【完結】君がのこした伝言

空廼紡

 彩都あやとが通っている、高校の図書室は五時まで開いている。


 金曜日。放課後の当番だった彩都は、読書していた本から視線を上げ、時計が五時を回っていることに気付き、慌てて戸締りを開始した。


 五時に鳴るサイレンに気付かなかった。またやってしまった、と苦虫を噛み締めたように眉を顰め、染めたことのない茶髪をがしがしと掻いた。


 一度本を読み始めると、周りが見えなくなるのは彩都の悪い癖だ。だから時間をちょくちょく確認しながら、本を読むことを心掛けていたのに。


 別にこの後に用事はないのだが、時間をきっちり守らないといけないという、己の性が泣いてしまうので、たとえ用事があろうとなかろうと守りたかった。


 戸締りをして鞄を取る。扉の鍵を閉めて事務所までそれを届けに行き、下駄箱で上履きから靴に替えて、自転車置き場へ進む。


 ここまではいつも通りだった。いつも通りの、金曜日の放課後だった。


 これからも、いつも通りの下校になる筈だった。


 彼の姿を見るまでは。


 高校の敷地内にある自転車置き場。


 彩都は茶色い瞳を見開かせて、屈託のない笑顔で手をぶんぶん振りまくる、人物を凝視した。



「あーやー!」



 彩都のあだ名を呼ぶその人物は、彩都の自転車置の傍らで当たり前のようにいるには、あまりにも異質だった。少なくても、彩都にとっては。


 短い黒い髪と瞳。学ランを身に纏っている。まだあどけなさが残る顔立ちに、彩都よりも顔の二つ分低い、その人物。見覚えのない顔だったが、面影が記憶に焼き付いていた。


 有り得ない。そんな。


 心臓が止まりそうだった。


 彼が此処にいることが、有り得ない。けど彼は、己のあだ名を呼んで、変わらない笑顔を浮かべている。


 幻? 幻聴? 分からない。


 彩都はとりあえず、彼を殴る。


 ごんっと綺麗な音が拳に食い込む。ぎゃふっと呻き声がした。


 殴った拳を見やる。


 感触があった。幻じゃない。実体だ。


 彩都がますます混乱していると、彼は頭を両手で擦りながら、彩都を睨めつけた。



「あやの馬鹿! 殴る事ないじゃんか!」


「あー…一応確認するけど、お前…オレの幼馴染だったあおいか?」


「え、曖昧な状態でボクを殴ったの!? あや、そんな子になっちゃったの!? しかも、だったって…今でも大事な幼馴染だよ!」



 およよ、と袖で涙を拭う芝居をする葵を、彩都は半眼で見据える。


 そもそもなんで長袖なんだ。今、夏だぞ。


 そう言いたかったが、敢えて言わず、話を進めることにした。



「で、どうしていない筈のお前がここにいるんだ?」


「それはもちろん、あやに会う為だよ」



 泣く真似を止めた葵が胸を張る。

 そんな葵を半信半疑の目で見つめた。



「もう一度確認するが、本当に葵か?」


「本当に葵だよ!」


「証拠は?」


「しょーこ? なんか刑事みたいだね! うーん…しょーこ、しょーこ…」



 腕を組んでしばらく考え込んでいると、ぱっと瞳を輝かせた。



「そーだ!」


「ソーダ?」


「違うよ! 二人で埋めたタイムカプセル! ボクが埋めた中身言おうか?」


「タイムカプセル、か…たしかにそんなのあったな」



 たしかに、小学二年の頃だったか。二人だけの秘密基地にタイムカプセルを埋めた。

 大人になったら掘ろうね、と約束して。互いが埋めた物もその時のお楽しみにして。


 彩都は頭を振る。



「いや、まだ見ていないから、お前が埋めた物なんて知らん」


「え、見ていないの!? てっきり見たものとばかり!」


「大体、まだ大人になってないだろ」



 葵は一瞬、悲しそうに笑った。だが、それをすぐに消して、目元を和ませる。



「それはそうと、七年ぶり、だっけ? ひっさしぶり~!」


「お、おう。久しぶりだな」


「今から帰るとこー? 一緒に帰ろうよ! 昔みたいに!」



 そう言って、葵は荷台のところに手を着いてぴょんぴょん跳ねる。「二人乗りで帰るのって、憧れていたんだよね~」とのうのうとぼやく葵には、彩都の返答なんて関係ないようだ。


