後編

 菫が店に帰る頃には出汁も仕上がっていた。

 最後の調整を行う内にやがて山本の率いる撮影隊、そして匠がやって来て――


 ついに撮影が始まった。


 頭の悪そうな二流芸人が奇声を発しながら厨房に入り込み、菫の仕事を解説し始める。

 それを無視しつつ調理をしていた菫だったが、しかし心中は決して平穏ではいられなかった。 

(私、どうしたらいいんだろう……)

 先刻、「覚悟なさい」などと威勢の良い啖呵を切ったにも係らず、彼女は自分の行為に躊躇していた。

 何と言っても、菫の創り上げた超爆盛り極辛煉獄ラーメンは異常である。

なぜならこれは彼女の負の感情が生み出した、情け無用の残虐メニューだからだ。


 ――こんな料理を、いくら敵に回ったとは言え、たっくんに食べさせて良いの?

 いいえ、いくらたっくんと言えども彼はフードファイター。今の彼は不倶戴天の敵。それに、もしも手加減なんかしたら、きっと、彼は私を軽蔑するに違いない。


 ――でも、自分で作っておいてなんだけど、こんな物普通の人にはとてもじゃないけど食べ切れる代物じゃないし。


 ――でもでも、なんかたっくん昔から普通じゃなかったから、もしかしたら本当に全部食べてくれるかも……


 ――って、ああ、結局私は何がしたいのよ! 彼を倒したいの? それとも全部食べ切ってほしいの?


 迷走する心とはうらはらに、料理人として鍛え上げられた彼女の両手はまるで意思を持っているかの如く調理を続けていた。

 凄まじい勢いで野菜を刻む。

 一ミリの誤差も無く、均等にチャーシューを切る。

 慎重かつ大胆に麺を茹でる。

 軽やかに舞う様に、巨大な中華鍋で野菜を炒めて出汁を注ぎ込む。

 技術の深奥に達した、達人と呼ぶにふさわしい動きで両手はラーメンを作り上げていく。程なく彼女の眼前には凄まじい様相のラーメンが姿を現した。

 しかし。

 後は具材を盛り込むだけという最終工程の最中。バットの中に並べられた、寒天状に固まったキューブアイスめいた物体を手にした瞬間、初めて彼女が動きを止めた。

(どうしよう……)

 菫は逡巡する。

(今ならまだ、間に合う。只の辛くて信じられない量のラーメン、それだけで済む。でも……これを入れたら、もう後には引き返せない)

 溜息を吐き、天を仰ぐ。

(お父さんだったらこんな時、どうするんだろう?)

 まるで迷子の様な表情で、菫は厨房の隅に飾ってある両親の遺影に答えを求める。

 二人はいつも通りに微笑んでいた。

 その優しい笑顔は、

『お前の信じるままに作りなさい』

 そう語り掛けている様に、彼女には思えた。それは物凄く勝手な解釈だったのだが、とにかく菫にはそう思えた。

「よし!」

 意を決してバットの中身を掴む。

(お父さん、お母さん。これでいいんだよね?)

 菫は両親に心の中で語りかけた後、迷いの消えた動きで丼めがけて大量に投入した。何が『これでいい』のかよく分からないが、とにかく投入した。

 一切の手加減無く。

 一切の容赦無く。

 むしろ普段よりも何割か多く。

 凶悪な様相を増していくラーメンに、彼女は想いを籠める。


 ――私の怨念の結晶である、この超爆盛り極辛煉獄ラーメン。

 もしも……もしもたっくんがこれを食べ切る事が出来たなら……もしもたっくんが、このラーメンと一緒に私の、この歪んだ心をも消し去ってくれたなら、私は……





「お待たせしました。ご注文の超爆盛り極辛煉獄ラーメンです」

 匠のテーブルに丼の載ったトレイを置く。

「頂きます」

 匠は行儀良く一礼し、厨房に架かった菫の両親の写真にも視線を運んで黙礼をしてから箸を取った。

 その姿は今まで何度も見てきた、汚く食い散らかしながら凄まじい勢いで口に流し込む凡百の二流フードファイター達とは明らかに違う。自分が食べる物、作った者に対する感謝と尊敬、そしてそれを食べる事の出来る喜び、さらには完食する事への明確な決意を纏った、実に堂々たる態度だった。

