第2話 遺作

 入院してから二年が過ぎようとしていた時、師の病気を診ていた博士が師の危急をクララに告げた。クララは慌てて駆けつけ、師に優しい言葉をかけ一杯のワインを口元に運んだ。その時ワインが少し零れた。クララが指でそれを拭うと、師は愛しそうにクララのそれを舐めた。僕の舌も動ていた。僕はそれを隠した。下賤だと、愚かだと、穢らわしいと、自分の心を鞭打った。帰宅してからも僕は自分の猥雑さに打ちひしがれ酒を飲んだ。初めて吐くまで飲んだ。

 七月二十九日、師は亡くなった。

 僕は深く悲しんだ。悲しかった。悲しかったとも。涙が零れたししばらく何にも手がつかなかった。しかし同時にある冷たい感情も芽生えていた。クララのことだった。

 白状しよう。僕は魔王と戦っていた。

 クララを我が物にしようとする魔王と何度も何度も何度も何度も戦った。そして僕は勝利を収めた。勝ち続けた。シューマンの死をこれ幸いとクララに手を出すのは下劣な動物がすることだし、僕は動物に堕ちたくはなかった。堕ちてはならなかった。それは自分のため、というのもそうだし、クララに最善の自分を見せたいという意味でもそうだった。僕は動物にはならなかった。僕はクララを愛していた。

 そしてこの時、問題が起こった。

 師の遺作についてだ。病床、師は作曲していた。精神病的入院だったがペンと五線譜の持ち込みを許されていた師は寝台の上で作曲していた。

 それが『亡霊変奏曲』だった。

 師は投身自殺の前にも曲を作っていた。『亡霊変奏曲』とは別の曲だ。そしてこの曲を、クララは封印していた。家族にも「決して演奏してはならない」と命令していた。その理由がこの『亡霊変奏曲』だった。

 酷似していたのだ。いや、ほとんど模倣と言っても過言ではなかった。一応、師の名誉のため、いや全ての芸術家の名誉のために言っておく。

 完全な模倣などできないのだ。頭の中に流れた旋律、あるいは演奏する時の指先もそうだろう。芸術は生き物なのだ。どれ一つとして同じものは出来上がらない。同じ曲を同じ人が演奏しても、同じ人が同じ曲を作ろうとしても、必ずどこかに差が出る、違いが出る、変異が起こる。考えても見て欲しい。いくつも並んだ線の上に点を打つ。同じ点が打てるか? 同じ場所に同じように打てるのだろうか。果たしてそんなことが可能なのだろうか。『亡霊変奏曲』はそれを可能にしていた。『亡霊変奏曲』はまさしく亡霊だった。

 そして『亡霊変奏曲』には欠落があった。師の名誉のためにそれは伏せるが、致命的とは言わなくともスープに胡椒が足りないような物足りなさだった。そして同じことを、周囲の音楽家たちも思ったらしい。

「何か続きが、いや曲を美しくするものがあるのではないか」

 クララの元にそんな問い合わせが殺到した。ただでさえ夫の死に悲しむ彼女の元に、非道な、残酷な、冷酷な手紙が流れ込んだのだ。ある日クララがその手紙を見て泣いているのを見て、僕は手紙の一切を受け取らせないようにした。郵便物は僕が検閲した。しかし僕は失敗した。

 僕が手紙を検閲していることが知られてしまった。そして幸いにも――もちろん、シューマンの『亡霊変奏曲』に物足りなさを感じている連中にとって幸いなこと、なのだが――僕はシューマンの弟子だった。クララに手紙が届かない。クララへの手紙を弟子が検閲しているらしい。なら弟子に。僕の元へ問い合わせが届くようになった。

「シューマンの遺作に足りないところがあると思わないか?」

「『亡霊変奏曲』について何か知らないか?」

「何か隠しているんじゃないのか?」

 これらの質問に僕がずっと冷たく答えていると、ある日ある音楽家がこんな依頼をしてきた。おそろしい提案だった。

「『亡霊変奏曲』を君の手で完成させてはくれないか」

 悪魔の提案だった。師の曲に、僕が。いや、それは考えようによっては名誉なことなのかもしれない。嬉しいことなのかもしれない。だが僕は苦しんだ。その理由にクララがあった。

