春夏秋冬は明日へ去る
杜松の実
女の子が目を覚ましたのはその余りの寒さからだった。上体を起こし
窓の外は夜。切り取られた夜は部屋の中よりも明るい。部屋は夜より暗かった。女の子の寝ていたベッドは部屋の中央、どの窓からも一番遠い、部屋の一番暗い所にあった。女の子は立ち上がりベッドから跳ね降りた。ワンピースの裾が花開き冷気が刺し込む。降りた石造りの床は氷。彼女に身震いをさせる。
女の子はそれまで
遠く尾根が燃え上がり赤くなる。火は空を染め夜を食べていく。夜は易易と食べられたりしない。星がひとつひとつ火の中に
「春よ、来い」
窓枠に肘を載せ彼女が愉快にさえずる。太陽が頭を覗かせ朧な大地が陰となる。空が従となり、紺から
彼女は窓辺を離れて台所へと行き朝食の準備に取り掛かった。熱したフライパンに薄切れベーコンを二切れ入れた。油が熔け出て香り立つ。バケットから卵を二つ取り出しそれもフライパンに落とした。油の跳ね音にこころ躍る。目玉焼きが焼けている間にライ麦パンを二片切り出し網に置いて焙った。
少女は春一番に振り返る。十六の窓それぞれに青空があった。どの青空も風を吐き、思い思いに風を吸った。暖かさを残していく風。まだどこか寒さの残る風。緩く彼女を包んで拡がる風。ひゅっと駆け抜けていく風。静かな風。そして、湿った風。思い思いの風があった。
少女はなんとかベッドを部屋の隅にずらすと、中央にガウンを拡げて敷いた。そこに
部屋には本棚があった。棚は円形の部屋に沿って弓
サンドイッチを片手に、敷いたガウンに本を置き空いている片手で押さえて開いた。恋愛小説だった。序盤も読み終わらぬ内にサンドイッチは食べ終えた。彼女は窓から陽の射すロッキングチェアに移り続きを読んだ。第一部を終えてもう満足と他の抜き出した本と共にベッドの上に重ねて放置した。
ロッキングチェアに揺られて少女が見詰める天井。向かう机に便箋と万年筆が出され何も書かれていない。手近な窓から繁茂した
彼女の部屋は塔だった。高さは物見櫓ほどであり虚脱するまでの高さはないがとても飛び下りられる高さではなかった。彼女は首を
小さな蟻が蔦を登って来た。蟻は窓まで達すると迂回して少女の顔を横通りして行った。蟻に合わせた少女の視線は引っ張り上げられて上を向く。蔦はどこまで続いているか。塔の先は切れて見えなくなっていた。蟻もまたその小さくなっていく背は切れた塔の先へと消えていった。
少女は床に広がるガウンを引っ掴み袖を通し、窓に足を掛けた。蔦を握って丈夫を確かめ、一方の足も窓に上がった。身を翻して半身を外へ出した。蔦は一杯に引いても丈夫だった。彼女は蔦を頼りに塔を登り始めた。つらりつらりと登る中、一度も下は向かなかった。
塔は尖塔だった。円柱に同径の円錐が乗っかっているだけの造作無い造りだった。石色の石造りの塔は円錐型の屋根だけが赤煉瓦造りだった。煉瓦は何条もの風化を刻み、それを誇りに風格を醸し出していた。尖端に錆びたポールが立っている。
屋根に立って彼女は額の汗をガウンの袖で拭った。息が僅かに上がっている。ガウンを脱ぎ両袖を紐にしてポールに結び付けた。ガウンが風に誘われて青空を泳いだ。ガウンは泳げどその背後の雲は佇むばかり。父なる雲は雄大に発達してどこへも去らない。
「夏が来たや」
彼女は部屋の掃除を始めた。天井に張られた蜘蛛の巣を
「おおい。クレールさーん」
一郎は口を動かしながら掃除を手伝っている。女も一郎と話すのを楽しそうに笑っている。彼女が棚から本を降ろして棚を拭き一郎が本の埃を掃う。戻すには彼女しか届かず、その間一郎は本の入っていない下段を拭いていた。それを直ぐに終えた一郎は女が返す手順に当たっている床に重ねられた本らの中から一冊を開いた。恋愛小説らしかった。恋愛小説だった。
