亡霊変奏曲の続きとその行方
飯田太朗
第1話 師と僕
師、ロベルト・シューマンは天才だった。
最初は友人のヨアヒムがどうしてもと勧めるから渋々会いに行ったのだった。デュッセンドルフはライン川の流域にあった。僕はその辺りがあまり好きではなく、当然シューマン邸に訪ねるのもあまり乗り気ではなかった。
だが彼の家で聴いた彼の音楽の、豊かさ、艶、幅、深さ、その他音楽を褒めたたえるのに必要な言葉の全てと言ったら!
僕はすっかり魅了されてしまった。そして僕は師のことを深く敬愛した。僕は師の家に入り浸るようになった。彼の家が下らないライン川の流域にあるかどうかなんてことはどうでもよくなった。彼こそが音楽の中心、彼こそが僕の求めた才能を全て持った人間だった。
そして、彼も僕を愛してくれた。
「君の演奏は異次元だ。もっと腕を磨きたまえ。もっと演奏したまえ。そして曲を作りたまえ!」
言われるままに僕はピアノを弾いた。言われるままに音楽を究めたし、彼に褒められたくて、彼により深く認められたくて僕はひたすらに音楽の道を突き進んだ。ほぼ毎日、僕と彼は語り合った。音楽について、哲学について、酒について、政治について。共に演奏をすることもあった。連弾をするのだ。僕が右、彼が左。
そしてあの女性ともこの時出会った。
シューマンには妻がいた。クララだ。美しい方だった。音楽について語りに行く時。音楽を習う時、新作を師に聴いてもらう時。クララも一緒にいた。彼女は師同様音楽をやっていて、僕の曲や僕の演奏に対してコメントをくれることもしばしばあった。僕は彼女の深い教養と音楽の才能、そして美しい微笑に夢中になった。気づけば、僕は彼女を愛していた。
道ならぬ恋だった。
師の妻なのだ。誤解のないよう言っておこう。僕は師、ロベルト・シューマンのことを心から尊敬していた! 彼ほど音楽の女神に愛されている人間はいないと思っていた。そして実際、彼は女神に愛されていた。クララという女神に。
音楽について語りに行った帰り道。
哲学について語った夕べ。
酒を酌み交わすために美酒を探している最中。
政治について知るために新聞を読む朝。
決まって彼女は僕の頭に浮かんできた。師について考える時、必然彼女のことも考えるのだった。僕は彼女に恋をしていた。道ならぬ恋だった。
「婚約を破棄しようと思う」
僕は色々な女性と恋をしていた。恋は幸せだった。人生を豊かにし、そして僕にひらめきを与えてくれるものだった。しかしクララと出会ってから全てが変わった。僕はクララを忘れるために色々な女性と婚約を結び、そしてクララが忘れられず婚約を破棄するのだった。「結婚して身動きできなくなるのが耐えられない」などという身勝手な理由を述べて。
だが本心でそうしたいわけではなかった。他の女性と結ばれてクララを忘れられるならどれだけ幸せだったことか! しかし現実はそう甘くなかった。そして僕は自分の愚かさに他の女性を巻き込んでいた。僕には愛がないのに、彼女たちは僕を愛してくれた。ひと思いに嫌われることを口にしなければ、彼女たちの人生を狂わせてしまうと思った。だから身勝手な理由を口にすることにしていた。そしてその身勝手ぶりを発揮する度に、女性同士の繋がり――女性はおしゃべりが好きだろう――で僕の愚行がクララの耳に入ることを恐れた。僕は彼女のことになるとまるっきり愚かだった。間抜けそのものだった。
シューマン邸を訪れる度。
彼女は微笑んでくれた。ドアを開けると彼女の笑みがあった。彼女は僕の音楽を称賛してくれた。師に褒められるのも当然嬉しかった。胸が熱くなり、また師に認めてもらえるような音楽を作ろうという情熱に包まれた。昂りに体が震えたことさえあった。しかしクララの声はまた違う熱を僕の心に宿した。
たまらなくなるのだ。ただただたまらなくなる。いつの間にか胸に空いていた大きな穴を、彼女は一瞬で埋めてしまうのだ。僕は彼女を愛していた。そして師のことも愛していた。