 師の曲を、師に成り代わって僕が書く。それは何だか、長年僕が望んだ「師の立場に僕が立つ」ことを叶えてしまうかのようだった。これが叶うということはすなわち、僕はクララに対しても不可侵領域に片足を入れてしまうということで、それはおぞましい、許されない行為だった。僕は悩んだ。苦しんだ。そして、分からなかった。師が何を思って『亡霊変奏曲』を欠落させたのか。いや、師の『亡霊変奏曲』に補うべきものは何か。

 結局、僕はほとんど砂山が崩されるような形で『亡霊変奏曲』への補填作業に着手した。着手してしまった。しかし手を付けた以上、僕は完璧にやり遂げたかった。

 何が足りない。何が足りない。

 ずっと考えていた。師のことを思いながら、思い出を噛みしめながら、そしてクララのことを考えながら曲と向き合った。分からなかった。欠片も理解できなかった。


「おまえ……僕は知っているよ……」


 師の最後の言葉だそうである。僕は聞けなかった。クララがそれを聞いた。クララはこの言葉の意味が分からなかったそうだ。彼女は考えていた。そして僕に助けを求めた。

「何を知っていたのか、心当たりはない?」

 なかった。何も分からない。あれだけ敬愛していた師なのに僕は何一つ分かっちゃいなかった。僕は絶望した。何が師だ、何が友人だ。僕は愚かじゃないか。何もできなかったじゃないか。悪魔のささやきが脳を心を支配した。僕は苦しんだ。心はのたうち回っていた。

 心を鎮めるためにピアノと向き合った。彼のことを思うと、かつてのことを思い出すからだろう。音楽のこと、哲学のこと、酒のこと、政治のことを語ったあの日のように、僕は椅子の右端に座り、左側に師がいるのを空想して、ピアノを弾くのだった。相棒のいない連弾だった。だが音楽は常に味方だった。何もかもを飲み込み、癒してくれた。


「おまえ……僕は知っているよ……」


 ある日、僕はこれが僕に向けた言葉だと気づいた。気づけば一瞬で全てが繋がった。何もかもを理解した。僕は在りし日に戻った。初めて師に会った頃に。初めてクララに会った頃に……。



「おじさん。この曲をくださるの?」

 私はブラームスおじさんに訊いた。おじさんは微笑んで頷いた。

「あげるんじゃない。この曲は、分かるだろう?」

 分かった。これは父の曲だ。だが僅かに違うところがあった。私はそれを指摘した。

「父の曲でしょう? でも手が加わってるわ」

 おじさんは頷いた。

「そうだよ。君のお父さんにね、言われたんだ。『お前、僕は知っているよ』ってね」

 私は首を傾げた。

「何を知っていたの?」

「僕が恋をしていたことをさ」

 私は胸が高鳴った。

「恋? 好きな人がいたの?」

「いたよ」

 おじさんはきまり悪そうに笑った。

「その女性に捧げた曲があったんだ。あのね、ユーリエ。この曲は足りない部分があったのは知っているかい?」

「知らない」

 私が首を横に振るとおじさんは穏やかな目をした。

「足りないものがあったんだよ。みんなそれを気にしていた。僕にその足りない部分を埋めるよう求めてきた。僕は苦しんだよ。悩んで悩んで、悩んだ挙句に気づいた。これが足りなかったんだ」

 おじさんは手を広げてみせた。私は笑った。

「連弾だったのね!」

「そう。そうなんだ。僕は君のお父さんとよく連弾をした。僕が右、お父さんが左」

 そしておじさんは私にピアノを勧めた。

「一緒に弾こうか。僕が右側、君が左側で」

「うん!」

 それから私はおじさんと父の遺作、『亡霊変奏曲』を弾いた。曲が終わった直後、おじさんはつぶやいた。

「そう、知られていたんだ……僕の気持ちは」

 おじさんはメロディを口ずさんだ。それはさっき私たちが一緒に弾いた連弾『亡霊変奏曲』の一節で、そして、おじさんがよくピアノの前で、散歩をしながら、夕食後に、口ずさむメロディだった。


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亡霊変奏曲の続きとその行方 飯田太朗 @taroIda

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