第5話 求め、消える

四月三十日、午後0時半。

穴吹は机に頬杖をついて、割り箸の尻で机を叩いている。

その乾いた音が室内に響いていた。

誰からも文句を言われないのは、昼休憩で大半が昼食を摂りに出て行っているから、と言う理由と、一週間ほど前に起こった事件のことで穴吹自身が精神的なショックを受けていることが周知されている、という二つの理由がある。

机の上に乗っているカップラーメンが伸びきって、容器から溢れるくらいになるまで、穴吹は手を付けられなかった。

唸るような声を挙げて、立ち上がると、穴吹は部屋から外に出る。

廊下に並ぶ窓からは、下水処理施設の水槽が見えるようになっている。

その窓を右手に廊下を進む。

目的地は、穴吹には無かった。

ただ、歩いていたい、動いていないと、勝手に脳が考え事を始めてしまうからだった。

あの事件で、あの一日で、穴吹は同期を一人と後輩を失った。

もし、あの事件が無ければ、この時間は馬鹿笑いをしながら、くだらない話をしていただろう。

そんな変わりない毎日が、これからもずっと続くと思っていた。

こう呆気なく、変わってしまうのかと、客観的に考えることもあった。

自然と階段を上階へと脚を運んでいることに自分で気が付く。

この上は建物の屋上である。

短い階段を上がって、踊り場の扉を開けると、すぐに屋上である。

何もない、殺風景と言う言葉すらもったいないほど何もない空間だった。

穴吹はここに来たことはほとんどない。

何があるのかすら、屋上に来るまで考えたこともなかった。

まるで学園漫画のキャラクタみたいだと思いながら屋上を歩く。

特に管理されてない屋上は舗装が所々劣化しており、歩きにくい部分もあった。

すっかりペンキが剥がれ落ちた胸までの高さのフェンスは、今の穴吹には、飛び降りたければどうぞ、と言わんばかりの存在だった。

「…俺はそんなことしねぇぞ」

つい呟いてしまった穴吹はすぐに馬鹿馬鹿しくなる。

まだ自分は死なない、そう言い聞かせていた。

なぜ、あの二人が死んでしまったのか、そんなことは考えたくなかった。

もう、何もかも忘れてしまいたい衝動に駆られる。

背筋に寒気が走った。

ふと振り向く。

「狩鷺…」

五メートルほど離れたところに狩鷺が立っていた。

「屋上に上っていく姿が見えてな…。何してんだ?」

「何だっていいだろう?俺がここにいちゃダメなのか?」

そうじゃない、と言って狩鷺はゆっくりと穴吹の方に歩いて来た。

穴吹は身構えながら、僅かに横へ移動する。

狩鷺は穴吹が立っていたところに立つと、フェンスに身体を預けて風景を眺め始めた。

「随分長く働いていたよな」

狩鷺は笑いかける。

「そこまでじゃねぇだろう。二十年いってねぇよ」

そうか、と言って視線を外に向ける。

「お前と有馬には悩まされ続けたよ」

「そんなことはねぇよ。こっちだって迷惑かけないようにやってんだよ。…っていうか、何だこの時間は。お前こんなこと言うために来たのか?暇だな」

「まだ昼休憩中だよ」

んぐ、と穴吹は声を漏らすと狩鷺から視線を逸らす。

フェンスを見下ろすと処理施設が一望できる。

それを見据えている狩鷺に対して、穴吹は屋上の床を見ている。

「七年…八年くらい前か?あの時からすっかり変わったな」

穴吹は血の気が引いたように青ざめる。

「先生がここに来て、うちの活性汚泥が特別だと分かってからだ。水処理界隈で研究対象になることが多くなったよな。今じゃそうでもないけれど」

狩鷺の口元は笑みが浮かんでいる。当時の記憶を呼び起こしているのだろうと穴吹は思った。

「先生は残念だったけれど…お前や有馬が受け継いだことに関しては、俺は同期として誇りに思うこともあるんだ」

穴吹が固まったように動かなくなったが、狩鷺は気が付いていなかった。

「ああ…」

それだけ言ったが、穴吹は苦々しい顔を崩さなかった。

それに、と狩鷺が振り向くのと、屋上から階段へと続く扉が開くのは同時だった。

「狩鷺さん!」

二人がそちらを向くと設楽が立っていた。余程急いでいたのか、眼鏡がずり落ちている。

「どうした?」

狩鷺は設楽の顔から足元まで舐めるように見て言った。

「あの…爆弾です」

「は?お前何馬鹿のこと言ってんだ?」

「設楽、どういうことだ?」

狩鷺と穴吹が同時に喋るので、設楽はそれぞれの顔を見ながら言った。

「爆破予告が…入りました」

「詳しく話せ」

「はい」

狩鷺は同時に階段に向かって駆け出していた。

その横で穴吹も走っていた。



同日、午後〇時五〇分。

その一報が寿の耳に入ったのは、部屋に駆け込んできた刑事からだった。

「可士和市水処理センタから通報です。施設内に爆弾を仕掛けたという脅迫があった模様です」

刑事の発言と同時に寿は立ち上がる。

「どういうこと?」

短く言うと、一報を伝えた刑事から話を聞く。

水処理センタの郵便物の中に、センタ長宛に差出人不明の封筒が届いていた。

午後〇時四〇分頃、センタ長が開封したところ、ワープロ打ちの文面で施設内に爆弾を仕掛けたということと、午後二時にこの文章が正しいことを証明するということが書かれてあった。