本棚を済ませた二人は台所やら書机やらテーブルやらを綺麗にしていく。壁も磨く。真夏の暑い盛りであるから二人して脇に胸元に染みをつくって精を出している。陽が
「さよならクレールさん。またね」
一郎が蔦を降りて行った。帰り際ひとつの球根を置いて行った。バケツに水を溜めモップを突っ込み床を擦る。一年分の汚れがみな洗い流されていく。窓模様が夕立へと変わった。女はモップを手に窓に寄り、芝へと続く
夕立が上がり女の掃除も終わった。茜色の光線が十六の窓から部屋を満たしている。土と草の匂いも立ち込める。彼女は歌をうたいながら道具を片付けている。隅にやったベッドを中央へと戻しシーツを整える。ベッドに今朝抜き出した四冊の本が重ねて置き忘れてあり、それを本棚の末尾に収める。
ロッキングチェアに深く体を預けゆらゆらと天井を眺めて口遊む歌は一郎から教わったものだった。出してあった便箋は掃除の折に仕舞った。そいつをまた出して筆を執る。今日一日の日記を書いていると、
「あら」
彼女が見付けたのは秋の訪れだった。窓に
灼熱の太陽が地平に沈もうと辺りを焼いている。地平は燃え尽き真黒い陰となり、余炎だけが空のそれも下方に残されている。太陽を沈めるは向かいより押し寄せる白んだ夜だ。新涼の夜から
月は昇る毎に満ちてゆき三日月ほどになっている。ランプに火が入れられている。揺らぐ老女の影法師が何やら話しかける。彼女はロッキングチェアに腰掛け毛糸のガウンを編んでいた。鈴虫やらの声がりんりんちんちろりんと色のない風に連れられて入って来る。日記に書き損ねた昼間の事をふと思い出し口元に笑みが咲く。書き足すことも検討してみたが全体の構図を再考せねばならなくなる為止めた。視界は霞み二度は編み順を違えた。腰が痛く何度も立ち上がり筋を伸ばし、その度に編みかけのガウンを恨めしく見下ろした。
編み終える頃には満月になり夜が満ちていた。月は高らかに人恋しの気配を孕んでいる。仲秋らしく星が瞬きつうっと
あと少しだけ 僕は眠らずに
部屋を暗い海だとして 泳いだ 泳いだ
あと少しだけ 僕は眠らずに
潜り込んだ布団の砂でほら 明日を見ないようにしてい
口を
夢よ傍に来て
こんな静かな夜にひとり
曖昧に消える私が居る
明日も君は ここに来て
私に代わった私を
見付けて微笑むわ つれないのね
眠ってしまえば 何も残らない
私は何故ここに居るの
雨が降れば 君はもう来ない
ひとり今ここで泣くの
それでも季節はめぐる
夢よ連れて行って ここは寒いから
怖くなる 私はもう居られない 夜が薄くなる
こうして目を閉じると君が居る
昨日の私を訪ねて 私と出会う
どうでもいい もう一度会いに来て 欲しかった
ああ 知りたくないこの言葉を
きっと ずっと 探し続けるのでしょう?
ああ 知られたくないこの思いを
去りし日日よ あすへとわたし
きっと ずっと 刻み続けるのでしょう
そうして季節はめぐる
夢よ連れて行って
もどかしい 私はもう居られない 夜がかしましい
こうして目を閉じると君が居る
君は私を忘れて 私と出会う
それでもいい 私に会いに来て あげて
朝よ さあ
君はそこに居る?
鶫一郎は冬休みになるとお正月に合わせて麓の村にある祖父母の家に来ている。紅白歌合戦を見終え初詣に行った帰り、ひとり山の赤えんぴつまで登った。月は疾うに隠れ星明りだけが頼りだ。深閑とした森に響く
――
*「ネプトゥーヌス」2012年 サカナクション
作詞・作曲 山口一郎
春夏秋冬は明日へ去る 杜松の実 @s-m-sakana
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