八部 春霖
アントン区は、様々な貿易品が行き来する。その移動のために使う馬車は、揺れにより品物が壊れないよう、床を鎖で吊って、衝撃を和らげられる造りになっていた。
そのため、中の居心地は悪くはなかった。換気のために空いた小窓から入った夜の冷たい風が、じんわりと汗のかいた肌をさすり、気持ち良かった。
「すみません。私のせいで、こんな時間になってしまって」
「いいえ。気にしないでください。むしろ、ニムナさんには感謝しています」
カザンとべリリアンは、
逆に言えば、中央区以外での感染者の扱いは、以前とさほど変わっていないと言えた。だが、重要な仕事を多く任される立場にあるカザンとべリリアンは、中央区から出ることがなかったため、そのことを知る由もなかった。
ニムナがカザンたちに見せた現実は、彼らの想像を絶するものだった。
……恐らく、アンとラングも、ニムナと同じような経験をしてきたのだろう。二人きりにしてほしい、と頼まれたので、二人はカザンたちとは違う馬車に乗っていた。アンとラングの乗った馬車は、カザンたちの前を進んでいた。
耳の良いニムナには、きっと、前の馬車での、二人の会話が聞こえていたのだろう。ときおり、口を固く結んでいた。
「ニムナさんの方こそ、大丈夫なんですか? こんな時間に観星舎に戻って」
ニムナの隣に座っていたべリリアンが聞いた。ニムナの様子に気がついたのだろう。そっと寄り添うような、優しい声だった。
「ええ。問題ありません。私に仕事なんてありませんから」
静かな時間は、ゆっくりと過ぎていく。ガタガタと車輪が回転する音だけが、絶えず聞こえていた。
その中に、ニムナは異変を感じ、身じろぎした。
次の瞬間、馬がけたたましく
「みなさん!」
アンが、カザンたちの馬車に駆け寄り、カザンたちに声をかけた。アンの表情は切迫しており、明らかな動揺が見て取れた。
「私達の乗ってた馬車が襲撃されました! 今すぐクワルマ地区に引き返してください!」
アンは、
ラングが外に出た瞬間、顔に風を感じ、しゃがんだ刹那、頭の真上で、ひゅう、と風を切る音が聞こえた。
距離を開けた瞬間、凄まじい殺気が、アンに迫った。ラングが反応するより早く、アンの乗った車ごと破壊され、吹き飛んだ。だがその時にはもう、アンはカザンたちのもとへ駆けていた。
アンの魔術は特別だった。まだ、アンが自身の魔術を知らなかった頃、彼女はよく行方をくらませていた。数日すると、町の外れで、泣いているアンが見つかる、というのが毎度のことだった。
アンが自身の魔術のことを知った時、彼女は周りの大人に、「魔法が使えるようになった」と言いふらしてしまった。幸いにも、アンの唯一の親である母は、アンのことを守ろうとした。だが、そのせいで、アンは母親を失ってしまった。アンが、ラングと共に中央区に来たのは、居場所を失わないためでもあった。
アンが遠くに行ったのを見ると、それは、ラングに向き直った。向き合ってる相手は、カザンと同じくらいの、若い男だった。服は返り血に染まり、荒く呼吸を吐いていた。〈追跡者〉たちから、カッサルと呼ばれていた青年は、何かに操られているかのような、不自然な動きで、ラングに襲いかかった。
ラングの喉を掴みに来た手を、半身になって避けながら、
カッサルは、絡めるように腕を巻き取ると、万力のような力で、ラングの腕を捻り上げた。腕が
ラングが、カッサルの頭を飛び越えた時、微かに空気が揺れた。するりと、ラングの腕が抜け、カッサルが吹っ飛んだ。
「ありがとう」
隣にいるアンに、ラングが短く言った。二人は、剣を抜き放ち、構えた。アンに吹っ飛ばされたカッサルは、既に立ち上がり、こちらを警戒するように、身を低くしていた。
ラングたちを相手にしてはいけない、と思ったのか、カッサルからは敵意は完全に消えていた。僅かに睨み合いが続いたあと、カッサルは森に姿を消した。
「……殺気が消えたな」
「油断しないで。奇襲をしかけてくるかも」
姿は見えなかったが、大きく恐ろしい気配が、森の中を蠢いているのが、はっきりと感じられた。
獣のような気配が、ラングたちの横を駆け抜けた。同時に、アンの姿が煙のように消え、直後、やや後ろで鈍い音が響いた。ラングが糸を手繰るように手を動かすと、カッサルの体が、ラングのもとへ引き寄せられるように飛んだ。
ラングは、飛んできたカッサルの後頭部に、アンは喉に、精確に拳を打ち込んだ。確かな手応えと同時に、殴った皮膚の下で、何かが動く、奇妙な感触がした。首の骨が砕け、喉を潰されても、カッサルの動きが止まることはなかった。
カッサルが、アンの腕を掴んだ。放り投げられる寸前、アンは魔術を使い、姿を消した。その一瞬の間に、カッサルは振り向きざまに、ラングの顔に裏拳を放っていた。
ラングは、それを腕で受けて、流したが、骨が砕けたかと思うほど、重い一撃だった。
まともに当たれば致命傷になりえる、カッサルの攻撃を避け続けるのは、精神をぎりぎりと削る行為だった。現れては消えるアンを相手にするのは、骨が折れると判断したのか、攻撃はラングに集中した。
ラングが、カッサルの注意を引き、アンが攻撃を加える。二人の見事な連携により、カッサルは次第に押され始めた。それでも、斬られたそばから再生していく体に、成す術もなかった。
アンの魔術も、長くは保たない。あらゆる魔術は、長時間の使用や、連続での使用を続けると、身体が限界を迎えてしまう。その上、アンの魔術は、消耗が激しかった。
アンは魔術を使って、ラングとカッサルの距離を開けると、息を切らして早口に言った。
「まだいける?」
「ああ、なんとか」
「私の方は、もう限界が近い」
「分かった。足を狙うぞ」
ラングは頷くと、再び、カッサルと
ラングとカッサルが、同時に地を蹴り、一気に間合いを詰めた。カッサルが繰り出した右の拳に沿わすように、ラングは左腕を使って、軌道を逸らしながら、剣の柄をカッサルの首元に振り下ろした。
剣が当たる寸前、ラングの魔術によって、ラングの左腕と繋がれていたカッサルの左足が、引っ張られるように、
死に体となってできた大きな隙を見逃さず、十分に勢いをつけたアンが、カッサルに迫った。アンが投げた剣がまっすぐに飛び、カッサルの膝に、深々と突き刺さった。そこに追い打ちをかけるように、剣を
やった! と思ったのも束の間、残った右足で飛び跳ねたカッサルの蹴りが、アンのこめかみに直撃し、一瞬にして何もわからなくなった。
地面に激突し、跳ねながら吹っ飛んでいくアンを、視界の端に捉えたラングは、思わず、アンのもとへ駆け寄ろうと、カッサルに背を向けてしまった。
四つん這いになり、突進してきたカッサルに足を捕まれ、引きずり倒されたラングは、そのまま成す術もなく、石畳に頭を何度も打ちつけられた。
夜明けの星 稲荷ずー @inari_zooo
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