先の殺人事件の件もあったため、センタ長はすぐさま警察に通報、そして寿の耳に入ることになった。

県警の廊下を歩きながらその報告を聞き終わった寿は早足になる。

「下水処理場が爆破されたらどうなる?」

後方を必死に小走りで就いてくる刑事に寿は尋ねる。

「臭いんじゃないっすか?」

「冗談か本気かわからないからもう一度聞くけど、処理場が爆破されたらどうなる?」

返答までに間があった。

「仮に…ですが…、施設が綺麗に吹き飛ばされた場合…あそこの処理場は海や川と言った水源に面していますから…汚水が垂れ流しになるのではないかと…思います」

息を切らしながら答える。

寿は、うん、と言うと、署内から駐車場に出る。

そうならないような対策を浄水場側で採用しているかは寿には分かっていなかった。

それにどの程度の規模で、何を対象として爆弾を仕掛けたのだろうかと寿は考える。

「まさかなぁ…」

寿の頭に浮かんだのは、二件の殺人事件だった。

全く確証はなかった。だが、このタイミングでテロが起こることの方が不自然だと寿は考えた。だとすれば、犯人はもう一人、殺害しようと考えているのである。

移動車の助手席に座り、息を切らした刑事が運転席に座る。

「もう少し運動、しような」

運転席の刑事は苦い顔で頷くだけだった。



同日、午後一時

穴吹は走っていた。目的は爆発物の捜索である、

警察の本体はまだ到着していない。

捜索中に爆発物処理班も到着する、という話を聞いていた。

基本的に職員は敷地の外に出ている。

穴吹の様に爆発物の捜索をしている職員はほぼいない。

ほぼ、と言うのは、狩鷺も穴吹と同様に爆発物を捜索しているからである。

ただし狩鷺は警察官と共に捜索をしている。

穴吹は警察官がいると気が散るという理由だけで警察官を振り切ってきた。

もちろん、穴吹には爆発物を処理するスキルは無い。

不審物を発見次第連絡することが大前提での行動である。

僅かばかりの警察官はオフィスがある建物を捜索していた。

穴吹も最初は建物内を探していたが、思い立ち、処理施設の方に向かった。

最も被害が大きくなると考えられるのが施設の爆破だからである。

ここが破壊されれば、汚水を浄化できない。

仮にそうなれば、この施設は海に面しているため、汚水が海洋に垂れ流しなる。

汚水は急に止められないからである。

急ピッチで汚水を迂回させるような処置をしたとしてどれくらいの時間でそれが出来るか穴吹は考える。地域住民にも不便になるだろう。

そうならないために、まず爆発物を見つけなければならない。

穴吹はまず施設の周囲を見て回った。

施設へアクセスするルート、オフィスがある建物と処理施設の間が主な捜索範囲である。

その間、穴吹はずっと考えていた。

なぜ、爆破予告があったのか。予告犯にとってどのような得があるのか。

そもそも、犯人はなぜ何も要求して来ないのか。

これが最もわからないことだった。

爆破予告の文面にはただ、爆破する、とだけしか書かれていない。

犯人側の要求が一切書かれていなかった。

施設周辺に不審物がないことを確認すると、穴吹は処理施設内へと入って行った。

通路は見晴らしが良いため、不審物があればすぐにわかるが、それでもじっくりと時間をかけて調べる。

そして、水槽の中も、時間をかけて観察する。

大半の水槽が濁っているため、その内部は視界不良である。

穴吹は釣り用の網を取りに戻るか思案するが、爆発物は水中に置かれないのではないか、と考えて、水槽周囲に集中して捜索することにした。

その間も穴吹は、なぜ要求が書かれていないのか、を考えていた。

穴吹は水槽の間で立ち止まる。

息が切れていることに気が付く。

周囲を見渡す。

海風が心地よい天気だった。

穴吹は理解した。

単純な事だった。

爆発予告に要求が無かった理由。

「爆破そのものが目的…か」

穴吹は走り出した。



同日、午後一時二十分。

寿は車が到着すると車が完全に停止する前に降車して、すぐに走り出す。

センタの駐車場には警察車両が並んでいる。

一瞬間ほど前の殺人事件から数日で駐車していた車両は一台も無くなっていた。

しかし、今はその時以上に車が並んでいる。駐車場の隅には、避難したと思われる職員たちが集まっていた。これから避難が始めるのだと聞いた。

運転していた刑事が後ろから走って追いかけてくる。

センタの玄関から別の刑事が出てくる。

「寿さん、まだ見つかっていません」

「処理班は?」

「待機しています」

寿はセンタの中へと進んで行く。

受付と打ち合わせテーブルのある空間に穴吹がいた。

「あ、刑事さん、あんたここの担当?」

「はい。あなたはここで何しているんですか?」

職員たちは外で避難していたはずだ、という意味がその後に続く台詞である。

「なあ、予告状に要求って書いてなかっただろう?」

「まだ実物に目を通していないのでわかりませんが…」

寿は運転していた刑事を見る。その刑事は頷いた。

「だろう?だからさ、これ送った奴は金とかそういったものが目的じゃないんだよ。ただここを破壊することが目的なんだよ」

寿は頷く。

「どちらにせよ爆発物が見つからなければ同じです」

「建物内の爆発物は見つかりませんでした。今、処理施設の方を重点的に探しています」

寿は穴吹を見る。焦っているように寿には感じた。

「穴吹さん?焦っているようですけれど…大丈夫ですか?」

「あのな、どこかの頭の悪い奴が、わざわざ爆破はしますよって予告してきてるんだぞ?落ち着いていられるか?」

穴吹は早口で捲し立てる。

そうですよね、と寿は言うが、言葉を鵜呑みにしてはいない。

その時、胸ポケットから振動が伝わった。

取り出してみると、着信が現在進行中だった。

表示されている名前を見ると、無津呂からだった。

「無津呂君、申し訳ないけれど、ちょっと手が離せないんだ」

「…ごめんなさい…。今どこに?」

「処理センタだよ」

「…爆弾とか…ですか?」

寿の表情から笑顔が消えた。

他の刑事に詰め寄っている穴吹が寿の様子に気が付く。

「何で…わかったの?」

「…あ…当りましたね…。偶然です…」

「偶然って。そんな偶然あるか?」

「…センタに…何か騒ぎが起こるかな…と」

寿の口は僅かに開いていた。人前でなければもっと開いていたかもしれない。

「なんで騒ぎが起こるってわかるんだ?」

穴吹は寿のすぐ横まで移動していた。

「無津呂か?」

寿は黙って頷く。

「…騒ぎを…起こした方が…都合が良いから」

「無津呂君、ちょっと時間が無いんだ。爆発物を探さなきゃいけないし、地域住民の非難も進めていなかければいけない」

時計を見る。

予告状の爆破することを証明すると書かれた時間が迫っている。

寿はそれも無津呂に説明する。

「…それは…進めていただいても…良いんですが…」

「すまん、早めに結論に進んでくれるか?」

「…はい…。まず…その…書かれているような証明のための爆発はしません」

「え?」

「…ちなみに…本番もありません」

「すまん…わかりやすく言ってくれる?」

全く要領を得ない説明に寿は苛立つ。

「…こっちの時間が…ありません…」

寿の耳に車の音が聞こえてきた。

「もしかして、君、外にいる?」

「…はい…浄水場に…向かっています…。問題は…そっちじゃなくて…こっちです」

「浄水場に爆弾か?」

周囲の刑事が一斉に寿を見る。

「…いえ…そうではないです…」

寿は考えた。

無津呂の話に確証はない。センタの方に爆発物が実際にあることも同様に確からしい。

「どうしたら良い?」

「…寿さんだけ…こちらに来れませんか?」

即決だった。

わかった、とだけ言うと、周囲の刑事に告げて、車へと走った。



同日、午後一時半。

無津呂を乗せた車は北可士和浄水場に到着した。

正確に言えば少し離れたところに車を停めている状態である。

「無津呂さん、着きましたけれど…どうするんです?」

ハンドルを握っている原田は助手席の無津呂に尋ねる。

「…赤崎さんに…アポを取っているから…」

そうですか、と言うと原田は正門に進む。

原田は今日の朝、無津呂から唐突に浄水場に行くから準備するように伝えられた。

鞄を置く暇も与えずに無津呂は車に乗せた。

処理センタに行った時と同じ、借り物の車だった。

一つ違う点は、運転者は原田だった、ということである。

正門では警備員に止められる。

無津呂が赤崎とアポイントがあると言うと、詰所から電話で確認を取った。

無津呂の言うことが正しいと分かると、ゲートを上げて中に入れてくれた。

車は道なりに進んで、正面の管理棟の前に駐車した。

「…上手だね…運転」

「まあ、免許取ったのも早いですし。祖母の病院に付き添い兼運転手として駆り出されたりしますから」

「…おばあさんは…病気?」

「いえ、歳ですけれど、検診です」

そう、と無津呂は言うと、ヒョコヒョコと歩く。

「さっき電話してたのが赤崎さんですか?良く聞こえなかったですけれど…」

「…いや…違うよ…あれは寿さん」

「あ、そうなんですか。また事件の事ですか?」

頷く無津呂を確認したが、それ以上原田は続けなかった。

管理棟に二人が近づくと、ドア越しに大声が響いた。

原田にはその内容は聞き取れなかったが、建物正面、自動ドアのガラス越しに、人が走り抜けていくのが見えた。

二人から向かって左手に走り抜けていった。その後ろをさらに二人の人間が走り抜ける。

僅かな時間だったが、原田には走り抜けた二人が赤崎と青原だと分かった。

赤崎と青原が走り抜けたと、同時に、無津呂も走り出した。

駐車場側に振り返ると、左手、管理棟を正面に見た場合、右手に向かって走り出す。

そのまま管理棟を大きく迂回するように回る。

無津呂はピョンピョン跳ねるように走る。

原田はその無津呂の姿を見て。本当に蛙かもしれないと感じていた。

建物裏手を走り抜ける。

息が切れているが、無津呂の速度は落ちない。

浄水施設が見えてくると、フェンスの中を赤崎と青原が走っているのが見えた。

無津呂もそれを確認する。

中に入りたいと考えるが、一番近いフェンスは閉じている。

その横に開門用のタッチパネル式の鍵がある。

番号を知らなければ開錠できない。

無津呂はそれを無視してさらに走ると、管理棟の方から柚咲が飛び出してきた。

「あ、君…」

無津呂を確認すると、また走り出す。

施設から見て左手のもう一つのフェンスに柚咲と共に到着すると、柚咲が開錠する。

柚咲に続いて二人も施設に入る。

階段を上って点検用の通路に入ると、ちょうど反対側の点検通路に赤崎と青原が立っていた。

「おい、黄田、どうしたんや」

赤崎が叫んでいる。

柚咲が走ってその後ろに着く。

無津呂と原田もそれに続いた。

二人は職員の三人とは距離を取って立ち止まった。

「あれは…黄田さんですよね?」

無津呂は頷く。

黄田は、配水池のタンクの頂上に立っていた。

正確に言えば、タンクを点検するために、タンクの周囲に設置されている階段の頂上、ということになる。

三つあるタンクの内、中心のタンクに黄田は立っていた。

何かを胸に握りしめている。

「黄田!」

赤崎は叫ぶが黄田は目を閉じたままそこで立っている。

施設の方から出てきた他の職員が集まり出していた。

「黄田さんは…何しているんですか?」

無津呂に尋ねる。知っているはずはない、ということは理解しているが、この状況を共有している、という確認が原田には必要だった。

青原が黙ってタンクにゆっくり近づく。

「来ないで」

良く通る声で黄田が叫ぶ。その声に青原は歩みを止める。

黄田は胸に握りしめていたものをタンクの方にかざした。

赤崎が拳を握りしめているのが原田には見えた。

その緊張が伝わってきた。

「黄田さん、やめなさい。そんなことしてどうするの」

柚咲が叫ぶ。

黄田が持っているものは、原田の位置からでは瓶のようなものに見えた。

黄田はこの中身を配水池にいれようとしているのだろうか、と考える。

もしそうならばテロ行為に近い。

「あの瓶は何だろう…」

呟く程度の音量だと原田は思ったが、無津呂には届いてた。

「…ALP」

無津呂も呟く程度の音量だった。

微かに原田には聞こえたが、それが何を示すのか、すぐには分からなかった。

「柚咲さん…何が起こったんですか?」

原田は一歩進んで柚咲に尋ねる。

「ちょっと…良く判らない。普通に話していたのに…。トイレに行くって立ち上がった時に赤崎さんが、黄田さんの様子がおかしいことに気が付いて…」

柚咲は今にも泣きそうな顔である。

「なんか思い詰めてたんよ。顔がな」

赤崎は黄田を見据えたまま言った。

「普通の世間話しててな、トイレ行くって席を立って、鞄からあの瓶を取り出したから、ちょっとからかってみたら、急に走り出したんや」

こうなった状況は理解したものの、黄田の行動は理解ができない。

「刺激させたらまずいっすね」

青原が黄田を見たまま後ずさりで戻ってくる。

「青原、今配水中のタンクは?」

「Bです」

「絶賛配水中のタンクに籠城ってか…」

赤崎は胡麻塩頭を撫でるようにした。

「あの…黄田さんがいるタンクは何ですか?」

「配水池のタンクよ。三つあるけど、今、各家庭や工場に水を送っているタンクに居座っているってこと」

現在の状況を理解した原田はそれが極めて切羽詰まった状況であることも同時に理解した。

浄水場の職員の一人が、得体の知れない小瓶をタンクにかざして居座っているということになる。

「このままじゃ、あいつがどうするかわからんぞ」

赤崎はすぐに動けるようにするためか、軽くステップを踏むように動いていた。

「黄田、お前の望みはなんや?」

赤崎は叫ぶが、当の黄田は小瓶をかざしたまま目を閉じて黙っている。

「どうします?警察に連絡した方が良いんじゃないですか?」

フェンスの外には全職員が集まっているのではないかと原田が思うくらいの人間が集まっていた。

そうね、と柚咲が呟いた時に原田は思い出した。

「無津呂さん、さっき刑事さんに電話していたって言ってましたよね?」

原田の言葉に柚咲らは振り向く。

「ほんまか?あの刑事か?」

赤崎は頭の上で手を動かす。しばらくしてから原田はそれが寿の天然パーマをジェスチャしたのだと気が付いた。

「…はい…もう少ししたら到着すると思います…」

「え?ここに来るの?」

柚咲は驚いている。それは原田も同じだった。

寿と電話していたことは聞いていたが、ここに来てもらう約束まで取り付けていたのである。

「ん?ちょっと待って…君、これ予想してたの?」

青原は恐る恐る尋ねた。

その質問に赤崎も柚咲も違和感に気が付いたのか、無津呂に驚愕の表情で見た。

「…そうならないように…しようと思ってましたけれど…遅かったです」

柚咲らは無津呂に問い詰めたいのと、今の状況を天秤にかけているようだった。

無津呂は身体をびくっと硬直させた。

隣にいた原田がさらに驚いた。

無津呂は作業着の内ポケットからスマートフォンを取り出すと、耳に当てる。

「…はい…そのまま…はい…駐車場…ですか…わかりません…僕らは…建物の裏手を…回ってきました」

無津呂はそう言った。その直後。

「おーい、無津呂君」

フェンスの外の人込みから寿の天然パーマが見えた。

「なんだこれ?どういうこと?」

赤崎は状況が分かっていない寿にジェスチャで早く入って来いと伝える。

「黄田!」

青原が走り出す。寿に注目していた赤崎らは一歩遅れた。

黄田は小瓶に口を付けて、それを飲み干した。

「…まずい」

無津呂も走り出す。

原田はそこから動けなかった。

黄田は口元を押さえると、タンクの蓋を開けて、自らの身体をその中に入れ込んだ。

「黄田!」

赤崎か青原が叫ぶ。

どちらが叫んだかは原田には判別できなかった。

黄田の姿はタンク内に消えて行った。

原田の横を寿が通り過ぎる。

寿は電話を掛けながらタンクに向かって走って行った。

無津呂が階段に着こうとした時、赤崎と青原が階段を戻ってきた。

「青原、Cのタンクも閉めろ」

はい、と青原は無津呂を押しのけるようにして隣のタンクに向かう。

赤崎は、階段を降りきると、黄田が飛び込んだタンクを回り込んで裏手へ向かう。

タンクから伸びる直径の太いパイプに取り付けられている、円形のバルブを回す。

黄田が飛び込んだタンクからの配水を止めるためだった。

原田の隣にいた柚咲もそれに続いて赤崎がバルブを閉めたタンクの隣、残りのタンクAのバルブも閉めた。

北可士和浄水場からの配水がこの時点で完全に停止した。


同日、午後二時。

寿はセンタにいる刑事から電話連絡を受けていた。

結局、無津呂の言う通り爆発は起きなかった。

浄水場の管理棟、会議室に寿はいた。

その部屋には柚咲ら、事件に関係した職員、そして無津呂と原田がいた。

それぞれの表情は悲痛に歪ませる者、なぜこのようなことが起こったから理解できない者、その両方。

誰も会話を交わしていない。寿の電話連絡の会話だけが響いている。

重苦しい空気が場を包んでいる。

「皆さんには直接関係ありませんが…」

寿はその空気に少しだけ抗う。

「爆破予告がされていた水処理センタは無事でした。つまり爆破予告は嘘だったことになります」

あの、と原田が口を開く。

「二時頃に、爆破が嘘ではないっていうことを証明するって予告されていたんですよね?それはどうだったんですか?」

「今が二時だから、それ自体が嘘だってことになる」

「あ、そうか」

原田はまだ状況が整理できていなかった。

「まだ、念のため爆発物の捜索はしていますが…恐らく見つかることは無いでしょう」

寿は全員に伝えているが、視線は無津呂に向いていた。

「刑事さん、黄田はどうなったんですか?」

不意に赤崎が口を開く。

「救出はされました。直ちに病院へ搬送しましたが…。芳しくはないようです」

誰も口にはしなかったが、絶望的なのだろうと原田は感じていた。

「黄田さんはなんであんなこと…」

柚咲は力なく言った。

「俺の教育が良くなかったんすかね…。ちゃんと見てやれてなかった…」

青原は声を震わせる。

「お前ら、もう黄田が死んでることにして話してねぇか?まだ死んどらんのやぞ?それにな、俺等はまだやることがあるやろ?」

声を荒げる赤崎は真剣な表情だった。

「僕からも聞きたいんですけど、水道水はどうなるんですか?」

寿の質問に三人は顔を伏せる。

「黄田がどうこうっていうより前に、ワシらはそっちをなんとかせんと…。黄田が飲んだ薬品を特定できんことには、どういったものが入り込んだかわからん。毒物なのか、その中でも重金属とかであれば、また対応が違うんや」

