死神さんの思い出食堂

安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売!

『安崎先生のお家の麻婆丼』

 お腹が空いたな、と思ったのは、『食堂』という文字が目に入ったからかもしれない。


 深い夜の中。お店の中からこぼれてくる明かりにぼんやりと照らされて、小さな女の子が入口にかけられた暖簾のれんを下ろそうとしている所だった。


 今が何時なのかは分からない。だけど、明らかに小学校低学年くらいの女の子が起きていていい時間ではない。


 そのお店が目についたのは、きっとそんな理由からだったんだと思う。


「いらっしゃいませ」


 だから、こっちを振り向いた女の子にそうやって声をかけられた瞬間、どうしてそう言われたのかが理解できなかった。


「中へどうぞ」

「え?」

「大丈夫です。あなたが食べ終わるまでが、営業時間ですから」


 暖簾を元の位置に戻した女の子は、肩下までストンと落ちる真っ黒な髪を揺らしながら、お店の扉を開けてくれた。今時珍しい、手動の引戸。お寿司屋さんのドアみたいに木の格子が組まれた扉にはスリガラスが入れられていて、それがぼんやりとした明かりを落としていた。


正臣まさおみ、お客さん」


 私が戸惑っている間に、女の子は中に声をかけてしまう。一度お店の中に消えた女の子は中に声をかけてからピョコリと再び顔を出してきた。表情がない整った顔が、なぜか期待にソワソワしているのが分かる。


 ──そういえば、最後にまともなご飯を食べたのはいつだろう?


 そんなことを思った時には、つられるように足が前へ動いていた。藍地に白で屋号が染め抜かれた暖簾をくぐった私は、そっと店の中に足を踏み込む。


「いらっしゃい」


 店の中は、外観からの予想を違わず、お寿司屋さんに似た造りをしていた。


 向かって右側に厨房を囲むようにカウンター席、向かって左側は壁に沿うように座敷席が三卓。カウンターの中に店主と思わしき男の人が一人。女の子と同じ藍色の作務衣に前掛けをしているのが、何だか微笑ましかった。


「せっかくなんで、カウンター席にどうぞ」


 ガッチリとした体躯の店主さんは、女の子に負けず劣らず表情がなかった。声にもどこか不機嫌さを感じる。だけど不思議となぜか、拒絶されているとは思えなかった。怖いとも、失礼だとも感じない。


 私はキョロキョロと店の中を見回しながら、勧められるがままチョコンとカウンター席に座った。トコトコと近づいてきた女の子が、ちょっと背伸びをして水が入ったグラスを置いてくれる。


「さて、何を作りましょうか?」


 そんな女の子がペコリと頭を下げて下がっていく姿を微笑ましく眺めていたら、無骨な声が降ってきた。顔を前に戻して見上げてみれば、カウンターの中にいる店主さんが真っ直ぐに私のことを見つめている。


「あ、ごめんなさい。メニューって、ありますか?」

「うちはメニュー表がないんです。代わりに、お客さんが望んだ料理は何だって作ります」

「そうなんですか?」

「はい。和食、洋食、中華、イタリアン、フレンチにエスニック、郷土料理にカレー。お望みならばなんでも」


 それはすごいな、と素直に感心した。お世辞にも料理がうまいといえない上に興味も薄い私には、イタリアンとフレンチの違いも分からなければ、エスニックがどんな分野の料理なのかも分からない。