 大仰に溜息をつくと、彩都は自転車の鍵を取り出した。






● ○ ● ○ ● ○ ● 





 がたん、ごと。


 彩都は、後ろに荷台に葵を乗せて、ペダルを漕いでいた。


 葵は身長のわりにはひじょうに軽いが、それでも重みがあった。二人分の体重を乗せているとは思えないほど、漕ぐ足取りは軽やかだった。


 田んぼと田んぼの間の道路で、二人は背中合わせで自転車に揺られていた。


 アスファルトの道なのだが、年月のせいか凸凹した箇所があり、そこを通るたび葵は子供のようにはしゃいだ。


 黙ってろ、や、うるさいとか言わなかった。ただ、背中のぬくもりと葵の声に耳を傾けていた。


 夕暮れの赤い日差しが二人を照らす。真っ赤な空を見上げながら、葵は口を開いた。



「田んぼを見て思い出したんだけどさー」


「ん?」


「ボク、田んぼに落っこちちゃったことあったよね」


「あー…そういえばあったな、そんなこと」



 小学校に上がる前の年だった。田んぼの近くで遊んでいたら、はしゃぎすぎた葵がまだ水の張っていた田んぼ落下したことがあった。



「落っこちたボクを、引き上げようとしたあやも落ちたよね~」


「あれはっ! ……お前がオレの手を引っ張ったからだろ」


「あははは、ごめんごめん! 結局、お母さんたちに叱られたよね。注意しろ! って」


「オレは濡れ衣なのにな」



 ぶすっと言い返す。

 葵は陽気な声を立てながら、次の思い出を語り始めた。



「そういえば、同じ組の皆でかくれんぼ、よくやっていたよね。あやが鬼になると必ずっていうほど、最初に見つけるのボクだったね」


「お前の隠れ場所は大抵絞れたからな。鬼ごっこになると、なかなか捕まえられなかった」


「ボク、足速かったからね!」


「お前の場合、逃げ足が速いだけだ。体育の時の短距離競走、いつもビリだったくせに」


「むむ~。そういうあやは、いつも一番だったのに、どうしてボクに追いつけなかったのかな!」


「人の揚げ足を取るんじゃない」



 そういえば、ドッチボールだって、いつも最後まで生き残っていたことを思い出す。きっと逃げ足ではなくて、逃げるのが得意だったのだろう。



「それから、赤とんぼ追いかけて行ったら迷子になったこともあったよね」


「あったあった…日が暮れても帰れなくて、お前泣いたな」



 忘れもしない、小学一年生の秋。赤とんぼをいっぱい捕ろうと、二人で奮闘していたらいつの間にか山に入っていた。


 今思うと、赤とんぼは川や田んぼで飛んでいるのに、どうして山に入ってしまったのだろう。謎である。



「あやだって、ボクにお家に帰れるからって言いながら、涙目だったじゃないか」


「そうだったか?」


「そうだったよ。その途中で、秘密基地を見つけたんだよね」


「ああ。二回目以降はあっさりと帰れたのが、今でも不思議だ」


「ボクのお父さんが見つけてくれて、皆に怒鳴られたよね。それは仕方ないけど」


「仕方ないな。すごく心配した上に、警察沙汰になるところだったみたいだし」


「そうだったの? それはそれで、面白そうだけど」


「おい」


「え、面白くない?」


「面白くない」



 面白いと思うんだけどなぁ、と後ろでごちる葵に聞こえないように、小さく息を吐き捨てる。


 強く、ペダルを漕ぐ。

 スピードが上がった。



