父の仇を討て

虎山八狐

昭和54年7月→寿観29年7月11日

 蝉時雨の中、剣道道場で鵜塚うづか宗助そうすけは横たわっていた。

 師範の三ツ矢みつやのぞむが呆れているのも構わず、十二歳の少年は防具を着こんだまま大の字になっていた。

 昭和五十四年七月の茹だるような暑さよりも熱い息が面の隙間から声と共に飛び出す。

「勝てん!」

 彼の傍らに腰を下ろして蛇蔵へびくら高忍たかのぶは肯いた。団扇で宗助を扇いで宥める。

優作ゆうさくに勝てる人なんかおらへんよう」

 高忍は目だけを動かして、猪沢いのさわ優作を見た。

 優作はきっちりと正座して小手を外した手で面を解いていている。

 二歳年上の宗助どころか、五歳上の高忍さえ易々と倒してしまう癖に、おごりは見せなかった。

 優作自身は剣道の腕よりも、桜刃組の若頭の息子であることや桜刃組の構成員の子どもである幼馴染達の中で最少年であることの方が重要だった。その考えから最も下座に座っていた。

 高忍は優作の拗れた心の裡を想像し、溜息を零す。視線を宗助に向ける。

「優作以外には勝つこともあるやんかあ。それでええやないのう」

 宗助は落ち着くどころか、短い手足をばたつかせた。道着や袴が床を磨く。

「コーニンさんが女々しいんじゃ! 男やったら勝たな気が済まんのじゃ!」

 高忍は唇を一度尖らせて、団扇を宗助の動きに負けじと激しく動かした。

「でも無理なものは無理やよう。諦めも肝心やよう」

「もっと熱くなれや!」

「なってるう。暑くてたまらんわあ。なあ帰りにアイス食べようやあ」

「食べる!」

 宗助は飛び起きた。

 高忍が細い目を更に細めて彼を見上げる。

 宗助は高忍ではなく、彼の左に置いてある竹刀に目を奪われた。

 大きい目を見開く宗助に高忍は笑みを崩した。宗助は鼻息荒く閃きを口にする。

「二刀流や!」

「いやあ、やったことないやんかあ」

「儂、器用じゃけん、いけるて!」

「いけんてえ」

 高忍が顔を顰めて自分の竹刀を手に取ろうとするが、宗助は飛び込んで奪った。

 宗助は自分の竹刀を右手に、高忍の竹刀を左手に掲げて振り回す。

「いける! いけるで!」

「いけんてえっ! ほらあ言うやろおう」

「何じゃ!」

 高忍が団扇で顔を覆う。

「……いっぽんでもにんじんー」

「思い浮かばんのに言うなや!」

「正論やねえ」

 高信ががくりと頭を落とす。ハーフアップにした三つ編みが揺れた。

 宗助は爽快な笑い声を上げ、竹刀二本を振り回しながら駆け出す。

「優作! 防具付け直せや!」

 優作が目を丸くし、膝の前に置いていた面を慌てて掴んだ。


「ということもやったが結局一度も勝てなかったらしいですね。三十四年経った今でも悔しいらしく、息子の俺に仇討ちを頼んできました。手合わせをお願いします」

 寿観二十九年七月十一日、桜刃組の事務所でたちばな清美きよみは優作――現在の桜刃組の若頭であり上司にあたる男に告げた。

 優作は眉を八の字に曲げ、唇で弧を描いた。麦茶の入ったグラスを両手で握り、対面で座る清美に柔らかな声で応える。

「宗助に従わなくても良いんじゃないかなあ」

 いえ、と清美は声を張り上げた。

「少年時代に宗助にしごかれ、最近同じ道場を通い出した身としては是非ともやらせていただきたいです。焔先生からも優作さんの強さは聞いたことがありますし」

 優作は天井を仰いだ。

 三ツ矢焔――望の息子であり道場を継いだ男を思い浮かべる。優作が道場に通わなくなってもう二十五年になる。今年二十五歳の彼は優作の剣道を直接見たことが無い。それでよく言ったものだと、呆れと恥ずかしさを覚えた。

