母との(緩慢な)さよなら

myz

「本日は皆様ご列席いただき、誠にありがとうございます」

 母が甦った。

 葬儀のときだった。

 喪主として口上を読み上げ、集まってくれた一同に深々とお辞儀して、顔を上げたときだった。

 会場に小さなひそひそ声が満ちて、やがて大きな喧騒に変わる。

 その中で、白木の棺を叩く、ドンッ、という音がやけにはっきりと聞こえた。

 慌てて棺桶に駆け寄り、蓋を開けると、すっかり肉の削げた腕が空中に向かって、ぶん、ぶん、と振り上げられる。

「お、お母さん?」

 反射的に呟くと、死んだはずの母が手向けられた花々を押し分けて、むくりと体を起こす。

 うぁ、うぁ、と言葉にならない呻き声を上げる。

 ひぃっ、とか、うわぁ、とかいう叫声が場内で上がる。

 ――どういうことだこれは!? とヒロシ叔父さんが立ち上がり、僕の胸倉をつかんで締め上げる。

「いや、だって、その……」

 そうこうするうちに、母はよろよろと立ち上がり、祭壇の段を一歩一歩降り、僕に近寄ってくる。

 そして、僕の首筋を、噛んだ。

 ぶにゅり、と柔らかい感触がする。

 生前から、母は総入れ歯だった。

 なにかのホラー映画みたいに、僕の体の肉を嚙みちぎるような力は、そもそもない。

 ぶにゅぶにゅした感触を与えながら、母がもぞもぞと僕の首筋を咥え続ける。

 うわ、とヒロシ叔父さんが身を引いて、周りの参列客も、生き返った、ゾンビだ、とか叫びながら、ほとんどパニックで、我先に式場の出入り口に殺到して、一散に逃げ出してゆく。

 あとには蹴散らされたパイプ椅子と、僕と、母だけが残されて、母はまだ、僕の首筋をもにゅもにゅと噛み続けていた。

 母が、甦った。


 生前から母の主治医だった斎藤先生は、ディスプレイに目を遣りながら、難しい顔をする。

 そして――まず、お母さまは確実にお亡くなりになっています、と来る。

「はあ」

 僕は曖昧に生返事をする。

 僕の隣の椅子には、その確実に亡くなっているはずの母が腰掛けていて、僕の右手を掴み上げて口元にやり、もにゅもにゅと噛んでいる。

 生者の血肉に飢えていたりなんかするのかは、わからない。ただ、そうしていると落ち着くみたいで、僕はとりあえず母のやりたいようにさせていた。

 ――ですが、これを見てください、と先生の操作する画面の画像が切り替わる――ごくごく微弱ですが脳の活動が復活しています。

「はあ」

 ――脈もありますし、呼吸もあります。

「はあ」

 ――これは私見ですが、お母さまが感染していたウイルスが、なんらかの特殊な変異を起こし、生体の神経伝達機能を肩代わりしているようなのです。

「はあ」

 母の死因は、世界的に流行している感冒症だった。

 そのウイルスが、なんかいい感じにアレをコレしてこうなっている、というのが先生の見解のようだった。

 しかし、先生はあくまで真剣な目つきで――ただ、それもあくまで擬似的なものです、と僕の顔をじっと見つめながら言う。

 ――身体機能は大きく低下した状態ですし……なにより、精神活動が復活しているとは思えません。

「はあ」

 それは、いま僕が実際に体験していることだ。

 いまの母は、赤んぼうよりも頼りないぐらいの足取りで、それも杖を使ったり、掴まり歩きする知能もないようで、摺り足でじわりじわりとしか歩けないし、僕がなにを呼び掛けても、うぁ、うぁ、と言葉にならない呻きを漏らすことしかできない。

 病床に伏すまでは、母は割と活発で、趣味の合唱やハイキングを愉しんでいたらしい。

 そういう母だから、いつかは介護をしないといけないのかな、とぼんやり思いながらも、僕は自由なおひとりさまを続けてこれたし、そういう生活がこれからも当分――いや、これは語弊がある。正直、ずっと――続いていくような気になっていた。