「本当に、何だっていいんですよ。教えていただければ、思い出の味を再現することもできます」


 店主さんが言い足したのは、私がよほど分かりやすく頭の上に『?』を飛ばしていたせいだったのだろうか。


「思い出の味……」


 でも、そのおかげで、私の中にも思い浮かんだ料理があった。


 もう二度とは食べられないと思っていた、思い出の料理が。


「本当に、作れるんですか?」

「ええ」

「私の記憶、大分曖昧だと思うんですけど」

「頑張りますよ」

「……じゃあ」


 私はコクリとツバを飲み込んでから、そっとオーダーを口にした。


「母が作る、麻婆豆腐が、食べたいです」



  ※  ※  ※



「私の母は、とても料理が上手だったんです。市販のタレ……っていうんですかね? 『○○と混ぜ合わせて炒めるだけ!』みたいなやつを、あまり使わなくて」


 ポツリ、ポツリと話し始めた私の前で、店主さんは足元にある冷蔵庫から食材を取り出していた。


 まずはミンチ。小さめのパックに入った合挽きのやつ。あとは豆板醤トウバンジャンと木綿豆腐。この辺りは麻婆豆腐の具材として鉄板なのだろう。


「生姜と、生椎茸のみじん切りを用意する音が、とても心地良かったんです。フードプロセッサーで刻んだのかなってくらい、綺麗に細かくみじん切りにされてて、小皿に取り分けられてたの、すごく綺麗でした。うちの母、ピーラーもフードプロセッサーも使わなくて、みんな包丁一本でやっちゃうんですよ」


 私の呟きを聞いた店主さんは、生姜の塊を適当な大きさに切り落とすと器用に皮を剥き始めた。黄土色の皮の下から鮮やかな黄金色が姿を現す様は、大人になった今でも見ていて楽しい。


「母は、余計な調味料が冷蔵庫にあるのを嫌う人でした。だから麻婆豆腐も『同じ味噌なんだから、甜麺醤テンメンジャンなんか使わなくても赤味噌でできる』って。出汁だしもお味噌汁を作る時と同じように鰹節で出汁を取って、それを入れていました」


 要領を得ないただの思い出話を、店主さんはしっかり聞いてくれているみたいだった。即座にコンロの上に水を張ったお鍋がかけられて、出汁の準備がされる。


「隠し味だって蕎麦つゆとケチャップ。……あぁ、湯豆腐とか、味噌カツとか、それ用に作った味噌が余っていた時は、その味噌を入れちゃうんです。だから毎回ちょっとずつ味が違って。それでもなぜか、毎回きちんと美味しいんです」


 生姜を一欠片分みじん切りにした店主さんは、次いで生椎茸のみじん切りを始めた。石づきが落とされた椎茸は傘と軸を分けられ、どちらもひとしく細かくされていく。リズミカルな音は、母が立てる包丁の音よりも繊細で、軽やかだった。


「ニンニクはなし。母が苦手だったんです。……昔は、母には嫌いな食べ物がないんだと思っていました。ただ単に、母が嫌いな物は食卓に登らないだけなんだと気付いたのは、高校生くらいになってからだったかな? 随分と気付きませんでした」


 お湯が沸いた鍋にサッと鰹節をひとつかみ。フワフワの鰹節がみんな沈んで、対流によってお湯の中をグルグル回り始める頃には、黄金色の美しい鰹出汁が取れている。


「ネギは、入れていましたか?」


 ここで初めて店主さんから質問が飛んだ。ジュワリと湯気を上げながら、鰹出汁が新しい鍋にされた瞬間だった。何とも言えないかぐわしいかおりが、湯気に乗って店中に広がる。


「仕上げに散らしてました。白ネギの時も薬味ネギの時もあったんですけど、私は白ネギの方が好きでした」


 小さく頷いた店主さんは、冷蔵庫から白ネギを取り出す。木綿豆腐を半丁分、サイコロ状に切ってザルにあけてから、中指の長さくらいに切り落とした白ネギをストトトトッと薄く輪切りにしていく。どうしてスライサーを使わずにあんな薄さにできるんだろうと不思議になるくらいの薄さだ。


「和食でも、洋食でも、中華でも、同じフライパンで作っちゃう母でした。ミンチをガッてパックから落として、木ベラでガシガシ崩しながら炒めて、半分くらい火が通ったら生姜を入れて、全体に火が通ったら椎茸。それがよく混ざったら豆板醤をスプーンひとすくい」


 案外、覚えてるものなんだな、と思いながら、私は店主さんに語り続ける。お寿司屋さんみたいな店構えに似合わないチープなフライパンは、熱を帯びるとジュワジュワといい音を立て始めた。鰹出汁のにおいと、お肉が焼けるにおいが、喧嘩をしないで一緒に店の中に満ちていく。


