第3話 二人の距離

 十二月になって、寒くなっても、この二人の距離は縮まらなかった。

 教室のなかで座る席は変わらない。週に一回、この教室で会うだけ。それ以外では会わないので、距離の縮まりようがない。

 それはわかっている。

 それに、距離を縮めようというなら、声をかければいいのだ。

 いきなり、この子のすぐ後ろの席に移動してみるとか。

 それで、授業中にひそひそ声で話しかけてみる。

 または、シャープペンシルを取るときにまちがって押したようなふりをして、その肩を後ろの席から突いてみる。

 それとも、シャープペンシルの先で首筋をつついて、

「あ、ごめん!」

とか?

 十二月の最後、冬休みに入る前の授業までに、その案のうちどれかを試してみよう。


 機会は、そう決意した次の週にやって来た。

 前の時間の授業が早く終わり、真礼は早めに教室に着いた。いちど席に行って、コートを脱ぎ、荷物を置いて、トイレに行く。

 この閑散とした授業で、真礼の荷物を盗もうなんてひとはいないだろう。

 この教室棟のトイレの入り口には、衝立ついたてのようなコンクリートの壁が二枚、互い違いについている。

 トイレに出入りする女の子が、なるべく外から見られないようにするためというのだけど。

 学生は女子しかいない大学で、そこまで用心するものなのかな?

 その外側の壁の横を回って教室に戻ろうとして、真礼はふと気づいた。

 あいつが来る!

 何もおもしろいことはなさそうだという顔で、こっちへ来る。

 目は上げていないので、こちらの姿は見ていないはずだ。

 こっちにはもう教室はない。だから、こっちへ来るということは、階段を下りるのでなければ、このトイレに来るのだろう。

 あのブスな顔には、これからトイレに行く、と書いてあるようだ。

 だったら、と、思った。

 いまの時間、ほかの子は、廊下のこのあたりにもトイレにもいない。

 真礼は、その衝立てのようなコンクリートの壁のところにすっと身を隠した。

 足音。

 気配。

 そして……。

 来た!

 「あっ、ごめん!」

 きゅっ!

 廊下に出るところで前をよく見ていなかった。だいたい背の低いずんぐりした子なんか目に入るはずがない。

 それでも謝ってあげる寛大なところを見せる。

 そんなふりをして。

 自分の体の幅より広い、この子の腕を軽く両側から手でつかまえた!

 手触り。

 ざらざら。

 ごわごわ。

 この子のセーターの編み目の感じだけではない。

 この子の肌の感じがセーターの下から伝わる。

 いや。

 この子の全身がもっているざらざらごわごわ感が真礼の体の中に入ってくる。

 心地いいっ!

 つるんつるんのプリンもいいけど、わざとバニラとかほかのもののつぶつぶ感を残したプリンの舌触りもいい。

 それがこの子の感覚!

 この子は、これから、何をするんだろう、と真礼の顔を見上げる。

 驚いた顔で。

 水筒の水を飲んだあのときと同じように、まっすぐに上に向けないと見えないはず。

 そしたら、もういちど

「あっ、ごめん」

と言って、軽く突き放してやる。

 これからそうなる。

 そうなるはずだった。

 しかし。

 きゅっ!

 何?

 何が起こったか、わからない。

 真礼の顔の下に、その子の顔はない。

 見えるのは、真礼よりもずっと黒い、軽いくせ毛の髪の毛だけ。

 そして、上がって来る、くせ毛の髪の、軽く焦げたような匂い……。

 ……ちゃんとシャンプーしてる?

 「えっ?」

 真礼の背中、肋骨ろっこつの下あたりの両側に軽くあたっているのは、この子が軽く握った手で。

 体の前に、くっついている、生温かい、いや、ねつっぽいものはこの子の体。

 スレンダーな真礼の体の前側いちめんにくっついている。

 とくに、自分の胸のふくらみの下に「ぶん」と入り込んでいるのは、この子の、マネキンのような中途半端な胸のふくらみ……。

 抱きつかれた!

 真礼は抱きつくところまではやってないのに、この子は抱きついてきた!

 ざらざら。

 ごわごわ。

 気もちいい。

 気もちいいけど……。

 「ほらぁ。だれかに見られたらどうするの?」

ぐらいは言ったほうがいいかな?

 でも。

 その前に。

 とん!

 突き放されたのは、真礼。

 ちょうど適当な距離まで真礼の体は後ろに動いた。

 その顔を、軽く上目づかいで、得意そうな顔で、その子は見上げていた。

 必要以上に上を向くこともなく。

 黄土色に土ぼこりをすり込んだような頬の上のほうが、いまはちょっと赤い。

 分厚いくちびるは、本格的な冬になってひび割れてきているけど。

 そのきたないくちびるを笑顔のかたちにしている。

 その子は言った。

 「またね。授業、終わってから」

 くすぐったい声、くすぐるような言いかただった。

 そして、その子は、真礼の前をすり抜けて、トイレの中に入って行く。

 すばしこい!

 そうか。

 真礼は知る。

 このざらざらごわごわの女の子は、最初から、肌が白くてすべすべの自分と組み合わさるために存在してるんだ。

 だったら、こんなもって回ったことをやらなくても、もともと仲よくできたんだ。

 なあんだ、と思うと、ひとりでに体が深呼吸をした。

 授業が終わったら、あいつのところに行って、声をかけてやろう。

 もう十年前からの知り合いのように。

 そう思うと、真礼の深呼吸の最後の息は、笑い声になって真礼の体から出た。


 (おわり)

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グレーのセーター 清瀬 六朗 @r_kiyose

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