あるメイドの不徳

都森メメ

侍女エスカ



 侯爵領の一等地の広大な敷地面積を誇る屋敷でエスカは侍女として働いていた。屋敷の主はこの国の侯爵のうちの一人で、その多大なる権力をいずれ引き継ぐ嫡男のロールズは彼女が専属で仕える主人である。


 エスカとロールズの間には大きな身分差の開きがありながらも、この二人は幼少のころからの付き合いであった。花嫁修業の一環として、家の所属する派閥内で娘を他の家の侍女として働かせることはよくあることであった。エスカの家は男爵位であるが侯爵位のロールズの家とは三世代前から懇意にされている。


 エスカが五歳になる頃に同い年のロールズが彼の誕生日会で初めて出会ったエスカをいたく気に入り、侍女として召し抱えたいといったのが始まりだった。エスカの父もそれを快諾し、彼女は六歳になるまでの一年間でメイドとしての所作や業務を学ぶこととなった。


 エスカの父は、万が一にも侯爵家で粗相があってはいけないと思いエスカに徹底的に教養を叩き込んだ。五歳という幼さでありながらエスカは侍女としての立ち居振る舞いはすべて覚え、また古典文学などに対する教養、アカデミックな物の書き方、政治学や数学、心理学など、およそこの時代の女性に与えられるとは思えないほどの知識を身に着けるにまで至った。

 エスカの父も彼女がここまで優秀だというのには驚き、喜ぶ気持ちもあったがしかし、もしも彼女が息子であったのならばと嘆くことも多々あったという。


 さて、一年間のスパルタ教育を修了し晴れて侯爵家に働きにでたエスカを待っていたのは非常にやんちゃなロールズ少年だった。彼にとってエスカは初めて自分の意志で獲得した部下であり、また同い年ということもあってかお気に入りの彼女を方々へと連れまわした。

 実家の方でさまざまな学問を修めてきたエスカがこの屋敷にきて最初に学んだのは果たして泥遊びであった。屋敷の裏手にはロールズの遊び場として小さな山があり、そこは彼にとっては自分だけの領地である。座学よりも外で走り回って遊ぶことを好むロールズはよく乳母とともにそこで遊んでもらっていた。

 同年代の友人があまりいなかったロールズにとって、自分の屋敷に住み込みで働くエスカは格好の遊び相手となった。


 六歳の少女でも見苦しくないようにきっちりと採寸された領主の屋敷にふさわしいメイド服をもらったその日に、エスカは全身を泥まみれにされたのだった。犯人はもちろんロールズである。山に遊びに行ったロールズとエスカは二人とも泥だらけで屋敷に帰ってきて、侍女長は汚れたメイド服を見て閉口した。

 それ以降、山に遊びに行くときだけはエスカはメイド服を脱ぎ、汚れてもいいような服装を着るように命じられた。



 また侯爵位を引き継ぐ第一の権利をもつロールズは幼少のころから座学の授業を受けていた。領地内の学院から様々な分野の学者を家庭教師として召喚し、ロールズに施される英才教育を、エスカは部屋の隅からいつも立ち聞きしていた。

 机上で分厚い本を開き、頭を悩ませながら教師の話を聞くロールズは年相応にはまじめだったが、その傍で仕えているだけのエスカはその才能の高さから授業の内容の理解に関してはロールズをはるかに凌駕していた。

 本も見ずに侍女として待機しているだけの彼女が自分以上に教師の教える内容を理解していたことをロールズは悔しく思ったという。


 そんな二人が十歳になろうとするころ、両者の関係には男女のそれが混じるようになってきた。未熟ではあっても性の芽生えの兆候をみせるロールズが、見目麗しく成長し続けるエスカに絆されたのは至極当然の帰結だった。


 最初に支給されたメイド服が修繕をしてもエスカの成長に追いつかなくなった。新しい制服はそのデザインから子供らしさが取り払われ、エスカの女性らしさをより強調することとなった。

 細身でありながらも肉の起伏に富みはじめたエスカの身体を包み込むそれは非常に美しく、幼いロールズはそれに無上のイデアを感じた。


 ある日の夜、湯浴みを終えたロールズの着替えを手伝っていたエスカの腰が、彼のものに擦れたとき、思わずしてロールズは彼女を押し倒した。エプロンドレスの肩をつかみ、すぐそばのベッドの上に彼女の肢体を乗せつけたロールズがそのあとどうしたのかといえば、何もしなかった。