「餅つき大会覚えている?」


「どの年の餅つき大会だ?」



 餅つき大会とは、二人が通っていた小学校の行事だった。


 農家の人に協力してもらい、田植えをして、その田んぼから収穫されたもち米をついて餅を作っていた。



「小二だよ。ボクのお餅を大樹に取られて泣いていたら、あや、自分の分をボクに分けてくれたね」


「あのガキ大将からぶんどるの、面倒くさかったからな」


「その後さ、先生が大樹を怒ってボクの餅は帰って来たけど、またその餅を分けたね」


「……なんかさっきから、叱られたり叱られていた思い出ばっかりだな」


「そうだった? あ、そういえばそうだ」


「他にないのか?」



 彩都が促す。



「そうだなぁ…帰り道はいつも、手を繋いで帰ってたよね」


「お前が帰る頃になると、眠たいとか言って立ったまま寝ていたからな。よく立ったまま寝れたよな、お前」


「褒めている? それ」


「褒めていないが、感心はしていた」


「褒めていないのか。毎日、ボクを引っ張って連れて帰ってくれていたね~。あの時はありがとう」


「どういたしまして」



 あぁ、そういえば夏の日々はいつもこんな風だった。


 夕暮れ時、二人で帰る時はいつも彩都が葵の手を引っ張って、起きろ寝るな、と声を掛けながら、うとうとする葵を起こそうとした。


 あの時だって。



「あーや!」



 我に返る。ほんの少しだけ、トリップしたようだ。



「きいてるー?」


「な、なんだ?」


「雪だるま!」


「雪だるま?」


「まだ黄組だった頃、ボクが家の前で雪だるま作って、次の日その隣に雪だるまが一体増えていた事件!」


「事件なのか、あれは」


「あの雪だるま、作ったのってあやでしょ?」


「……」


「一人じゃ寂しいから、作ってくれたんだよね?」


「……証拠は?」


「雪だるまについていた手袋、あれあやのだったじゃん」


「…」


「やーい、図星」


「少し黙れ」



 唇を尖らせたその顔はほんのり赤付いていた。


 葵は素直に黙り込んでしまった。


 嗚呼、こうして葵と思い出を語っていると、今まで蓋にしていた記憶が溢れ返ってくる。


 腹から湧き上がる感情を抑え込んで、それを掻き消すようにペダルをさらに強く漕いだ。


「あやは、いつもそうだったね」



 再び、葵の口が開く。



「ぶっきらぼうで、言葉足らずだけど、本当はすごく優しいんだよね」


「急に何言っているんだ」



 元気な口調から一転、遠くを見るような、優しさを含んだ声色に変化した葵に戸惑いを隠せない。


 お前はそんな声を出すような奴じゃなかった筈だ。それなのに、なんだよ。その大人びた声は。



「なんだかんだ言ってボクの世話を焼いて、いつもボクと一緒でほんの少し離れていても、またすぐにひっついて。ボクが考えている事、すぐに分かっちゃうのに、なんで分かんないかなぁ」



 何の事だ、と口に言い掛けて喉の奥で栓をする。



「あの時もそうだったよね。商店街のおもちゃ屋で、人形を見ていたボクに」


「え、すまん。それって何のことだ?」



 そう口にした瞬間。


 葵は息を詰めたように、押し黙ってしまった。


 突然の変化に彩都は焦る。


 なんだ、怒っているのか? 忘れていて怒るほどの、大事な思い出だったのか?