「その薬品は特定を急いでいますが…」

「…瓶には…ALPの…記述があった気がします…つまりリン化アルミニウム…」

無津呂の指摘に寿は頷く。

「確か、華葺に使われた毒薬と同じものだったな…」

「瓶がそうだったとしても、中身がそうだとは言えないでしょう?」

柚咲の指摘に原田は納得していた。

原田たちが目撃したのは、無津呂曰く、リン化アルミニウムの化学式が書かれている瓶である。

中身までは断定はできない。

「もしそうした薬品であれば、とりあえず中身を全部抜いて清掃やな。それが最も単純や。その後も、薬品がタンク内から検出されないことを確認して初めて配水できる」

赤崎は淡々と説明する。

「もっと安全側を取るならば、タンクを全部取り換えるしかないな」

「全く新しいのに?」

「そうや。警察が出してくれるか?」

寿は返答できない。

「それだけじゃない。すぐにワシらがバルブを閉めたが、間に合わずに配水されてしまっている場合がある。それはすでに県と市が動いて各家庭の状況を調べてくれているはずや」

被害としてはそちらの方が甚大になる。

黄田は薬品を飲み込んでタンクに身を投げた。

その黄田の体内から薬品が漏れ出ていた場合、薬品が混ざった浄水が工場や住宅へと配水されてしまう。

「水道の使用禁止はすでに通達が出ています。それから自衛隊が給水を始めるでしょうね」

柚咲は言った。

「なあ、刑事さん、もういいやろ?これからがワシらの仕事なんや。行かせてくれんか?」

寿は少し考えて、わかりました、と言った。

確認する前に赤崎たちは会議室を飛び出して行った。

「嫌になっちゃうねぇ」

寿は笑顔で椅子に座る。

楽しくて笑っているのではないことは原田にも分かった。

「…あの…黄田さんは…無事にタンクから…助け出されたのですか?」

今は広くなった会議室で、律儀に同じ場所に座ったまま無津呂は尋ねる。

「ん?うん…。無事に…まあ瀕死だから、無事とは言えないかもしれないけれど」

無津呂は目をクルクル回しながら、そうですか、と言った。

「寿さん、これは…黄田さんがこの事件の犯人…っていうことですか?」

「うーん、どうだろうねぇ。今の所、錯乱して水道水が溜められていたタンクに毒物を摂取して飛び込んだっていうだけだからねぇ」

寿はすっかり脱力していた。

わかんねぇ、と言って寿は天を見上げた。

太陽光を照明として使っていたため、電灯は消えていたが、その白い天井はくすんだ色に原田には見えた。

「…寿さん…」

無津呂が唐突に話し出す。

「あ、はい」

寿はなぜか姿勢を正して言った。

「…投光車両って…どんなのですか?」

「は?」

「ナイフが見つかった夜に照明の代わりになっていたっていうやつですか?」

無津呂はまっすぐ前を見て、うん、と言った。

寿と原田の視線が交わる。

「えっと…ちょっと待っててくれ」

寿はスマートフォンを取り出すと、操作し始める。

「あ、これだ。多分同じ型だと思う」

寿はわざわざ無津呂の前まで来ると、スマートフォンに映し出されている画像を見せる。

それを両手で受け取ると、無津呂は指を右に左に動かしていた。

「…ああ…そうですか…」

独り言なのか、誰かに言っているのか、わからないほど小さい声で無津呂は呟く。

ありがとうございます、と寿にスマートフォンを返却する。

「君は、随分落ち着いているよね。飲み水がやばいことになっているっていうのに」

「…なんのこと…ですか?」

再び原田と寿の視線が交わる。

「え?無津呂さん、さっきの騒ぎ、聞いてなかったんですか?」

「度胸があるというか、鈍感というか」

紙一重だな、と苦笑する寿につられて原田も苦笑いする。

「あれ?」

寿はスマートフォンを入れたポケットを弄る。

再びスマートフォンを取り出すと、不在着信があったと告げた。

「気が付かなかった。警察の方でも水の分析をしていたんだよ。その結果が出たんだろうね」

「…多分…毒物は出てない…」

無津呂は寿を見据えて言った。

「は?」

寿は声に出したが、原田は言葉に出なかった。

三人の動きが止まっていた。

寿は我に返ったようにスマートフォンを操作してかけ直す。

「あ、寿です。うん。はい。お願いします」

数秒の沈黙があった。

「はい。はあ、え?」

寿は目を見開いて無津呂を見る。

無津呂は視線を合わせることなく、座ったまま正面を向いている。

「わかった。どうも。まだ目覚めない?うん…わかったありがとう」

そういって通話を終える。

「なんで?」

「どうしたんです?」

「黄田の体内から次亜塩素酸ナトリウムが検出された」

「リン化アルミニウムじゃないんですか?」

寿は黙って頷く。

次亜塩素酸ナトリウムは浄水場で殺菌に使われる薬品である。

浄水場で一般的に使われる薬品である。

浄水場の中で手に入れることは容易だろうと原田は考える。

「黄田本人はまだ目覚めていない。毒物ではないと分かったけれども、まだ時間が掛かりそうだな」

それより、と寿は続ける。

「君は…なんで違うと分かった?」

「…寿さん…分析結果…伝えに行かないと」

「あ、そうか」

「…僕らは…帰ります…」

また連絡します、と言って無津呂は席を立つ。

「ちょっと待ってくれ、まだ帰ってもらうわけには…」

「…残っている必要…ありますか?」

「いや…」

「…皆さんの邪魔になりますから…」

失礼します、と頭を下げてヒョコヒョコ歩いて会議室を出る。

すぐ後ろで寿が逆方向に走り出していた。

「帰って大丈夫ですか?」

「…僕らが残っていても…何も…できないでしょう?」

原田は頷いた。

ここで無津呂と原田ができることはない。

二人で玄関へと向かう。

「…また…運転…お願いして良い?」

「いいですよ。大学で良いですか?」

ありがとう、と無津呂は感謝を伝えた。



五月一日、午前十時。

可士和市ギャラクシープラザ四階の会議室に、再び事件関係者が集まっていた。

北可士和浄水場からは柚咲、赤崎、青原そして相良も同席していた。

可士和市水処理センタからは、狩鷺、穴吹、設楽である。

ほぼ、有馬が毒殺されたときの打ち合わせメンバである。

それぞれが違った理由で、しかし根本は同じ理由で憔悴していた。

爆破騒ぎがあったセンタでは、さらに予告時刻になっても爆破はしなかった。

しかしながら爆発物がないと警察が判断するまで捜索は行われた。

職員は昨日一日仕事ができなかったと言って良い。

下水処理そのものは、人が介入することはないので、ほぼ自動である。

とは言っても、それが円滑に進ませるために、人間が管理するわけである。

爆破騒ぎがあろうと、下水は流れ込んでくるのだ。

浄水場では、黄田の自殺未遂と浄水の汚染問題で、職員たちは寝むれないまま朝を迎えた。

こうしている今現在も、民間企業と公共団体が手分けして配水区域における各住居の水質を調査しつつ、浄水場の復旧に動いている。

その中でも朗報だったのが、黄田が使った薬品が次亜塩素酸ナトリウムだった事である。

一般的な浄水場で使われているこの薬品が通常より多量に流れ込み、それを摂取した場合、気分が悪くなることもあるが、生命の危機に直結しないことが多い。

水道の水を飲もうとした時、臭いがきつくなるため、吐き出すことが想定されるからである。

職員たちを呼びつけた寿は窓の外を見ていた。

まるで他人事のような態度に、集まった職員の何人かは、特に穴吹は、苛立ちを表に出していた。

「なぁ、刑事さん、さっきっから黙ってっけど、これ何の時間?」

椅子に座り、リズミカルに足をタップさせて穴吹は言った。会議室によく響く声だった。

「ワシらも出来れば仕事の方に戻りたいんやけれど」

目を充血させた赤崎は力なく言った。

「申し訳ありません。しばらくお待ちください」

悪態を吐く穴吹を見ながら、寿は昨夜の事を思い出していた。

無津呂と原田が帰宅した後、寿は浄水場で事態の収拾に奔走していた。

とはいえ、浄水場のことに関しては職員たちに任せるしかない。

走り回る職員たちを横目に、立ちながら他の刑事達と捜査会議をしていた。

夜十時を回ったところで寿のスマートフォンに着信が入った。

無津呂からだった。

事件について話したいことがある、ということだったので、これから向かうことを伝えると、明日にしてほしい、という返答だった。

理由の説明はなかった。

寿は事件に関わっている職員を呼んでも良いか、と提案した。

無津呂は一旦、その申し出を断る。

寿は関係者全員へ、現状を説明する必要があるから、良い機会なので一緒に済ませた方が良いのではないか、と再び提案する。

無津呂はそう言うことなら、と了承し、明日の待ち合わせ時間を告げた。

そうして、今に至る。

それぞれの職員がこうして集まることができたのは、奇跡に近い。

しかし、警察に呼び出しされたら出頭しないと何か悪いことがあるのではないか、という一種の脅迫的な観念が作用したのだろう、というのが寿の見解だった。

腕時計を確認すると、待ち合わせ時間から五分すぎていた。

その時、会議室の扉が開いて無津呂が姿を現した。

寿は安心した。

なぜただの大学院生が会議室に入ってきただけで安堵しているのだろうかと寿は不思議に思った。

無津呂の後ろから、原田も入ってくる。

その手にはノートPCが抱えられていた。

職員たちは一方の壁に向かって椅子を並べて座っている。

無津呂が入ってきた状況を見れば、先生と授業を待つ生徒たちの様にも見える。

「…じゃあ、準備…お願い」

原田は、はい、と言うと隅に置いてあった講演者台を移動させて、その上でPCを起動させていた。

「無津呂君、これは?」

無津呂は聴講者たちが見ている壁の隅にある電源盤に鍵を差し込んで回した。

「その鍵はどこから?」

「…そこの…施設管理の…人から」

寿を見ることなく答えると、聴講者たちの視線が集まる中、開いた電源盤をじっくりと見渡して、一つのスイッチを押した。

「何が始まるの?」

「ワシが知るか。わざわざ来たんやからそれなりのことやろ。黙ってりゃええんや」

柚咲と赤崎の声が原田に聞こえていた。

電源盤のある壁の上部からスクリーンが降りてきた。

会議室なので、こうした設備がある。

そして、ちょうど職員たちが座っている席の上部、天井の中央からプロジェクタが降りてきた。

「おい、無津呂、研究発表でもすんのか?」

穴吹が諭すように言った。

「…そこまで…仰々しい…ものではありません」

「無津呂さん、オッケィです」

原田は講演台で言う。

無津呂は頷くと再び操作盤に戻り、スイッチをいくつか押した。

プロジェクタが音を立てる。

狩鷺が天井を見上げるタイミングでプロジェクタから光が発せられてスクリーンに映像が映る。

ノートPCのデスクトップが映し出された。

壁紙は猫だった。

「君ネコ好き?」

寿の質問に恥ずかしそうに無津呂は頷いた。