 優作は麦茶で喉を潤し、目の前のローテーブルにグラスを置いた。自由になった両手を膝の上でそろえ、既に良い姿勢を更に正す。

「僕の剣道の腕がそこそこあったことは事実だ。でも、それは青少年だった頃の話だよ。この老体では無理だよ」

「まだ四十八歳じゃないですか。いけますよ!」

 頑固な清美の姿に宗助の姿が重なった。しかし、同時に優作は分かっていた。清美は宗助よりかは柔軟だ。言葉を重ねれば諦めてくれるだろう。

「君が剣道をしているのは、暴力沙汰、いわば実戦に備えてのことだろう」

 清美が小気味よい返事と共に肯いた。煙草色の地毛と左半分だけ雄黄色に抜いた前髪が揺れる。

 優作は慎重に言葉を選ぶ。

「もっと噛み砕いて言うと、日本刀で人を倒す為ということになるよね」

「なりますね」

「僕は日本刀も使うけれど、それほど倒した数は多くないんだ」

 清美は首を傾げたが、すぐに戻した。

「それほど暴力沙汰に参加してないってことですよね」

「いや結構参加しているよ。八年前……在君が三代目組長になったばかりの頃なんか特に酷くてね。毎日参加していたようなものだよ」

 清美の隣でかき氷を食べていた三ツ矢かなで――焔の従弟で桜刃組の組員――はぼんやりと考える。

 ――暴力沙汰に参加って変な言い方。

 しかし口にすることは無く、丼に入ったかき氷を頬張った。苺シロップの甘さと氷の冷たさが奏を満たす。

 優作は渋い顔で言葉を続ける。

「勿論その時に刀は使った。でも、刀よりもしっくり来て戦歴を上げたものがある」

「何ですか」

 清美も負けじと渋い顔をするが、優作はますます渋さを増した。

「車だね」

「車」

「運転が得意でね。二代目組長の時代は運転手と化していた程なんだ」

「ほ、ほほう」

「沢山の人を轢いたよ。武器としては車が正直一番使い勝手がいいね。今でも毎日運転するし、技術をたゆまず磨いているようなものだよ」

 優作は自分で言いながら頓珍漢だと思った。清美も同じ思いらしく口角が痙攣していた。

 自然と沈黙が生じそうになったが、奏が許さなかった。

「では清美さんを轢きましょう」

 優作と清美が唖然とした顔を奏に向ける。奏は清美の年下の先輩として飄々と話を続ける。

「清美さんは実戦を積むべきです。是非父が成しえなかった二刀流で仇を討って下さい」

 清美が唇を一度V字に曲げて震える声で応えた。

「一本でやらせて下さい」

 驚く優作を他所に奏は鋭い声で話を進める。

「二刀流でしょう。宗助さんより器用な清美さんならできる筈です。宗助さんの悲願を叶えて下さい。あと奏に敬語を使わないで下さい」

「したことのない、する気もない二刀流なぞしません。実戦を積むという点で考えたら、刀一本でやる方が断然良いでしょう」

「やってみないと分かりませんよ。案外二刀流の方が向いていたと気付くかもしれません。敬語を止めて下さい」

 清美はがくんと激しく俯いた。それから、じりじりと顔を上げる。父親譲りの大きな三白眼は奏を睨みつけていた。

「二刀流で轢かれたら、かなちゃん先輩は敬語を止めさせることを止めてくれますか?」

「止めません。敬語は止めて下さい」

「じゃあ止めません。一本で轢かれることも敬語を止めることも止めませんよ」

 ばちばちと火花が散りそうな程に睨み合う二人に優作は声をかける。

「車に轢かれる気満々の清美君にひいているから、これでよしとしないか」

 二人は優作を見た。

 清美は笑みを咲かせた。

「そんな平和主義な優作さんに俺はひかれてます。勝負ありましたね。父子共々負けました」

 清美がかんらかんらと笑い声をあげる。優作も合わせて笑う。

 奏は不満げに言葉を紡ぐ。

「そんなこと、許されませんよ」

 清美は食い気味に優作に話した。

「いやあ、優作さんには敵いませんねえ」

 清美がそう言うと、優作は更に笑い声を大きくした。清美が更に大きな声で笑う。

 奏は唇を尖らせ、頬を膨らます。話を続けようとしたが、丼の中のかき氷がゆるりと動くのを見てしまった。仕方なく大袈裟な溜息を吐き、溶けつつあるかき氷を掻き込んだ。

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