海水の運び屋

四葉くらめ

海水の運び屋

 お題:堤防、氷、ウエットティッシュ


「お、お、おっ――」

 思わず飛び出そうになった言葉が、しかし、その先はなかなか出てこなかった。

 わたしは堤防の上に立っていた。視界の下の方には白い砂浜が小さく写っているものの、その大部分を占めるのは真っ白な大小様々な白い氷――そう、『海』だ。

 海岸線付近は氷も小さいものが多いようだが、遠くなるほど形がはっきりとわかるようなサイズになっていく。そして、水平線の彼方には山と錯覚してしまいそうな白い氷が霞んで見えた。

 海は小刻みに動いているようで、『カリ、カリ』といった音が不規則に聞こえ、時折吹く風は粘り気のある空気とともに塩を嗅いだときに似た香りを運んでくる。

 この視界一面に広がる氷の大群。これがすべて海なのだ。なんて、なんて――っ。

 そこで、ようやくさっき言おうと思った言葉が喉をすり抜けてきた。

「大っきい――――!!」

 全力で喉を震わせた声も、広大な海の中に簡単に溶けて消えてしまう。あとに残るのは海の『カリ、カリ』という音だけで、まるで世界にはわたしだけしかいないようにすら感じる。

 しかし、目一杯に開いていたわたしの視界を突如、男のあきれ顔が遮った。

「気は済んだか?」

 ああ、そういえばもうひとりいたのだった。うん、海がすごすぎて完全に忘れていた。

 無精髭を生やした男である。細面で切れ長の目をしているせいか人相は悪い。しかも今は海に来るということで掛けてきたサングラスがこの男のチンピラ感を飛躍的に上げていた。子供が見たら泣くこと請け合いである。

 本人の言に依れば20代半ばらしいのだが、わたしには30代後半か、いいとこ半ばにしか見えない。せめてその中途半端に生えた無精髭をなんとかすればもっとカッコ――いや、若く見えるのに。

「もうっ。もう少し浸らせてくれてもいいと思うんだけど? ペイン」

 この男の名前はペイン。こんななりをしているが、一応わたしの保護者である。といってもこの男、生活能力は皆無なものだから家事全般はわたしがやっているし、歳も親子ほどの差はない。保護者というよりは歳の離れた兄妹のように思っていた。まあ、それはそれでこんな兄は嫌だけど。

「うちのお姫さまは無理にでも引き剥がさないと、いつまで経っても動かねぇからなぁ」

「うっ、確かにこの間山に行ったときは悪かったわよ。っていうか『姫』って呼ばないでよ。子供っぽいから」

 わたしはもう13歳である。確かにまだ成人はしていないけど、子供扱いされるのは納得がいかない。

「子供が子供っぽくてなにが悪いんだか……。まあ、いい、行くぞ。子供じゃないんならきちんと仕事をしねぇとな、ローラ」

 そうして、わたしの名前を呼ぶと、ペインは堤防から砂浜へと降りていく。わたしはもう一度、広大な海の眺めを記憶に収めてから、彼のあとを駆け足で追った。



 堤防を降りると、海の手前で彼は靴を脱いでいた。

「どうして靴を脱ぐの?」

「靴のまま海に入ると、靴の中が塩だらけになるからだ」

 塩だらけ? 確かに海の氷には塩がたくさん含まれているっていうのは聞いたことがあるけど、海から出るときに靴の中に入った氷は出せばいいんじゃないの?

「んー。……まあそれもそうかもな。じゃあ俺は靴、履き直すから先に海に入っといてくれ」

 わたしの考えに納得したのか、靴を脱いで裸足になっていたペインは、再び靴を履くために一度しゃがみ込んだ。

「それじゃあお先に」

 彼よりも先に海に入れることに多少の優越感を抱きながら、わたしは靴を履いたまま海へと足を差し入れた。思ったよりも細かい粒が多いのか、次から次へと氷が靴の中に入り込んできてうっとうしい。

 それよりも――

「冷たく……ない?」

 いや、冷たくないわけじゃない。海に入る前よりは確実に冷たいんだけど、氷みたいな冷たさはなかった。この粒って氷じゃないの?