「…寿さん…カーテン…閉めてもらえますか?」

「ん?ああ、そう言うことか。前だけでいいかな」

会議室の前方部分の窓のカーテンを閉めた寿に無津呂は頷く。

「…原田君…ありがとう…後は」

そう言うと原田は頷いて会議室の入り口脇に立つ。

無津呂は講演台に立つと、PCを操作する。

ノートPCのモニタ部分から無津呂の鼻より上がかろうじて出た。

操作している様子はスクリーンに映し出されていた。

デスクトップ上のファイルを一つ選択してソフトを起動させる。

「パワポ?」

青原が呟く。

無津呂が起動したのはプレゼンテーション用のソフトだった。

そしてスクリーンには白背景に黒文字だけが映し出されていた。


『北可士和浄水場ならびに可士和市水処理センタにおける事件の全容について』


眠そうだった処理場の職員たちが背筋を伸ばす。

穴吹は、へー、と言って何度も頷いていた。

「無津呂君、今から、その話をするということかい?」

狩鷺は驚いた表情で無津呂とスライドを交互に見た。

無津呂は頷くと、手にリモコンを持って前に出てくる。

それは遠隔でスライドの操作を可能にするリモコンで、レーザポインタの機能も有していた。

「はい、えーではこれから、このタイトルでお話しさせていただきたいと思っていますが、皆さんよろしいでしょうか。あ、ちなみに、このスライドは全て文字でだけで構成されております。ちょっと素っ気ないのですけど、なにせ昨日の夜に急いで作ったものなのでご容赦ください。あ、言い忘れておりました。今日は皆さま、それぞれお忙しい所ではありますが、お集まりくださいまして、真にありがとうございます。天気が良くてよかったですね。ちなみにここの場所にしたのは浄水場、水処理センタ、それぞれから等距離にあるからです。どっちかの施設で開催すると、遠いって文句が出そうですからね。喧嘩は良くないです。これからする話の中で各施設のことも言及しますが、ご存じなければちょっとわかり難いかもしれません。それはご容赦願います」

無津呂はそこまで言うと、ちょこんと頭を下げる。

穴吹と相良以外の会議室の人間は、目と口を大きく開いていた。

「え…っと…、君、無津呂君、だよね?」

寿が恐る恐る尋ねる。

「あーこいつね、学会発表の時だけ饒舌になるんだよ。普段、蚊の鳴くような声でしか話さないのになぁ」

そういうと穴吹は、へへ、と笑う。この中で無津呂の学会発表を聞いたことがあるのは穴吹だけだった。そのため、無津呂の豹変ぶりに驚くことはなかった。

原田も目を大きく見開き、口も半開きになった。

恐らくこのメンバの中では無津呂との付き合いは長い方だろうと思っていたが、唯一、こうした発表の場にいる無津呂を知らなかった。

良い具合に場が静まり返ったので、無津呂は話を進める。

「このような場を設けてくださった寿さん、ありがとうございます。本来であれば寿さんだけにお話しするつもりでした。僕は、皆さんご存知の通り、刑事でも捜査関係者でもありません。通りすがりの大学院生です。偶々、事件に遭遇しただけです。中途半端に関わってしまったことが僕の運の尽き、とでも言いましょうか。それでも関わってしまったことに対して、黙ったままでいられるほど、僕は神経が図太くありません。研究中、実験の最中、杏仁豆腐を食べている時、お風呂に入っている時、寝ている時、頭の片隅にいつもカビの様にこびり付いて離れなくなってしまいました。それは日を追うごとにゆっくりと大きくなってきます。このままではそのカビに侵食されて日常生活にも支障をきたしかねません。そう、この説明は自分のためにしているんです。重ねて申し訳ありませんが、僕の安眠のためにお付き合いください」

「おい、あいつ止まんねぇな」

赤崎が思わず言い放つ。

まだ頭の整理が追いついていない原田は、無津呂を凝視していた。

さあ、と無津呂は声を上げると、リモコンをPCに向ける。

無津呂は全員の目を見ながら言った。

「続いてのスライドになります。こちらをご覧ください」

無津呂がリモコンを操作すると、次のスライドに切り替わる。


『華葺氏はいつ殺されたのか?』


たった一行だけ書かれた文章は聴講者を現実に引き戻す。

「さて、今回の一連の事件は、処理センタ職員の華葺伊草氏の刺殺死体が、センタの沈砂池に浮かんでいたことから、始まりました」

一歩一歩しっかりと踏みしめながらスライドの前を無津呂は移動する。

その顔に黒い文字が微かに被るが、気にしていなかった。

「一方で、浄水場の方では、浄水池からナイフが発見されました。後程、このナイフが華葺氏を殺害したものだと分かるのですが、さあ、皆さんは大変だっだでしょう」

浄水場の職員たちに手を差し伸べるようにして無津呂は言った。

「まさか自分たちが管理している施設に、いつの間にかナイフがあるとは…。まあその時は人を刺したものだとはわからなかったでしょうが、驚いたことでしょうね」

何度も頷く無津呂を赤崎が腕組みで見つめる。

「嫌ですよね。そんなものが見つかったら。隠したくなるのも理解できます。結果的にそれが皆さんの過ち、黄田さんの奇行の理由だったんですけれどね」

「だけど、ちゃんと警察には渡している。次の日になってしまったけれど。報告よりも先に施設の復旧の方が第一義だったの」

柚咲は立ち上がって弁明する。

「保身ではなくて?」

その一言で柚咲は黙った。

「もし、あの場で有馬さんが死んでなかったらあなたは、いや、かわいそうですね。あなた達は、ナイフが見つかったことを伝えていましたか?」

柚咲は力なく座り、後ろの相良が肩を抱くようにして慰める。

「あんたの言う通りかもしれん。ワシらは結局黙ったままやった。いくらこっちがごたごたしていたからって、アカンことしたと思う。だが、それと黄田が薬を飲んだことと何が関係あるのかわからん」

「そこまで罪の意識を感じていたっていうこと?」

黄田の教育係だった青原も疑問をぶつけた。

「それはまた後程説明します。物事には順序がありますので」

突き放したように無津呂は言い放った。

「物事には順序がありますが、意外と発想や思考は不連続です。いきなり最後が思いつくこともありますし、最後から逆に辿っていく、なんてこともあったりします。結果を見てみましょう。結果、華葺氏が顔を焼かれた状態で胸を刃物で刺された状態だった。これが結果です。この状態で見つかったんです」

そして、と無津呂は続ける。

「さらに警察が解剖した結果、華葺氏の身体からリン化アルミニウムが見つかりました。寿さん、間違いないですよね?」

「え?お、おう、はい」

突然話を振られた寿は、まだ無津呂のリズムに慣れていなかった。

「皆さん、どう思いますか?」

今度は聴講者全員に問いかける。

「どう…ってなぁ。あいつ派手にやられたなぁってことくらいじゃねぇか?」

いつも通りの口調だったが、穴吹の目は据わっていた。

「そうですね。派手にやられてますよね。ナイフで刺されて、顔を焼かれて薬品を飲まされているんです。刺す、焼く、毒、のオンパレードです。でも…多すぎないですかね?」

原田には無津呂が何を疑問視しているのか分かった。

「この中で顔を焼くっていうのは、殺された人物の特定を遅らせる、そんな役目もあるかもしれません。でも、こんなことは些末な事なんです。この話のポイントは…」

そこで無津呂は言葉を切った。聴講者は無津呂の次の言葉に注目している。

「華葺さんの死因が刺殺だってことです」

聴講者に響いてはいなかった。

「これは寿さんも悪いんですけれど…」

「え?何で?」

「ちょうどここで寿さんが捜査で来た時に、華葺さんの解剖の結果をお話しされてましたよね?」

寿は頷く。

「その時、ご自身で死因は刃物による刺殺、と仰っています。それで間違いないとも」

「あー…言った」

「だからナイフで刺された、これが華葺さんの死因です。つまり、他は死に直結していない、とも言えます。これがどういうことか?皆さん考えてみます?どうします?やめますか?」

誰も何も返答しない。

知っていたかのように無津呂は頷く。

「続けましょうか。では、なぜ華葺さんは薬を飲まされたのでしょうか?ナイフで刺そうと思っている人間が、毒も用意している。なんとも準備が良いというか、心配性と言うか。第一矢が駄目だった時に第二、第三の矢を用意しておくという性格は、嫌いじゃありません。エンジニアとして適切な人材だったと言わざるを得ないでしょう」

華葺殺害犯を褒めだしたので原田は若干冷や冷やしていた。

「この考え方で言えば、僕はナイフが第二矢、だったと考えています。つまり、第一矢は別にあった」

急に無津呂はゆっくりと諭すように言った。会話の緩急をつけることでその発言に注目させる。プレゼンテーションの効果が上がる手法である。

「そう考えた理由は、人を殺す手法として考えた場合、毒殺の方がナイフで刺すより極めて簡単だからです。ナイフを使った場合、相手に抵抗される可能性もあります。さらに運が悪ければ、ナイフを相手に盗られて、自分の命が危険にさらされます。そんな危ない橋を渡るより、服毒した段階で勝手に相手が死んでくれる毒殺はリスクが極めて低い。まあ、相手に毒を飲ませるまでが大変とは思いますが」

無津呂はそこでヒョコヒョコ講演台まで戻るとペットボトルの炭酸水を飲んだ。

「はい、失礼いたしました。さて、殺す方としては毒殺の方が安心、でも実際の死因はナイフによる刺殺。さあ、なぜ食い違いがあるのでしょうか?どう思います?」

無津呂は設楽に向かって掌を差し出す。

「え?わ、私?」

急に当てられたので、設楽は挙動不審になる。

「ええ。せっかくですからある程度は参加型にしようと思いましてね。その方が話に集中できるでしょう?ねぇ、穴吹さん?」

「今度は俺かよ。知らねぇよ」

無津呂は笑顔で答えると、設楽に視線を戻す。

「これは…何か言わないと許してもらえなさそうな雰囲気ですね。えっと…さっきの話を踏まえれば…一の矢が失敗した…ん?でも…毒物は身体から見つかっているんですよね?あれ?」

「ああ、いい感じですよ。仰る通りです」

「答え出てへん気がするけどな」

赤崎が言う。眉間に皺が寄っていた。

「いえ、いいんです。期待していませんでしたから。ここまでだとは思いませんでした」

設楽は苦笑いをしていた。

「そう、さっき私が話した通り、一の矢として毒物を用意していましたが、それで殺害ができなかった。だから二の矢としてのナイフを使った、ということです。簡単ですよね」

場は静寂に包まれた。

「リン化アルミニウムを飲ませられなかった、ということ?え?でも体内で見つかっているんだよね…」

柚咲が言った。無津呂はそれを見て満足そうに頷く。

「つまり、その結果から導き出されることは、華葺氏はリン化アルミニウムを摂取したが、それで死には至らなかった、ということです。そんなことあり得るのか、と言った疑問はありますが、そうでなければ死因が刺殺である、という結果に矛盾が生じます。ならばそう考えるのが妥当でしょう」

