春夏秋冬は明日へ去る

杜松の実

          


 女の子が目を覚ましたのはその余りの寒さからだった。上体を起こしおもむろに顔を回す。暗かった。それが彼女の見る初めての光景で、その時が彼女の始まりだった。目覚めた部屋は円形で十六の窓が等間隔に並んでいる。

 窓の外は夜。切り取られた夜は部屋の中よりも明るい。部屋は夜より暗かった。女の子の寝ていたベッドは部屋の中央、どの窓からも一番遠い、部屋の一番暗い所にあった。女の子は立ち上がりベッドから跳ね降りた。ワンピースの裾が花開き冷気が刺し込む。降りた石造りの床は氷。彼女に身震いをさせる。

 女の子はそれまでくるまっていたガウンをベッドの上から剝ぎ取り頭から被った。ガウンは彼女の体には随分大きく半分は床をずれていた。彼女は窓辺に寄った。窓は高く鼻先がようやく窓枠から出る。それでも彼女は外を臨んだ。振り落ちる雪は白かった。ゆっくりだった。それでも山の化粧は仕上がっていた。積もる冷たさに枝をたわめ、獣路に動く影はない。山は澄んでいる。山は澄まして雪を受け入れている。女の子は広がるその景色を見下ろして涙を流していた。それが彼女の流した初めての涙だった。風花かざはなんだ肌へ流線を引く。一本の竹がしなりを解いて雪を跳ね飛ばす。その音が窓の外を齧り付く彼女の耳へ届いた。

 遠く尾根が燃え上がり赤くなる。火は空を染め夜を食べていく。夜は易易と食べられたりしない。星がひとつひとつ火の中にべられていく。尾根に朝の気配がほとばしる。

「春よ、来い」

 窓枠に肘を載せ彼女が愉快にさえずる。太陽が頭を覗かせ朧な大地が陰となる。空が従となり、紺からこうへと濃淡パノラマを演出する。夜は今に気が付き姿を消した。太陽が夭夭ようようと昇る。色彩に還った物から雪解けしていく。裸の枝に緑が芽吹く。遠く白や薄紅の花が咲いていく。涸れ川に満満たる流れが戻る。鳥や鹿が水辺に集まっていた。少女はそれらみなを受けて泣いていた。それが彼女の二度目の涙だった。

 彼女は窓辺を離れて台所へと行き朝食の準備に取り掛かった。熱したフライパンに薄切れベーコンを二切れ入れた。油が熔け出て香り立つ。バケットから卵を二つ取り出しそれもフライパンに落とした。油の跳ね音にこころ躍る。目玉焼きが焼けている間にライ麦パンを二片切り出し網に置いて焙った。

 少女は春一番に振り返る。十六の窓それぞれに青空があった。どの青空も風を吐き、思い思いに風を吸った。暖かさを残していく風。まだどこか寒さの残る風。緩く彼女を包んで拡がる風。ひゅっと駆け抜けていく風。静かな風。そして、湿った風。思い思いの風があった。

 少女はなんとかベッドを部屋の隅にずらすと、中央にガウンを拡げて敷いた。そこに胡坐あぐらを組んでサンドイッチを食べ始めた。だんだんと黄身が潰れてパンに染みていく。

 部屋には本棚があった。棚は円形の部屋に沿って弓ナリだった。上から六段は詰まっており下七段には何も収まっていなかった。一段に優に三百冊は入っている大規模な棚だった。少女はなんとか手の届く四段目の棚から一冊抜き表紙を改めた。また棚のあちこちから四冊ほど出鱈目に重ねてサンドイッチの元に戻った。

 サンドイッチを片手に、敷いたガウンに本を置き空いている片手で押さえて開いた。恋愛小説だった。序盤も読み終わらぬ内にサンドイッチは食べ終えた。彼女は窓から陽の射すロッキングチェアに移り続きを読んだ。第一部を終えてもう満足と他の抜き出した本と共にベッドの上に重ねて放置した。

 ロッキングチェアに揺られて少女が見詰める天井。向かう机に便箋と万年筆が出され何も書かれていない。手近な窓から繁茂したつたが部屋の内まで伝っていた。彼女は揺れを抑えて立ち上がり、窓に頭を突っ込んだ。顔を舐める光る風に目を細める。

 彼女の部屋は塔だった。高さは物見櫓ほどであり虚脱するまでの高さはないがとても飛び下りられる高さではなかった。彼女は首をすくめた。自然、窓枠を掴む手に汗が濡れる。髪を風に任せてなびかせ徐に下を向いた。円塔と同心円形に青い芝が広がり向こうは森となっていた。芝へと続く道はひとつ、先は森の中へと消えている。野花が赤に白にと区区まちまちに咲いているだけで後には何もない芝だった。

