おとうさんの帰り

銀色小鳩

1話完結 おとうさんの帰り

 わたしのおとうさんは、コンビニの店長をしています。

 お店は深夜零時まで。

 おとうさんは、おかたづけをして、お店を閉めて、おかねの計算をして、連絡ノートを書いて、それからおうちに帰ってきます。


 おとうさんがお店を閉めるころ、お店はたいていお客さんもいなくなっていて、しずかです。

 お店は住宅街と商店街の境い目にあります。

 ちかくには、ちいさな公園があって、お地蔵さんが立っています。お地蔵さんが見つめる先は橋の残骸。むかし橋だったその場所にはもう水は流れていませんが、名残りとして欄干だけがのこっています。

 このお地蔵さんは、むかし橋がないとその先に行けなかった頃、川上から流れてきたのだとききました。

 わたしのおうちは、おとうさんが経営するコンビニ店舗の入っているビルの四階です。いちばん端のおへやです。


 静かになった深夜零時ちょうどに、おとうさんがお店を閉める音が聞こえます。

 ガラガラとコンクリートを引き摺るような音。外にだしていたガチャポンや看板を、おとうさんがお店の中に仕舞い入れる音です。しばらくすると、シャッターを下ろす音も聞こえてきます。


 わたしは夜中までおきていることが多い子どもでした。

 空想をするのが好きで、自由帳にまんがを描いては、お友だちに読ませたり。

 夜おそくまで勉強をすることもありました。

 おとうさんがお店を閉める時間にわざとお店に行って、まんがを借りてくることもありました。

 だから、おとうさんの帰る時間に起きている事が多かったです。


「なんでも借りていきな」

 おとうさんはそう言います。

 小学生のわたしは、ありとあらゆるまんがや本を、家にもちかえって読みました。


 りぼん。

 なかよし。

 奥様たちが読むようなニュース雑誌。のなかのエロ実話らんや、宜保愛子せんせいのエッセイ。

 奥様御用達の、お料理雑誌、タントやオレンジページ。

 さいとうたかおのサバイバル系まんが。

 奥様御用達といえば、レディコミもありました。借りほうだいです。

 もちろんレモンクラブなど、男性向け成人誌も。


 サスペリア。

 ミステリー。

 ホラー。

 グロ系サスペンス。


 内臓のなかみを取り出してからだに塗りつけるストーカーのおはなし。


 そして、稲川淳二のホラーまんがや、心霊写真特集。


 このなかで、どれが一番小学生に悪影響なのかわかりませんが、あったから、読んでいた。そういうわけで、エロ、グロ、ホラーという夜の世界の作品は、小学生のわたしの中では日常のよみ物でした。


 夜中におきていると、まだ起きてるの? とおこられます。だから、わたしはいつも、おとうさんが階段を上がってくる音がすると、寝たふりをします。


 その日は神経が冴えていて、神社のなかにいるように研ぎ澄まされていました。わたしは、クリアな状態で、いつもは苦手な算数の問題を解いていました。


 わたしのおへやには二段ベッドがあります。上のベッドでわたしは寝ています。下の段は弟。もう寝ています。

 おへやには、北側に大きな窓があります。ベランダに続くその窓は、大きすぎて、そこから公園もお地蔵さんもよく見えます。


 わたしは、勉強机を、冬のあいだはつかいません。さむいので、ぜんぶ、二段ベッドで布団にくるまりながら、するのです。

 大きすぎる窓のせいで、おへやじゅうが冷えてさむくなるのです。

 電気を消すためには、いちど、二段ベッドのはしごを降りて、部屋の中央にぶら下がる紐までいかないといけません。


 このおへやは、いつも、暗くなると、こわいです。


 だから、わたしは、わざと、電気を消しません。ぎりぎりまで。

 おとうさんが帰ってきて、わたしの部屋にきて、わたしが寝ているのを確認して、あかりを消してくれるまで。


 外でガラガラとシャッターを閉める音が聞こえ、しばらくすると、周囲がしんと闇につつまれました。空気はいよいよ清んで、肌を敏感にします。

 しばらくして、わたしの住むビルを、足音がのぼってきました。おとうさんが帰ってきたのです。

 足音は四階まで上がり、玄関のドアが静かに開く音がしました。

 わたしは算数の問題集をとじて、枕元に置きました。そして、寝たふりをしました。


 玄関から、トイレのある廊下。廊下から、わたしの部屋の前。あいたままの開き戸を確かにとおって、気配がおへやに入ってきました。研ぎ澄まされた神経でわたしはその気配をなぞり、その気配が、おとうさんとおなじくらいの背丈であることを感じとります。