 菫の心中に熱い想いがこみ上げる。

 (ああ、やっぱりこの人は昔から変ってない。あの頃のまま、私が好きだった「たっくん」のままなんだ)


 行儀良く「いただきます」をした匠は、手始めにと麺を軽く一箸摘まみ、口に運ぶ。

「ずずずっ……ん? これは!?」

 一口麺を啜った匠は目を見開いた。しかしそれはすぐに不敵な笑みに変わり、自分を見つめる菫に視線を移す。

 菫も匠の視線を受け止めながら、小さく微笑む。二人の間に、もはや言葉は不要だった。

 『このスープの絡まり具合は……やるな、菫ちゃん。スープに、重さを感じない程度にとろみをつけたんだね』

『そう。微かなとろみをつける事によってスープが麺に絡まり、しかも冷めにくい凶悪なラーメンになるの。辛味の威力は熱さの二乗に比例するわ。たっくん、食べ切る事が出来るかしら?』

 菫の挑戦を真正面から受け止める様に、匠は力強く、なおかつしなやかな動きで食べ始めた。

 一口分の麺を的確に箸で取り上げ、一度レンゲに乗せて軽く冷ましてから口に運んでエレガントに啜る。具の野菜とチャーシューにも華麗に箸を躍らせつつスープを優雅にレンゲですくい、口に運ぶ。時折り額に浮かぶ汗を左手のハンケチで拭いながら、右手は次の一口分を箸で正確に摘み上げている。

 一定のリズムを崩す事無く、その動きには一片の迷いも無い。明らかに常軌を逸したハイスピード食法にもかかわらず、匠の動きにはまるで一指しの舞を演じるかの如き華やかさが存在した。

 美しく無駄の無い動き。それは彼が超一流のフードファイターである事の、何よりの証なのだ。


 瞬く間に五分が経過した。


 匠は開始時のペースを保ったまま箸を進めている。

 彼は驚愕していた。食速を落とさない理由はもちろん時間内に完食する為である。だが、そういった打算だけでは無く、純粋な美味さによって自分が引き込まれている事に気が付いたからであった。

『美味い。尋常じゃない辛さにもかかわらず、本当に美味いよ、菫ちゃん。これを普通のサイズで出せば確実に売れるだろうに、君は何故ここまでして……』

 匠の、そういった訴えを察した菫は心の呵責に耐え切れず、彼から視線を逸らした。

『あなたは私を軽蔑するかしら? たっくん。私は非道い事をしているの。このラーメンは……不純よ』

 超爆盛り極辛煉獄ラーメンのいやらしさは辛い事、量が多い事だけに留まらない。

 辛くて多い。

 けれども美味い。

 すなわち、美味いのに食べきれない。挑戦者にそういった屈辱感を与えるという狙いも、この料理には隠されていた。

地鶏の鶏ガラと厳選された豚骨を低温で長時間じっくり炊いて出汁を取り、高価な長期熟成醤油と四年間熟成させた極上の豆板醤で味の基盤を固め、インド人もびっくりの各種香辛料で風味をととのえた採算度外視の、まさに復讐のために作られた必殺メニュー。

