淡くあおい空の下

森内 環月

淡くあおい空の下

 それは、空に龍が飛んでいた頃のお話。


 ***

 これでさよなら 


 あなたのことが何よりも大切でした。

 あなたを好きにならなければ、わたしたちは友人のままでいられたのでしょうか?


 それとも…いえ、もし、という言葉は飲み込むことにしましょう。

 すべてが遅すぎました。少なくとも、わたしにとっては。

 あなたがひとの娘であることが不幸なことのように、わたしは龍であることが何よりも不幸でした。

 あなたが龍の娘であればどれほどよかったでしょう。わたしがひとの子であればどれほどよかったでしょう。

 どうにもならないことに、どうすることもできないことに、ただただひとり、ぐるぐるとあたまを悩ませていました。

 それが無駄であったとは口に出したくありません。



 わたしたち龍は、気高き誇りと威厳に重きを置く種族でした。そしてそれが故に、わたしの仲間たちは、あなたがあの原っぱにあらわれた懐かしき日々より、ずっと前に命を失ってゆきました。

 残されたものも、ひとを見ては「ああ、なんて脆く、愚かな生き物だ!」とことあるごとに言いました。その言葉を聞くたびに、わたしはあなたのことを思い出して大変悲しい気持ちになったものです。


 確かにひとの子は、大変脆く、そして儚い生き物です。我々龍とくらべてほんのわずかしか生きられません。我々からすると、つむじ風が吹いただけで飛んでいってしまいそうで、少し押しただけでポキンと折れてしまいそうな、そんな頼りないからだなのです。


 けれども、彼らには、細く長い指があります。美しい歌を歌う声があります。他の種族の命を生み出す力があります。どんな災厄が訪れても決して諦めない心を持っています。

 泣き、笑い、怒り、愛し合い、憎しみ合い、そして赦しあうことができます。

 どれも、わたしたち龍にはないものばかりでした。


 ああ!もしもわたしに長細い指があったのなら!

 あなたの風にさらりと揺れる美しい髪に触れることができたのに。涙で濡れそぼるあなたの頬を優しく拭ってやることができたのに。あなたがくれたちいさな白い花かんむりを枯らしてしまう前に、あなたの髪に飾ることができたのに。


 あいにく、わたしはそれらを持ち合わせてはいませんでした。

 代わりにあるのは、気高き誇りと威厳、そして長すぎる寿命でした。


 それでも、あなたと過ごした日々はとても幸せそのものでした。

 あなたのとなりで、微笑むあなたを見つめていたわたしはとても幸せだったのです。



 ああけれども、願わくば

 あなたの見据える未来に、わたしも居たい。

 あなたが受ける同じ風をわたしも隣で感じたい。

 ふわりと揺れる花の香りをあなたと一緒に楽しみたい。

 ただ、ただそれだけのことなのに。

 どうして、どれも叶わぬことなのでしょう。

 この張り裂けそうな痛みは、この想いは、いったいなんなのでしょう。


 あなたはどうですか?


 ***

 青く美しい晴れた日の朝、あなたは、わたしたちがよくこっそりと会っていたあの原っぱで空を見上げていました。

 美しい花嫁衣装に身を包んだあなたは、これまで無邪気に笑ってくれたあの日々よりも、ずっと大人びていて、ずっと美しかった。けれども、こんなにも近くにいるのに、どのようにしても手の触れることのできない遠く遠く離れた場所にいるような気がしたのです。


 わたしは、ひとの子の衣装はついぞとしてわかりませんが、それでもあなたの着ているものが特別なものであることは、わかりました。

 あなたの母親も、その母親も着ていたというその花嫁衣装をみにまとい、あなたは寂しそうに笑っていました。ひとは、つがいになる時に儀式をあげるのだと、わたしは長い寿命のおかげで知っていました。長い寿命のおかげで、あなたのことを知ることができました。


 幼いあなたが、あなたの父親に連れられてこの原っぱにきたことを覚えていますか。

 少し大きくなったあなたが、おとなたちに叱られて、泣きながら来た日を覚えていますか。

 わたしに小さな白い花かんむりをくれたことを覚えていますか。

 すっかり周りのおとなと同じくらい成長したあなたが、わたしの鼻先にそっと触れてくれたことを覚えていますか。


 ああ、とわたしはようやく気がつきました。

 ずっと ずっと、あなたに恋をしていました。

 今さらのように突き上げるこの苦しみは、この悲しみは、

 そういうことだったのですね。


 わたしたちは長い間見つめあっていました。

 あなたも、わたしも何かを言いたくて、けれども、いまさら何ひとつとして言葉にすることがないのだと気がつくのでした。


 最初からわかっていたことでした。あなたはひとの娘で、わたしは龍。これが恋だとわかったところで、苦しみと悲しみの他に、いったい何が残るというのでしょう。


 いつまでそのようにしていたのかわかりません。

 先に目を逸らしたのはわたしでした。わたしは、美しいあなたから目を逸らしてしまったのです。これまでずっと、あなたがわたしの隣にいるときは、片時も目を逸らすまいと固く思っていたはずなのに。

 耐えられなかったのです。

 いつもにも増して美しいあなたに、わたしがどのように見えているのか、知りたくありませんでした。わたしが何を思っているのか、あなたに知られたくありませんでした。


 わたしは原っぱを立ち去ろうとしました。

 あなたを祝うべき日に、わたしの涙で晴れた空が曇ることは、なによりもこのわたしが許せないことだったのです。

 そして二度と戻らぬつもりでした。そのつもりだったのです。

 それなのに。


 おねがい!と背後から声がしました。


 わたしは耳を疑いました。

 だって、あなたはいつもわたしにたくさんのものをくれて、頼み事などしたことがなかったのだから。

 多くのずる賢いひとの子が命を賭してまで欲しがる、価値があるというわたしの鱗もわたしの角も、何一つとして欲しがらなかったのだから。わたしを騙し、くだらない願いごとをかなえようとなど、しなかったのだから。


