バーの特別焼きうどん

山いい奈

バーの特別焼きうどん

 「バー マルハル」は、昭和の風情が残るウイスキーバーだ。紗江李さえりの行きつけで、ジャック・ダニエルのボトルキープまでしている。もちろんショットでも同じものがいただける。


 カウンタだけの奥に細長い店で、使い込まれた木製のカウンタはすっかりとあめ色に染まり、壁を飾る木材も同様だった。だがそれが緩やかに落とされた照明と相まって、シックな風情を醸し出していた。


 古いと言ってしまえばそうなのだが、掃除は綺麗にされていて、会話を邪魔しない音量でゆったりとしたジャズが流れるこの空間は、紗江李にとってとても落ち着くのだった。


 マスターさんによると、25歳の紗江李が産まれる前からあるバーだということで、この年季も頷ける。


「紗江李さん、いらっしゃい」


 初老の品の良いマスターさんに微笑みで迎えられ、紗江李は「こんばんは」と応えながらカウンタに着く。


 店内の混み合いは程よく、お客どうしが1席ずつ空けながら掛けている。ほとんどがおひとりさまで、1組だけカップルがいた。


 このバーは住宅が多い街の駅前にあって、お客のほとんどが地元にお住まいのご常連だった。なのでほぼ皆さん顔見知りだ。この店でお付き合いが発展して結婚されたご夫婦もいるほどだ。


 紗江李の両隣のお客も顔見知りである。「こんばんは」と声を掛け合いながら、紗江李はぺこりと頭を下げた。


 紗江李にはこの「マルハル」でのルーチンがある。紗江李は出されたおしぼりで手を拭きながら、マスターさんに注文をした。


「マスターさん、まずはお冷をお願いします」


「はい。お待ちください」


 ほどなくして、紗江李の前にコルクコースターと、なみなみと氷水が入れられたタンブラーが置かれる。


「お待たせしました」


「ありがとうございます」


 紗江李はさっそくグラスを手にすると、中身を一気に流し込んだ。きんと冷えた水が染み渡り、のどを潤しながら身体を冷やして行く。


「ふぅ」


 グラスをコースターに置き、紗江李は息を吐く。


 今はうららかな春で、外気もだいぶん暖かいものに変わって来た。だが紗江李は真冬でもまずはお冷だ。目的は水分補給である。


 水分が足りていない状態でアルコールを入れるのは身体によろしく無い。早くに回ってしまい、ゆっくり楽しめなくなってしまうのだ。


 意識高い系のうるわしいお嬢さんなどは、こういう時はきっとお白湯さゆを飲む。だが熱いお白湯をふぅふぅ冷ましながら飲むなんでまだるっこしい。手っ取り早く一気飲みできるお冷を、紗江李は好んだ。


 一息着いたらお次は。


「マスターさん、ハイボールと焼きうどんをお願いします。お醤油で」


「はい。お待ちくださいね」


 マスターさんが背後を振り返り、壁一面に設えられた棚から紗江李のジャック・ダニエルを取り出す。続けて少し腰を屈め、カウンタの下から氷が詰められたタンブラーと炭酸水の瓶を出した。


 タンブラーにジャック・ダニエルを注ぎ、炭酸水を静かに注ぎ入れる。マドラーでステアして、氷だけになったグラスと取り替えてくれた。


「お待たせしました」


「ありがとうございます」


 次にマスターさんはカウンタをぐるりと見渡して、小さく頷くと奥の厨房に消えて行った。


 このバーはマスターさんがひとりで切り盛りしている。ご常連が飲まれているタンブラーの中身が少なくなれば、常に店内に気を配るマスターさんがお代わりを聞いてくれる。欲しいと返事をしたらマスターさんが作ってくれるのだ。


 マスターさんが見回したのは、今おられるお客のタンブラーだ。少なくなっているものは無いか。あれば厨房にこもる前にお代わりを作って行く。今は大丈夫だったのだろう。


 とは言えマスターさんが手ずから作ることに固執しているわけでは無い。マスターさんがカウンタにいない間に無くなれば、お客が勝手にお代わりを作って飲んでいる。


 このバーではウイスキーを水割りでゆっくり嗜むご常連が多く、それぞれのお客の前にはロックアイスが入ったアイスペールと、ミネラルウォーターの瓶が置かれている。


 中にはお湯割りを好まれるお客もおられ、その場合は保温できるポットが置かれる。ロックがお好みならアイスペースのみだ。


 紗江李はこの「マルハル」に来るのは、毎週金曜日と決めている。


 紗江李の会社は週末に業務が集中することが多い。


 月曜日から木曜日はほぼ残業も発生しないので、帰宅して簡単なものを作ったり、お惣菜に頼ったりするが、金曜日は激務になって残業をする羽目になり、体力と気力がごっそりと奪われるのだ。