「こいつは『海水』って言ってな。氷とは別物だ。元々は違う形だったらしいが、呪術的に氷の形を貼り付けてるらしい」

 わたしのあとから海に入ってきたペインが、きょとんとしたわたしに教えてくれる。

「海水ってことは元々は『水』だったってこと?」

「恐らくな。こうなる前の海なんて見たことねぇからよくわかんねぇけどよ」

『水』と言えばおとぎ話に出てくるような代物だ。昔は豊富にあったそうだが、なんでも神様が人間にキレて、すべての水を氷にしてしまったのだとか。

 水というのは『流れるもの』らしいのだが、いまいちこの『流れる』がイメージできない。

 おとぎ話の中に『水のように、手に掬っても逃げていく』という表現があったけど、手から逃げるってなに?

 元が水だったという海水を持ってみれば『水』が理解できるだろうかと思い、足下の海水の粒を拾ってみる。

「って……え? ちょっと待って? 手に持ったら溶けていっちゃったんだけど!?」

 手の中の海水はみるみるうちに小さくなり、次第には白い砂のようなものだけになってしまう。

 これが『逃げていく』というやつだろうか。

「ああ、それは単純に海水を海から分離させたからだ。こっちも呪術が関連してるらしいんだが、どうにも海水が海から離れちまうと氷の形を保っていられなくなって蒸発しちまうんだと。それであとには塩だけが残るってわけだ」

 ふーん、なるほど。ん?

「ねぇ……じゃあ、わたしの靴の中がやけにじゃりじゃりしてるのって……」

「ふっ、靴の中に入って『分離した』と勘違いした海水が次々と塩になった結果だな! はははっ! 人の言うこと聞かねーからこうなるんだよ! ざまぁ見やがれ!」

 こ、この男……っ。しかもよく見てみれば、ペインは靴を履いていないようだ。履き直す振りをしてわたしを騙したらしい。

「この靴、お気に入りだったのに! どうしてくれんの!?」

 わたしは慌てて靴を脱ぐとそれをペインに投げつけた。靴の中はとっくに塩まみれになっていて、靴からこぼれ落ちた塩がペインに降りかかる。それからいいことを思いつき、手を海に突っ込んで勢いよくペインの方へと海水を放った。

「うおっ、やめろ! 全部塩になってかかってきやがる! いいだろう! 俺を怒らせてただで済むと思うなよ。お前の全身、塩漬けにしてやる!」

「はぁ!? なんかアブない視線を感じるんですけどぉ? きゃー、13歳の熟れたカラダをもてあそぼうとしている男がいるー!」

「お前のどこが熟れてんの!?」

 う、うっさい! まだ成長期が来てないだけだもん! あと数年もしたらナイスバディになるんだもん!



 一通り塩の掛け合いをしてから、わたしたちはいったん海から出ていた。

「うへぇ、髪がめちゃくちゃべたつくぜ……。氷を多めに持ってきておいてよかったな」

 ペインがクーラーボックスの中からいくつか純氷じゆんひよう――海水から作った塩を含んでいないもの――を取り出す。わたしはそれを受け取ると、氷を髪の中にくぐらせていく。