無津呂は後ろで手を組んでスライドの前をゆっくりと歩いている。

「あ、ちなみにですが。申し訳ありません、話が脱線しがちで。研究発表とは勝手が違いまして。さて、そもそも華葺さんは通り魔に襲われたという説もあるのではないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これはあり得ません。なぜか?毒物とナイフを所持している通り魔がいるわけない、ということではありません。それは、華葺氏が浄水場のロゴが入った作業着のブルゾンを着用していることです。ならば、それを手に入れられる人間に限られるってことです」

「あいつらの誰かじゃねぇか」

穴吹は赤崎の方を指差した。

「何でワシらが殺さにゃならんのや。何の利益もないやろ」

「お、利益があったら殺すんか?刑事さん、自白じゃね?」

赤崎が立ち上がろうとするのを青原は制する。穴吹は狩鷺が制していた。

寿も一歩前に出て、二人をけん制する。

「落ち着いて下さい。血の気が多いことは大変結構ですが、多すぎるのも体に毒ですよ。さて。穴吹さんがそう錯覚してしまうことも分かりますが、必ずしも浄水場の職員だけが手に入れることが可能、と言うわけではありません。この殺人が計画的に行われたことをわざわざ言う必要は無いと思いますが、その計画のために浄水場の作業着をあらかじめ手に入れておくことは可能です。ちなみにそれができるのは、浄水場の皆さん以外でも、処理センタの皆さんでも可能でしょう」

何でだよ、と狩鷺に肩を掴まれた穴吹が言った。

「毎年、この時期にイベントがありますね?そのイベントはここで開催されます。浄水場とセンタの皆さん手動で大小様々な企業がブースを出展します。こうしたイベントで、作業着を手に入れる。具体的には盗むんですが、そうすれば、あなた方にも作業着を手に入れることは可能なんです」

穴吹は黙った。

「イベントに参加した企業も同様に手に入れることはできますけれどね。それはまた後で言及します。さて、脱線してばかりですね。さて、元に戻りましょうか。お座りください。ちょっと長くなりすぎていますね」

赤崎と穴吹が着席したのを見届けると再び、無津呂の独壇場となる。

「大体ここまでが前提条件です。さあ、スライドのタイトルに戻ります。華葺さんの行動がある程度分かっています。最後にその姿が見つかったのは、ここプラザの軽食フロアでした。それ以降、どこで何をしていたかは分かっていません。次に見つかったのは処理センタの沈砂池でした」

ゆっくりとした口調に変わる。

「ここで最後に動いている姿が見つかったのが午後五時、死亡推定時刻が午後五時から午後十一時です。この時間帯に殺されたということです。そして、浄水場でナイフが発見されたのが午後十一時半です」

次は言葉を切って聴講者をじっくりと見渡す。

「ここまではよろしいですね?特におかしい所はありません、死亡推定時刻の後でナイフが見つかっていますからね。でもこれではいつ亡くなったかわかりません。これをもう少しだけ狭めて見ましょう。次に考えるのは、ナイフがいつ、浄水場の中に持ち込まれたか、です」

「ん?分かったぞ。さっきの話がここで効いてくるんやな」

赤崎が突然声を上げる。

無津呂は掌を差し出して先を促す。

「つまり、浄水場の作業着を盗むことができた人間がいるってことやろ。ならば、それを着て浄水場に侵入できたってことになるやろ。ならば、ほれ、そっちの奴らにもその機会があったってことになるな」

横目で穴吹を見ていた。

「ちょっと、赤崎さん」

青原が後ろから肩を叩く。

「なんや。今、俺のかっこいい所や。邪魔すんな」

隣の柚咲は目を閉じて天井を見ている。

「大変申し上げにくいのですが、赤崎さん、それは無理な話だと思います」

「なんでや」

素っ頓狂な声で赤崎が言う。

「赤崎さん、ご自身の勤められている施設のセキュリティを過小評価しないで下さい。あなたが勤務しているところは人の命、生活を守る場所なんです。そんな盗んだ作業着で簡単に入れるところではないと思いませんか?」

「正面入り口をくぐる時には警備員がしっかりチェックしているでしょう?あなたみたいにある意味で有名だったら顔パスもあり得るかもしれないけれどね。見たことないような人が入ってきたら声をかけて名簿に記入してもらうでしょう?それに職員証を提示して入るし、仮に施設内に入ったとしても、管理棟や浄水施設の入り口が暗証番号だから知らないと入れないし」

柚咲が諭すように言う。その後ろで相良が心細そうに見つめている。

「柚咲さん、ご説明ありがとうございました。僕が言うこと全くなくなりました」

現に、柚咲の説明中、無津呂は炭酸水を飲んでいた。

赤崎はさすがにわかりやすく落ち込んでいる。

「面白いコントだったな」

穴吹は狩鷺と設楽に向かって笑った。その二人は苦笑していた。

「無駄な意見はありません。赤崎さんお気になさらずに。さて、柚咲さんのご指摘の結果、分かったことが、いや、分かってしまったことがありますね」

柚咲は覚悟を決めているような目になった。

「そう、つまり、ナイフを持ち込めるのは浄水場で働いている職員だけです。これが重要ですね」

「核心だな」

穴吹が息巻く。

「順番があるので、まあ、落ち着いて下さい。柚咲さんたちの証言が正しければ、ナイフ発見の当日昼間、午後から急に仕事が休みになりましたね?これは夜番をするにあたっての代休のようなものだと理解しています。かなり異例だったと思いますが。皆さんは一度帰宅されて各々用事等を済ませてから、再び浄水場へと戻ってきました。これが夕方の六時でした。ナイフはこの時に持ち込まれたと思われます。それ以外に外部から持ち込まれた形跡はなかったからです」

無津呂は寿の顔を見る。寿は頷く。

「彼らの証言だけではなく、施設周囲に設置されている監視カメラから、不審な人物は映っていなかった」

「ありがとうございます。そういうわけで、午後六時には浄水場にナイフがあった、ということは理解していただきましたか?そうなるとですね、華葺さんが最後に目撃されたのが午後五時、ナイフが持ち込まれたのが夕方六時、となるわけです。だから、この一時間の間で華葺さんは殺害されて処理センタの沈砂池に投棄されました」

場が静かになる。

「ご質問は御座いますか?」

狩鷺が手を挙げる。いよいよ研究発表になってきた、と原田は思った。

「その間、一時間として、まあ厳密にいえば一時間より少ないのだろうけど、その時間で薬を飲ませて、それが効かないってことが分かって、それでナイフで刺して…あ、あと頭を燃やしたっていうのもあったな…それからセンタに運ぶっていうことは可能なのかな?」

「仰る通り、ですね。今はすべての質問に答えられませんが。頭を燃やしたことについてはお答えしておきましょう」

「ん?ガソリンでもぶっかけて火つけたんじゃないのか?」

穴吹が怪訝そうに聞く。

「いえ、これはですね。犯人は意図していなかったと思います。自分で燃料などを使って華葺さんを燃やしたわけではないんです」

聴講者の中には首を傾げる者もいた。無津呂の意図していることが分からなかったのである。

「つまりですね、華葺さんを刺した人間は、人相を隠そうとして、警察の捜査を混乱させようとして、顔を燃やしたわけではないんです。では、なぜ見つかった華葺さんの遺体の顔は燃やされていたのか」

無津呂は一旦言葉を切ると、講演台に戻ってスライドを閉じた。パワーポイントのソフトを最小化させると、動画再生ソフトを起動させる。デスクトップにある動画ファイルを選択して再生させた。

そこには、プレハブの実験室が映し出されていた。原田には見慣れた作業台が映像の中心にあって、そこにはビーカが一つ、置かれている。

その中には薄黄色の液体が注がれていた。

「音声はありません。えー素っ気ない映像ですが、これは大学の実験室で撮影したものです。ここにビーカがありますが、中には塩酸が注いであります」

動画が再生される。

画面に薬品瓶がフェードインしてきた。

持っているのは無津呂なのだろうと原田は考える。

「これはリン化アルミニウムです。華葺さんの身体から見つかった物質ですね。これは固体になっているので、蒸留水で溶かします」

映像の中の手はリン化アルミニウムの入った容器から薬さじで結晶を少量取り出して別に用意したビーカに入れた。

そこに透明な液体、蒸留水を注ぐと、撹拌して固体を溶かした。

映像からは全て溶けきってはいなかったが、そこで薬さじが抜かれる。

リン化アルミニウムを溶かした蒸留水を塩酸の入ったビーカに注ぎ込むと、ガラス板で蓋をした。

「ここからです」

短く無津呂が言うと、映像に注目させる。

一分ほど時間が経過したとき、突然、ガラス板が吹き飛び、一瞬大きな炎が上がる。

音声は切られていたが、大きな音がしたことだろう。

原田は一昨日プレハブの中で壁の一部が黒焦げになっていたことを思い出していた。

「はい。えーっとこれは実験室で整った条件で、実験した場合の結果です。見ての通り、リン化アルミニウムを塩酸に入れてからしばらくして爆発炎上しました。この爆発はリン化アルミニウムと水との反応で発生するリン化水素の気体が原因です。それが、塩酸と反応することで爆発したと思われます。塩酸がなぜここで出てくるのか、お分かりですね?塩酸は胃酸の主成分です。リン化アルミニウムを使った服毒自殺はお勧めできません」

場が静まり返っていた。

「これも結果ありき、になりますが、この現象が起こった段階で、犯人はリン化アルミニウムを何らかの液体に混ぜて摂取させたと思われます。その時発生した水素ガスが胃酸と混じりあって、それが反応して爆発します。それが食道から肺、そして口内や鼻腔に至って炎を吐き出したようになったと思われます」

無津呂は話しながら聴講者の顔を確認していた。

「もちろん、実際の人体で行った場合、水素ガスの発生量とか、胃酸の出具合で時間と爆破の規模は変わると思いますけれどね。さて、これは犯人にとって良かったのか、悪かったのか、それも置いておきます。ここで知ってもらいたいのは、顔を燃やしたのは意図したものではなかった、ということです」

唖然とする聴講者を置いて、無津呂は続ける。

「続いてのスライドに参りたいと思います」

手元のリモコンを操作する。

今回のスライドではレーザポインタを使わないようだと原田は思った。

次のスライドが映し出される。


『有馬氏はなぜ殺害されたのか?』


短く書かれた文字に疑問を唱えたのは寿だった。

「無津呂君、質問だが良いかい?」

無津呂は頷くのを見て寿は続ける。

「『どうやって』じゃなくて、『なぜ』なのは、意味があるのかい?」

「寿さん、それは重要な視点です。有馬さん殺害の場合、ハウ、ではなくホワィなんです」

無津呂は断言する。

「ちょうど皆さんがいる場所、ここは、有馬さんが亡くなった場所でもあります。ここに居るほぼ全員が、その光景を目の当たりにしていました。皆さんの記憶にも新しいと思います」

炭酸水を一口飲むと、再び講演台から出てきた。

「今月に開催されるイベントで来てもらった客に楽しんでもらおうと、きき水、というものが提案されました。そのデモンストレーションをここで有馬さんが試していたところ、またしても毒物が入った水で死んでしまいました。簡単に振り返るとこうなっています。さて、僕が一番気になったのは、なぜ有馬さんだったのか、という点です」