 自然と、ペダルを漕ぐスピードが落ちる。



「葵…?」



 声を掛ける。返事がない。


 不安になって、もう一度、名を呼ぼうとした。



「ねぇ、あや」



 遮れられた。


 彩都は口を噤む。



「自転車置き場でタイムカプセルの話をした時、あや、言ったよね? まだ大人じゃないからって」


「あ、あぁ。言ったよ、確かに」



 それが、どうしたのだろうか。


 葵は言い紡いだ。



「たしかにあやはまだ、大人じゃないかもしれない。けどボクから見たらあやは大人で、子供じゃないんだよ。今はまだ覚えているけど、あやは生きているんだからさ、ボクとの思い出なんて忘れていくよ」


「そんなことないっ!」



 彩都は思わず声を張り上げた。


 余韻が響いた後も、そんなことない、ずっと覚えている、と小さく呟く。


 葵はそんな彩都の背に凭れた。



「商店街のおもちゃ屋のこと、覚えていなかったよね? ボクは止まっちゃったから覚えているけど、あやは止まっていないんだよ? 覚えていなくても仕方ないよ。もう一度言うよ? あやはもう、子供じゃないんだよ」



 責めているような、けど優しい、哀調を含んだ声で葵は囁く。



「ボクが死んだ頃の子供のあやは、もういないんだよ?」



 心臓が一瞬止まって、ペダルを漕ぐのを忘れた。


 七年前…小学四年生の春の頃だった。横断歩道を渡っていた彩都に車が突っ込んできたのは。


 飲酒運転だった。


 轢かれる直前、彩都は葵に庇われ、かすり傷で済んだが、葵はそうではなかった。


 失血多量。頭を強く殴打。ほぼ、即死だった。



「覚えているよ。ぼんやりとしていたけど、あの時あやがボクに、寝るな起きろって、叫んでいたの。手を繋いで帰っているように、必死になってボクに声をかけていたね。涙声でずっとずっと、ボクを起こそうとしてくれたの。いつも聞いていたセリフだったのに、なんでかなぁ。今思い出しても、胸がぎゅうううってなっちゃう」



 だから、ここにいる葵は。



「あやは優しいから、ずっと自分を責めていたんだね? ボクとの思い出をずっと覚えているようにって、他の人から距離を置いてでもね、もういいんだよ。ボクはあやを庇ったこと後悔はしていないよ。むしろ、よかったなぁって思っているよ。だってあや、生きているもん。ここにいるもん」



 実際には、ここにはいない。だって、死んだのだから。


 非科学的で有り得ないことだ。けど、さっき殴った感触もリアルだったし、幻聴というにはあまりにも耳に響いている。


 なに、無責任なことを言っているんだよ。


 お前が死んで、オレがどんな思いでいたのか知らないくせに。


 出かかった恨み言を呑み込む。



「ボクね、あやのこと大好きだよ」



 さらに凭れてきた。ぬくもりが広がっていく。



「怒っているあやも、半べそかいているあやも、ぜんぶ大好きだけどね、やっぱり一番好きなのは、しょうがないなぁって笑うあやなんだよ。本当だよ? それなのに、あやったらあの日から全然笑っていないし」



 彩都は目を瞠る。


 あの日からずっと?


 だったら葵は死んだ日からずっと、オレを見ていたのか…?


 喋っても何も返せない、オレの傍をずっと…。



「あや、ボクは幸せだったよ。あやと一緒に遊んだし、一緒に笑って泣いたりもした。ちゃんと友達にもなれた。すごく嬉しかったよ」


「…」


「これって当たり前のことだけど、思っている以上にすごいことなんだよね」


「…」


「そんなすごいことをね、あやにはこれからもいーっぱい! 作って欲しいんだ。だからね、責め続けないで。忘れてもいいんだよ。確かにボクは生きていたんだから。ボクはね、大好きなあやが幸せだったら、それだけでいいんだ」


