第3話 その手を取って

 雨は未だ止まぬ。

 時折、遠雷の音が雨音に混じり、稲妻が閃く。その光に、隣で眠る少女の頑是ない寝顔が映し出される。

 万一に備え一緒にいてやることにしたが、彼女はすぐに眠りに落ちた。男はと言えばすっかり目が冴えてしまっていた。

 もう聞き慣れた音に何とはなしに耳を傾けていると、つい先程のことが思い出される。

 久し振りに人が作ったものを食った。質素な食事ではあったが、旨かった。

(温かかった、あの飯は──そこに込められた思いも)

 もう暫く人から貰っていなかった。向けられる笑顔も、優しさも。

(これで、良いのか)

 無性にやるせない気分になった。

 雨が止めばここを去る。そうすれば、この子供はまた独りになるだろう。

 男は傭兵である。己の身を養うには、戦うしかない。そして子供を戦場へは連れて行けない。置いて行くしかない。

(どうした、俺は)

 青白く照らし出されるやつれた横顔に懊悩が影を落とす。

 振るう刃に迷いが生まれぬように、情けを捨てた。人を狩って生きるために、人を捨てた。男の心は決して溶けぬ氷と化した。しかし今、そこに微かな亀裂が走っている。

 普段ならば、今までならば、馬鹿馬鹿しいと言って振り払えた。らしくもない、温いと一蹴できた。だが今回だけは、どうしてもそうきっぱりと切り捨てることができぬ。

(どんなに不幸な人間にも同情の念など欠片も湧かなかった俺が、か)

 揺らぐ心を嘲った。今更だ。振り返り、捨てた世界を幾ら恋おうと、戻れぬことは知っている。歩むのは決して後戻りのできぬ血染めの道、この手が生み出せるのは死と不幸。

(俺に何ができる。人を殺すことでしか生きられぬ俺に)

 堂々巡りであった。やはり見捨てるしか道はないようである。

(悪いが──)

 微かな声が聞こえた。

 反射的に身構えるが、子供の寝言だと思い直す。身体に染み付いた反応に半ば苦笑しつつ、 何か夢でも見ているのだろうか、と少女を見やる。雷光にぱっと浮かび上がった少女の、閉じられた瞼の辺りで何かが確かに煌めいた。

「……さん……お母さん……お姉、ちゃん……」

 震え、掠れた声。弱々しい呟きに応える者はいない。

 男は傍らで蹲る少女を食い入るように見つめた。

 詳しいことは知らぬ。家族を喪ったことだけは、分かる。手に握るペンダントは、母親か誰かの形見だろう。

 孤児の割には良く笑う、性根の明るい子供だと思っていた。だが本当は寂しくて堪らなかったのではないか。無理にでも笑っていなければ、耐えられないのではあるまいか。

(だからあのとき、俺に)

 当たり前だ。どれだけ気丈に振る舞おうと、まだ幼い子供なのだから。孤独を抱え、毎晩一人で泣いていたのだろう。悪夢にうなされ、悲嘆に暮れながら。

(見逃して、良いのか)

 歯軋りして必死に考えを巡らせる。

(何かないか。この子を助ける方法が、何か──)

 荒れ狂う雷雨は男の胸中にも似て、夜は更けてゆく。


♢


 翌朝。

「おはようございます……わぁ、晴れましたね」

 少女が眠そうな目を擦りながら見た窓の外は、長く降り続いた雨が嘘のようだった。木々の間から覗く空は青く澄んでいた。

 男は応えない。少ししかない荷物をまとめ、立ち上がって大剣を背負う。

「あの……もう行っちゃうんですか?」

 流れる沈黙を破って、彼女は珍しくおどおどした口調で訊いた。一人で取り残される不安がはっきりと現れていた。

「お前、家族は」

 支度を整える手を止めることなく、少女の問いかけもまるきり無視して逆に尋ねる。唐突な問いに彼女は目を瞬かせた。

「……いません」

「親戚は」

「いるかもしれないですけど……知らないです」

「行くあては」

「ないです」

 男の率直すぎる言葉と、それに答える自分の言葉が傷を抉ったのだろうか、彼女は俯いた。

 しかし男は少女に感傷に浸る暇も与えぬ。

「荷物があるなら持て。行くぞ」

 彼は既に部屋を出かけている。その広い背に、少女は慌てて問いかける。

「どこに、ですか」

 肩越しに男が振り返った。相変わらず無愛想な顔つきのまま口を開く。

「お前の居場所だ」

 眩い旭光の差し込む瞳は、確乎たる意志を宿し、強い輝きを放っていた。目の下の隈が多少濃くなってはいるが、表情は心做しか晴れている。

 軋む扉を押し開け二人が足を踏み出すのは、きっと新しい世界だろう。


 ──もう俺の手は大分血に汚れてしまった。この子供に触れるには相応しくないかもしれないが、少しでも彼女が清らかなままで、健やかに育てるように盾となることは許されるのではなかろうか。

 今までの俺には守るものなど何もなかった。生きる意味も、なかった。だが、この子供がそれを与えてくれるのかもしれない。

 昨日の俺は今日の俺を笑うだろう。しかし人は変わる。

 俺も同じだ。孤独だった。


「あの……これからどうするんですか」

「俺の行きつけの酒場がある。そこの女将にお前を預ける。……その間に俺は職を探してくる」

「傭兵さん……傭兵辞めるんですか?」

 少女のおかしな訊き方に、そう言えば名前すらも言っていなかったな、と半ば呆れて微かに笑う。

「人殺しに養われたくないだろう」

「それは……でも、本当に、わたしの面倒を見てくれるんですか?」

「とりあえず、お前が大人になるまではな」

 素っ気ないが、その言葉は力強い。少女は、それは嬉しそうに笑った。

「ありがとうございます。よかった、傭兵さんに会えて……あ、違う。あの、お名前は?」

「ルイン。お前は」

「サーシャ。よろしくお願いします」

「ああ」

 しっかりと握り返してくる小さな手の確かな温もりを感じながら、少女の手を引いて歩く彼の横顔は、昨日とは違う信念に引き締まっている。

 凍りついた心に小さな炎が灯った。その氷は青空を映し、暖かな光の揺らめきに美しく煌めいた。

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雨宿り 戦ノ白夜 @Ikusano-Byakuya

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