第4話 繰れ、求める

四月二十一日、午後二時半。

可士和市ギャラクシープラザは、多目的施設として長く使われてきた。その名の通り、様々な使われ方をしている。

絵画の個展が開かれていたり、地元の学校が合唱コンクールを開催できるようなホールも常備している。そういう目的で作られた建設物である。

しかし、十数年前から、その利用は下火になり、造られた当初から見れば、利用する団体は激減している。唯一、この施設を長く利用しているのが、水処理関係のイベントで、柚咲や穴吹らの主催するイベントだった。

可士和市の西側に位置しているが、北可士和浄水場と可士和市水処理センタから見れば、直線距離でちょうど中央に位置している。そうした立地条件もこの施設が選ばれている理由の一つと言っても良い。

屋上含めて五階建ての建物の一階部分および二階の一角が展示やイベントのスペースである。四階には建物の管理事務所と貸会議室、三階はカフェと軽食の店が二件と打合わせや待ち合わせができるようなソファやテーブルなどが置かれているスペースがある。来客数を見込んでか、高級ホテルのロビーのような広さがある。

四階の東の端、会議室の中には長机が六台、三台ずつ向かい合うように並べられており、その周りに椅子が置かれている。

穴吹は左隣の狩鷺を睨んでいる。狩鷺は両手を祈る様に組んで、その組んだ指を所在なさげに見つめていた。穴吹の右隣の有馬は椅子にもたれかかるようにして欠伸を一つ。末席に座る設楽は机にノートと筆記用具を乗せて、会議室の中を観察していた。

部屋の隅のパイプ椅子に無津呂ら学生が三人座っている。

「おい」

低い声で狩鷺に言う。狩鷺は黙ったままである。

「無視すんなよ」

会議室の中が響くのか、小声だった。それは穴吹の気遣いだった。

「もういいんじゃねぇか?待ってりゃくるでしょ」

有馬は眠そうな目で言うが、正面を向いたままだった。

穴吹が苛立っているのは、彼らの目の前に誰もいないからだった。

本来、彼らの目の前には北可士和浄水場の職員たちが座っているはずである。

今、席は空席となっている。

「あっちが遅れてんのに、こっちが急ぐ必要なかったんじゃねぇの?」

センタのロビーでのやり取りが無駄だったかのように捲し立てる。

「それは結果だ。向こうも忙しいんだろう」

狩鷺は小声である。

「こっちも忙しいだろう?死体が捨てられて、対応迫られてよぉ」

穴吹が何かしたわけではないが、まるで苦労したかのように言う。

「あっちでも死体見つかってんじゃねぇの?」

有馬は悪戯に笑って言う。

「有馬さん、そんなこと言わない方が良いですよ」

設楽が宥める。

「遅れたと言っても、ちょうど時間通りだろう」

狩鷺は時計を確認して言う。

打ち合わせの開始時間は十四時半だった。

「社会人なら十分前行動が基本だろう?社会常識だ」

「へっ、社会常識を守れないようなやつが言ってるよ」

うるせぇ、と穴吹が言い捨てる。

学生たちの二人は死んだような目をしていた。

「ねぇ…原田君、私帰りたいなぁ」

大原は力なく言う。

「そうだね…」

原田は隣の無津呂を見る。表情を変えることなく、座っている。蛙が椅子に座っている様子は不思議な光景ともとれる。

三人は穴吹に言われるがままに、センタから車でプラザまでやってきた。車で十五分ほどで到着した三人はまだ時間があるからということで穴吹に昼食に連れて行ってもらった。三階の軽食の店だったが、三人とも小食だったので十分に食欲を満たすことはできた。

それから四階の会議室へと向かってパイプ椅子に座ってから、この状態だった。

大原にはそう言ったものの、原田は少し興味が出ていた。センタで言い争いが行われたときには分らなかったが、このイベントは子供の時に行ったことがあった。その時のイベントが原田には面白く感じた。

一般向けの安易なものだったが、子供や初学者にとってみれば、適切な導入になり得る。現に、原田がその体現者と言ってもよい。

原田が過去の自分に思いを馳せていると、扉が開く。

「大変お待たせしました」

作業着のブルゾンと、パンツスーツの女性が入室してすぐ頭を下げた。

その後ろから、体格の良い、頭を短く刈り込んだ男性が入ってくる。その後ろの男性は背が高く、モデルのような体型で、肩にクーラボックスを掛けていた。先に入ってきた男性と比べるとその違いが明確である。男性二人は上下作業着だった。

最後に入ってきて扉を閉めたのは小柄な女性で初めに入ってきた女性と同じ格好だったが、他の三人に比べて初々しさが残っているように原田は感じた。モデルのような男性は入り口脇にクーラボックスを置いていた。