 気配が、わたしの目の前にきて、視線がわたしへと注がれているのをはっきりと感じました。


 わたしのおとうさんは、部屋に入ると、わたしの顔をじっと見ます。顔をちかづけて、じっと見て、いつもまぶたに息をふきかけます。

 どうしてって――、本当に眠っているときは、息を吹きかけられても、わたしのまぶたはぴくんとも動かないそうです。寝たふりをしているときは、まぶたが動くそうです。


 おとうさんがわたしの顔をじっと見ている気配があって、まぶたに息をふきかけられる直前の近さに、わたしは目を閉じつづけます。

 わたしの顔の前には、二段ベッドに上がるための木のはしごがあります。軋む音をたてて、はしごの一段目、二段目、三段目と気配があがってきました。


 おとうさんは、はしごをあがってきたことは、ありません。


 おとうさんじゃない。


 わたしの寝ている真上に浮くように気配がきたとき、わたしは、思ってしまいました。


 とたんにピシッと体じゅうが固まり、もう声もだせず、目もあけられず、指先をぴくりとも動かすことができなくなりました。


 二段ベッドからは天井が近く、その近い空間に、確かな気配が浮かび、わたしを凝視していました。

 恐ろしさに心のなかでは悲鳴をあげそうでした。


 どこからか、かすかな声のような、音のようなものが近づいて聴こえてきました。


 痛いかのような、まるで火に焼かれている最中の人間のような、呻りと叫びの声がわたしの周りを包むように近づいてきて、それは大音量となり、わたしは声の洪水のなかにいました。苦しみの叫びを身体で聴きながら、やめて、こわい、こわい、やめて、こわい、そればかりが頭にあり、そしてふと――。


 こんなに苦しむ声を聴いて、何もできないことを、感じたのです。


 同情すると、憑いてくる、と聞いたのは、それよりずっと後のことでした。


 わたしは恐怖の限界のなかで、心の中で、叫びました。


 何も、できない。

 ――


 とたんに、気配は夜の中に溶け、身体のこわばりは消えました。




 いま、わたしは、四階のそのおへやで、荷物の整理をしています。

 一度は離れた実家。

 四〇三号室の、この大きな窓のおへやに寝ていた子どものあいだ、何度もいろいろな気配が横切り、わたしを金縛りにかけました。子どものわたしはそのたびに、両親の寝る和室へいき、布団のはしに潜りこんで寝ました。


 子どもだからこそ、感じるなにかだったのか。金縛りにあうことがなくなったわたしは、その大きな窓のおへやに、久しぶりにいるのでした。


 両親が住んでいた四〇三号室は、これからわたしたちが住む部屋でした。両親の、別の家への引っ越しを手伝い、少しずつ自分たちの荷物を運びこみ、とても疲れて、二段ベッドの据え付けられたおへやの床に布を敷いて、まどろんでいました。


 気がつくと、なにかの気配が、視線がわたしを見ていました。感じることがなくなったはずの体をこわばらせ、わたしの身体のなかを、波のようにうねる何かが通り……わたしはばらばらになってしまいそうな意識を手放したくなくて、必死に抗っていました。


 年齢じゃない。――部屋だ。


 わたしは引っ越しのあの日から、大きな窓のおへやでは一度も寝ていません。


 二段ベッドの子供部屋。



 それから数年もしないうちに、わたしには最愛の息子がうまれました。

 わたしの息子はいま七歳です。ひとりで寝る年齢ではありません。

 しかし、一人で寝る年齢がくれば、大きな窓のおへやで、二段ベッドで寝るようになるでしょう。

 わたしは、わざと、伝えていません。あのおへやで寝るのを、わたしが怖がっていることを。伝えたら、先入観で、怖いと感じてしまうでしょう。


 伝えていないのに、もし息子が怖がったら、あのおへやが怖いのは、わたしの勘違いではないとわかります。

 気のせいかもしれない。答え合わせをする日がくるかもしれない。こないかもしれない。


 息子はおそらく、わたしよりも何かの勘がすぐれています。三歳か四歳のとき、発達障害のある息子は、うまく説明できないながら、もどかしい言葉でつたえてきました。和室で寝ていた息子は、怯えたように泣き出し、おばけがいる、とおさない声で言いました。


 明かりをつけて、抱きしめて、よしよし、だいじょうぶだよ。何がいたの? と訊ねると、息子はこたえました。


 ――おばけがいる。ぴょんぴょん。


 ぴょんぴょんってなあに?

 聞いても、息子は、こたえることができませんでした。彼には、説明するのが難しかったのです。


 しばらくして、聞きました。

 まだいる?


 ――まだいる。


 息子はそうこたえました。


 いまはまだ七歳の息子と、あのおへやについて、答え合わせができる日がくるのでしょうか。あのおへやで、彼は、眠れるのでしょうか。

 そんなことを思い、今夜も家じゅうの電気を消します。

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