 というのも、この押し倒すという行動は本能からきたものであって、十歳のロールズ少年にはまだ性に関する知識が欠けていた。咄嗟に自分の欲望のままエスカを押し倒したはいいものの、その次をどうするべきかまったくわからなかったのだ。そのためロールズ少年がとった行動は両腕でエスカを抱きしめることだけだった。


 一方エスカはそれに関することを十分に知っていた。彼女の教養の中には、男性社会からすれば低俗ともされるような古典文学が混じっており、そういった行為が何を意味し、目的とするかを知識として備えていた。そのなかで行われる接吻が日常の中で行われるそれとはまったく意味の異なることも知っていたし、またいずれ自分に訪れるかもしれない未来も本能的に予見していた。だからこそ、このときの彼女は一切の悲鳴をあげなかった。


 そして無抵抗の自分に何もしないというロールズの行動の中に一種の無教養な純粋さをみたエスカは、恥を感じてしまった。ロールズに与えられた知識のなかに低俗なものは存在せず、彼にとっての接吻とは親愛の情を表すものだけなのだと気づいてしまう。


 この出来事がきっかけとなり、ロールズは性に関する知識を得た後でも不思議とエスカと具体的な関係をもつことができなくなった。日頃のふれあいの中でエスカに何かを囁こうとしても、あの時の失敗が頭をよぎり結果としてその言葉は喉の奥にしまい込まれる。

 身分の低い侍女に主が手をつけることはよくあることだったが、この奇妙な関係によってエスカも、そしてロールズも自身の純潔を保つこととなった。


 エスカ自身もロールズと褥を重ねる妄想を頻繁にすることはあったが、その妄想は自身のメイド服が剥ぎ取られる瞬間でかならず終わり、不思議とその先のことは想像されなかった。具体的なことを知らないのだからその不可能も当然かと、自身の想像力の限界にそれを理由づけ、彼女はその妄想を就寝前にたびたび繰り返した。


 その妄想の筋書きは数年の時を経てもほとんど同じ内容であった。というのも想像される瞬間を現実に当てはめるとすればそれは数十秒間の出来事であり、そこには何かを変更する余地などなかった。同じ背景に飽きて周囲の状況を時たま変えることはあったが、しばらくするとその背景にもまた飽きてしまい、結局は元の妄想に還っていた。


 自分が恭しく主に給仕している最中、その主が突如として牙をむき、自分に襲い掛かってくる瞬間の妄想、それはあの最初の出来事がプロトタイプとなっているのであったが、妄想のなかのエスカは必ず悲鳴を上げていた。その悲鳴は言葉として処理されるものではなく本当に原始的なただの悲鳴だったが、この妄想の中心になっているのはその引き攣った、声にならない、ひどく女性的な小さな絶叫だった。


 空想の世界のエスカは絶望の仮面を身に着けていた。その仮面はエスカの発した言葉をすべて悲鳴に変換するものであり、彼女の本当の言葉はその下で欲望として渦巻いていた。暴挙におよぶロールズに対してエスカは無力であり、その表情は哀しみに満ちているが、しかし、その実誰よりもエスカは官能を感じているのだった。もちろん、それはエスカがロールズを慕っていたことの証明である。見知らぬ男が相手なら、彼女はそもそも仮面など被る必要もなく相手に呪詛をぶつけることだろう。

 この長年の妄想癖を文章に起こすと、それはすべて受動態の言語で書かれる。自発性の欠けたその欲望こそがその妄想のなかで重要なのであり、それがなければこれほどエスカが興奮することはなかっただろう。