 けれど、実際は呆気ないもので、母があっさりと死んでしまっても、僕はいまひとつ現実感を持てないままでいた。

 そしていま、僕はもっと現実感のない状況に置かれている。

 ――これは、申し上げにくいのですが。

 先生が、哀しそうな、でも強い芯の徹った、人を深く慮る声で言う。

 ――お母さまはこれから、生きているように見えながら、すこしずつ体が崩れていくような状態になっていくと思います。

「はい」

 ――免疫機能も大きく低下していますから、体の腐敗は、確実に進行していきます。

「はい」

 ――そして、最終的に……お母さまは、もう一度、お亡くなりになることと思います。

「はい」

 ――それは、覚悟なさっておいてください。

「はい」

 ――お力になれず、申し訳ありません。

 最後にそう言って、先生は、僕と母に、深々と頭を下げた。


 シンクロニシティ、とかいうやつなのだろうか。

 ウイルスの変異は母に限った話でもなく、全世界、同時多発的に、起こったことのようだった。

 母が甦ったのと時を相前後して、ウイルスに感染して亡くなった人が、生き返る、ということが、頻発していた。

 ウイルスの変異型の呼称は、アルファベットの使える分は使えるだけ使い切ってしまっていたので、この変異種はZ型と呼ばれていて、口さがない世間は、ゾンビにピッタリだ、とか、そういうタチの悪いジョークを飛び交わせた。

 テレビは連日この“ゾンビ騒動”で持ち切りで、朝の情報番組の司会のアナウンサーが、今日も鹿爪らしい顔で番組を進行させる。

 VTRに映ったのは、都内在住の加賀山ユリコさん(56)で、僕の母と同じように、一度死んで、それから生命活動を再開させた老母を、甲斐甲斐しく世話する彼女の様子が、ひとつの美しいストーリーとして流された。

 ――これが最後の親孝行だと思っています、と、加賀山さんは明るく笑う。

 その背中に覆い被さった加賀山さんの母のトシコさんが、加賀山さんの首筋に嚙みついてもにゅもにゅしている。

 いまの僕と同じ状況だ。

 リビングのカーペットにあぐらをかいて、テーブルに頬杖をつきながらテレビを眺める僕の背中にしがみついて、母が僕の首筋をもにゅもにゅしている。

 僕は母を世話することにした。

 事情を話すと、人事部の担当者はみょうに僕に同情的で、まとまった休みを取れるように手配してくれた。

 ――お辛いと思いますが、あまり思い悩みすぎないように……。

 気づかわしげにそう言われて、僕は会社を辞すると、身の回りのものをまとめ、実家に戻った。

 母の世話をするのを、テレビの中の加賀山さんのように、これが親孝行だ、と胸を張って言えるような自信は、僕にはまったくない。

 ただ、母がもう一度死ぬまで、人ではない、ただの動く死体としてぞんざいに扱われるのが、しのびない、と思えただけだ。

 実際、世間にあるのは加賀山さんの事例のような美談ばかりではない。

 始まったニュースコーナーでは、“特定蘇生者”(これが政府の決めた一応の呼称だった)が老人ホームの前や、役所の前なんかに放置されるという事例が、各地で少なからない件数、発生しているという報道が流れる。

 その次には、男性が生き返った老父を、包丁で刺して殺した(?)、というニュース。警察はその被疑者の男性を、“死体損壊”の容疑で逮捕して、取り調べを進めているという。