 紗江李が今日「マルハル」のドアを開けたのも、21時を回っていた。


 だから紗江李はこの「マルハル」で唯一の食事メニューである焼きうどんをいただき、そのあとはゆっくりとお酒を楽しむのだ。


 紗江李はジャック・ダニエルのハイボールをちびりと傾ける。しゅわしゅわと爽やかな飲み心地。その中にジャック・ダニエルの濃厚な癖が調和している。ついにんまりと口角を上げてしまった。


 そうして紗江李はボトルに着けたくまのぬいぐるみチャームをいじる。


 最初にボトルキープをした時には、白インクのマジックでボトルに名前を書いたのだが、それだけだと棚に置いた時に分かりにくい。


 なにせ何10本、いや、100本以上のボトルがあるのだ。何か特徴があると良いと他のご常連に教えてもらい、駅前の雑貨屋さんで見繕みつくろって来た。


 それをボトルの首に結わえると、一目で紗江李のボトルと分かる様になった。


 それから何本もボトルを入れ替え、名前も書いて来たが、くまチャームは引き継いで来た。


 やがてマスターさんが奥から白いお皿を片手に戻って来た。そのお皿が紗江李の前に割り箸とともにそっと置かれる。


「焼きうどん醤油味、お待たせしました」


「ありがとうございます」


 ふぅわりと上がる湯気が、お醤油の香ばしさを鼻腔に連れて来て、たっぷりと乗せた削り節を踊らせる。ぱらりと振られた青のりが鮮やかだ。


 紗江李はさっそく割り箸を割る。


「いただきます」


 手を合わせ、まずはベジファーストだと、ざく切りにされたきゃべつと短冊切りの人参を重ねて口に入れた。


 しんなりとしゃきしゃきの間。しっかりと火が通っているのに歯ごたえは損なわれず、きゃべつと人参の甘みがしっかりと感じられる。


 「マルハル」の焼きうどんは、お醤油味とソース味を選ぶことができる。紗江李はその日の気分で決めていて、今日はお醤油の気分だったのだ。


 お醤油味ではあるのだが、隠し味になっているウスターソースとケチャップの複雑さが感じられる。あっさりとしたお醤油にうまく紛れているのだ。


 それがコクにもなっていて、深みを生み出している。


 削り節も味のひとつになっていて、豊かな旨味が感じられた。


 うどんにもしっかりと味が回っていて、つるりと口に運ぶと、うどんの持つ小麦の甘みと合わさって、良い味わいだ。こしもしっかりあって、噛みごたえだって充分だ。


 他の具は一口大の豚ばら肉と輪切りにしたちくわ、太い千切りのピーマンにざく切りの万能ねぎと具沢山だ。豚ばら肉やちくわからも味が出ているのだろう。やわらかな旨味が口に馴染む。


 いろいろな具のおかげで、食べるたびに味が変わるので楽しい。


 ハイボールを挟みつつ、紗江李は黙々と焼きうどんを食べ進めて行く。


 自分で家で同じ材料で作っても、どうしてもこの味にならない。調味料のブランドなどの違いもあるのだろうが、やはりこうしたお店で、「マルハル」で食べているという特別感が、味をさらに引き上げているのだろう。


 壁に貼られているフードメニューには「焼きうどん(醤油かソース)」と書かれているだけなのだが、紗江李はこっそりと「バーの特別焼きうどん」と呼んでいる。


 お皿を綺麗に空にし、ハイボールをぐいと飲み干す。からんと氷がぶつかる音を立てながらグラスを置いて、紗江李は「ごちそうさまでした」と手を合わせた。


「ふぅ」


 満足げな息を吐く。乾いた喉を冷水で癒し、しゅわっと清涼感のあるハイボールを飲みながら、美味なるお醤油焼きうどんで程よくお腹を満たす。


 最高だ。至福のひとときだ。紗江李はついついお腹をさすってしまった。


「マスターさん、水割りのセットお願いします」


「はい。かしこまりました」


 マスターさんが空のお皿とタンブラーを引き上げ、新しいタンブラーと氷が満たされたアイスペール、ミネラルウォーターの瓶を手早く用意してくれる。


 続けてそっと出してくれるのは、いわゆるお通しだ。小振りなお皿にクラッカーとチーズ、サラミが盛り付けられている。シンプルながらも洋酒に合う一品だ。


 本来なら来店してすぐに出されるものなのだが、紗江李のルーチンを心得ているマスターさんは、紗江李が焼きうどんを頼むと、食べ終えてお酒のターンに入る時に出してくれるのだ。


 マスターさんが滑らかな手付きで水割りを作ってくれる。マスターさんが作ると濃いめの水割りになる。だがそれが水割りウイスキーを美味しく味わえるのだと、マスターさんは言う。


 透明感のある淡い琥珀色に染まったタンブラーを「どうぞ」とコースターに置いてくれた。


 「マルハル」で使用する氷は氷屋さんから仕入れていて、透明度が高い。不純物が少ないのだ。それで作る水割りやロックは最大限にウイスキーが味わえる。少なくとも紗江李が知る中では、最上のウイスキーが飲めるのが「マルハル」なのだ。


「ありがとうございます」


 そっと口を付け、その癖のある美味しさにも紗江李は唸ったのだった。

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