 小さな蟻が蔦を登って来た。蟻は窓まで達すると迂回して少女の顔を横通りして行った。蟻に合わせた少女の視線は引っ張り上げられて上を向く。蔦はどこまで続いているか。塔の先は切れて見えなくなっていた。蟻もまたその小さくなっていく背は切れた塔の先へと消えていった。

 少女は床に広がるガウンを引っ掴み袖を通し、窓に足を掛けた。蔦を握って丈夫を確かめ、一方の足も窓に上がった。身を翻して半身を外へ出した。蔦は一杯に引いても丈夫だった。彼女は蔦を頼りに塔を登り始めた。つらりつらりと登る中、一度も下は向かなかった。

 塔は尖塔だった。円柱に同径の円錐が乗っかっているだけの造作無い造りだった。石色の石造りの塔は円錐型の屋根だけが赤煉瓦造りだった。煉瓦は何条もの風化を刻み、それを誇りに風格を醸し出していた。尖端に錆びたポールが立っている。

 屋根に立って彼女は額の汗をガウンの袖で拭った。息が僅かに上がっている。ガウンを脱ぎ両袖を紐にしてポールに結び付けた。ガウンが風に誘われて青空を泳いだ。ガウンは泳げどその背後の雲は佇むばかり。父なる雲は雄大に発達してどこへも去らない。ほどけたガウンがんだ。風に舞い上げられたガウンは二転三転して宙を転がり森に沈んだ。森の先、山の麓に陽炎かげろうに浸る小さな集落がある。塔に止まっている蝉が鳴き出した。

「夏が来たや」

 彼女は部屋の掃除を始めた。天井に張られた蜘蛛の巣をはたきで払っている。埃の被ったランプを磨いたりもした。書机の水差しに入った枯れた風信子ヒヤシンスを窓から捨てた。女はワンピースの袖を捲り赤い三角巾を口元に当てた格好で、今度は本棚の掃除に取り掛かった。顎先から汗が滴る。最上段の本を降ろして空いた棚を白巾ぞうきんで拭く。戻す前に本の天に積もった埃を乾巾で一冊一冊掃った。そうして二段目に取り掛かっている。

「おおい。クレールさーん」

 あどけない声が塔の外から上がって来た。つぐみ一郎は夏休みになるとお盆に合わせて麓の村にある祖父母の家に来ている。昼時には決まって「山の赤えんぴつ」に遊びに来た。女が窓より顔を覗かせると一郎と目が合った。彼女は目を見開き、薄く息を吸った口が閉じない。一郎が行ってもいいかと尋ねると女は微笑んで手招きする。一郎は小さな体で軽軽と蔦を登って部屋へと入る。二人は昼食にとパスタを作った。ソースには蔦に実った赤い丸い実を使った。食後に女が紅茶を出す。太陽の色をしていた。

 一郎は口を動かしながら掃除を手伝っている。女も一郎と話すのを楽しそうに笑っている。彼女が棚から本を降ろして棚を拭き一郎が本の埃を掃う。戻すには彼女しか届かず、その間一郎は本の入っていない下段を拭いていた。それを直ぐに終えた一郎は女が返す手順に当たっている床に重ねられた本らの中から一冊を開いた。恋愛小説らしかった。恋愛小説だった。

 本棚を済ませた二人は台所やら書机やらテーブルやらを綺麗にしていく。壁も磨く。真夏の暑い盛りであるから二人して脇に胸元に染みをつくって精を出している。陽が愈愈いよいよ傾きを現し始めた。

「さよならクレールさん。またね」

 一郎が蔦を降りて行った。帰り際ひとつの球根を置いて行った。バケツに水を溜めモップを突っ込み床を擦る。一年分の汚れがみな洗い流されていく。窓模様が夕立へと変わった。女はモップを手に窓に寄り、芝へと続く雨烟あめけぶりの中の小道から一郎を思い出している。蕺草どくだみの白い花が雨に打たれて腐る。

 夕立が上がり女の掃除も終わった。茜色の光線が十六の窓から部屋を満たしている。土と草の匂いも立ち込める。彼女は歌をうたいながら道具を片付けている。隅にやったベッドを中央へと戻しシーツを整える。ベッドに今朝抜き出した四冊の本が重ねて置き忘れてあり、それを本棚の末尾に収める。

 ロッキングチェアに深く体を預けゆらゆらと天井を眺めて口遊む歌は一郎から教わったものだった。出してあった便箋は掃除の折に仕舞った。そいつをまた出して筆を執る。今日一日の日記を書いていると、

「あら」

 彼女が見付けたのは秋の訪れだった。窓にい入る蔦の葉が黄葉している。鬼灯の実は灰燼然と白く生気を逸し、葉脈を残して枯れ網目模様となっている。彼女は万年筆を握る手を放して顔の前に掲げる。白く薄くなった皮膚に血脈が浮き出ている。老女は他方の手でその手を包み後ろを振り返る。