「あいつ、自分で志願してきき水に参加してたぞ?」

穴吹は有馬の話になってから目つきが変わっていた。

「あんなん、誰がやるかなんて決まってなかったんだから、誰が死んでもおかしくなかったんじゃねぇのか?」

「そうですね。確かに、あの場の雰囲気では誰がやってもおかしくなかったと思ってしまいがちです」

穴吹は眉が僅かに動いた。

「良いですか、あの企画は浄水場の方々から提案された企画なんです。それを合同打ち合わせの時に提案して詳細を詰めようとして持ってこられた。そんな企画なんです。デモンストレーションとしてここで試そうとした時に…どうです?浄水場の人たちが率先してやると思います?」

尋ねられた設楽は背筋を伸ばす。

「そ、そうだね…確かに…他の、僕たちにやってもらおうと考えるかな」

「実際に聞かれたしな」

穴吹も落ち着いた表情で頷いた。

「ありがとうございます。つまりですね、有馬さんを毒殺した犯人は処理センタの職員の方たちがこれを飲むだろうということがある程度予想可能だった、ということです」

狩鷺が眉を顰める。

「ということは、我々の中であれば、誰でも良かったっていうこと…か?」

「穴吹さんが怒りそうなので先に言いますが、そういう訳ではありません」

腰を浮かしていた穴吹がゆっくりと腰を下ろす。

「有馬さんは口封じのために殺されたんです」

短い言葉だったが、聴講者、とりわけ処理センタの職員たちは動揺していた。

穴吹が再び口を開こうとするのを無津呂が制するように話を続ける。

「口封じ、つまり犯人にとって都合が悪かった、ということになります。有馬さんが存在することで犯人にとって良くないことになる。どういうことなのか、素直に考えれば、犯人にとって都合が悪いということは自分の犯行が露呈してしまう何かがあった、と考えるのが自然ですよね?」

「華葺を殺害するところを見られた…」

力なく寿が言った。

「多分そうでしょうね。ただ…」

無津呂は人差し指を立てる。

「一般的…まあ、一般的にこうしたことがあるかはわかりませんが、普通であれば、その状況では有馬さんが有利になるはずです。犯人が実際に犯行に至ったその瞬間を目撃したわけですから」

合点が至ったのか、設楽が何度も頷いていた。

「ですが、実際は逆だった」

「逆ってなんだよ。殺したところを見たんだから警察にでも通報すればいいじゃねぇか」

無津呂は半ば叫ぶように言った穴吹に悲しそうな視線を送った。

それに穴吹が気付くと、すぐに元の表情に戻る。

「それを理解するためには…二人が、いや、穴吹さんを含めた三人が過去に何をしたのか、それを理解する必要があります」

一瞬で穴吹の顔に恐怖が浮かんだ。

右手を口元に当てると何回も触る。

無津呂はそんな穴吹を見ることはなかった。

「ちょっと待て。過去ってなんや?過去が関係してるんか?」

無津呂は赤崎の質問を無視する。

「寿さんに死んだ二人の事を調べてもらいました」

寿はおもちゃの様に何度も頷いた。

「一昨日、それを聞きました。具体的には、お二人、いや、もういいですかね。穴吹さんを入れた三人の関係者で不審な死に方をされた方がいるかどうか、を中心に調べていただきました」

歩きながら説明していた無津呂が立ち止まる。穴吹の前だった。

「一名、該当者がいらっしゃいました。当時K大学で環境施設工学を教えていた、荒巻辰夫教授が四年前に亡くなっています。五十九歳、還暦まであと一歩でしたね」

位置を変えずに穴吹を見下ろす。無津呂の背は低いが、穴吹が上体を曲げるように床を見つめているので、見下ろす格好になった。

「荒巻先生は、今から五年前、可士和市水処理センタの生物反応槽から下水中のリンを回収できる微生物を見つけ出しました。このタイプの微生物はすでにいくつか発見されています。各々特色があってリンを食べる量や食べる条件に違いがあります。まあ、詳しくは時間がいくつあっても足りないので話しません。ここでは、同じ場所で同時に複数見つかったことが画期的な発見でした。つまり特性を持った複数個体が共存しているということが他に類を見ない発見でした」

そこで無津呂は息を整える。

「荒巻先生はそれを論文にまとめて、学会に発表されていました」

無津呂は穴吹を見ながらリモコンを操作する。スライドが切り替わると、論文の画像が映し出された。論文の一枚目、そのタイトルと共著者たちが記載されている部分である。


『活性汚泥中のリン捕食微生物の周類と特性~可士和市水処理センタの事例~』


そのタイトルの下に、第一著者として荒巻教授の名前が書かれており、さらにその下、共著者に名前が連なっている。

それは、華葺、有馬、穴吹の名前だった。

場が俄かに騒然とする。

原田も驚いていた。

荒巻の下に書かれている共著者としてのセンタ職員、その順番が殺害された順番だったからである。

「荒巻教授の死は事故死として処理されました。これも寿さんに調べていただきました。確か車のブレーキが効かなくて事故を起こしたとか?」

寿は穴吹を見据えながらゆっくりと頷いた。

「これも不審な点が多かったみたいですね。でも結果は事故です。それ以上でも以下でもない。ここで何か追求しようということではありません。お気になさらずに」

最後の台詞は目の前で日や汗を流している男に向けられたものだった。

無津呂はゆっくりと前屈みになり、穴吹の耳元に口を近づける。

「お待たせしました。核心ですよ」

穴吹の身体は硬直する。

「さて、皆さん、ご覧いただければわかる通り、殺された順番と論文の連名者が一対一対応ですね。不審な事故で無くなった大学教授が発表した論文の共著者が記名順に亡くなっている。さあ、ここから今回の事件の動機のようなものがおぼろげながら見えてきませんか?」

「復讐ってことか。…あれ、名字が荒巻の人間なんていない…」

設楽は言った。

「設楽さん、名字が同じとは限りませんよ」

関係者の姿を見渡していた設楽は、え、と言って無津呂を見る。

「荒巻教授は若かりし頃、三十台くらいでしたかね、一度離婚しています。その際に一人いた子供は元奥さんの方に引き取られました」

無津呂の歩みが止まる。

聴講者が自分の方を見ていることを確認するとゆっくりと口を開く。

「分かれた奥さんの急性は黄田、北可士和浄水場に勤めている黄田萌子さんは、荒巻教授の娘です」

無津呂の言葉は、感情を込めず、淡々としたものだった。



同日、午前十一時半。

重い瞼を開けると、嘘みたいに白色の天井がまず目に入った。

焦点はまだ合っていない。

ぼやけているから天井に何があるかはわからなかった。

身体を動かそうとしたが、痛みがあったので諦める。

視界がクリアになってきたことを確認して、眼球だけを動かして周囲を見る。

視界の右端に点滴が見えた。

点滴台に吊るされているのがはっきりわかるまで視界が復活してきた。

病院にいるのだと理解して絶望する。

次に記憶が蘇ってくる。

自分は高い所、配水池に立っていた。

手に、リン化アルミニウムの入った容器を持って。

なぜ死んでないのだろうか。

あの男みたいに、口から炎を上げて顔が燃えると思っていた。

起きようと身体を動かしてみるが、ほとんど力が入らない。首が僅かに動いただけである。

そしてそれだけで頭痛がした。

頭が割れるように痛む。

一度深く深呼吸をする。

顔に痛みはない。

顔は燃えなかった、ということになるだろう。

そして胸がムカムカしている。

喉も痛かった。

少なくともリン化アルミニウムではなかっただけで、何かの薬品は飲み込んだのだろうと予想する。

配水池に落ちて、それからの記憶はない。

自分の計画は上手くいったのだろうか。

確かめる術は、ここにはない。

そして、激しく、生きている自分に苛立つ。

なぜ生き残っているのか、なぜ死んでいないのか。

自分が死んだところで計画は完成する。

この計画のために準備してきたのである。

あの男たちに、私が味わった以上の絶望を、与えたやりたかった。

なぜ、爆発しなかったのだろうか。

最後の最後で上手くいかなかった。

父が、やめろと言っているのだろうか。

黄田は鼻で笑う。

上手くできていなかったかもしれないが、そんな気持ちだった。

今更、信心深くなったわけでもない。

ただの結果である。

自分は生き残っている。

失敗したのだ。

再び、身体を動かしてみる。

覚醒した時よりも、身体は動いた。

両脚を上げてみる。

上手く動いたので、ゆっくりと上体を起こす。

ゆっくりと、ベッドに手をついて起き上がる。

個室の部屋には誰もいなかった。

ドアの方を見る。

ドアに嵌められているすりガラスに人影が映っている。

黄田は自分が置かれている立場を再認識する。

ドアに背を向けて、反対側にある窓ガラスに近づく。

外は晴天だった。

父も晴れの日が好きだったことを思い出す。

まだ力が十分に入らない手でゆっくりと窓の鍵を外す。

五月の風が髪を揺らした。

顔を出して下を覗き見る。

五階くらいだろうか。これで十分か。

黄田は腕に繋がれていたチューブを引き抜く。

警告音が発生した。

黄田は焦るが、身体は素早く動かない。

ドアが勢いよく開け放たれて女性の刑事が二人、飛び込んでくる。

その頃には、黄田は窓枠に座る様に腰を掛けていた。

一人の女刑事が両手を伸ばして飛び込むように入ってきた。

「遅いよ」

女刑事の両手の間を、自分の両足がすり抜けて行く。

同時に、空が、下に見えた。

黄田は目を閉じた。

最後に見えたのが、青空で良かった、と思った。



同日、午前十一時

つまり、と寿が言う。

「黄田萌子は不審死を遂げた荒巻教授の娘で、それに関わっていたとされる華葺、有馬、そして…」

項垂れたままの穴吹に視線を向ける。

「穴吹の三人に復讐するために動いていた、っていうことで良いのかな?」

無津呂は頷く。

「ちょっと待ってくれ。いくら何でもそれはないやろ」

異議を唱えたのは赤崎だった。

「短い時間やったけど。あの子を見てた。そんな大層なことしでかす子やない。それは分かる」

「なぜそう思うんですか?」

「同じ仕事をしていた仲間やからや。お前みたいになんも知らん奴がとやかく言えることはない」

睨み付けるように赤崎は無津呂を睨む。

「皆さん…同じ考えですか?」

無津呂を睨み付ける視線に変わりがなかった。

「仲間…仲間ですか…そうやって言っておけば、思考停止させて簡単にカテゴライズできますからね。そんなレッテルを貼っておけば、同じ意思と目的を持っていると錯覚できるんですね」

赤崎が立ち上がるが、それ以上の行動は無かった。

すぐに後ろから青原が止めに入る。

「話は続きます。後ろにあるスライドの問いには答えられましたね。では次です」

映し出されたスライドにはまた一行だけ書かれていた。


「黄田萌子は何がしたかったのか?」


その文章に、聴講者たちは考えを巡らせているようだった。

「これは…どういう意味?」

「寿さん、そのままの意味です。彼女がしたかったことは何か、それが次の問題です。最後と言っても良いですね」

無津呂も疲労が溜まっているように原田には見えた。

研究発表とは似ているようで違う発表である。

精神的な疲労は原田には想像できない。

「ここで、彼女の行動を考えていきましょう。華葺さんが殺された日、午後から浄水場の皆さんは夕方までの休暇になっていました。彼女は公用車で買い物に向かいました。きき水に使う水を購入するためです」

