第42話 ロビーでの話 3
「……ナターシャ……」
名を呼ぶと、そっと彼女はソフィアの前に跪いた。
「助けて」
泣きだしそうに眉根を寄せ、ナターシャはソフィアを見上げる。
「助けて。お願い。あなたは、私の声を聞いてくれるんでしょう? 辛さをわかってくれるんでしょう?」
じわり、と目に涙を浮かべて訴えるナターシャは、手を伸ばしてソフィアの膝に触れようとした。
「よせ」
だが、ライトに短く命じられて動きを止める。
「お願い、お願い、お願い、お願い、お願い、お願い、お願い」
ナターシャは口だけをパクパクと動かしてソフィアに訴えた。
「苦しいの。聞こえてるんでしょう? 助けて。助けて、助けて、助けて。どこにもいけない。閉じ込められているの。悔しい。憎い。あいつが。あの男が。だからお願い、お願い、お願い」
ソフィアの目の前で、ナターシャの顔が崩れていく。
いや、顔が崩れているのではない。
表情が、歪んでいくのだ。
「ねえ、聞こえてるんでしょう? 聞いてくれようとしているんでしょう?」
ナターシャの目がつり上がる。
「私の代わりに、あの男、あの男、あの男を殺して、殺して、殺して、殺して、殺して。私の代わりに、あの男、殺して、殺して、殺して、殺して」
口が裂け、すべての歯を尖らせてナターシャはソフィアに言いつのる。
「あの男を殺してくれたら、私は救われる! 胸がすく! 八つ裂きにして!! 復讐をして! 助けて助けて助けて助けて! 殺して! 私の代わりに、あの男を!」
跪いていたというのに、その姿勢のまま、ナターシャは一気に飛び上がった。
ぶわり、と紺色のワンピースが空気を孕み、膨らむ。のぞいた足の爪が、大型獣のようにとがっていた。
襲われる。咄嗟にソフィアは目をつむり、身をこわばらせる。
「ほら、見ろ」
だが、滑り込んできたのはライトの声だ。
「お前の憎い男が来たぞ」
静かな。
だが、芯のある声に、ソフィアは心揺さぶられて目を開いた。
そっと、うかがうと。
ナターシャは自分に背を向けていた。
彼女が見ているであろう方に視線を向ける。
そこには、アンリが数人の警務課軍人たちに囲まれて護送されている姿が見えた。
「誰か助けて!!!」
いきなりの大音声に、ソフィアは「ひっ」と声を漏らす。
声の主はナターシャだ。
狂ったように大きく手を振り、奇妙な舞踏をするように、彼女は走り出した。
「お願いぃぃぃぃぃ!! 誰か私を助けてぇぇぇぇ!!」
語尾は、きひひひひひ、という笑い声に変わる。
「私の代わりに、あの男を殺してぇぇぇぇぇ!! 殺してぇぇぇぇ!!!」
ナターシャは、甲高い笑い声を立てながら、ロビー中を駆け回り、アンリへと向かって走っていった。
きっと。
きっと、彼女が納得する意味で、「助ける」ということは、生者には無理だ。
彼の罪は追及できても、そして、それを償わせたとしても。
彼女の代わりに、彼女の満足いくように彼を殺すことはできない。
サイモン・キーンもそうだ。
彼が納得することはないに違いない。彼の問いに、エマが答えを用意することはないのだから。
そういう意味で。
『死んだ人間の言葉は聞くな。聞いても助けられないからだ』
ライトの言うことは正しいのだ。
自分の右肩に置かれた手から、彼のぬくもりが伝わってくる。決して彼が冷淡なわけではないのだ。災いは屠れても、死者の意志をかなえて救ってやる、ということはできない。ライトはそう言いたかったのだろう。
「僕が手を離したら、もう見えなくなるから」
ライトが静かにソフィアに告げた。こくりと頷いて見せると、彼はゆっくりと手を離す。
同時に。
しつこくしつこく、ロビーに反響していたナターシャの声は消えた。
「どんな罰を受けるかしらないが……。ナターシャがそれに納得してくれることを願おう」
ライトが慰めるように声をかけてくるから、ソフィアも同意した。せめてそうありたいと祈ることしか、自分にはできない。
ソフィアは改めて自分の隣に立つ青年に視線を向ける。
黒い髪と、闇を写し取ったような瞳。象牙色の肌に、鼻筋の通った端正な顔立ち。
喪服、という場違いな服装であることに目をつむれば、随分と女性うけしそうな男だ。
「そういえば、セイラは、中尉のところに行ったんですか?」
ソフィアは電動車いすを操作してライトに向かい合う。彼の手が人形を抱えていない。なんだか新鮮だ。
「中尉、というより、お孫さんのところにね」
ソフィアが見ていたことには気づいていたのかもしれない。訝りもせず、ライトはにこりとほほ笑んだ。
「……え? 生まれたの?」
ソフィアは驚く。
確か予定日より一カ月早いのではないだろうか。
「早産らしいけど。まぁ、元気は元気らしいよ。保育器に今は入ってる、って」
ライトの言葉に、ソフィアは曖昧にうなずく。だが、初孫だし、きっと中尉のことだ。心配しているに違いない。
「それで、孫のお守りにしたいから、セイラを譲ってくれないか、って下船するときに言われてね」
ライトの言葉に、ソフィアは顎を上げた。
「セイラは何て?」
ライトのことだ。
人形が嫌がるところに渡したりはしないだろうが、時々この青年の思考が読めない時がある。少し早口で尋ねたのは、そんな思いがあったからだ。
「むさくるしい男たちの群れは、もうこりごりだ、って。ミルクと愛情の香りがする赤ん坊の世話をしたい、っていうから、『じゃあ、どうぞご勝手に』って」
口をへの字に曲げてそう言うライトを見て、ソフィアは噴出した。ほっとしたのもあったのか、笑いはなかなか収まらない。
「まぁ……。セイラでなくても、艦の匂いは、女子には勘弁してほしいわよね」
くつくつと喉の奥で笑い声をつぶしながら、ソフィアはライトに言う。
軍人、ひとりひとりはそうでもないのだが、群れたら何とも言えない匂いがする。たぶん、軍靴なのだろう。
「それって、ぼくも含まれてるわけだよね」
ライトは焦ったように言うと、喪服の肩口や袖口に鼻をつけるものだから、ソフィアは更に笑った。
「大丈夫ですよ。今からお風呂に入れば……」
「……やっぱり、におうんだね……」
がっくりと肩を落とす彼を見て、ソフィアはひとしきりまた笑う。
「……あのさ」
そんな彼女を穏やかにみつめていたライトだが、静かにそう切り出した。
彼の足元にはキャリータイプのスーツケースがある。もちろん、ソフィアの電動車いすにも、スーツケースが括り付けてあった。
「はい?」
尋ねながら、ふと別れの挨拶だろうか、と思った。
本来であれば。
もう、ここでさようなら、なのだ。
「艦から降りたから、もうぼくも
がしがしとライトは自分の頭を掻きながら、ちらりとソフィアに黒曜石に似た瞳を向ける。
「……そう、ですね」
なんだろう、とソフィアもきょとんと眼をまたたかせる。
「もう、身を清めておかなくてもいいわけで」
ああ、そういえばそんなことを言っていたな、と思い出す。女を近づけず、潔斎をして、とかなんとか。
「この後、食事にでも行かない?」
唐突に申し出られ、ソフィアは動きを止める。まじまじと目前の喪服の男を見上げた。
食事。
心の中で反芻した。食事に一緒に行こう、とこの男は誘ったのだろうか。自分を。
おまけに、もう身を清める必要はないから、と言っていた。
ようするに。
――― ……デートに誘ってる、ってこと?
「いや、そうだ! 着替えてくるよ! そうだよね。この格好だしさ!」
ソフィアの視線を勝手に解釈し、ライトは顔を真っ赤にして喪服の裾を引っ張り始める。今更ながら、皺が気になりだしたらしい。「明るいところで見たら皺だらけだ」と焦っている。
「ちょ……。ちょっと待ってて。そうだな……。この近辺で服を買って着替えてくるからさ!」
慌ててスマホを取り出し、検索しようとしたが、まだジャミングのせいで使えないらしい。小さく舌打ちしている様子を見ていると。
胸の内側で。
心の中から。
小さな気泡がいくつもいくつも沸き立ち、はじけたようで。
くすぐったさにソフィアは顔をほころばせる。
「そうですね。私は別にその格好でも気にしませんが」
くつくつと笑いを喉でつぶしながら、顔を真っ赤にさせて焦っているライトを見上げた。
「喪服で食事は、お店が嫌がるでしょうから……。まずは、一緒に服を買いに行きましょう」
ジョイスティックを握りなおし、ソフィアは目を細める。
「私も、随分と買い物をしていません。季節に合った服が欲しいです。互いに服を着替えて、それで食事というのはどうです?」
デート用に服を買うなんて、何年ぶりだろう。
考えただけで心が浮きたった。今、流行はどんなものだろう。ここ数年、誰がどんな服を着ているのかなんて気にもしなかった。
自分のためだけに服を買う。自分に似合うアクセサリーを探す。
そう考えるだけで、目の前がきらきら輝いて見える。
「いいね」
ライトは、ほっとしたように笑う。
「君はもっと華やかな格好をすればいいのに、とずっと思ってたんだ」
「全然、身を清めてないじゃないですか」
ソフィアが笑うと、ライトは頭から湯気を出しそうな顔で「そんなことばっかり考えていたわけじゃない」と弁明する。
「じゃあ、行きましょうか」
車いすを前進させて声をかけると、ライトもキャリーケースを持ってついてくる。
「デートプランは考えてるんですか?」
からかうように尋ねると、「もちろん」とまじめな顔で頷かれた。くすり、とソフィアは笑う。
「それ、セイラが考えたんじゃなくて?」
「……合同で、ってことにしてくれない?」
しょぼくれた返事に、また笑いがはじけた。おやおや。この男は、相棒なしにやっていけるのだろうか。
「私、めちゃくちゃ服とか迷うタイプなんですけど」
「待つよ。好きなだけどうぞ」
ライトが肩を竦める。「そもそも、女性の買い物は長いんだし」とあきらめ口調だ。
自分のためだけに使える時間に、ソフィアはときめく。
誰かに与えられた役割をこなすのではなく、誰かの意志を汲んで動くのでもなく。
ただ、純粋に自分のためにある自由を与えてくれた青年に、ソフィアは微笑んだ。
「楽しみましょうね」
「もちろん」
ソフィアは車いすを操作し、喪服の男とともに、デートにむかった。
了
白童丸号内にて 武州青嵐(さくら青嵐) @h94095
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