「豆板醤が全体に馴染んだら、火を一番弱火まで落として、蕎麦つゆをひとまわし。具がヒタヒタに浸かるくらいまで鰹出汁を入れて、ケチャップをひと押し。よく溶かして、ちょっと味噌っ辛いかなってくらいに、赤味噌を入れて溶かすんです」


 ここまで説明できるのに、これを自分で作れないというのが不思議だった。


 子供の頃は、夕飯を作る母の手元を眺めているのが好きだった。お手伝いは大嫌いだったけれど、魔法使いみたいに、ただの食材から美味しい料理ができていく様子を見ているのは、本当に大好きで。


 ……そう、母は、本当に何でもできる人で、それを私にも求めてくる人で。


 だから私は、母をすごく尊敬していて、同じくらい、恐れていた。


「味が整ったら、豆腐を入れて、火を強めて。グラグラってしてきたら、水溶き片栗粉を投入。トロッとしたらネギを散らして、出来上がりです。そのままでも美味しいんですけど、麻婆丼にするのもイケるんですよ」


 だから、実家から飛び出した私は、料理を作れなくなった。


 指先を傷つけると仕事に支障が出るというのもあったけれども。


 ……不器用な手先で料理を作るたびに、『そうじゃない!』『どうして言う通りにやれないの!』と叱責する声が、耳の奥でこだましたから。


「どちらで、食べますか?」


 店主さんの手には、いつの間にか二種類の食器が載せられていた。中華柄のどんぶりと、平皿。


 私は少しだけ迷って、どんぶりを指さした。小さく頷いた店主さんは、どんぶりにご飯をよそい、その上からトロリと麻婆豆腐を流し込んでくれる。


「お待たせいたしました」


 コトリ、と私の目の前に置かれたどんぶりには、レンゲが添えられていた。ホコホコと湯気を上げる麻婆丼は、普通の麻婆豆腐よりも茶色が濃くて、しっかり味噌と鰹出汁のにおいがしている。


「あなたのご実家の、麻婆豆腐、麻婆丼バージョンです」

「あ……」


 一般的な麻婆豆腐からは絶対にしない、私の実家の料理のにおいだった。


「い、いただき、ます」


 そっと手を合わせてからレンゲを取って、トプリと餡の中に沈ませる。そっとご飯に絡めて、息を吹きかけてから口の中に含む。


 はふはふ、と熱を逃しながら舌で味わえば、ジワリと広がる味噌のコク。それでいて生姜と豆板醤の辛みがそれぞれしっかり中華を主張していた。舌で押し潰せば豆腐の甘みが広がり、椎茸と鰹、それにダメ押しの蕎麦つゆの奥深い旨味が全体をしっかりと取りまとめている。


「あぁ……」


 感嘆の吐息が、口を開いた瞬間、こぼれ落ちていた。


「美味しい」


 世界のどこにもないと思っていた味。もう二度と食べられないと思っていた味。懐かしい、つらさと苦しさの底にある、優しい思い出の味。


 気付いた時には私は、泣きながら夢中になって麻婆丼をがっついていた。ずっと昔、誰よりも食べることに貪欲だった時代の私みたいに。


「……どうして」


 そんな私の姿を見ていた店主さんが、ポツリと呟いた。


「そんなに美味しそうに食べてくれるのに、食べることをやめてしまったんですか?」


 その声に、私は顔を上げる。丼の中は、もう空っぽだった。私を見下ろす店主さんは、無表情の中に少しだけ痛みを抱えている。


「……私にとって食事は、母を思い出させるものでした」


 母は、いつだって完璧で、その完璧を私にも求めてくる人だった。勉強も、運動も、人付き合いも、完璧にできて当たり前。歳が長じてからは、そこに家事が加わった。


「私、ある時、母から逃げ出したんです。譲れない、夢があって」


 ずっと隠れて、小説を書いていた。『小説家になりたい』という夢は、母が言う『完璧な人生』かられるものだったから、許してはもらえなくて。一度だけ、勇気を出して口にして、冷めた視線とともに『あんたごときがそんなたいそれた人間になれるはずがないじゃない』と切り捨てられた時から、ずっとずっと、壊されないように隠して、大切に育ててきた夢。


