第6話

 次第に音楽が大きくなり、低音のビートが自分の鼓動とシンクロして感じられた。耳が脈打っているような感覚があり、菱川は脳が肉体から離れていくような快感を覚えた。

「どう? BESPは作用した?」

 ミルヤが菱川の顔を覗き込みながら言った。

「ああ。理屈が通らないけれど、どういうわけか効いているみたいだ」

 ミルヤは菱川の顔の前に両手を掲げて、指先でゆっくりと空中に線を描くように動かした。菱川は半分無意識にその指先を目で追いかけた。右手と左手が複雑に交差しながらそれぞれの指先が曲線を描く。ミルヤの指先から光の粒が放たれ、指の描いた軌跡を残像のように残しながら散った。それを目で追っていると菱川は脳の表面をミルヤの指で撫でられているような気がした。それはほとんど性的とも言える快感を菱川にもたらした。

「人が知覚する世界はみんな現実だし、それを認めないのなら逆に現実なんてものは存在しない。ようやく人はそれに気付けるところまで進歩してきたというわけ」

 ミルヤの言葉が耳に届いたけれど、それは菱川の中で意味を成さなかった。なんらかの心地よさに支配され、自分がこの心地よさを感じているということだけが確かであればそれでいいという気がした。

「そうか。これが新しい体験なのか。あのなんとかいう新開発のBESPの効果なんだな。サイミめ、やってくれる」

 菱川は遠のいていく意識の中でなんらかの納得に至ったが、もはやそんな疑問など些細なことのように感じながら微睡みの底へ沈んで行った。


 

 目を覚ますと質素な木のベッドの上だった。上体を起こして身体を見ると、身体は五頭身程度しかなかった。寝間着の胸元を引っ張ってにおいを嗅いだが、体臭は感じられなかった。ベッドの上でくるりと回転して床に降り立ち、ぎこちない足取りで部屋を横切って姿見の前に行った。フリルのついたネグリジェを着た五頭身のかわいらしい姿が写っていた。

「おはよう、リリヤ」

 リリヤは鏡の自分に向かって挨拶をした。部屋の隅にあるワードローブへ行き、着ているものを脱いで装備を整えた。魔物と闘うための装備だ。リリヤの意識の底の方で菱川達也はこれまで感じたことのない感覚に襲われていた。リリヤは菱川が楽しんでいるファンタジーゲームのキャラクタだ。菱川はデバイスを使ってリリヤを操作し、このゲーム世界で平和を守るために戦い、共に戦う仲間たちとの交流を楽しんでいた。それが今、デバイスの存在はまったく感じられず、自分がリリヤの中にいるように感じられた。


 リリヤは不器用な動きで着替えて再び姿見の前へ移動した。リリヤの動きがぎこちないのは、その方がかわいいからという理由による味付けだった。鏡に映った姿を眺める。その愛らしい姿に菱川は親しみを感じた。このゲーム世界で菱川は自分の分身として、自分がなりたい姿ではなく、自分が愛でたい姿でいることを選んだ。リリヤというキャラクタは自分自身ではなく自分の愛着を向ける対象であり、そこに生じるのは自己愛と他者愛の入り混じった感情だった。それが今、自分がリリヤの身体に宿っているような感覚でありながらリリヤはほとんど他人のように感じられ、自分はリリヤの身体を間借りしているようだった。


 リリヤは部屋を出ると居住区を抜け、町へと繰り出した。町には多くのプレイヤーキャラクタが溢れ、思い思いの活動をしている。リリヤは町の賑わいを抜け、裏路地へと入っていった。菱川はそのリリヤの移動が菱川の判断によるものなのか、リリヤの意思に沿っているのかわからなかった。普段は視野の中にユーザーインターフェースが表示されていてゲーム内の様々なメニューを実行できるのだが、今はリリヤの視界はリリヤのもので、そこにインターフェースのようなものは存在しなかった。菱川はもはやリリヤをどのように制御すればいいのかわからないままリリヤの身体に運ばれているような状態にあった。


 リリヤが裏路地を進んでいくとこの世界にまったく似つかわしくない円筒形のポストと「たばこ」の看板が現れた。菱川はほとんど驚きを感じなかった。リリヤが裏路地に入ったあたりでこういう展開を予想していたような気がした。同時に、それを予想していた自分に少し恐怖を感じた。リリヤは少しの戸惑いも見せずに路地を折れながら進んだ。二つほど曲がり角を曲がった先で視界の隅に鍼灸院の広告が表示された。魔法でモンスターと闘う世界と鍼灸院はあまりにもかけ離れていて、まったく違う絵柄のジグソーパズルを無理やりつないだみたいな気持ち悪さがあった。リリヤは表示された地図を確認してさらに進んだ。石畳の路地の先に忽然と姿を現した木造二階建ての古いアパートは、時空を超えてそこにやってきた異物として異常な存在感を放っていた。木造アパートの扉はリリヤの身長の二倍ほども高さがあり、リリヤの視線はちょうどドアノブのあたりだった。リリヤは扉の横に貼り付いているブリキの郵便受けを見上げた。ミルヤや菱川が見下ろした郵便受けもリリヤから見ると見上げる高さだった。リリヤは背伸びをしながら右手の指で刻まれた文字をなぞった。


aivotアイヴォット

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