 この妄想は就寝前にも、そして仕事中のふとした時にも襲い掛かってきた。

 生来の優秀さは日頃の仕事にも活かされるもので、彼女は個人的な思考と業務に対する思考とを切り離すことに長けていた。要するに、彼女は妄想癖のある女だった。


 妄想癖というと夢見がちな人間に思われるかもしれないが、彼女はその癖を自分の理性で分析することが多々あった。

 妄想のなかの自分が仮面を被っていることにも気づいていたし、その仮面の意味するところがなんであるかも知っていた。

 彼女の結論としてはその絶望の仮面は貞淑さを表すためのもので、その裏に渦巻く原始的な欲望は隠されなければならなかったのだ。



 ロールズが十八歳になり、領主としての仕事に関わりはじめた。それと同時に嫡男たる彼には世継ぎを残すことがもとめられるため、侯爵夫人が選んだ家の娘との見合いが頻繁に行われるようになった。

 ロールズが見合いに臨む際のフォーマルな装いは、ほとんどエスカの手によって整えられる。きれいにアイロンがけされた上着をロールズに着せてあげるとき、エスカは自分の感情をどのように説明するべきかわからなかった。


 おのれの身分でこの主と婚約することはできないだろうし、また妾として嫁ぐことも不可能ではないが、今の時代、妾をもつ貴族は減少傾向であり、また本妻の家との諍いも予想される。エスカには奇跡が起きることを望むほどの楽天家ではないという自負心があった。

 冷静な彼女は見合いのたびに繰り返される雑務をできる限り何も考えずに遂行するようになっていった。


 しかしある日、見合い相手とおもわしき由緒ある公爵家のご令嬢とロールズが屋敷の裏庭を散歩している姿が目に入った。屋敷の二階からガラス窓ごしに見た公爵令嬢の肩には、ロールズの上着がかけられていた。


 その公爵令嬢を見つめるエスカには、なんらの仮面も掛けられてなかった。ガラス窓に写る自身の表情の壮絶さに気づいた彼女はすぐにカーテンの裏に隠れた。しかし瞼の裏に焼き付いた先ほどの光景は消えてはくれず、彼女を苦しめた。

 カーテン裏のエスカはこのとき確かに絶望していたが、そこに貞淑さはなかった。これは作られた絶望ではなかったからだ。

 精神的な負荷を感じた彼女は咄嗟にふだんの妄想を脳内に広げようとしたが、その妄想はこれまでのものとは明らかに違ったものになっていた。


 ロールズに襲われた際の、エスカのその表情は喜びで満ちている。その貌の下品さに驚いたエスカはすぐにその妄想を中断した。そうして頭に残ったものは先ほどの公爵令嬢の姿だった。


 華奢な肩にかけられた、今朝がたにアイロンをかけたばかりの上着はそのサイズが大きすぎるため、ボタンの並びに皺が寄っていた。その皺は男性が着れば醜いものになるだろうが、公爵令嬢の胸のそばにそれが添えられるとひどく美しいものとなっているように感じられる。

 感性に訴えかける美が、これほど自分にとって毒になることを彼女はこれまで体験したことがなかった。

 美は毒であり、毒こそは芸術であった。

 エスカは公爵令嬢のそばにいるロールズが、あれほどの毒をいとも容易く飲み干そうとしていることに戦慄した。


 その光景を目にしてからというもの、エスカはこれまで以上に妄想にのめりこむようになった。けれども、なんど繰り返してもその妄想のなかのエスカは悲劇的な表情をしておらず、ロールズに押し倒されると忽ち歓喜の声をあげるのだった。

 そうしてメイド服から己が肉体が暴かれたところでその妄想が終わると、必ず先日の公爵令嬢の姿が思い起こされる。

 あきらかに害となるこの悪癖をエスカは抑制することができなかった。


 エスカは座学においてロールズを凌駕していることに、密かな喜びを抱いていた。しかし、ここにおいてその喜びは返ってエスカを苦しめた。


 ロールズは自分の身の丈をよく理解していた。彼の才能で侯爵家を引き継ぐことは十分に可能である。けれどもそれ以上のことができるとは彼は考えていなかった。歴史ある家系の中におのれを沈めることは、その上におぞましいほどの重圧がかかっていることを意味している。ロールズは自身の欲望をその重圧に加えることが不可能であることを本能的に察知していた。

 すなわち彼にとって、愛は幸福の必要条件ではなくなってしまったのだ。彼がもうすこし身分の低い貴族の息子であれば、その豊かな才のすべてを愛にそそぐことは可能だったけれど……。