 しかも恐ろしい事に、この料理には辛さ、美味さ、そして量の多さの中に隠された極めて狡猾な罠が仕込まれていた。

「そろそろ効いて来る頃……」

 菫は再び匠に視線を戻す。

 その瞳には、笑っている様な泣いている様な、不思議な輝きが湛えられていた。


 十分経過。

 快調に食べ進めていた匠の動きが、明らかに鈍ってきた。

 それでも丼の中はすでに半分ほど平らげられており、残りの時間を考えるなら完食する事は充分可能に思えた。

 しかし――

 異常なまでの喉の渇きに耐えかねて、匠がこの勝負で初めて水を口にしたその時。

 菫の仕掛けた恐るべき罠が襲い掛かった。

「ぐはっ!? 一体、何が……」

 水を含んだその瞬間、口腔全体に激しい痺れが発生した。急な発熱を起こしたかの如く、全身から汗が噴出する。

「しまった! これは麻辣効果!?」

 匠は、自分が菫の策略にまんまと引っ掛かった事に気が付いた。

 本来、辛味の強い料理を食べる時には冷水を飲んではいけない。水の冷たさによって逆に辛味が引き立ってしまい、余計に辛く感じてしまうからである。

 そんな事は一流のフードファイターである匠は当然承知していたのだが、食べ進める程に発する異常な喉の渇きに耐え切れず、ついグラスを手にしてしまった。

 もちろん、これも菫の仕掛けた罠に他ならない。

 とろみのついた冷めないスープ。

 辛味の奥に隠された濃い目の味付け。

 大量に投入されたおろしニンニク。

 これらは全て、挑戦者に水を飲ませるための伏線になっていたのである。

 なぜ、そこまでして水を飲ませる必要があるのか? 秘密は辛味の質にあった。

 中華料理には二種類の辛さがある。

 一つは唐辛子の、舌が焼ける様な辣。もう一つは山椒の、舌が痺れる様に感じる麻である。

 この二つの要素が織り成す重層的な辛味が四川料理の真髄なのだが、分けても山椒による辛味、麻はやっかいな代物である。舌が激しく痺れる独特の感覚は日本人には馴染みが薄い上に、花椒と呼ばれる本場四川の山椒は日本のものよりも遥かに刺激が強い。

 しかも、麻による口内の痺れは冷水を含む事により数倍に膨れ上がり、辣の直接的な辛味との相乗効果で味覚を破壊し、強烈な発汗効果で体力をも消耗させる。これが麻辣効果である。

 狡猾な事に、菫は手羽先を煮込んで取ったスープを冷やして煮こごりにし、その中央に大量の花椒を忍ばせるという実にえげつない手法を取っていた。先程彼女が投入をためらった謎の物体が、まさにそれである。

 煮こごりに包まれた花椒は、初手では挑戦者に気付かれない。そしてスープの熱でゆっくり溶け出していく香りと刺激は、徐々に食べる者の感覚を浸食するのだ。

 更に恐ろしい事に。

 彼女は表層に掻き卵をあしらった上薬味としてパクチーを大量にトッピングして、表面的に山椒の風味を抑えるという離れ業までも繰り出していた。

 ダイナミックな盛り付けと豆板醤の『辣』による直接的な辛味で挑戦者の注意を引き付けておいて、巧妙に仕込んだ花椒による『麻』との立体的なツープラトン攻撃、麻辣効果で仕留める。これこそが菫の仕掛けた恐るべき罠の全貌であった。



 二十分経過。

 匠の箸が、ついに止まった。

 味覚を破壊され、急激な発汗で激しく体力を削られながらも彼は驚異的な粘りで食べ進め、実に全体量の八割を胃に収めて来た。

 しかし、菫の仕掛けた麻辣効果の罠は今や全身を苛み、匠から味覚はおろか、五官全ての感覚をも奪い去ろうとしていた。

 焦点の合ってない虚ろな瞳で丼を見詰め、それでもなんとか食べようと箸を動かすが麺を摘む事すら出来ない。

 そんな匠を、菫は能面の様な表情で静かに見詰めていた。

(勝った……)

 特に感慨も無い。

 亡父の形見であるこのラーメンでまた一人、仇敵であるフードファイターを打ち倒した。

 それだけの事。

 相手が匠であった事も、良心の呵責に苛まれた事も、心のどこかでは彼に食べ切ってほしいと願っていた事も、すべては終わった話。

 そう。それはいつも通りの、あっけない勝利。

 努めてクールに振舞おうとしていた菫であったが、突然聞こえた叫び声に、彼女は激しく驚愕した。

「なにやってんのよ!」

 それは誰の物での無い、自分の声だった。



 ▽



 周りで撮影しているスタッフや無能レポーターが唖然とした顔で彼女を見ている。

「なにやってんのよ! たっくん! その程度の料理を食べられないで、完璧なフードファイターになんてなれるとでも思っているの!?」

(やだ、私何言ってるの?)