 誰も彼もが混乱していた。

 国会でも、この“特定蘇生者”の扱いを巡って日夜侃々諤々の議論が繰り広げられているし、各省庁でも連日の会議で担当者は寝る暇もないという。

 なんだか途端に気鬱になって、僕はテレビの電源を切った。

「お母さん、お昼にしようか」

 時刻はちょうど正午になるくらいだ。

 僕の言葉に、うぁ、うぁ、と呻き声を返して、再び僕の首筋をもにゅもにゅする作業に戻ろうとする母をやんわりと押しのけて、僕は台所に向かう。

 母には、ほとんど米の形が残らないくらいにゆるく作った薄いお粥と、野菜ジュースを用意する。

「ほら、お母さん」

 目の前に差し出された僕の指先をかじろうとする母をなだめながら、ゆるいお粥をスプーンで口に運ぶ。

 口元にまで近づけると、それが食べられるものだ、と認識するのか、わりと素直に母はそれを口に含む。

 すこしづつ、何回もその動きを繰り返し、母にお粥を食べさせると、吸い飲みに移した野菜ジュースを、これもゆっくりと、何回かに分けて、飲ませる。

「はい、よく食べれました」

 そんな言葉をかけながら、すこしお粥やジュースがこぼれてしまった口元を拭いてあげると、母はなんとなく上機嫌な様子で、うぁ、うぁ、と呻く。

 育児ってこんな感じなのだろうか、とふと思う。

 どうにもそういうことに縁のないまま四十間際になってしまい、結局、母に孫の顔を見せることができなかったのは、後悔のひとつと言えば、そうだった。

 ふと、もう一度テレビをつけると、ニュース番組のローカル局のコーナーになっていて、新緑の中、女性アナウンサーが山の魅力について語っている。

「……お母さん」

 うぁ、うぁ、と、母。

「山でも登ろうか?」


 通販で取り寄せた介護用のおんぶ紐で、背中に母をしっかりと結わえ付け、水筒なんかをいれたバッグを抱えて、僕は家を出る。

 初夏とはいえ外はうだるような暑さで、こまめに水分を摂りながら(母にも摂らせながら)僕は山に向かう。

 山、といっても、大層なものではない。近所のごく小さな山で、全体が公園として整備されている。山頂近くには桜が植えられていて、時期になると花見客で結構賑わう。

 そのゆるい坂道を、母を背負って登る。

 山道に他の客の姿はなく、大した時間もかからずに山頂に着く。

 僕はバッグからピクニックシートを取り出して適当なところに敷くと、おんぶ紐を解いて母をその上に座らせる。

「大丈夫だって。どこにも行かないよ」

 僕を見上げて、うぁ、うぁ、と呻く母をなだめながら、僕もシートに腰を下ろすと、バッグから昨日スーパーで買ったサンドイッチを取り出して、かじる。左腕に縋りついた母が噛みついてくる、もにゅもにゅとした感触を感じながら、僕はぼんやりと景色を眺めながら、サンドイッチを咀嚼する。