 こうすると、氷が髪の汚れを浮き上がらせてくれるのだ。氷が溶けきって無くなったら、髪を手で払う。すると塩の粒が砂浜へと落ちていく。

 新しい氷を手に取って同じように潜らせる。4個ほど使ったら髪のべたつきは落とすことができた。

 本当は体も洗いたいけど、そこまで氷の余裕はないだろうし、こんなところで服を脱ぐわけにもいかないので、我慢するしかない。靴も塩まみれだが、これも後回しだ。

「誰かさんのせいで時間食っちまったが、そろそろ仕事を始めるとするか」

「うっさい。っていうか海水ってどうやって持ち帰るの? 手に持ったら溶けちゃうよ?」

 ペインの仕事は『海水の運び屋』だ。これまでは彼がひとりでやっていたのだが、わたしも大人に近づいてきたので、こうして手伝いをさせてもらえることになったのである。

「そこでこいつの出番ってわけだ」

 ペインが得意げに出してきたのはティッシュだった。1枚渡してきたので受け取ってみるとなんだかひんやりしている。

「こいつは『ウエットティッシュ』っていってな。魔法でティッシュに極小の『氷』の要素エレメント付与エンチヤントしてある。こいつで包んだ海水は自分がまだ海の中にいると勘違いして溶け出さなくなるんだ」

 ああ。それで海水の運び屋は『魔術師』にしかできないんだ。

 魔術師にも役割別にいろいろなタイプがあるそうなのだが、要素を付与はどんな魔術師でも使えるものらしい。逆に言えば、非魔術師にはそういったことはできず、必然的にこの海水の運び屋という仕事も魔術師にしか担えない仕事なのだ。

 もちろん、ペインも魔術師である。

 ペインがウエットティッシュを持って海へと近づいていくので、わたしもあとについていく。

「まずこうやって海の中にウエットティッシュを潜り込ませてだな」

 ペインはウエットティッシュの端を掴んだ手を海に突っ込むとウエットティッシュの4隅が海面に出るようにした。するとウエットティッシュの上に海水の粒が乗っかっているようになる。

「あとはこの4隅を上手いこと結んでやれば――ほれ、持ち上げても塩にならないだろ?」

 ウエットティッシュを外から触って見ると、確かに海水の形がきちんと残っていた。

 へぇ、こうやって持ち帰ってたんだ。

 海水は生活必需品である。正確に言えば海水から作られる純氷が生活必需品なのだ。純氷はさっきみたいに髪や体を洗うのにも使うし、料理にも使う。そもそも純氷がないと人は〝氷分ひようぶん不足〟で数日で死んでしまうらしい。

 実際、数十人しかいないわたしたちの村を支えるだけでも、ペインは大量のウエットティッシュを用意してきている。これでも、2日に1回はこうして海水を採りに来ないと純氷は足りなくなる。


 それでも、魔術師が普通の人間に好かれることはない


 魔術師が魔法を使うために必要な魔力は、先天的なもので、魔力を持たない人間があとから魔法を使えるようになることはない。

 魔法が使えない人間からすれば魔法は――ひいては魔術師は『ワケのわからないモノ』であり、同時に恐ろしいモノでもある。過去には魔術師が街ひとつを壊滅させたという話もあるらしいので、それら諸々の理由で魔術師はあまりよく思われることはないのだ。

 そして、魔力を宿した幼児が『精霊の悪戯』と呼ばれているように、たとえ親がまったく魔力を持っていなかったとしても、魔力を持った子供はなんのきっかけもなく生まれてくる。そうした子供は多くの場合、捨てられ、そのまま短い一生を終える。


 