「あなたが本気でフードファイターなんかやってこうって言うんなら、こんな料理ちゃっちゃと片付けてしまいなさい!」

 まるで、自分の中にあるもう一つの人格が勝手に動き出したかの如く、菫は叫んでいた。物凄い勢いで罵倒とも激励とも付かない言葉を投げかけている。

「食べなさい! たっくん!」

 菫は自分の頬が濡れている事に気がついた。いつの間にか涙を流していた。


 誰かが叫ぶ声が聞こえる。

 聞いたことのある、耳に心地良く響くこの声は……

「食べなさい! たっくん!」

「菫ちゃん!?」

 匠の瞳に光が戻った。

「頑張って作ったんだから! 残したら承知しないんだから!」

 ぼやける視界で菫を見る。彼女は泣きながら叫んでいた。

「そうだね、菫ちゃん。食べ物を残すのは……良くない事だ」

 そう呟くと匠は優雅に、何事も無かったかの様に箸を取る。そして不思議な爽やかさすら纏った表情ですみれに囁いた。

「では改めて。いただきます」


 司会も、撮影スタッフも、魂を奪われたかの如く二人を見ていた。

 まるで早送りの映像の様な勢いで、それでも動作に気品を残しながら、匠は食べ進めている。

「そう、そうよ。一気に食べてしまいなさい、たっくん。食べて……お願い……」

 匠の隣では、菫が涙を流しながら激励していた。

 見ようによっては、それは有り得ない大きさのラーメンを一気食いしようとしているバカな男と、泣きながらそれを応援している痛い女。それでも彼らの、愚直なまでのひたむきな姿は観る者全てに深い感動を与えていた。

 いつの間にか、司会を含めた全てのスタッフが彼らの周りを取り囲み、スタンディングオベーションで惜しみの無い拍手を捧げている。

 カメラの後ろで事の次第を見ていたプロデューサーの山本が一言、

「いいね」

 と呟いた。

 麺と具材を食べ尽した匠は、気高さすら感じる仕草でレンゲを使い、スープを飲み干す。

 やがて……

「ご……馳走様……でした」

 全てを飲み干した匠が、そっとレンゲをテーブルに置いた。拍手が一際大きくなる。

 所要時間、二十九分五十六秒。

 ここに新たな伝説が誕生した。

 


 ▽



 その夜。

 全てが終わった後。一人店内に残された菫は、いつもの様に両親の遺影を前にしていた。

「お父さん、お母さん、ごめんね。私負けちゃった。でも相手はたっくんなんだもん、しょうがないよね」

 写真を見上げる。

 二人は、心なしかいつもより優しく微笑んでいる様に感じられた。

 今や菫の表情には怒りも悔しさも含まれてはいない。むしろ彼女はここ数年間感じた事の無い、実に清々しい心境を味わっていた。

 菫は翻って、店内に飾られた完食記念の写真を見つめる。

 写真の中の匠は溺死寸前の形相だったが、それでも無理繰り作った笑顔で賞金の十万円を扇状に広げてvサインを出していた。


 撮影が終わった後――

 匠は、菫の両親が眠る墓所に足を運んでくれた。

 そして、顕花した後に、

「同業が働いた行為を、同じフードファイターとして謝罪致します」

 と、彼は頭を下げたのだった。

 自分がフードファイターである事に誇りを持っている彼は、同業者の行った愚行に忸怩たる思いを抱いていたに、違いない。

 しかし、それゆえに同じ『フードファイター』として謝罪をする彼の真摯な心根を、菫はとても嬉しく感じていた。


「ありがとう、たっくん……」

 愛しむ口調で呟いて、写真を手に取り、匠の顔を人差し指で優しく撫で付ける。

 熱い涙がひとしずく、頬を伝ってすべり落ちる。その涙すらも、心地良く感じる事が今なら出来る。


 菫は、自分が復讐の呪縛から解き放たれた事を実感していた。

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