両利き手の包丁
萌木野めい
正直、結構便利ではある
あきは両手で包丁が使える。二刀流だ。
あきは仕事から帰った1LDKの木造アパートでドライカレーを作るために玉ねぎを刻んでいた。一口コンロの狭いキッチンでの自炊も大分慣れた。地元で最も大きい駅の300円均一の雑貨屋で買ったふわふわフリースの部屋着。元ネタはジェラートピケなのがぎりぎり感じられるデザインだ。
元和室を無理矢理洋室にリフォームした六畳一間にユニットバスのアパートはお世辞にも住み心地が良いとは言えないが、小学生の頃から親から早く離脱したいと願い続けていたあきにとってはそれこそ夢のような、念願の一人暮らしだった。隣の部屋から偶にAVの音声が壁を抜けてくるのは不快だなと思う事はあったけれど。
玉ねぎをみじん切りしながらあきが啜るのは、もものチューハイだ。仕事は三年目でやっとやっと二十歳になった。高卒だから。ビールの美味しさはまだ全然分からないし、分かる日が来るとも思えなかった。
あきが二刀流になったのには理由がある。
高卒で就職した地元の金属加工工場で、一年目のあきは二階の更衣室から作業着に着替えて工場へ降りる階段で足を滑らせ、派手に転がり落ちて利き腕の右腕を複雑骨折した。
「いつもあなたはぼんやりしている」と言われるから、仕事中は気をつけていた。でも、その前後の時間はあんまり気をつけていなかった。片腕しか使えない期間が長かったので否応なしに左手でも包丁が使えるようになったのだ。
こんな事で労災になったのは工場始まって以来初めてだと工場長に遠回しな嫌味を言われながら、製品の検品ラインの作業から、出荷用の箱にシールを貼る作業に回された。これなら時間がかかるが片手で出来るからだ。
しかし、怪我のせいで普通の人に比べて作業に随分仕事に時間のかかるあきが、同じ作業チームのリーダーのパートさんに嫌味を言われていることは知っていた。仕事中はぼんやりしないように気をつけないといけないから、こういう事はどんどん耳に入ってきてしまう。こういう時にぼんやりできればいいのにと、あきは思う。
あきのアパートの様な狭いキッチンでは、正直二刀流は結構便利だったりするが、怪我の直ったあきが使うことは無い。使うたびにその時の嫌味を少しだけ思い出すからだ。
所謂「クソキッチン」であるあきのアパートのキッチンは、一口コンロの直ぐ右におよそ三十センチ角のシンクがあるので、実家のキッチンの様にまな板を置くスペースが無い。
その為、あきはシンクの上にまな板を渡しているので、右手で包丁を使うとそのすぐ右の冷蔵庫に腕が当たってしまう。だからあきはこのキッチンで料理をするとき、大抵、利き腕ではない左手で包丁を使った方が便利なのだ。
あきはみじん切りを終えた玉ねぎと挽肉を炒めながら考える。
いつかもし、この二刀流があきにとって、何の枷にもならずに使える様になったら。
今より少しだけ今より前進したことになるのかもしれない。同時に会社の人の顔を思い出し、あきは思わずチューハイを煽った。
そんな日は来るだろうか。でも、それまではこの二刀流は、封印するのだ。
色の変わってきたひき肉からいい匂いがする。
両利き手の包丁 萌木野めい @fussafusa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
どうでも日記/萌木野めい
★60 エッセイ・ノンフィクション 連載中 10話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます