第6話 西郷どんの刀

 西郷隆盛が反徳川の象徴である村正も蒐集していたことは有名である。刀好きであっただけに、西郷が愛蔵した刀は名刀揃いであった。

 たとえば、

 来国光らいくにみつ二尺四寸

 手掻包永てがいかねなが二尺三寸六分

 志津三郎兼氏しづさぶろうかねうじ二尺五厘

 などが一例として挙げられる。

 このほか、討幕派の中心人物として活躍していた頃には、村正の大小を腰にしていたといわれる。

 もっとも、村正は勤王の志士たちの間で必携の一振として、絶大な人気を誇ったため、贋作がんさくも多かった。西郷の大小のうち、太刀は偽物だったといわれているほどである。

 西郷自身はみずから陣頭に立って剛剣をふるったことも、人を斬ったこともない。これは勝海舟、桂小五郎(木戸孝允)、坂本龍馬らも然りである。

 室町時代末期に、当代無双の剣豪として名を馳せた塚原卜伝は、十七歳で真剣勝負に勝って以来、真剣で十九回、木刀で数百回の試合を行い、合戦にも三十七回出陣したが、一度も不覚を取らず、討ち取った敵が二百二十二人であったという。

 その卜伝が最後にたどりついた剣の奥義が、「無手勝流」であった。刀を抜かずして勝つという技こそが剣客の到達点とするならば、人を斬ることなく身を処することも武士としての立派な覚悟のあり方ではないかと思われる。

 勝海舟にいたっては、刀を抜かぬという覚悟を一生涯持ちつづけ、大小を身に帯びるときは、刀をひもで結わえて決して抜けないようにしていたという。

 それでは、最後に、東京・上野公園にある「西郷隆盛像」、すなわち西郷さんの銅像の腰にある脇差についてお耳を拝借させていただきたい。

 征韓論に敗れて薩摩に帰国した西郷は、あの銅像に見られるように、愛犬ツンを連れて、うさぎ狩りによく出かけたという。

 当時、西郷は「之定のさだ」の銘で知られる和泉守兼定いずみのかみかねさだの大小を愛用していたと伝わる。

 上野公園に立つ単衣姿の西郷さんが、兵児帯に差しているのは、当然ながらこの兼定の脇差であろう。

 最後に、この西郷さんの銅像にまつわるエピソードで話をしめくくりたい。

 写真ぎらいの西郷隆盛は、写真を一葉も残さなかった。そのため、上野の西郷さんの銅像をつくるにあたって、顔の上半分を弟の西郷従道、下半分を従兄弟の大山いわおをモデルにしたといわれている。

 銅像の除幕式で騒動が起こった。

 西郷糸子夫人が、

「宿んしは、こげんなお人じゃなかったこてえ」(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ) 

 と、周囲の人に洩らしたのである。

 板垣退助も「こんな顔じゃない」と言って不機嫌そうに退席し、勝海舟も憮然たる様子で引き揚げたという。

 製作の総指揮をとると同時に、顔の部分をつくったのは、彫刻家の高村光雲こううん(彫刻家・詩人高村光太郎の父)であるが、さしもの光雲も会ったこともない西郷の像をつくるにあたっては、快刀乱麻とはいかなかったようだ。


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妖刀伝「村正」 海石榴 @umi-zakuro7132

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