僕は師になりたかった。それは音楽的な才能、そして音楽家としての尊敬の意味でもそうだし、人間的にも、彼の儚くも繊細で細密な人としての美しさにも憧れていた。僕は師になりたかった。そして同時に、クララの夫にもなりたかった。
シューマンは体が弱かった。
二人で音楽について語った夕べ、師は疲れたと言って僕を置いて休みに行くことがあった。そして僕はクララと、音楽議論の続きをするのだが、僕は何度かクララを抱擁しその唇を貪りたいと思うことがあった。実際そうしかけようと手が震えたこともあった。しかし二人への敬愛がそれを抑制した。僕は師のことを愛していたし、クララのことも愛していた。二人の幸せに亀裂を入れる存在は許せなかった。それが例え自分であろうとも。いや、こともあろうに自分が、この僕が二人の幸せを壊すなんてそんなこと、絶対に許せなかった。僕は何度かクララに熱い気持ちを抱くことがあった。その熱をクララにぶつけそうになった。申し訳ないと思う。悲しいことだと思う。だが僕は理性によってそれを律した。僕はクララを、師を愛していた。
ある日、師はクララに捧げる曲を作った。僕は震えた。僕も彼女に捧げる曲を作りたかった。しかしそれは禁忌だった。僕はこの気持ちを収めるために音楽に打ち込んだ。ピアノの前、散歩をしながら、夕食後、僕は音楽を口にした。クララを思いながら、口ずさんだ曲だった。そしてそれを後悔する日々を送っていた。僕はその曲を決して譜面には起こさなかった。起こして堪るものかと思っていた。
僕と師が出会った時。師は持病の梅毒による幻覚に苦しめられていた。
ある日、師が投身自殺をしようとした。幻覚に導かれたらしい。
漁師によって助けられた師は精神病院に入院した。僕はそれを聞いてすぐさまデュッセンドルフに駆け付けた。失意と混乱に支配されたクララのために、家政の全てを執り行った。師は入院していた。そして僕は師の家にいた。
クララと二人きりになることもあった。クララと見つめ合うこともあった。ああ、告白しよう。あの時僕はクララの夫になっていた。クララの夫になった気分に浸っていた。夫としてクララを愛しそうになったし、クララを、ああ、あのクララを、僕は……。
しかし理性は仕事をしてくれた。壁に頭を打ち付けそうなくらい懊悩する僕を、理性はきちんと一人の人間にしてくれた。家政を執り行いながら、クララを傍で支えながら。僕はクララを奪うことは決してしなかったし、クララを貝が真珠を抱くように大切にした。
師は面会謝絶だった。それは「家族はシューマンの神経を刺激する恐れがあるから」という理由で家族にのみ発せられた令で、僕やヨアヒムのような友人たちは例外だった。僕たちは師に会いに行った。そして師に色々なことを話した。
「クララはどうだい」
愛妻家の師は妻について訊くこともあった。僕はその度にクララのことを話した。師に話すため、僕はクララとさらに親交を深めた。深めてしまった。
再び苦しんだ。師は幻覚に悩まされていたが僕も危うく精神病に片足を突っ込みそうになっていた。クララに対し熱情を抱く自分に吐き気を催し、たまらなく嫌悪した。だがクララを愛していた。愛してしまっていた。
この頃僕はクララに送る手紙で、誤って彼女のことを「君」と呼んでしまった。僕はこのことを深く後悔した。「君」なんて言葉は愛を誓い合った男性がその女性に使う言葉だ。悔いた。悩んだ。あの手紙がもし師の目に留まることがあったら。師はどう思うだろうか。悲しむだろうか。怒るだろうか。苦しむだろうか。軽蔑するだろうか。
しかし僕の心配を慰めるかのように師は衰弱していった。
師の死期は迫っていた。
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