【終章】

(27)ゆうべには白骨となる

 四月八日(火) 午前十時三十分。


 昨晩の通夜も無事に終わり、一夜明けて、今日がいよいよ薫さんの火葬当日。

 この世に御体を残していられる、その最後の日を迎えた。

 音喜多さんのトーンを抑えたアナウンスが厳かに葬儀の開式を告げる。

「ただいまより――故、田中薫さまの葬儀、ならびに告別式を、ここに謹んで開式いたします――お勤めいただきますのは、真宗大谷派――」

 それを耳にして、おしゃべりに興じていたご親戚も姿勢を正して前方へと向き直る。張り詰めたような静けさの中に、紫の法衣に身を包んだお寺様が入場してくる。

 ご遺族といっしょに、僕たちスタッフも頭を下げて丁重にそれを迎え入れる。

 ゆったりとした足並みで歩みを進めるお寺様は、経机の手前で祭壇に向き合い、いくつか作法をしたのちに着座した。

 ごおぉぉぉぉん、と大きく鐘が打ち鳴らされて、余韻のなかで読経がはじまる。

 空間を面で圧するような、迫力のある声が会場全体に朗々と響く。

 ほどなくして親族の焼香がはじまった。

 喪主様から順に二人ずつ焼香台へと進み出て、三つ指で摘まみ上げた抹香を炭の上に落としていく。そこから白い煙がゆるやかに立ち昇り、漂ってきたお線香の香りがつんと鼻を刺激した。

 焼香台に立つ人は誰もがみな、遺影写真を見据えながら嚙みしめるように合掌した。こうして後ろで眺めていると、どの背中にも、それぞれの哀悼の想いがありありと表れているように見えた。

 そうして焼香が進むこと三十分。

 葬儀のお経に一区切りつけたお寺様が、年季の入った奉書のようなものを懐から取り出す。

 そして恭しく掲げたそれを、独特の節をつけてうたうように読み上げはじめた。


【それ 人間の浮生ふしょうなるそうをつらつらかんずるに――】

おおよそはかなきものは――この世の始中終しちゅうじゅう 幻の如くなる一期いちごなり――】

【されば未だ万歳まんざい人身にんじん受けたりという事を聞かず 一生過ぎ易し――】


 これは、いわゆる〝白骨の御文おふみ〟と呼ばれるものだ。

 いまから五百年以上も前に、蓮如上人れんにょしょうにんが浄土真宗の教えを布教するにあたって書いた八十通にも及ぶ手紙のひとつであり、浄土真宗の葬儀ではこの第十六通にあたる〝白骨の御文〟が最後に読み上げられて閉式となる。


【今に至りいたって たれか百年の形体ぎょうたいを保つべきや――】

われさき ひとさき 今日とも知らず 明日とも知らず――】

【おくれさきだつ人は もとしずく すえつゆよりもしげしといえり――】


 興味本位から調べてみた現代語訳によると、これは「この世の無常」や「人間の儚さ」を説いた手紙だそうで、この中で語られる言葉の数々は「時代を超えて人々の胸にせつせつと訴えかける名文」としても名高い。

 もっとも、それがいかに有難い教えであっても、葬儀屋にしてみれば「そろそろお勤めが終わりますよ」以上の意味を持たないのが、なんとも形骸化していて味気ないところだけど。


【されば あしたには紅顔こうがんありて――】

【ゆうべには白骨となれる身なり――】


 何度も耳にするうちに、すっかりそらんじられるようになったその一文を口の中で転がしながら、僕はぼんやりと、ある感慨に浸っていた。

 あしたには紅顔ありて、ゆうべには白骨となれる身なり。

「朝の時点では血色も良く健康そのものだった人も、その日の夕方には突然の不幸で亡くなって白骨になってしまうこともある。人生の終わりとは、それほど予測もつかないことなのである」という意味だ。

〈人の不幸は先読みが出来ないのよ――〉

 昨日だったか、音喜多さんがそんなことを言っていたのを思い出した。

 ヒトはいつか必ず死ぬ。誰もがそのことを知っている。でも、その最期はいつだって〝突然の〟不幸だ。

 遺族の思い出語りによれば、心身ともに健康であったはずの薫さんは、あるとき突然病床に倒れ伏したのち、そのままあえなく人生の最期を迎えたという。闘病生活で日に日に身体が弱っていくなかで、近づいてくる死期の足音を彼がどこまで正確に聞き取っていたかなんて僕には想像もつかないけれど、おそらくは当の本人でも、朝を迎えたときに「今日がその日だ」とまでは思わなかったのではないだろうか。

 突然の不幸というものは、どこまでいっても予想外の出来事で、それは本人にとっても例外ではないのだと思う。

 予想外という点においては、浩文さんも、まさにそうだ。

 彼もまた、ある意味で「突然の不幸」が身に降りかかった一人といえる。

 この葬儀の裏側を知る者にとって、あの人以上に〝思いがけない死〟を経験した人間はおそらく他にいないはずだ。なにせ彼は、存命であるにも関わらず、本人ですら知らないうちに、ごく限られた人のあいだで〝故人〟となっていたのだから。

 本当に、危うく一大事であった。

 あのまま音喜多さんが機転を利かせてくれなかったら、浩文さんは身内のお通夜に赴いたさきで〝自分の遺影〟とばったり対面する羽目になっていたことだろう。

 御文をしたためた蓮如上人だって、遠い未来でこのような珍事が起きているなどとは夢にも思わなかったに違いない。

 葬儀の現場は〝予期せぬトラブル〟の連続だ。そもそも人が死ぬこと自体がその最たるものなんだから、それを土台に成り立っているこの商売もまた、さもありなん――ということか。いっときは未曾有の危機と思われた今回の一件でさえも、音喜多さんからすれば「この業界じゃ、よくあることだよ」とのことだ。

