第6話 エピローグ
五月二日、午前五時。
窓の外がうっすらと明るくなっている。いつの間にか朝日が出ていた。
集中していたからか全く気が付かなかった。
周辺のデスクを見渡す。机で突っ伏して寝ている職員が数人見える。他は外に出ている。
黄田が配水池のタンクへ飛び込んだ影響は地域住民に及ぶと思われた。
しかし、なぜか住民からの苦情はほとんどなく、集合住宅の受水槽などから許容値以上の残留塩素も発見されなかった。
しかし、配水池の塩素濃度は高かった。
結局、配水池の完全清掃だけで問題は解決するだろうという見通しになった。
それでも職員たちは配水区域の塩素濃度を調査するために奔走している。
溜息を吐くとゆっくり立ち上がる。
部屋を出て薄暗い廊下を進む。
慣れた様に階段を上へと進み、屋上へと続く扉を開く。
早朝の湿った、そして生臭い匂いが鼻腔を通り抜ける。
決して嫌な臭いではなかった。
まるで自然が呼吸をしているかのようだった。
フェンスに寄りかかって、下の公園を見る。
時折、ランナが走っている靴音が聞こえてくる。
落下したはずの黄田が病院の屋上に現れた理由は警察でもわからないようだった。
また、落下のショックで黄田の記憶が一部無くなっていることがわかった。
人間の身体は不思議なものだと思う。
静けさが、神経を研ぎ澄ませている、そんな風に感じていた。
だからだと言えるが、すぐ後ろの気配を感じ取ることができた。
「どちら様?」
人が休息に移動する音。風切り音が耳に入る。
「おー、すげー。良く判ったね」
ゆっくりと振り向く。
そこには絶対に浄水場で見ることはない、少なくともこの時間のこの場所でいてはいけない人間が立っていた。
頭から黒いタオルを被り、頭の後ろで縛って止めている。上下黒色の作務衣、そして雪駄の男が距離を取って立っていた。
恐らく、この男が自分に何かしようとしたのだと推測する。
「んー、俺、ステルスが得意だからさ。気が付かれちゃまずいんだよなぁ」
すでに黒づくめの男と対峙している状況である。
「警備員を呼ぼうか」
「いやーおすすめできないなぁ。痛い思いするだけだし」
目の前の男が危害を加えようとしていることが明白になった。
「穏やかな話じゃないね」
「穏やかなことしていないでしょ。あんた」
その男に朝日が当たる。男から見れば自分は逆光なはずである。
今ならこちらから仕掛けられるだろうかと算段する。
「あー、逆光を使ってなにかしようと思っても無駄だよ」
しっかりと読まれていた。
「あんた誰?」
「まあ、意味ないと思うけれど自己紹介しておこうかな。初めてお目にかかります。便利屋を営んでいる、塗師明宏、と申します。よろしく」
便利屋がなぜこんなところにいるのか、その疑問を持つことは意味がないだろうと考える。
「俺、何も依頼してないけど?」
「面白いこと言いますね」
「何か面白かった?」
塗師は笑顔になると、目つきが鋭くなる。
「怖い顔するなぁ。何?」
「あんた、無津呂の話聞いてどう思った?」
「ん?あの子の知り合い?依頼したってこと?」
「同じこと言いたくないんだけれどなぁ…」
「いや、別に、黄田がやったのか、ぐらいだな」
「本当にそうかい?」
塗師は鋭い視線を保ったまま、笑った。
「あんた、悪い人だね」
「何を言いたいんだ?」
太陽はすっかり上がっている。
二人の頭上から太陽が照り始めた。
「黄田に全部押し付けて終わりか?」
「は?」
「あのさ、あいつだけで全部できるわけないだろう?」
何も言い返さずに黙っていると塗師は続ける。
「それに、有馬毒殺の時に、別の毒、使っているよな?トリカブトだっけ?無津呂は同じ毒を使ったら華葺の顔が焼けている理由が分かってしまうって言ってたけれどさ。それが分かったのって前日の夜だろう?それからすぐにトリカブトを仕入れるって…一般人じゃ難しいよ。そう思わない?」
青原さん、と塗師は続けた。
青原は黙ってそれを聞いていた。
塗師が言い終わるのを待って、青原は一つ息を吐く。
「そうだな。そうかもしれない。でもそれは黄田がトリカブトの毒を仕入れる時間的余裕がなかったっていうだけのことだろう?」
塗師は頷く。
「それをわざわざ早朝に俺の所まで伝えに来たの?ご苦労様だね。無津呂君にもよろしく言っておいてよ。知り合いでしょう?」
へらへらと青原は笑う。
「俺は、どうも黄田が一人でやったことだと思えないんだよね。思想は知らないけれど、実際の計画の事とか。どうも無津呂の話した内容は胡散臭い」
「知り合いなのに酷いこと言うんだな」
「知り合いだからここまで言えるんだよ。あんた親友いないだろう?」
青原は少し苛立つ。
「単刀直入に言うけど、俺はあんたが黄田を手引きした黒幕だと思うよ」
「おお、単刀直入だな。理由、聞いておこうかな。ちなみにトリカブトの件だけでそんなこと言っているんなら、俺意外に誰でもできたからな。一応言っておく」
含み笑いをしながら青原が言う。
「あんたが黄田と相談しているところを俺は見ているからな」
青原は真面目な表情になる。
「そんなバカな話あるか」
「黄田が華葺を殺害した後だな。有馬が到着した後であんたも一緒にいた。よく考えりゃそりゃそうだよな。いくら脅迫されていたって言っても男性と女性じゃ簡単に反撃できる。でも、二対一だったらどうだ?」
青原は言い返さない。
「それに、有馬に毒を飲ませる時もそうだ。同じように脅迫したからって、自分から進んで毒を飲むことはなかなかないだろうな。だから、あんたは一度、自分が飲むと志願したんだろう?有馬にプレッシャをかけたんだ。コラ、お前が飲むんだろ、ってな」
「面白い話だな」
「でしょう?」
塗師は少年の様に笑う。
「それに、処理センタが爆破しなかったのも、彼女にとっては不思議だったんだろうな」
青原は真顔で聞いている。
「センタへの爆発物の設置は、あんたの役割だったんだろう?でも、でも実際に行われなかった。なぜか?」
塗師は腕を組む。
「爆発物を実際に仕掛ける必要はなかったからだ。予告状だけ送りつけて、場が混乱していれば良かった。あんたにとってみればな」
僅かに視線を下げた青原だったが、塗師は続けた。
「あんたは黄田がタンクに身を投げる時間が稼げれば良かった。わざわざリスクをとって爆発物を仕掛ける必要なんてなかったんだよ。まあ、黄田は爆発するもんだと思ってたんだろうけどな」
「小説家になれば?」
「こんな話、小説になるかよ」
含み笑いをした塗師だったが、すぐに真顔に戻る。
「あんたがジョーカーさ」
「じゃあ、お前はジョーカーを浄化しにきた、って感じか?」
「つまらないね」
「その格好よりはマシかな」
青原は皮肉を言うと、大きく息を吐いた。
「なあ、お前が言う通りであれば…なんで俺は黄田と組んでそんなことしたんだ?」
「そんなこと、今更聞くのか?」
青原は顔を上げて塗師を見据える。
塗師も青原を見返した。
静寂の時間が数秒。
「警察に自首する気はないの?」
「なんの罪で?華葺も、有馬も、黄田だって俺は何も手を出していない。何の罪で俺は捕まるのかな?」
「そっか、そりゃ無理だよね」
「さあ、どうする?」
決まっているだろ、と言うと、塗師は青原に向けて駆け出した。
同日、午前十時。
塗師は公園にいた。
公衆トイレの水道で手を洗い、顔を洗う。
腰に掛けていた手拭いで顔と手を拭いた。
塗師の仕事はもうない。これで終わりである。
浄水場から距離は離れているが、作業着に着替えている。
タオルだけ頭に被っている格好になる。
ここからゆっくりと歩いて車に戻り、帰るだけである。
トイレから出ると、親子連れが多く見える。
大型連休の間であることを思い出す。今日は平日である。
公園にいるのは父親が仕事で出かけることが出来ないからだろうと塗師は思った。
横目でそんな家族連れを見ながら車に向けて歩く。
「あーお兄ちゃんだー」
背の小さい女の子が塗師に向かって走ってきた。
その女子には見覚えがあった。
「あ、ひよりちゃん…」
塗師はしゃがんでひよりに目線を合わせると、笑顔で言った。
ひよりの後ろから美咲もゆっくりと歩いて来る。
「お兄ちゃん、首に赤いのついているよ。なーに?」
「あ、何でもないよ。お仕事でついちゃったんだね」
塗師は手拭いで首全体を拭き取る。
美咲が来る前で助かったと思った。
「とれた?」
「うん」
「ひより、走るの早い…。こんにちは」
「あ、どうもこんにちは。奇遇ですね。水回り、いかがです?」
「はい。おかげさまで。あ、ひより、お兄さんにいうことあるんじゃないの?」
「うん、あのね、ひよりね、あのね、水道のお水、美味しいんだよ」
「あ、お兄ちゃんが言ったことやってくれたんだね」
うん、と頷く。頭を撫でようと思ったが、血がついている可能性があったので諦めた。
「近くでお仕事ですか?」
「ええ。おかげさまで忙しくさせてもらってます」
「そうですか。あ、そう言えば近くで殺人事件があったんですって?ご存知ですか?」
「あ、そうなんですか?すみません、あまりニュースとか見ないもので」
照れくさそうに塗師は笑った。
ママ、とひよりが叫ぶ、いつの間にか離れたところの遊具で遊んでいる。
「あ、じゃあ、すみません」
美咲はひよりのもとに走って行く。
「お母さんは大変だ…」
でも、子供はあれで良いよな、と呟きながら、早朝よりは幾分か清々しい気持ちになっていた
<完>
過剰な浄化とジョーカーと~Excessive Purification~ 八家民人 @hack_mint
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