「そうや、あいつに華葺を殺せないやろ」

「なぜです?」

「きき水に使う水やら生活用品を買ったって言っているやろ」

「そうですね」

「いつ殺すんや」

「その間ですよ」

赤崎は言葉が出なかった。

「簡単でしょう?買い物の間で殺すんです。華葺が殺されたのは午後五時から六時までの間だって話はしましたね?それまでに買い物を済ませておけば良いだけです。それだけのものを買うのに、五時間もかからないでしょう。いいですか?黄田さんは車で移動していました。華葺さんが最後に目撃されたのは市街地のプラザです。それ以降の足取りは分かっていないならば、黄田さんは車に華葺を乗せたんですよ。それで移動したんです」

まだ立っていた赤崎は椅子に力なく座った。

「どうやって誘い出したかは分かりません。彼女の身元を明かした上で話がしたいと言ったかもしれませんし、そうした材料があるわけですから脅迫したかもしれない。少なくとも華葺さんは素直に応じたことでしょう。そういう関係性でなければ毒殺しようと思いませんしね。さて、移動したと言いましたが、プラザから遠く離れたわけではありません。人目のつかないところで、黄田さんは、華葺さんにリン化アルミニウムを飲ませました。しかし、黄田さんが想定していた結果には至りませんでした。仕方なく、こう…」

無津呂はナイフで刺すジェスチャをする。

「その後、顔が燃え出したから驚いたでしょうね。しかし、彼女の計画にはさほど問題はなかったはずです」

「どういうこと?」

寿の疑問はすぐに解決する。

「最初から華葺さんの遺体は沈砂池に投棄する予定だったからです。大した問題じゃないんです」

ちょっと待て、と赤崎が話を止める。

「お前の話にはおかしい所がある。いいか、華葺が殺されたっていうのが、午後五時から六時やっていうんなら、その一時間で黄田は人を殺して、処理センタまで行って、死体を捨てて、六時にウチらの所まで戻って来れるんか?一時間では無理やろ。それが机上の空論、っていうんや」

「机上の空論からサイエンスは発展していったんじゃないんですかね?」

「人の生死をサイエンスに例えるんやない」

「話は終わってないですよ。誰が投棄までやるって言いました?」

赤崎は再び言葉に詰まる。

「いいですか?彼女の計画は、ここが肝です。黄田さんは、自分が殺した死体を別の人間に処分させたんです」

「馬鹿言うな。誰がそんな好き好んで死体なんか処分す…」

途中で赤崎は気が付いたようだった。

「いますね。彼女の依頼を受ける人間が。そうです。有馬さんです」

「そんなことない」

今度は狩鷺が否定する。

「狩鷺さん、残念ながら、有馬さんは黄田さんに脅迫されていました。もちろん内容は有馬さんたちがしたことを暴露する、と言った内容です。自分の過去を暴かれたら、どうなるか、想像することは難しくはないですよね?」

「しかし…」

「荒巻先生が発見した細菌のおかげでセンタは注目されましたね?」

狩鷺にさらに追い打ちをかける。

「それで皆さんが良い思いをするとは思えませんが、穴吹さんを含めた三人はそう思わなかったようですね。そうした一種の勘違い、無知がこうした悲劇に繋がった、というわけです」

あの、と自信なさげに設楽が口を開く。

「有馬さんは…その日は当直だったはずです…けれど」

「同じ当直の職員の方々は常に有馬さんがいたと証言していません。これは姿を見かけなかった時間帯があった、ということと同じだと思います」

「センタを抜け出していた時間があった、ということか…」

寿が呟く。

「脅迫されて、センタを抜け出した有馬さんは、黄田さんから遺体を沈砂池に捨てるように言われます。有馬さんは従うしかなく、華葺さんの遺体を沈砂池まで運びました」

「ちょっと良いかな。有馬はどうやって華葺を運んだんだ?車を持っていたわけでもない。人目に付かないところを選んで運ぶことは難しいんじゃないか?」

狩鷺の疑問に寿も頷いた。

「ありますよ。しかも沈砂池に一直線で迎えるルートです」

狩鷺と設楽はすぐに気が付いた。穴吹は依然として俯いている。

「そうです。下水道です。有馬さんはマンホールの下に入って下水道から沈砂池に入りました」

「下水道…専売特許だな…」

赤崎が呟く。

「骨が折れる作業でしょうけれど、下水道を伝って沈砂池まで着いた有馬さんは、黄田さんから手渡されていた浄水場の作業着を華葺さんに着せてから沈砂池に投棄しました」

沈砂池に投げ込む方法は地上から投げ込むか、センタ敷地の外から下水道に入って沈砂池に投げ込む方法の二通りだったことを原田は思い出していた。

「その有馬さんに、黄田さんはもう一つ、依頼、というか指令を出していました。それが翌日の合同打ち合わせできき水をするから、デモンストレーションに志願することです」

「そんな方法で…」

狩鷺は呆れるように言った。

「そうですか?華葺の遺体が今、目の前にある状況で、処分と同時にこれを言われたら、どう感じるでしょうね。従わなかったら、自分もこうなると思いませんか?」

憮然とした表情の狩鷺は顎を摩る。

「有馬さんはそれに従いました。翌日の打ち合わせで有馬さんはきき水に志願し、そしてまたしても毒物で亡くなりました」

「なぜ、その時はリン化アルミニウムではなかったんや。わざわざ別のものを用意することなかったやろ」

「赤崎さん、あの場でリン化アルミニウムを溶かした水を有馬さんが飲んだらどうなります?」

質問に質問で返す、という普通の研究発表ではありえないことを無津呂は言った。

「うん?そりゃ、お前の実験の通り、飲んだら火ぃ吹くんやろ?飲んだ有馬も火ぃ吹くんやないのか?」

「その通りです。華葺さんと同じことになるでしょうね。さて、僕らはそれを見ることになります。その後に警察が来て、ちゃんと調べれば、飲んだ毒の種類が判明して、その物質によって有馬さんの頭が燃えたという結論に行きつくでしょう。そうなると芋づる式に華葺さんも同じ現象が起こったのだと判明します」

赤崎は時折頷きながら聞いていた。

「その時点では、身元の判明に時間が掛かっていました。それは、華葺さんの顔が焼け焦げていて判別不可能だったからです。そして、まだ捜査段階では身元を判別できなくするために顔を焼いたのだと考えられていました。つまり、犯人の黄田さんにとっては、時間が稼げている状態になるんです。その間に、計画を進めることができる。それには、有馬さん毒殺にリン化アルミニウムを使うことはリスクになります」

無津呂は覇気のない穴吹の前に立つ。

「最後にもう一人、残っているわけですからね」

再び会議室は静寂に包まれる。

「…分かった。ただ、まだわからんことがある。ナイフや。ナイフはどうやって浄水池に投げ込まれたんや?」

無津呂は黙ってリモコンを操作する。

スライドが切り替わった。


『凶器のナイフはどうやって浄水池に投棄したのか』


無津呂は再び講演台の下から炭酸水のペットボトルを出すと一口飲んだ。少し咳をする。

「話し過ぎたので。ここからは簡潔にしますね。華葺さんを殺害したナイフですが、知らぬ間に浄水池へ沈んでいました。発見したのは、他ならぬ赤崎さんと黄田さんです。お二人以前の点検、柚咲さんと青原さんでは発見できていなかったのに」

柚咲も青原も頷く。

無津呂が口を開こうとした時、寿が。ちょっと良いかな、と遮る。

「それは、僕個人としても考えていたんだ。一つ考えがある」

そう言うと、スクリーンの方へと歩く。無津呂は笑顔で譲った。

「えー、なんか緊張するな。僕も端的に行こう。犯人は、どうやってナイフを入れたか。それは、投光車を使ったんだ」

「投光車?」

赤崎が上ずった声を上げる。

「はい。投光車っていうのはいくつかのライトがクレーンの様に取り付けられてそれを高く掲げて周囲を照らす、そう言うものですよね?」

赤崎は頷く。

「それは、使わない時にはトラックの荷台に折りたたまれた状態になります。その状態で移動するわけですね」

寿は確認するように話を進める。

「この時に、犯人の黄田はナイフをライトの一つ、その傘部分に隠したんですよ。そしてそれを使うときになって伸ばそうとする。その時にナイフが浄水施設の中に飛び込んだ形になった」

「狙って浄水池に入れられるんか?」

「それは無理だと思います。だから結果として浄水池に入っただけで、投げ込むのはどこでも良かったんです」

赤崎は、うーん、と唸った。

「どう?これじゃないか?」

笑顔で無津呂の方を向いた。

「うーん、ちょっと良くないです」

「駄目か…どこが駄目だった?」

「まず、投げ込む先がどこでも良かったのならば、人の手でも良いはずです。そんな大掛かりなことすることはないです。それに、投光車を使うときに投げ込まれる形になるならば、それを操作する人はナイフが飛んでいくのが見えたはず。流石に気が付かないってことはないでしょうね。そもそも、照明部分が折り畳まれている状態でナイフを隠すことはできないんです。折り畳んだ状態では電球が下を向くような形で折り畳まれるような構造になっているからです。その傘部分に隠すことは、ちょっと不可能ですね」

無津呂の説明の最中、寿の肩が次第に下がっていった。

「刑事さん、人間間違えることが普通やから、それからどうやってその失敗を自分のものにしていくか、ってことの先に成長があるんやないかな」

寿は、肩を落としたまま、ありがとうございます、と言って下がった。

「赤崎さん、良いこと言いますね。ありがとうございます。僕も肝に銘じていきます。流石に年長者の言う言葉は違いますね」

赤崎は、ええから先進めや、と言った。誰もが照れ隠しだと思ったのは、顔が真っ赤になっていたからだった。

「端的に、と言ったのに長いですね。黄田さんが隠していたのは、急速ろ過池です」

は、と赤崎が声を上げる。

「見つけたのは浄水池やぞ?急速ろ過池は隣や…うん?」

自信満々で無津呂を否定した赤崎は最後に思いとどまる様に考え込んだ。

「砂の中か!」

「そうです。ナイフは、浄水池ではなく、隣の急速ろ過池の砂の中に隠されていました」

柚咲が口を開いたまま固まっている。後ろの相良は狼狽えるような表情で首を左右に動かしている。隣の青原は口を閉じて考えている様子だった。

「黄田さんがしたことはこうです。まず、華葺さんを殺して、有馬さんに引き継いだ後、急いで浄水場に戻ってきます。駐車場に車を停めた黄田さんは、管理棟を抜けて浄水施設に向かいました。その頃には昼番の最後の見回りが終わっていますから、誰にも見つからずに浄水施設に入れました」

無津呂は目を閉じて話している。頭の中で映像が流れているのだと原田は思った。

「そして、急速ろ過池に進むと、水面下にある砂を少しほじってナイフを埋めます。この時、透明な糸を巻いておきます。これはマジックなどで使われている奴です。それをわかりやすい所に括っておきます。監視カメラが全て点検中だった、というのも計画の中に入っていたのだと思います。この時を狙っていた、ということです。黄田さんと赤崎さんの点検の時、事前に教育係である青原さんに赤崎さんからちゃんとした施設の詳しい説明を聞きたい、とお願いしていたのでしょう。上手く、赤崎さんと黄田さんが点検のペアとなりました。これは柚咲さんや青原さんでは、熱心に黄田さんに物を教えようとするから、都合が悪かったのでしょう」