 どうやら僕は、自分が思っていたよりも、ずっと奇妙な世界に足を突っ込んでしまったらしい……。


【――たれの人も はやく後生の一大事を心にかけて――】

阿弥陀仏をあみだぶっと深くたのみまいらせて――】

【念仏申すべきものなり――】


【あなかしこ あなかしこ――】


 お勤めが終わり、お寺様が退場する。

 葬儀はそのまま告別式へと速やかに移り、これから最後の「お花入れ」だ。

 祭壇前に安置されていた薫さんの棺は、お花入れの準備とともに式場の中央へと場所を移されて、祭壇を彩っていた花々は残さず切り落とされていく。

「お待たせいたしました。これより最後のお別れへと移らせて頂きます」

 棺を囲んで集まったご遺族へと、一人ずつ花を配って回る。

 ゆっくりと別れを惜しむことができるのは、本当の本当にこれで最後だ。

 お花を手にした人たちが、名残惜しそうにそれを手向ける。

 棺の中はあっという間に色とりどりのお花でいっぱいになった。

 浩美さんをはじめ、ご親族が一人ずつ薫さんのお顔をそっと撫でて、それぞれの言葉で最後の別れを告げていく。

「おじさん、本当にお世話になりました」

「いままで、ありがとうございました」

「さようなら、薫さん……」

「薫くん……よかったな。最後に大好きな花に囲まれてさ……。う……うぅっ……!」

 ひときわ大きな嗚咽が響いた。

 見ると、浩文さんが溶けだした蝋燭のように顔をぐちゃぐちゃにして、

「いつか、俺もそっちへ逝くからな。そのときはまた……あっちで花見、しような」

 いまにも膝から崩れそうになって、わんわん泣いた。

 そこに浩美さんが肩を貸して、寄り添いながら棺の中を覗き込む。

「おとうさん、さようなら。大好きよ。いつか、お互い生まれ変わったら……次の人生でも、どうか私を選んでくださいね」

 そばで見ていた僕も、ここでついに限界がきた。

「う……う゛ぅ……!」

 ずっと涙を堪えていたのに、最後の最後でとうとうダムが決壊してしまった。

 堪らず「ずびー!」と大きく鼻を啜る。

 それで全員の顔が、こちらに向いた。

 たぶんこのとき、皆が思ったことだろう。「どうしてお前が」と。

(ああ……やってしまった……)

 おそるおそる担当者の顔色を伺う。

 音喜多さんの僕を見る目は、それはそれは冷ややかなもので「あんた、わかってるでしょうね」と口ほどに物を言っていた。

 わかってます。

 わかってますとも。

 葬儀のプロに涙は厳禁。

 それは重々わかっています。

 この仕事の本分は『遺族に寄り添うこと』であっても、それを安易に『同情すること』と履き違えてはならない。悲しみに暮れる遺族に代わって、ときに無感情を貫いてでも式を滞りなく進行する。それが葬儀のプロというものだ――ということは、僕だってわかってはいるんです。

(でも、無理なもんは無理なんです……)

 真っ赤に腫らした目を、ハンカチで何度も拭った。

「こりゃ、だめだ」と判断した音喜多さんが、さりげなく僕を下がらせようとした、そのとき。

「ねぇ、あなた――」

 浩美さんから声がかかった。

 彼女は真っ白な一輪のユリを手にして、

「……よかったら、あなたからもお花を」

「あ、いえ……すみません。でも……」

「いいのよ」

 そう言って僕の手を取り、白ユリをそっと握らせる。

「よろしいんですか……?」

「ええ。主人を想ってくださるのなら。あなたからも、どうぞ」

 浩美さんはただ優しく微笑んで、それ以上は何も言おうとしなかった。ほかの面々も彼女に倣い「是非に」と頷きで返してくれる。

 音喜多さんはというと――僕にだけ見えるようにして、自分の腕時計をトントンと小さく二回叩いた。

「ありがとうございます。では、僭越ながら……」

 そうして、熊男と何度目かの対面をした。

 坊主頭に、豪快な髭面――相も変わらずの威圧感ではあったけれど、美しい花に囲まれたその寝顔は、最初に会ったときよりも心なしか随分と穏やかなものに見えた。

 白ユリを、そっと顔の近くに添える。

 気の利いた哀悼の言葉なんて浮かばなかったけど、それでも僕はしっかりと手を合わせながら、静かに彼の冥福を祈った。


 薫さん、どうか安らかにお眠りください。

 それと――お騒がせして、申し訳ありませんでした。


 澄み切った青空に、霊柩車のクラクションが高らかに鳴り響く。

 暖かな春の陽ざしが降りそそぐなか、葬儀スタッフ一同に見送られながら、薫さんを乗せた霊柩車はご家族を連れて火葬場へと出発した。

 僕は音喜多さんの隣に立って、遠ざかっていく葬列に深々と頭を下げつづける。

「……行ったみたいね」

 頭上で、音喜多さんの声がした。

 それから見送りを終えた一同の、がやがやと賑わう声がする。

「さーてと、あたしらは戻り七日の準備をしなくちゃ」

「あっ。じゃあ私、香炉のお掃除しますね」

「おトキさん、お食事の数はいくつになったの?」

「ちょい待ち。えっとね……まずは大人が――」

 その賑わいが遠ざかるのを耳にしながら、僕もようやく面を上げた。


 霊柩車につづく葬列の、

 そのまた後をゆく影が、

 曲がり角の向こうに、そっと消えた。



『ゆうべには白骨となる』

(了)

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ゆうべには白骨となる 戸村井 美夜 @moro38

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