 桜の季節はとっくに終わっていたが、鮮やかな緑を誇らしげに広げる葉桜は美しかった。

「ねえ、お母さん」

 吸い飲みのお茶を飲ませながら、僕は母に声をかけてみる。

「時々、こうやって出かけてみようか?」

 うぁ、うぁ、と、母はどこかうれしそうに呻いた。


 それから、母とあちこち旅をした。

 最初は近所を散歩する程度だったが、段々と電車に乗って観光地に遠出したりするようになった。

 明らかにいま世間で話題の“ゾンビ”を背負って歩く僕に、奇異の視線を向ける人ももちろんいたけれど、世間は意外と優しかった。

 時々、僕と同じように“特定蘇生者”になったご家族だろう人を伴って歩いている方と出会うこともあった。

 そういう時は、そちらも大変ですね、と曖昧な微笑を浮かべて目礼を交わすのが常だった。

 穏やかな無関心。

 そういうところは、この国の人間の美徳なのかもしれない、と、そんなことを思う。

 広島で、厳島神社の大鳥居の向こうに沈んでゆく夕陽を見た。

 奈良と京都で、寺社仏閣巡りをした。

 六合目までだったけれど、富士山にも登った。

 いろいろなところに行った――

 そういう時間が、三ヶ月ほど流れた。

「朝だよ、お母さん」

 その日も僕は母の寝室のカーテンを開けながら、布団の上の母に呼びかけた。

「……お母さん?」

 “特定蘇生者”は光に敏感になるそうだった。

 母も、僕が部屋のカーテンを開けると、朝の光を察知して、うぁ、うぁ、と声を上げて目覚めるのがいつものことだった。

 しかし、その反応がない。

 母は、布団の中でじっと動かない。

 白く濁った半開きの母の眼に、じじ、と羽音を立てて、蠅が止まった。

 すとん、と視界が低くなる。

 腰が抜けた、ということに、しばらく僕は気がつけなかった。

 這いずるように母の枕元に寄り、震える手で母の顔に触れると、生き返ってからの母の仄温かい体温はそこには残っていなくて、ただ死のひやりとした温度があった。

 僕はしばらく呆然と母の顔を眺めて――ふいに視界がぼやりと滲んだ。

「うわああ……」

 自然と喉から音が溢れ出してくる。

「うわああああああああああああああああ……」

 母の枕元に蹲って、いい年をしたおじさんが子どものように泣きじゃくる光景はさぞかしみっともないものだろう。

 そういうどこか冷静な自分もいる。

 だけど、熱いものは次から次へと眼から流れ出してきて、喉は壊れたように音を垂れ流し続けた。

 母が死んでから、初めて流した涙だった。

 心のどこかで、もうその時が近いというのは分かっていた。

 母と旅行をするようになったころには、もう母は自力で歩くこともできなくなっていて、僕がおぶって歩くしかなかった。

 この頃食欲も失せてきていたし、うぁ、うぁ、と呻く声も、どんどん元気がなくなってきていた。

 僕が口元に手を寄せると、それを咥えようとする顎の力も、生まれたての子犬よりも弱いぐらいに小さなものになっていて――

 分かっていた。

 じきにこうなるということは、とっくに分かっていた。

 だけど、離れて暮らしていた時のように、この緩慢な別れの時間が、いつまでも続くものであるかのように、僕は思い込んでいた――思い込もうとしていた。

 思えば、きちんと母離れ、子離れができない親子だったと思う。

 母はいくつになっても僕のことを“コウちゃん”と呼んだし、実家から仕事に通っていた頃は、家の事は母が全部やってくれて、僕もそれに若干の後ろめたさを感じつつも結局甘えていた。

 三十路も過ぎると、そういう関係がどこか気恥ずかしくなって、僕は転職をして田舎を出たけれど、月に一度は母から電話がかかってきたし、時折、大学生への仕送りでもあるまいに、食料品が詰まった段ボール箱が送られてくることも続いたが、僕も殊更にそれを拒否することはしなかった。

 いつまで経っても、僕は母にとって世話を焼かずにはおれない“コウちゃん”だったし、母は僕にとって都合よく自分を甘やかしてくれる“お母さん”だった。

 でも、それならそれでよかったんじゃないか。

 前の関係性に引き戻されそうな気がして、都会に出てからの僕は滅多に母の暮らす実家には帰らなかったし、親孝行と言えるようなこともしてこなかった。

 母がこうなってから、初めて母の身の回りの世話をした。初めて母と旅行をした。

 だけど、そんなものは全部ただの自己満足だ。

 母が生きているうちに、もっと伝えたいことを伝えればよかった。ありがとう、と言えばよかった。もっと顔を見せて、都合がつけば一緒に旅行にも行けばよかった。

 マザコンだって言われても構わないじゃないか。

 もっともっと、いろんなことをしてあげればよかった。

 体中を、後悔だけが渦巻いて、止めようもなく荒れ狂う。

 それが涙と叫び声に変わって、僕の眼と口から流れ出し続ける。

 それもついに枯れて、ひゅうひゅうと掠れた吐息が漏れるだけになった頃、やっと僕は改めて母の死に顔を見つめることができた。

 母がどこか穏やかに微笑んでいるように見えたのは、確実に僕の気のせいだろう。

「母さん」

 そうして僕は――

「さよなら、母さん」

 そうして僕は、ようやく母にさよならが言えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

母との(緩慢な)さよなら myz @myz

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説