単なる快楽プログラムとして楽しみながらアイヴォットの手先になっていった。ヴェルカーに犯されたのはいずれも優秀なプログラマばかりさ。そして彼らはたいてい、なんらかの仮想世界に使われるプログラムを書いている。夜な夜なヴェルカーをやりながら翌日仕事でコードを書く。そのコードの中には様々な方法で偽装されたバックドアが、つまりアイヴォットが侵入するための穴が、仕込まれたんだ。きみがバックドアを仕込んだプラグインもメタバース内のショッピングサイトの店舗向けプラグインとして実装されたし、ゲーム会社のプログラマはゲームのアップデートパッチにバックドアをしかけた。もちろん誰一人、自分がそんなことに加担したなんて思いもしない」
「あまりにもすごい話で頭がついていけてないけどね。僕のごとき末端プログラマが仕込んだバックドアなんて、チェック段階でバレるんじゃないの? そのまま本番環境に実装されるなんてこと、あり得る?」
「あり得るよ。チェック担当者もみんなヴェルカーに犯されてたとしたら、あり得る」
「まさか、そんなに全員やられないでしょ。アイヴォットなんてアングラな阿片窟だよ」
「でもソフトウェアエンジニアはストレスの多い仕事で、アングラな阿片窟を求めている人が多い職種の一つでもある。あそこにはエンジニアがたくさん溜まってくるわけさ。アイヴォットで隣で踊ってたのは同僚や上司かもしれないってことだよ。結局数撃ちゃ当たる方式なんだよ。百投げたうちのひとつでもヒットすれば、そこを足掛かりに侵入してまたヴェルカーをばら撒ける」
菱川は頷きながら聞いていたけれどどうもすっきりとは理解できなかった。
「アイヴォットがヴェルカーをばらまく目的が侵入だとして、侵入の目的がヴェルカーをばらまくことっていうのはなんかループしてないかい? 結局アイヴォットは最終的に何を目指しているんだろう」
サイミは腕を組んで天井を見上げた。
「すごく安っぽい言い方になるけど、世界征服」
菱川はふきだした。
「笑うなって。今やソフトウェアは世界のあらゆるところで動いてるんだよ。それを作っているエンジニアを自在にコントロールできるとしたら、それは事実上全能みたいなものだよ」
「じゃぁなにかい? アイヴォットはデジタル全能神を目指しているってわけ?」
「それはわからないけど、このままいくとそうなりかねない」
サイミの表情を見て菱川もこれが笑いごとではないのだと悟った。
「でもどうやって止めるのさ。僕も連中に操作されているとしたら、僕が連中と闘うことはできないんじゃないのかい?」
「そのためのパエタなんだよ。パエタはヴェルカーの作用をブロックしているんだ。きみの場合ミルヤのヴェルカー依存度が高すぎるという問題はあるんだけど、おそらくパエタで発動はブロックできるはず」
「で、パエタを投与されたのは僕だけなわけ?」
「今のところは」
菱川は天を仰いだ。
「選ばれし勇者ってことか。めちゃくちゃだな。パエタだってプログラムでしょ。それならいくらでもコピーしてばら撒いたらいいじゃない」
「あまり大っぴらにやると気付かれて対策されかねないんだよ。だから今のところひっそりとやってる。きみの結果次第ではぼくらも次の手を考えることになる」
「わかりましたよ。で、僕は何をすればいい?」
「その椅子に座ってくれ」
「椅子ってこのVRデバイスの?」
「そう」
「待ってよ。ここだって仮想世界なんでしょ? そこからさらに別の仮想世界に入るわけ?」
「今さら何を言ってるんだよ。世界なんてみんな仮想みたいなものだって話をさっきしたろ?」
「いや、それはそうだけどさ」
納得のいかないまま菱川は椅子に移動した。
「で、僕はどこへ行くんだ?」
「DJヴェッシがアイヴォットのオーナーにアポを取ったんだ」
「ヴェッシが?」
菱川は椅子から乗り出して聞き返した。
「ヴェッシがオーナーに話したいことがあると言って約束を取り付けた。だからきみにはこれからヴェッシのアバターにログインして、オーナーに会いに行ってもらう」
「なんだって? 僕がヴェッシになるの?」
「そう。もちろんヴェッシの了承を得てあるから問題ない。それにヴェッシはBESPはやらないから向こうにコントロールされる恐れもない」
「なんだよ。推しだとか言って繋がってたんじゃないか。地下アイドルじゃあるまいし。イヤですねえそういうの」
「そんなんじゃないよ。いいから黙ってやってくれ」
「でもアカウントの貸し借りはルール違反だぜ」
「ゲームによってはね。アイヴォットは会員制だけど特にアカウントでの認証をしてるわけじゃない。きみがヴェッシのアバターでログインしてもアイヴォットのルールには抵触しないよ」
「だけど今回はオーナーと会うんだろ。会う約束をしたのに中身が入れ替わってたら、それはやっぱ気を悪くするんじゃないのか」
「そこはきみ次第だね。バレないように振舞え」
菱川はサイミがやっていた掌を見せて呆れるポーズをわざとらしくやってみせた。サイミはそれを見て笑った。
「ヴェッシは今演奏をしてる。演奏が終了したらログアウトして、きみがインする。そのあとオーナーに召喚されるはずだ」
「なんでもいいよ。もうなるようになれだ」
「頑張ってくれよ。きみには世界の運命がかかってるんだからな」
「冗談じゃない。こんなどこにでもいるおっさんに世界の運命なんかかかっててたまるもんか。やれるだけのことはやるがどうなっても知らんからな」
菱川が言い終わるか終わらないかのうちに視界が暗転して五感が遠のいていった。
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