 灼熱の太陽が地平に沈もうと辺りを焼いている。地平は燃え尽き真黒い陰となり、余炎だけが空のそれも下方に残されている。太陽を沈めるは向かいより押し寄せる白んだ夜だ。新涼の夜から繊月せんげつが昇り始める。とうとう太陽が全く沈火してしまい余炎だけが仄かに残る。老女は温かな紅茶を自分の為に淹れた。

 月は昇る毎に満ちてゆき三日月ほどになっている。ランプに火が入れられている。揺らぐ老女の影法師が何やら話しかける。彼女はロッキングチェアに腰掛け毛糸のガウンを編んでいた。鈴虫やらの声がりんりんちんちろりんと色のない風に連れられて入って来る。日記に書き損ねた昼間の事をふと思い出し口元に笑みが咲く。書き足すことも検討してみたが全体の構図を再考せねばならなくなる為止めた。視界は霞み二度は編み順を違えた。腰が痛く何度も立ち上がり筋を伸ばし、その度に編みかけのガウンを恨めしく見下ろした。

 編み終える頃には満月になり夜が満ちていた。月は高らかに人恋しの気配を孕んでいる。仲秋らしく星が瞬きつうっとすべる。流れ星は月の光の笠に消えた。老女ははっと息を呑むばかりで祈る願いを持たない。ランプを吹き消し部屋を夜に溶け込ませる。虫の声はもう聴こえない。風は死に乾いた葉を鳴らす者は居ない。月光だけが滲み入る部屋は今朝の光景によく似ている。老女がしゃがみ込んで触れた床は冷たく僅かに砂があった。砂は虫の声と共に乗って来たのか。手を払いベッドへ横たわりガウンに包まった。ガウンからは毛糸の匂いしかしない。虚空に向けて歌い出す。



     あと少しだけ 僕は眠らずに

     部屋を暗い海だとして 泳いだ 泳いだ

     あと少しだけ 僕は眠らずに

     潜り込んだ布団の砂でほら 明日を見ないようにしてい *



 口をつぐむ。青鷺あおさぎが鳴いたのだ。それきり歌うのは止して眠る積もりでいた。しかしようようと寝入れずに居る。老女の目は愈愈暗闇に慣れ夜に溶けた筈の部屋が隅隅まで把握される。老女は目を閉じる。そこには春の風があり夏の暑さがあり今、秋の香りを噛み締めている。それらは次に来るものを予感させる。老女は肩のガウンを強く握った。それが彼女の流した最後の涙だった。心の奥が沸いてしまいメロディが口を衝く。




     夢よ傍に来て

     こんな静かな夜にひとり

     曖昧に消える私が居る



     明日も君は ここに来て

     私に代わった私を

     見付けて微笑むわ つれないのね



     眠ってしまえば 何も残らない

     私は何故ここに居るの

     雨が降れば 君はもう来ない

     ひとり今ここで泣くの

     それでも季節はめぐる

     夢よ連れて行って ここは寒いから



     怖くなる 私はもう居られない 夜が薄くなる

     こうして目を閉じると君が居る

     昨日の私を訪ねて 私と出会う

     どうでもいい もう一度会いに来て 欲しかった



     ああ 知りたくないこの言葉を

     東西ひがしにしへ ふたりとひとり

     きっと ずっと 探し続けるのでしょう?

     ああ 知られたくないこの思いを

     去りし日日よ あすへとわたし

     きっと ずっと 刻み続けるのでしょう

     そうして季節はめぐる

     夢よ連れて行って



     もどかしい 私はもう居られない 夜がかしましい

     こうして目を閉じると君が居る

     君は私を忘れて 私と出会う

     それでもいい 私に会いに来て あげて



     朝よ さあ

     君はそこに居る?




 鶫一郎は冬休みになるとお正月に合わせて麓の村にある祖父母の家に来ている。紅白歌合戦を見終え初詣に行った帰り、ひとり山の赤えんぴつまで登った。月は疾うに隠れ星明りだけが頼りだ。深閑とした森に響く凍裂とうれつに思わず首を竦める。森を抜けるとぽっかりと芝が広がり中央に赤い屋根の尖塔が、黒い夜空の前に殿と立っている。一郎が塔に延う枯れた蔦を引くと簡単に千切れた。一郎は塔に背を当てしゃがみ込んだ。木木のシルエットの上に満ちる星星は綺麗だった。一郎の着ているコートはそろそろ丈が合わなくなっており着られるのも今季が最後だろう。故にやや窮屈で手先が寒い。しばらく待っていると、たんっと小さく石を打つ音がする。一郎が立ち上がり見上げて数歩後退あとずさると塔の窓に小さな女の子が居た。女の子はそのまま動かず一郎も黙って立っている。ほんの数分で女の子の姿が忽然として明日あすへと消えた。一郎の後ろでフクロウが鳴く。

























 ――春夏秋冬ひととせ明日あすへ去る―― 〈完〉

























         *「ネプトゥーヌス」2012年 サカナクション

                         作詞・作曲 山口一郎
























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