「っ」



 涙腺が緩む。視界が曇っていく。


 喉の奥から何かがせり上がってきた。


 今、声を出したら泣きそうだった。


 だから堪えた。


 葵の前で泣きたくなかったから。



「ボクって、本当に幸せ者だなぁ」



 楽しそうに、されど穏やかに彼は言い紡ぐ。



「またこうやって、あやと一緒に帰っているもん。同い年になって。幸せだなぁ」



 とうとう、彩都の瞳から涙が零れた。頬を伝い、学ランを濡らしていく。



「言いたいのは、それだけ。本当はもっと言いたいことがあるけど、変だなぁ。言葉に出来ないや」



 涙染みた声に、居ても立ってもいられなくなった。



「あおっ」



 名を呼び掛けた刹那、重さが消えて軽くなる。


 思わず自転車を止めて、振り返る。だが、そこには誰もいなかった。


 彩都だけが、夕暮れの道に佇んでいた。



「なんだよ…言い逃げかよ」



 ガタンッと自転車が転げる。籠に乗っていた鞄を地面に落ちた。



「お前は、いつも、そうだったな」



 いつも叱られる前に逃げて、こっちが言いたいことや聞きたいことがあっても、笑って逃げて。


 嬉しい事だろうが、辛い事だろうが、お構いなしに。


 自分だけぺらぺら伝えて、オレが何か言う前に走り去って。


 最後の最後まで、オレが伝えたかったことを伝えさせてくれない。



「オレもだよ…」



 無邪気に笑っていたその顔も。


 見上げる無垢な瞳も。


 拗ねて尖らしていた唇も。


 ひらりと躱しながら逃げていた背中も。


 明るくて気楽で。こっちまで何かどうでもよくなるような声も、全部。



「オレも、大好きだよ…っ!」



 大好きだから、世話を焼いた。


 大事だったから、ずっと一緒にいた。


 当たり前が楽しかった。満足していた。


 ずっと、このままなんだと疑いもなく、純粋に思っていたんだ。


 だから失った時、ぽっかりと穴が空いた。


 いつもいた存在がいなくなって、何度間違えて名前を口にしようとしたか。


 たまに聞こえてきた、正体不明の物音も笑い声も、お前のだと錯覚して。


 会いたい、もう一度でいいから会いたいと、夢の中まで探して。


 まさか、こんな形で会えるとは思わなかった。


 そしてまた、胸の穴がぽっかりと空いてしまった。


 虚空を埋めるように、涙が次々を溢れてくる。


 悼みなのか、喜びなのか、悲しみなのか。


 涙の種類など、もう分からなくなった。



「おばさんにも、言ってやれよ…幸せだったって…知っているか? おばさん、表面上は平気そうな顔しているけど、本当は、お前に庇われたオレを、憎んでいるんだぞ…?」



 あなたも辛いんでしょう、と弱々しく笑う葵の母親が影で、あの子のせいで葵は死んだ、あの子と出会ってなかったら葵は、と譫言を繰り返しているのを、彩都は知っていた。葬式でたまたまそれを聞いた。


