第2話 孤独な二人
若干弱まったものの、依然として雨は止まぬ。
小屋の中は余計薄暗く、湿っぽくて陰鬱に沈んでいる。如何に外よりはましであっても、とても快適とは言い難い。当然のことながら天井から水が滴っては腐った床へと染み込んでゆく。
ぽたり、ぽたりと落ちる雫を横目に、男は雨水の被害を受けない場所へ腰を下ろした。
(……うるせぇな、何してやがる)
先程まで辺りに満ちていたのは沈黙にも似た静かな雨音と、雨漏りの音だけだった。が、何やら物音がし始めた。子供のいる部屋からだ。何をしているのか知らないが、疲れた彼にはその音が少々気に障る。訝しく思いながらも様子を見に行くことはせず、壁にもたれかかって足を投げ出した。
疲れていた。それに、昔から人とは必要以上に関わらない質だった。今も赤の他人に金で雇われるだけで、仕事さえ終われば何の繋がりもなくなる希薄な関係しか築くことはない。傭兵稼業は所詮、金である。
雇い主にせよ、同職にせよ、昨日まで一緒に飯を食い、語らっていた人間が次ぐ日には殺すべき敵になっていることもある。仲間や人情は却って邪魔だった。男が選んだのは、そういう道だった。
──今までに一体何人殺したろう。そしていつ、誰に殺されるのだろう。
分かるはずもないことをぼんやりと考えながら、彼は目を閉じた。
「騎士さまー」
突然の、元気の良い声に彼の安寧は破られた。見れば、あの子供が扉から顔を覗かせていた。
「騎士さまぁー」
応えのない男を少女は再び呼んだ。
(騎士だと? 笑わせるな)
嘲りを通り越し、あからさまな嫌悪の色が男の顔に滲む。
――煌びやかな甲冑も馬も、奴らが『誇り』と呼ぶ馬鹿げた信念もない。第一、人の苦労も知らぬ貴族共に命をくれてやる気などない。ただ、自分が生きる金を稼ぐために人を殺すだけだ。
「俺の何処が騎士だ。只の傭兵だ」
口の端を歪めて苦々しく吐き捨てる。傭兵という職業を好んではいないが、かと言って騎士になりたいとも思わない。屈折した劣等感と
「じゃあ、傭兵さん」
しかし彼女は彼の、卑下と自己嫌悪の混じった自嘲を気にする風もなく明るく言い直した。
「あっちの部屋、掃除したからどうぞ。雨漏りも少ないから」
先程までばたばたしていたのはそのせいか、と合点が行った。そういえばあのとき箒を持っていた気がしなくもない。
変な奴だと、思った。見ず知らずの殺し屋に部屋を設えるとは、余程親切なのか、或いは子供なりの保身のつもりなのか──。
そう思いながらも、口には出さず立ち上がる。男にとって少女の思惑はこの際どうでもよく、折角彼女が用意してくれたより快適な休息の機会を無駄にする気はなかった。
男が移った部屋はなるほど腐食も酷くなく、厚い埃に覆われていたはずの床も綺麗に拭き上げられていた。
(ご丁寧なことだ)
少女を閉め出し、彼は再び腰を下ろす。
この雨が止んだらあの子供はどうするのだろうな、とふと思った。あてがあるのか、もう天涯孤独なのか。
今の世は幼い子供が一人で生きていけるほど易しくない。誰もが己の命の為に修羅となり、他人を蹴落とし、憎み合い、殺し合う今日。誰も他人に、まして手のかかる子供になど構ってはいられないのだ。
あの少女も絶望に打ちひしがれながら人知れず朽ち果ててゆくのか、はたまた奴隷にされてぼろ切れのようになって死ぬか──と思うと妙に暗澹たる思いが彼の胸の内を占めた。
(流石に俺でも、それが正しいとは思わない。だが──)
夥しい数の人命を奪い、その血の犠牲によって今を生きている彼は、決して残虐非道な男ではない。時代が心を凍てつかせ、彼を変えてしまったのだ。世の不条理は運命という一言で片付ける他なく、たった一人の人間が抗ったところで到底変えられるものではない、という諦念が僅かな良心の呵責を捻り潰してしまうのだった。それに彼も不条理の片棒を担いでいる。人を殺せば、寡婦が生まれ、孤児が生まれる。今更人一人助けたところで、過去の悪業は消えぬ。単なる偽善にしかならぬ。
見返りのない善行を行って自己満足に浸っていられるほど彼に余裕はなく、暇もなく、優しさもなかった。彼女がどうなろうが俺には関係のないことだ、と割り切ってしまっていた。
(人は俺を薄情者、非道の輩と誹るだろうか)
この世では生半可な優しさこそが仇になると男は知っていた。故に、見捨てるしか選択肢はない。
それを知ったらあの気丈そうな子供はどんな顔をするかな、と気付けば柄にもないことを考えていた。
「入っていいですか?」
軽やかなノックの音と共に、またあの声がした。今度は何の用だ、と悪態をつきながら重い腰を上げ、扉を開ける。
「わ。……あの、ご飯食べませんか?」
「飯だと?」
二人は互いに目を瞬かせた。
思わず聞き返してしまった。ろくな道具も食料もなしに、まともな料理ができるとは到底思えなかったのである。
「あ、いえ、そんなに大したものではないですけど」
少女は慌てて手を大きく振る。しかし漂ってくる匂いは、忘れかけていた空腹を男に思い出させるには十分だった。
「だがお前、貴重な食料だろう。次にいつ得られるか分からんぞ。一日や二日食わずとも死ぬことはない、それに俺も多少の食い物は持っている。自分で食え」
例え幼い子供であろうと、借りは借りだ。そんなものは作りたくなかった。加えて、彼にとっては飢えなど特段珍しくはない。既に慣れていた。
「でも」
少女は尚も食い下がった。ただでさえ取っ付き難い面構えのこの男に突っ撥ねられれば大抵の者は気圧されて引くのだが。
「お腹空いてませんか。食べ物は森ですぐ手に入りますから。……それに、たまには私も誰かと一緒にご飯が食べたくて」
何気ない風を装って付け加えられた最後の一言。
返答に詰まった。
それは少女の切実な願いだったに違いない。彼女の顔は穏やかな笑みを湛えてこそいたが、その中に、触れたら壊れてしまいそうな脆さ、弱さと、どうしようもない孤独故の哀しみがはっきりと透けて見えた。
(そうだ。この子供は、ずっと──)
「……なら、貰おう」
不器用な彼に気の利いた言葉がかけられようはずもなく、そう答えるしか、為せることはなかった。
「本当ですか? じゃあもう少しだけ待ってくださいね!」
少女は彼の返答を聞き、目を輝かせてくるりと踵を返した。しかしその様を見ても心は晴れず、冷たい風が吹き抜けて鈍い痛みを残していった気がした。
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