先程まで赤かった赤崎の顔は、血の気が引いている。

「さて、実際の点検の時、急速ろ過池の説明が終わった後、赤崎さんが浄水池の説明に入る前、黄田さんは糸を引いて、砂の中からナイフを出します。この時、水槽の中から出さないのがポイントです。出して点検通路にあげてしまうと、振り向いた時などにすぐ見つかってしまいます。そのまま水槽の中で泳がせておいて、赤崎さんが配水池の説明に入った時に引っ張り上げ、急いで巻きながら糸を切ります。そして浄水池にナイフを落とすんです。落とす時に音がしますが、咳をするなど極力誤魔化します。これで完成です」

無津呂はゆっくりと赤崎に近づく。デジャブだろうかと原田は思う。

「人間、間違えることはありますから。大切なのは、この先、それをどう自分の成長に繋げていくか、だと思いますよ」

赤崎は黙ったままだったが、穴吹との違いが判別できないほど同じ状態になった。

「あの、確か…ナイフが錆びていたって聞きましたが…」

設楽が質問をした。

「はい。そうです。これは…ちょっと専門外なので正確なことは言えませんが、一つにはあのナイフがハンドメイドだったっていうことが挙げられると思います。これは、市販品ではない、ということです」

プレハブで寿と議論した時の話を原田は思い出していた。

「確かに雑、というか、荒っぽい感じがしたかな…」

柚咲が思い出すように言った。

「それがどういう意味を持っているか、つまり、腐食への対応がされていないんです。市販品のナイフは、錆びにくくするようにオイルコーティングなどの処理がされています。しかし、実際に使われた手作りナイフはそんな処理はされていないと思います。そんな知識が無かったのかもしれません。さらに、自分で削ってナイフらしい形に細工したのだとすれば、表面に細かな凹凸があったと推測します。こうした不均質な状態も腐食しやすさに一役買っていたと考えます。刺したことで血液が付着して、かつ、急速ろ過池の水と砂の中に隠されていたナイフは腐食に対して非常に弱かったと思われます。もしかしたら使われた時点で僅かに腐食していたかもしれませんね」

さらに、と無津呂は続ける。

「浄水途中の水は、殺菌消毒のため、次亜塩素酸ナトリウムが投入されています。これは強力な酸化剤、つまり腐食の促進を引き起こします。海水中の鉄は錆びやすいですよね?」

無津呂に責められて落ちた二人も、いつの間にか静かに話を聞き入っていた。

原田は聴講者たちを個々に見ていく。

全員が疲労しているのが分かった。

特に、徹夜作業だったと思われる浄水場の職員たちの疲労は想像できなかった。

無津呂は軽く息を吐くと、リモコンを操作する。

次のスライドが映し出される。

これで最後だというのはそのスライドに書かれている文章を見ればすぐに理解できた。


『最後に』


「さて、やっぱり喋りすぎましたね。見ての通り、このスライドで最後です。研究発表だとここで研究内容のまとめになりますが、まあこうした話なのでまとめられるワケありません。研究の世界っていうのは、こうしてまとめられるから、極めて特殊な世界と言えますね。現実問題は、いつの間には終わっていて、まとめようと思っていてもその範囲が不明瞭です。僕にとってはそんな世界の方が特殊だと思いますけれど」

話ながら講演台に向かい、炭酸水を最後まで飲み干した。

「最後にお話しするのは、実は全く根拠のないことです。妄言妄想の類だと思ってください」

不意に何かを悟ったような顔になる無津呂を原田は見逃さなかった。

「黄田さんが考えた計画、その最後は、ゴールは何だったのか。それをお話しして、僕の話は全てです」

ゆっくりと無津呂は歩き出す。

「穴吹さんたちと荒巻先生の共著の論文を読んだ後、荒巻先生の他の論文も読んでみました。荒巻先生は環境工学をご専門にしていますが、ご本人の思想としては、自然環境とエンジニアリングの両立、というよりも自然環境の中のエンジニアリング、という方が強かったようです。自然自体が持っているシステムについて体系化する、といった研究方針だったようです。土木の世界ではマイナな思想だと言えるかもしれません。若い頃からの考え方だったようですね」

そこで歩みを止めると背中の方で手を組んだまま聴講者たちに問いかける。

「水文学、と言う学問分野はご存知ですか?天文学の水バージョンです。天文学は天体を観測することで、そこで起こる自然現象や法則を発見するような学問です。それに対して水文学は地球上の水環境を対象として、水の移動や分布などを扱う学問です。荒巻先生は地球上の水自体は自然の中で絶えずろ過されているため、本来であれば浄水などは必要ないはずだという考え方でした。もちろん、これはかなり極端な話です。その一環としてセンタの活性汚泥の中からリン回収可能な微生物を発見したのだと思います」

「黄田も…そうした考え方を持っていたと?」

「それは分かりません。本人に聞いて下さい。ただ…父親の亡くなった状況や周辺の出来事を考えれば、父の遺志を継いでそして、父の弔いとしてその理想を再現しようと考えたのかもしれません」

「理想の…再現?」

「設楽さん、黄田さんはウチの研究室の卒業生です。だから専門は下水処理なんですよ。なのに浄水場に就職しています。そちらではなく」

「そ…れは…思い出したくない相手がいた…から?」

「そうかもしれませんが、黄田さんの計画では、処理場よりも浄水場の方にいなければ達成が難しい」

「浄水場はセキュリティが厳しい…」

原田は口に出ていた。

「そう、浄水場は下水処理場に比べてセキュリティが厳しい。何か行動を起こすにも困難であることが想定できる。だから、自分はその内部にいた方が、都合が良い」

柚咲は何とも言えない表情をしていた。

「そんな理由で浄水所に?」

「十分な理由だったと思いますよ。さて、結局不発になりましたがセンタの爆破も、毒を飲んでからの配水池への身投げも、上手くいけば二つの施設の機能を停止させることになります。細かいことを言えば、自分の服毒自殺の成功率を高めるためにセンタの爆破を先行させたのだと思います」

「それが動機ってやつ…なのか…」

狩鷺は困惑した表情だった。

「いえ、僕の想像です。動機なんて本人に聞けばわかることです。それなりの理由は出てくるでしょう」

無津呂は講演台に立つと、スライドを終了させながら、説明を続ける。

「黄田さんの…荒巻先生の中では、極めてシステム化された水の循環に対して、人間が利用するためだけにその循環に枝葉を設ける水浄化の仕組みが無様に映ったのではないかなと思います」

言い終わると同時に、PCのシャットダウンの音が響く。

「さて、研究発表だとこの後質問時間になりますけれど、皆さん聞きながら質問していたので良いですよね?」

寿を見ると、まだ落ち込んでいるような表情だったが、頷いて無津呂に返事を返した。

では、と無津呂は言うと、姿勢を正す。

「僕の話は以上です。ご清聴、ありがとうございました」

研究発表であればここで拍手が起こる。

しかし、会議室は重い雰囲気が密閉されたようだった。

その空気が外に流れ出るかのように勢いよく扉が開け放たれる。

「寿さん!」

スーツ姿の男が立っていた。

寿は視線をそちらに向ける。

「黄田が…搬送された病院から…身を投げました」

息を切らしながら刑事が報告すると、会議室は騒然となった。

無津呂を除いて。

「確か五階だったよな?」

寿は苦い表情を浮かべた。

五階から身を投げたのであれば、良くても重体、最悪の場合、死亡している可能性もあると原田は考える。

「ですが…その…」

汗を流しながら刑事は続ける。

「なんだ?」

「命に別状はありません」

「助かったんか…」

赤崎は安堵の表情だった。

寿は報告に来た刑事の表情を見る。

「まだ…何かあるのか?」

「いえ…病室を見張っていた刑事が言うには、確かに窓から下に落ちたことを確認したんですが…黄田は屋上に倒れていたそうです」

「は?」

混乱した寿は口を開いたままだった。

原田は、視界の端で無津呂が微かに微笑んだことを見逃さなかった。

「五階から落下したと思って、その刑事が下を覗き込んだら、何もなかったっていうんです。今度は落ちた地点を下で確認しても黄田の姿が無い。今度は下から窓の方を見上げたら、屋上から手が見えたそうです。今度は急いで屋上に向かうと、黄田が倒れていた…」

ということです、と真剣な表情で言った。

「どういうことだよ…」

寿は無津呂の方を見る。

意見を求めているのである。

「…よく…わかりません…」

いつもの無津呂に戻っていた。



同日、午後十二時半。

プラザの入り口で無津呂と原田、そして寿は立っていた。

「ご協力ありがとう。大変助かった」

「…はあ…何も…」

「何もしてないことはないでしょう。無津呂さん」

原田はPCなどが入ったリュックを背負っている。

浄水場の職員たちと処理センタの職員たちは職場へと戻って行った。

寿が言うには、穴吹は別件でちゃんと話を聞きに行くということだった。

さらに、黄田が使ったナイフについて追加の報告が入っていた。どうやら、荒巻教授が愛用していた、大振りのペーパナイフを細工して作ったナイフであることが分かった。

黄田は荒巻と共に復讐をしていたのかもしれない、と原田は考える。

また荒巻教授の死に関して、再び捜査をすることも無津呂と原田に約束した。

「…黄田さんに…伝えてあげてください」

「ああ。これから黄田の病院に行ってくるよ。昼ご飯くらいご馳走してあげたいんだけれど、ごめんな。また今度しっかりお礼させてくれ」

寿は手を挙げると、天然パーマを揺らして走り出す。

それを二人で見届ける。

「…お腹…空いた…」

「あれだけ喋ったのならお腹空きますよ。食べて帰りましょう。何が良いですか?」

スマートフォンを用意する。

「…ん…定食屋さん…行こうか…」

「わかりました…。えっと…どちらにせよあっちの商店街の方ですね。歩きながら店を見ていきましょうか」

うん、と頷く無津呂と共に歩き出す。

平日の昼、大型連休の親子連れや働いている人々で普段より賑やかになっている。

その道の先から脚立を肩に担いで黒いタオルを頭に被った作業着の男が歩いて来た。

原田はなぜかその男が気になった。

よく見ると、片足を引き摺っていた。

男は真直ぐ、二人の元にやってきた。

原田は身構えていると、無津呂が声をかける。

「…ありがとう…ございました」

「大変だったよ。時間なくてさ。足もやっちゃったし」

引き摺っていた方の足を遠慮なく叩きながら男は言った。

二人が気軽に喋っていることに原田は驚いていた。

「…フィルタも…すべての住居に…取り付けたんですか?」

「そりゃそうだろ。君の友達をバイトで雇って、かれこれ二週間…ぐらいかな…。浄水場の配水パイプは俺一人でやったけどな。夜中にこっそりと」

「…セキュリティ…」

「あんなのセキュリティに入らないよ」

原田は二人が何を話しているのかわからなかった。

「よし、じゃあ、俺は行くよ、まだ最後の締めが残っているからさ」

「…足…」

「大丈夫だろ。多分」

じゃ、と手を挙げて原田たちが歩いて来た方向に去って行く。

「…行こう…お腹空いた…」

「え?ああ、はい」

昼ご飯を食べながら、聞いてみようかと原田は思った。

話してくれなくても、原田はそれで良いと考える。

それはきっと知らなくても良いことか、まだ知るには早いということなのだろう。

隣を歩く、蛙のような先輩を見る。

やはり何を考えているのかわからない。

それでも、無津呂から学んでいきたいと原田は思った。

「杏仁豆腐あるみたいですよ」

極めて冷静に、いつもの様な口調で報告する。

「本当?」

キラキラした目をして無津呂は笑顔になった。





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