第7話
菱川は吐き気をもよおした。予想通りとはいえまたしてもアイヴォットだ。リリヤとしてここに入っていってまた同じようなことを繰り返すのかと思うとうんざりした。リリヤもここへ踏み込んだ以上、BESPに手を出して快感を得るのだろうか。菱川にとってリリヤは少女性愛的な愛情の対象でもあり、BESPのような快楽に身をゆだねるようなことはさせてはならなかった。しかしこれまで菱川が作り上げてきたリリヤのイメージは菱川自身のエゴを濃く反映したものに過ぎず、これまでリリヤを意図通りに操ってきたことは彼女の人権を著しく損なう行為だったのではないかとも感じられた。ミルヤが言っていたように菱川とリリヤも一部を共有しているだけだとしたら、リリヤは菱川の嗜好のためにいくつもの不自由を課せられていることになるような気がした。菱川は妙な罪悪感にさいなまれた。
ドアノブに近づくと磨かれたその表面にリリヤの顔が引き延ばされて写り込んだ。リリヤはちょうど目の高さほどにあるそのドアノブに手をかけて扉を開いた。すこしの躊躇もなく暗闇へと踏み込む。いつものように扉が閉まると同時に音楽が耳に届き、リリヤはアイヴォットのフロアに立っていた。宙に浮いた円形のステージ、壁も天井もない空間、空中に映し出される幾何学模様、心臓を駆動するようなサウンド。なにもかもがアイヴォットそのものだった。リリヤはバーカウンターへ近づき、カウンターの前にある背の高い椅子に器用によじ登った。するとカウンターの内側に光が集まって見覚えのあるフリルのついたエプロンドレスのバーテンダーが姿を現した。
「いらっしゃいませ」
バーテンダーが言うと、リリヤは「ソッケロを一つ」と注文した。菱川にとって自分であるような自分とは異なっているようなリリヤの発したその名は知らないものだった。菱川は少々戸惑ったが思ったほど大きな動揺はなかった。リリヤと自分は一部分を共有しているだけだという感覚が少しずつ実感としてわかってきていた。バーテンダーの手がカウンターに黄緑色に光るグラスを呼び出す様子をリリヤは頬杖をついて見守った。
「おまたせいたしました」と言ってバーテンダーが消えると、リリヤはグラスに手を伸ばして息を整えた。
「リリヤ、覚悟を決めるの。ここから先は別のゲーム。混乱の迷路よ」
リリヤはそんなことをつぶやいて黄緑色のグラスに満たされた液体を飲み干した。雑味のない水のような感触を得たが、それがどこから感じられたのかは曖昧だった。感覚器官を飛び越えて直接脳が感じたようにも思えた。カウンターにグラスを置くと椅子から飛び降り、リリヤはフロアを横切って人の少ない方へ移動した。ステージを振り返ると演奏は休憩時間に入っていて、事前に録音された音楽が低く流れ、光の演出もゆっくりと繰り返されるシンプルなパターンに落ち着いていた。
「リリヤ」
歩いているとすれ違いざまに耳元でリリヤの名を囁いた人がいた。リリヤは足を止めて振り返った。
「ユスティーナ」
リリヤを呼び止めたのはゲームで何度か一緒に戦ったことのあるユスティーナだった。ユスティーナは燃えるような長い髪をしたプレイヤーキャラクタで、菱川は何度か一緒にプレイしたことがあるという程度にしか知らなかった。それでもゲーム内で出会えば挨拶はするし、都合が合えば一緒に遊んだりもする仲ではあった。
「どうしてここに?」
リリヤが訊ねるとユスティーナは口元に人差し指を立てた。
「静かに。このアイヴォットは危険なの。これをなんとかする必要がある。アイヴォットは既にかなりの数の仮想世界に侵攻しているわ。ゲーム世界にまで入ってきている」
ユスティーナはリリヤの耳元で囁いた。
「うん」
リリヤも囁き声で答えた。
「わたしの知り合いがアイヴォットの裏を暴くプログラムを作ったの。それをある人に組み込んだわ。そうしたらリリヤがここへ来た」
「そのある人がわたしの中の人ってことなのね」
「そう」
菱川は驚いた。ユスティーナの話を聞く限り、その知り合いというのはサイミのことだと思われた。もっと言えばサイミの中の人のことだ。ユスティーナの中の人とサイミの中の人が繋がっていて、その人の開発したプログラムというのがパエタという形になってミルヤに与えられ、それが菱川に組み込まれた。菱川にはこの部分がよく理解できなかった。プログラムを人間に組み込むということが可能なのだろうかという疑問に答えが得られていなかったが、BESPのようなものの存在を思えば、それは技術的に不可能ではなさそうに思えた。
「それでわたしはなにをしたらいいの?」
リリヤはユスティーナに訊ねた。
「アイヴォットの黒幕を探し出して事態を食い止める」
「そんなこと、わたしにできるのかな」
「リリヤ一人でやるわけじゃないのよ。いくつかの世界にまたがって存在しているあなたたちでアイヴォットの侵攻を止めて」
「もうけっこういろんな世界がアイヴォットで繋がってるみたいだけどね」
リリヤの言葉にユスティーナは深く頷いた。
「なにもかも繋げたい人と、それぞれが閉じていてほしい人がいるのよ」
「繋がるってことは良いことばかりでもないんだけどね」
「そう。でも繋がることを重んじる人にはそれがわからないのよ」
リリヤは頷いた。
「それにアイヴォットは裏口を繋ごうとしてるところにも問題がある」
「だから止める必要がある」
「うん。行ってくるよ」
リリヤはユスティーナの耳元に囁いて身体を離した。
ステージを中心になんとなく同心円上に分布している人々の間を抜けて歩き続けるとやがて人のいない部分にたどり着いた。不思議なことに音と光は距離に関係なく届いていて、ステージのすぐそばでもこれほど離れてもまったく同じように感じられた。リリヤは飛び交う幾何学模様の間を抜けながらなにかを探すように歩いた。菱川はなにを探しているのかわからないまま自分もそのなにかを探している感覚だけを共有していた。リリヤは何度か向きを変えながら闇の中を進んだ。やがて飛び交う幾何学模様の一瞬の輝きの間になにかを見留めて、リリヤはそこに向かって手を伸ばした。リリヤの手が円筒形のなにかをつかむ。ドアノブだ。
菱川の意識がリリヤと重なり、菱川は自分とリリヤが手を重ねるようにしてドアノブをひねるのを感じた。ひねった瞬間に音と光がやみ、辺りは闇に包まれた。そのまま扉を押すと扉の隙間から光が差し込み、まぶしさに目がくらんだ。菱川は扉の隙間からあふれ出る光の中へと踏み出した。
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