 わたしは、振り返らずに背後からあなたの声を静かに聞いていました。

 あなたは、震えるちいさな声でつぶやきました。ここにいて、と。

「わがままなのは、わかっているの。でも、どうか…。どうか、私のそばにいてほしいの」

 その後にあったのは、痛いほどの、うるさいほどの沈黙でした。溢れかえる思いを飲み込んだわたしは、やはりあなたに目を向けることができなくて青くまぶしい空を見ていました。



 わたしは小さくつぶやきました。あなたが望むのならば、と


「あなたが望むのならば、いつまでもそばにいよう。あなたとあなたの大切なもの全てを、わたしが守ろう。ただ…」


「…ただ?」


「3日だけ時間をおくれ。3日たてば必ず戻って来るから。たとえどのような姿になっても…わたしは戻ってくるから」


 わたしには時間が必要でした。あなたの幸せを心から願えるようになるための時間が必要でした。あれほど長い時間生きてきたのに、長すぎる寿命を恨んでいたのに、それでも、わたしには時間が必要だったのです。


 静かに立ち去るわたしの背後で、あなたがハッと息を飲むのがわかりました。けれども、わたしは振り返りませんでした。

 わたしは、あなたの人生でとびきり美しい姿を、最後までまっすぐに見ることはできませんでした。



 数十年ぶりに原っぱを離れたわたしは三日三晩泣きました。物心がついたときから刷り込まれた龍としての威厳や誇りをすっかり忘れて、静かに泣きました。決して悔しかったからではありません。

 あなたの幸せを想って泣いたのです。それだけは、どうか信じてほしい。


 わたしの涙は雨となり、地上に降り注ぎました。

 とても静かで、とても長い3日間でした。

 わたしは約束通り、あの原っぱのある町に戻りました。それからというもの、あなたが原っぱに来ることはありませんでした。あなたが来ないであろうということを、わたしは知っていました。


 ですから、わたしは空を飛ぶことをやめました。どれほど大きな翼を持っていようと、どれほど大きく力強いからだであろうと、それらは、町で静かに生きてゆくあなたを見守るのには、なんの役にもたちませんから。

 わたしは、あれだけ一族が誇りを持っていた大きなからだを捨てました。鱗も牙もその時に転げ落ちて、わたしの涙とともに大きな川にゆっくりと流れてゆきました。


 それからというもの、あの原っぱのある町にはこんな噂が流れました。

 婚儀の朝はやいうちに、花嫁がひとりで原っぱに行くと、その日はまるで祝福されているかのように大変良く晴れ、その後3日ほど、しとしとと静かな雨が降るのだと。その雨は龍の涙と呼ばれ、幸せを呼ぶのだとか。

 嘘か真か、わかりません。


 ただ、わたしはあなたのことを愛していました。

 ずっと、あなたに恋をしていました。

 そして、それは今でも変わらぬことなのです。


 ***

 あれからどれほどの月日がたったでしょうか。

 二度と戻れないあの日々を思い出すうちに、苦しみは思い出へ、悲しみは記憶へと変わってゆきました。


 あなたは、もういません。きっとわたしもそのうちいなくなるでしょう。

 けれど。


「ねえ!何度言ったらわかるの?虫を捕まえてこないでって言っているでしょう!」


「虫じゃないもん!ヤモリだもん!」


「どっちだって一緒でしょ。ねえ、おばあちゃんからも何か言ってやってよー!」


 年端もいかない姉妹が、賑やかに言い争っています。日向で安楽椅子に座る年の老いた女性がその様子を微笑みながら眺めていました。どの娘たちも、あなたのおもかげがあるような、ないような。


「ふたりとも、その子を離してあげてちょうだいな。うちを守ってくれるおともだちなのだから」


 年の老いた女性が静かに笑うと、妹の方はまだ小さな手で掴んでいたわたしのしっぽをパッと離しました。その隙に、わたしは急いで家具の物陰に逃げ隠れます。

 ああ、まったく。

 この小さなからだでこんなにも苦労するとは思いませんでした。昔のからだが少し恋しいものです。


「あーあ、逃げちゃった!」と妹は残念そうに言いましたが、彼女に捕まってしまっては、わたしのからだは持ちません。

 わたしもずいぶんと老いたものです。


「ねえ、おばあちゃん。あいつがうちを守ってくれるおともだちって、どういうこと?」


 姉の方は口をへの字にさせながら、尋ねます。

 尋ねられた女性は、やはり静かに笑ったまま「じゃあ、昔話をしましょうか」と姉妹に言いました。


「これは、空に龍が飛んでいた頃のお話」と。



 捕まる心配のなくなったわたしは、ゆっくりと庭に出ます。いつしかそこがわたしの棲みかとなっていました。あの日とても小さく感じた白い花たちは、今のわたしには恐ろしいほどに大きく見えるのだから、おかしなものです。


 今日も、わたしはあの日と同じ美しく蒼い空を見上げます。あなたへの想いをこの小さな胸に抱きながら。


 ずっと、今でも、そしてこれからも。


 わたしはあなたに恋をしているのです。


(おわり)

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淡くあおい空の下 森内 環月 @kan_mori13

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