雨宿り

戦ノ白夜

第1話 廃屋に宿る者

 曇天を振り仰いだ顔に、ぽつり、と一滴。

 その雫をさきがけとして、次々と落ちてくる雨粒が地面と深緑の葉とを叩き、単調だが騒々しい音楽を奏で始めた。瞬く間に雨足は強まり、ひとり流離う傭兵の身をしとどに濡らす。

「……ったく」

 半ば擦り切れた、埃まみれの外套が色を変えてゆく。男の舌打ちなど意にも介さず、頭上に茫漠と広がる偉大な天は、容赦なく彼を土砂降りの雨で打ち据える。

(まあ、俺は、雨に打たれるべき人間かもしれんがな)

 真一文字に引き結ばれている唇の片端を、僅かに歪め吊り上げる表情は、彫りが深く険しい顔にあまりにも馴染んでいる。皮肉な冷笑の他には笑い方を知らぬと思われた。

 連れもない、行くあてもない、帰る家も、帰りを待つ妻子もない──いや、最早何も持ってはおらぬ身を嘲りながら、男は足を早めた。濡れ鼠となり、震えながら夜を明かすのは真っ平である。風雨を凌げる場所を求め、彼は彷徨い歩いた。

 目深に引き下ろしたフードが落とす影の中、バンダナを巻いた額の下に、鋭い目が炯々と光る。幾つもの戦場を潜り抜け、時には自然と共に生きてきた彼の、狩人の如き目が。

 ほどなくして彼は、雨で霞む木々の間にある影を認めた。

「……良い小屋があるじゃねぇか」

 目を眇めて呟く。どうやらまるきり天が彼を見放し、虐げようとしている訳ではないらしい。

 見えた建物の影に明かりは灯っていない。一夜の宿に拝借しよう、と決めた男は、担いでいた大剣を引き抜いた。

 藪を切り払い、獣のように身軽に駆けていく後ろ姿はやがて、漂い始めた霧の中に消えた。


 狼さながらの駿足によって、すぐに辿り着いた。

 目の前に建つ、心做しか傾いだ建物を素早く検分する。端から期待はしていないが、やはりあまり良いとは言えない。

「……仕方ねぇな」

 空いた隙間に藁が詰めてある壁。柱が腐食し崩れそうな納屋、蜘蛛の巣の張った窓──長らく使われていないらしいその小屋は荒れ果て、朽ちていたが、野外よりは遥かにましだ。

 軋む扉を押し開け、中に足を踏み入れる。

 微かな黴臭さが鼻を突く。床には厚く埃が積もっていた――


 ──そこにくっきりと記されている足跡。


(誰かいるな)

 比較的新しい。そして小さい。

 しかし一体誰が来るというのだろう。この小屋の持ち主か? それとも、彼と同じように、行くあてのない放浪者か。

 ──誰であるにせよ、都合が悪ければ殺せばいい。

 それが彼のやり方だった。


 剣を握ったまま気配を消して足跡を辿る。完全には抑えられぬ古い床の悲鳴も、雨音に紛れてほぼ聞こえない。

 足跡は一つの扉の前で途絶えていた。中から微かに物音がする。僅かな隙間から中を覗いたが、動くものはなかった。丁度死角にいるのであろう。

 不意打ちは基本中の基本であった。この足の大きさからして、彼にとっては大した脅威にならないだろうが、こんなところにいる以上、まともな人間でないことは知れている。虚を衝くに越したことはない。

 戸に手を掛け──

 一気に開け放つ。

(そこだ!)

 動く影。瞬時に間合いを詰め、切っ先を突きつける。

 彼が出会ったのは、一対の怯えたあどけない瞳だった。


(……子供?)

 所々破れたぶかぶかの衣服。小さな手、握り締められたペンダント。

 長く伸びた黒髪から、その子供が少女だと分かる。歳の頃は十五、六ほどか。痩せ、薄汚れてはいるものの、顔は整っている方だ。利発そうであった。

(孤児か)

 親がいる子供ならば、こんな深林の只中の廃屋に一人でいようはずもない。肩透かしを食った気分で、ひとまず剣を鞘に収めた。

(さて、どうしたものか)

 すっ転んで床に座り込んだままの彼女の目は、相変わらず見開かれて男を凝視している。非常に居心地が悪かった。

 子供の扱いはどうもよく分からない。はっきり言って苦手である。怖がられていることだけは理解できるのだが、どう宥めれば良いのかは皆目見当もつかない。

 まずもって彼の無頼漢、或いは暗殺者然とした風貌が悪いのだ。それなりの上背と横幅がある上に、人を突き刺す険しい目、いつの間にか嘲り以外の笑みが浮かばなくなっていた口元。そして手練の纏う気、とでも言おうか、常に漂う静かな殺気が彼を近寄り難い人間にしている。

「……驚かせて悪かったな」

 長考の末、結局何も思いつかなかった男は素っ気なくそう言い、立ち去るという手段を選んだ。

 音を立てて眼前で閉まった扉を見て、少女は恐怖が去った後の驚きと、妙な安心感に暫しへたり込んでいた。

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