 あの日以来、葵の家には行っていない。墓参りはしているけど、あの人たちを鉢合わせしないようにしていた。



「どうして、それをオレに言うかな…秘密ばっかりオレに言って…」



 自転車置き場で、屈託なく笑っていた顔が浮かぶ。



『しかも、だったって…今でも大事な幼馴染だよ!』



 そうだな。たとえ、お前が死んでもオレにとっての幼馴染はお前だけで。今でも胸を占めているのもお前で。


 大事な幼馴染だよ、ずっと、これからも。



『ずっと、いっしょ!』



 幼い葵の声が、鼓膜に響く。


 いつ頃だったか忘れた、幼稚な約束。指切りを交わした相手は、桜と一緒に逝ってしまった。



「一緒じゃなくなったと思ったけど、お前はずっといてくれたんだな…」



 愛おしさが胸を締める。


 視線を巡らせる。


 どこを見渡しても、葵はもう、いない。


 彩都はその場に膝をついて、大声で泣き出した。


 癇癪を起した子供のように、泣き狂った。


 声が枯れても、落ち着いても。


 寂しさと虚しさが胸を穿って。


 そして、先程の葵の言葉が反芻して。


 ただただ、慟哭した。






● ○ ● ○ ● ○ ● 





 日が暮れても、彩都はその場で膝ついていた。


 声も涙も落ち着いて、ぼんやりとしている。


 どれくらい泣いただろう。傍から見たら、変な人だったんだろうな、と他人事のように思う。


 母さん、心配しているだろうな。


 いつも帰ってくる時間になっても、帰ってこないのだから。


 ふと、葵の言葉が脳裏に蘇った。



『違うよ! 二人で埋めたタイムカプセル! ボクが埋めた中身言おうか?』



「たいむ、かぷせる…」



 そうだ、タイムカプセル。秘密基地に埋めた、タイムカプセル。


 アイツは何を埋めたんだろう。


 彩都は立ち上がって、落ちた鞄の誇りの埃を払い、自転車を起き上がらせる。


 それに跨って、ペダルを漕ぎ出してスピードをどんどん上げていった。


 行先は家ではない。


 二人だけの秘密基地…二人が迷い込んだ、あの山へ。






 彩都は、懐中電灯を片手に山を登っていた。


 葵が死んでから訪れていなかったが、記憶通りに進んでいくとすぐに辿り着けた。


 そこは、モミの木の下に出来た空洞だった。昔は葵と二人入ってもわりと余裕があったのに、入ってみて驚いた。狭く、感じたのだ。


 こんなに窮屈だっただろうか。いや、彩都が大きくなったのだ。


 まるで動物の隠れ家みたいだね、と葵が言っていたのを思い出す。


 空洞の中心部に爪を立てる。


 たしか此処だったはずだ。タイムカプセルを埋めたのは。


 ひたすら、両手で掘った。


 しばらく掘っていると、爪先が土とも石とも違う物に当たった。


 掘るスピードを早めて、それを顕にして懐中電灯の明かりを照らし出す。


 紐で大雑把に括られた、スナック菓子の段ボールと同じ大きさの発泡スチロール。


 これだ。


 タイムカプセルを埋めるから何かないかと、彩都の祖父に尋ねたら貰った物だ。


 懐中電灯を口で咥えながら紐を解いて、箱を開ける。懐かしいものが視界に飛びこんできた。


 双子のように、隣に置かれた、青と紫の袋。


 たしか葵は青だったな、とそれを取り出す。


 息を整えてから、彩都は袋を開けた。



「あ…」



 中に入っていたのは、犬の縫いぐるみだった。薄汚いが、大事にされていたのだろう、綻びがないように見えた。



『あの時もそうだったよね。商店街のおもちゃ屋で、人形を見ていたボクに』



 思い出した。


 彩都は回想する。


 たしか小遣いを貰い始めた頃、商店街のおもちゃ屋でずっとこれを見つめていた葵に、割り勘で買おうか、と提案して買ったものだ。


 ぽたり、と縫いぐるみの額に涙が落ちた。


 彩都は思わず苦笑を漏らす。



「今日はほんと、泣いてばっかだな…」



 枯れたと思ったが、そうでもなかった。愛外、涙というものはしぶといらしい。



「ちゃんと、覚えていたよ、葵…大事にしてくれていたんだな、コイツを」



 彩都はぬいぐるみを胸に抱く。



「お前が忘れてもいいって、言っても…忘れるもんか」



 忘れたくない。葵が笑っていたことを、息をしていたことを。


 覚えている限り心にいるなんて綺麗事、嫌いだから言わないけど、大丈夫。ぬくもりを覚えている限り、歩いて行けるよ。


 葵の言う通り、思い出はどんどん薄れていくだろう。


 悲しいが、それが生きるってことだから。



『確かにボクは生きていたんだから』



 ああ、そうだよ。どれだけ忘れようが、お前はたしかにいたんだ。オレの横で、生きていたんだ。オレは、ここにいる。それが何よりも証。


 だから、覚えておくんだ。胸に焼き付けるのだ。


 思い出せなくなっても、大丈夫だって言えるように。



「生きてやるよ、葵…お前が残してくれた時間を」



 どんなことが起きても、生き延びていく。


 それが最後の約束。そんな気がした。


 一方的に押付けられた、約束だけど出来る限り守って見せる。



「ほんと、お前は最後までしょうがない奴だよ…」



 そう言って口の端を吊り上げた、彩都の顔は、本当にしょうがないなぁと言わんばかりの顔で。


 たしかに葵が大好きだった、笑顔だった。

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