「ムカつくとか、そういうのってないの?」

 気付けば、用意したウエットティッシュは使い切り、最後の海水を包み終わったときだった。久しぶりに口を開いて、ずっと無言で作業をしていたらしい。

「なににムカつくんだ?」

 ペインは全然心当たりがないみたいな顔でわたしを見返してきて、そのなんとも思っていない感じが余計にわたしを苛立たせる。

「村の連中。ペインはいつもこんなに頑張って海水を運んでいるのにさ、自分たちは受け取るのが当たり前~みたいな顔して大した食料と交換してくれないし」

「あ~。確かにお前は食べ盛りだし、もっと食いたいよなぁ。すまん、今度からは俺のを――」

「そうじゃない!」

 わたしが言いたいことをペインはなんにもわかっていなくて、思わず大声を上げていた。

 海水を掻き分けながら、ペインのそばへと進む。

 足に当たるガラガラとした感触がうっとうしかった。


「あなたは――もっと幸せになるべきじゃない!」


 村人のために毎日頑張って、

 誰の子とも知れない子供を育てて、

 その子供に、こうして幸せを与えていて、


 そんなこの人がこんな扱いを受けているなんて、世の中は理不尽だ。


「あー、お前がどう思っているかは知らんが……、俺は今を幸せだと思っているぞ?」

「嘘よ」

「嘘じゃねえって。ったく、そんなことで俺が不幸だって? やっぱりお前はまだガキだな。お姫さま」

 ペインが笑顔を向けてくる。いつもわたしに見せてくれる優しい笑顔だ。


 わたしの、好きな顔。


「俺はずっと家族なんてできねぇと思ってたんだ。ガサツだし、生活能力はねぇし、なにより3流魔術師だ。大きな街でやっていけるような実力はねぇし、魔術師の知り合いもいねぇから、コネで結婚相手を見つけるなんでできやしねぇ。当然、非魔術師の嫁さんなんて貰えるわけもねぇ。

 俺はずっと、ひとりで生きて、そんでひとりで死んでいくもんだと思ってたんだ。

 そしたらどうよ?」

 ペインが腕を上げて、わたしの頭を撫でる。その手は顔に似合わず柔らかくて、でも、撫で方は少し雑だ。

 わたしを何度も、何度も撫でてくれた手。

「俺にもこんな可愛い子供ができちまった。

 魔術師がこんなこと言うのも変な話かもしれんがな、お前を拾ったとき、俺は『神様が子供を授けてくれたんだ』って割と本気で思ったんだぜ?」

 でも、その撫でる手つきがまるで子供をあやすかのようで――実際、彼にとってはそうなのだろう――わたしはチクリと胸に痛みを感じた。

「だから、不幸なんてことは一切ないから安心しろ。ローラ、俺はお前と一緒にいられる今が幸せだ」

 その言葉は、わたしが求めている意味とは違っていることはわかっていても、わたしの血を一気に顔へと集めてしまう。

「って、お前どうした!? 顔真っ赤だぞ!? 確かにそう冷たくないとはいえ長時間、海に入っていたからな。風邪を引いたのかもしれん!」

 いや、違うから! あなたの言葉のせいだから! っていうかいきなりそんな言葉ぶっ込んでくるなよ!

 そんなようなことを言おうとしたものの、実際には「い、あ、う」と意味のわからない文字の欠片しか出てこず、心配したペインに抱かれて海から揚げられてしまったのだった。



 それから、大丈夫というわたしの言葉なんて一切聞いてもらえず、わたしはペインが引く荷車に座らされていた。

「ねぇ、ペイン」

 荷車は堤防に沿った道をゆっくりと進んでいた。後ろで足をぶらぶらと揺らしていたわたしは、遠くにそびえる海水の山を見つめる。

「わたしがペインを幸せにしてるんだったらさ、ペインもわたしのこと、幸せにしてよね」

「当然だ。お前は俺が幸せにしてやる」

 その言葉に、またわたしの顔が赤くなる。彼に背を向けていてよかった。

 それにしても、この男は自分の言葉の意味をちゃんと理解しているのだろうか?

 いや、案外「俺が最高の夫を探してやる」とか思っているのかもしれない。この鈍感男なら十分あり得る。


「それじゃあ、ずっと一緒にいてね」


 小声で言った言葉は彼に届いただろうか。それとも、海の『カリ、カリ』という音にかき消されてしまっただろうか。

 広大な海から聞こえてくるその音に、わたしは寂しさを覚えた。


   〈了〉


あとがき:https://kakuyomu.jp/users/kurame_yotsuba/news/16816927860771293899

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