 その夢に王手をかけた時、私はもう一度だけ、母にそのことを打ち明けた。きちんと実績ができた。私の語る夢は、決して夢物語なんかじゃないんだと。


 でも、その時母から返ってきた言葉は、『いつまでも夢ばっかり見てないで、さっさと結婚しなさい』だった。


『どうしてパソコンのキーをあんなに器用に叩けるくせに、ネギのひとつもまともに切れないの』

『妄想語ってるくらいなら、お見合い写真のひとつでも見なさい』

『そんなんだから、あんたは幸せになれないのよ』

『いい加減、あんたもになりなさい』


 その時から、私は料理をするのをやめた。


 強固に反対する母を振り切り実家を出て、独り暮らしを始めた。あの日から二度と実家に顔を出すことはなかった。だから母の料理も、あの日から一度も食べていない。


「……私はただ、応援してほしかっただけなのに」


 嫌いになんて、なりたくなかったのに。


 大好きだった食べることも。母の料理も。料理を作ってくれる、母の後ろ姿も。


 料理を作らなくなって何年も経って、食べること事態に興味がなくなった今でさえ、母のオリジナルだった料理の作り方を、鮮明に覚えているくらいに。


「頑張ってねって、たった一言でいいから、言ってほしかっただけなのに」


 ……そうだ。


 私は最期まで、母を嫌いにはなれなかった。


「……恨みは、ないんですか?」


 そんな私が、不思議だったのだろうか。店主さんは、静かな声で問いかけてきた。


 私だって、不思議だった。私がされてきた仕打ちは、私自身から見たって恨みつらみになっていてもおかしくない代物だったから。


 今まであえてそこを見ようとしてこなかった。それくらい私にとっては、深い深い傷となったことだから。


 でも、久しぶりに母の麻婆丼を食べた今なら、分かる。


「……恨んで、ないよ」


 涙が残る顔で、それでも私は笑ってみせた。


「だって、やっぱり好きだもの」


 実家の味も。これを生み出してくれた母も。


 懐かしいと、記憶の奥底に思い出せるくらいには。


 そのことを、私は今になって、知った。


「御馳走様でした」


 だから私は両手を合わせて、深く深く頭を下げた。


「人生の最期に、食べる喜びを思い出させてくれて、ありがとう」



  ※  ※  ※



 カランッと、空のどんぶりの中にレンゲが転がる音が、妙に大きく店の中に響いた。


 カウンターに、人の姿はない。ただ空になったどんぶりが載っていて、味噌と鰹出汁と、ほんのり豆板醤の辛味が漂う空気が店を満たしているだけだ。


 それでも正臣はどんぶりの向こうに、深々と頭を下げた。


「お粗末様でした」


 今宵の客は、夭折した作家だった。死因は過労とも餓死とも噂されていたが、恐らくはその両方だろう。何かから逃げ出すかのように、狂ったように原稿に打ち込む癖がある先生だと聞いていたから。


「……良かった」


 店の隅に控えていたことりが、小さく呟いた。ことりの視線は、先程まで客が座っていた椅子に向けられている。


「最期に、食べる楽しさを思い出してくれて、良かった」

「……そうだな」


 食べられないことは、悲しいこと。


 今の世界は、そのことを忘れている人間が多すぎる。食べられないこと以上の悲しさが、あまりにも人の心を覆い尽くしているから。


 だから正臣とことりは、この店を営んでいる。


 旅立つ人々にせめて最期くらい、美味しい物を食べて、笑ってもらえるように。


「ことり、暖簾を下げてきて。俺達も今晩は、『安崎あんざき先生のおうちの麻婆丼』のご相伴にあずかることにしよう」

「うん」


 小さく笑ったことりが、今度こそ暖簾を下げにいく。


 外の闇は、暗い。


 その闇の中を泳ぐように、美しい流れ星が空の彼方を目指して流れていった。



【了】

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死神さんの思い出食堂 安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売! @Iyo_Anzaki

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