 そして件の公爵令嬢も、ロールズ同様に愛を期待してはいなかった。それは下賤なものだと思っていたからだ。


 それらの環境によってエスカの純朴な精神は侵されていった。

 もしもロールズにあと少しの才能があり、家督の継承と女への愛を両立することができれば、とそんな願望が普段の妄想の下敷きになっていた。


 ある日、エスカはこのような妄想に襲われた。


 あの公爵令嬢が高台の上に立っている。仰ぎみれば、彼女の着る純白のドレスは背後の青空からくっきりと彼女自身を際立たせ、その地位を改めて周りに誇示する。雲のような白さのドレスでこそあれ、彼女は真に天上人だった。


 高台は川のそばにある。平地を流れる幅の広いゆったりとした大河で、それは地平線の端から端までずっと続いている。


 その令嬢は、当然のように川を見通すことができていた。高台によって、彼女の凛とした立ち方によって。そして何より、しっかりと見開かれた聡明な眼によって。

 そんな彼女を見上げるエスカは、川のすぐそばで水面を見つめている。彼女の視野からでは大河の全容を把握できず、また彼女にとってその川は湖であった。あまりにもゆったりとした流れのために、彼女はそれが川であることにすら気が付かない……。


 エスカは時折、川の淵で洗濯をする。水面に頭を引き寄せられ、手元の衣服に視点を集中する彼女には、バシャバシャと音を立てる布と水しか見えない。

 高台の上にいる公爵令嬢は、そんなエスカに見向きもしない。もっと、遠くを見ているからだ。


 凛と立つ公爵令嬢のそばに、ある男が近づいてくる。見間違えようもなく、それはロールズである。彼は令嬢に寄り添うと、極めて儀礼的に、恭しく彼女の左手にキスをした。跪き、目を瞑り、頭を垂れるロールズを、公爵令嬢は見向きもしない。彼女の瞳は地平線のどこまでつづくのかわからない、大河の下流を見据えていた。


 エスカはその高台が何でできているかようやく気がついた。

 それは無数の墓石であった。綺麗な直方体に切り分けられた、高貴な人物の名が彫られた大小さまざまの墓石が、きっちりと詰め込まれて公爵令嬢の足元に敷かれている。彼女がよろけないように、すべての墓石が協力して安定を捧げていた。下のほうの墓石の中には苔が生え、もはや墓の主の名前すらわからずに地面と同化しているものもある。


 エスカはそこから目を逸らし、ふたたび川面を見つめた。

 そこに映る自分の顔はまるで獣のようだった。


 愚かな男ならばその公爵令嬢を寂しい女だと侮蔑するかもしれない。しかしその嫌悪の裏に男の無力さへの絶望がひそんでいることは言うまでもない。この世のどんな男も、彼女の興味を引くことはできない。

 かの公爵令嬢は、他人からの好意も贈り物もそして愛も、そのどれもを自身の価値に転用しない。そんなものは所詮付属物にすぎず、彼女の価値を高めることは能わない。




 ロールズと公爵家の令嬢との婚約が決まった。

 王家の血筋の入った令嬢を嫁として迎え入れることができたため、ロールズの母の侯爵夫人は大いに喜んだ。

 婚姻前のある日、夫人とその公爵令嬢が歓談している最中、なにかを察したかの令嬢がそばに立って給仕をしているエスカに、聞きたいことがおありですかと尋ねた。


 エスカは失礼にならない範囲で自分とロールズとの関係(実際には何もないのだが)を暗に示しつつ、彼のことを不安には思わないのかと尋ねた。

 エスカの無礼に夫人は顔を顰めたが、公爵令嬢は当たり前のことのように、こう答えた。


「どうして、そのような些事に心を砕く必要がありましょう?」





 後年、エスカは詩作に耽ることとなる。彼女の純朴で透明な言葉で綴られたそれらの作品は大いに評価され、やがては天上人の目にもとまった。


 エスカの詩は愛でできていた。

 その愛は下層から湧き出すもので、真に高貴な人間にとってのそれは、恐ろしいほどの毒として階層社会の上層にまでゆっくりと染みわたり始めた。

 夜会文化が花開き、言葉による作られた愛が蔓延し、世代を経るごとに真の意味での貴族は姿を消した。


 ここに、愛による革命は果たされたのだった。




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