狩鷺たちも席を立って頭を下げる。穴吹と有馬はゆっくりと立ちあがった。無津呂も立ち上がって会釈したので大原と原田もつられて立ち上がる。

そして、彼らが着用している作業着のブルゾンが、センタで見つかった死体に着させられていたものだと原田は思い出した。

穴吹達が着用している作業着とはデザインも色も違う。原田は死体に着させられていた現物を見てはいないが、見たことのないデザインだった。

四人は空いている席に座る。

「遅いんじゃないんすか?」

開口一番、穴吹は四人に向けて言った。

「大変申し訳ありません。諸事情がありまして…」

申し訳なさそうな顔で狩鷺の前に座った女性が言った。

張り詰めたような空気の中で、話を進めたのは狩鷺だった。

「設楽君は初めてだったな。自己紹介からにしようか、そちらも…新人さんですかね。いらっしゃるようですし」

お互いが自己紹介を始める。穴吹と有馬の態度は悪かったが、必要最低限の自己紹介は行われた。

「へー、赤青黄じゃん」

穴吹はヘラヘラと笑って言った。浄水場チームの赤崎、青原、黄田の事を言っているのだと原田は思った。

「そうなんすよ。こいつが来てから信号機が歩行者から車両用になりまして」

赤崎が黄田を指して言う。原田が見ても穴吹より年上に見えるが、威張るような態度は無かった。

「事務員は名前が緑詩で緑が入っていますしね」

長身の青原も言う。

穴吹はすでに興味を失くしたようだった。ただ彼らの名前を馬鹿にしたかっただけなのに、まるで持ちネタの様にしたたかに返答されたため、馬鹿にする気が失せたのだろうと原田は考えた。

まるで幼稚だと思った。

「黄田さんは…R大学の出身ですか?なら…」

狩鷺は原田たちを見る。

「彼らもR大学の学生たちなんですよ」

その言葉に黄田の目が輝いた。

「そうなんですか?どこの研究室?」

それに答えたのは大原だった。

「環境工学研究室です」

笑顔で返答する様子はさすが大原だと原田は感心する。先程までの死んだような目が嘘のようだった。

「あ、同じ。何か嬉しーい。後輩だ」

冷めた目で見ている穴吹と有馬を無視するように大原も笑顔を返す。

「みんな四年生?」

「あ、えっと私と、隣の原田君は四年生で、奥の無津呂さんは修士一年です」

無津呂は頭だけを小さく下げる。黄田は懐かしそうに三人を見た。

「院生の子は黄田、知ってるんじゃないのか?」

「えっと…ごめん、知らないかも…」

「…僕は…知っているんですが…」

「ちなみに彼らはなんでいるんですか?」

雰囲気が変わりそうなことを察知した赤崎が狩鷺に尋ねる。

「ええ…ちょっと諸事情で」

「これでお互い諸事情があるってことだな」

有馬が間髪入れずに言った。

「こいつらは、研究の目的でうちに来てたんですよ。俺が無理言って社会勉強だからってことで連れてきたんです」

言い捨てるように穴吹は説明する。

「社会…勉強?」

青原が反芻する。

「まあ…社会勉強やろうなぁ。ある意味」

赤崎が追従するが、原田にはどういう意味か分からなかった。

「時間もありますから、始めましょうか」

冷静な柚咲が場をまとめる。

その合図で淡々と打ち合わせが始まった。

イベントの概要の説明から始まり、イベントの規模、スペースの確認が終わると、予算の説明に入る。柚咲と狩鷺が交互に説明を行った。

特に誰からも意見が出ることはなく、時折、赤崎が確認を取った。

「今日は分担も決めていきたいと思いますが、その前に、我々のブースの件について決めておかなければならないことがありますね…。えっと…柚咲さんの方から何か案があるということを窺がっていましたが…」

狩鷺の視線は柚咲に向けられていた。

柚咲は僅かに視線が泳いでいたが、すぐに全員を見渡すようにして言った。

「はい、では…お話しさせていただきます。これまで、私たちのブースでは水処理のフローを水の一生ということでまとめてパネル展示をしていました」

そこで一旦言葉を切った。

「ですが、来客の割合を見れば、子供や初学者が多いのは明白になっています。ならば、そちらに受けが良いものを考えていった方がもっと我々のブースに人が来てくれるのではないかと思います」

有馬が欠伸をした。

「そこで狩鷺さんともメールベースですが、話し合いをした結果、今年はこちらで案を考えて、実際運用した結果を見てから今後を決めようということになりました」

柚咲は手元の資料を二枚ほど捲る。

「我々の方で用意した案はきき水です」

「きき酒みたいだな」

穴吹が鼻で笑う。青原と黄田が含み笑いをした。赤崎はうんざりとした顔をしていた。

「仰る通り、基本的なスタンスは同じです。こちらで用意した数種類の水から水道水を当ててもらうという企画です」

「水道水を当てるの?」

有馬は興味を持ったように身を乗り出す。

「浄水した水が美味しいということを知ってもらうため、と言うのが狙いです」

狩鷺と設楽は何度も頷く。設楽は行儀よく座っていて、真面目な印象を原田は受けた。

「…オープンキャンパスでやった…」

無津呂が呟いた声は、会話の谷間で良く響いたのか、無津呂の声が全員に聞こえた。

「そうなの。面白かったから。こっちでもやってみようと思って」

無津呂は頷く。

「大変面白いですね。具体的にはどのように進めていくのでしょうか?」

狩鷺が促す。

「はい。ある程度は決めてきましたが、細かいことはここで詰めていけたらと考えています」

反応が上々だったのか、柚咲の顔が緩む。

「そうですか…じゃあ、それぞれ意見を出し合いましょうか。まず私から。きき水と言うことですが、何種類で考えていますか?」

「はい。こちらで考えているのは、水道水と蒸留水、軟水と硬水ですね」

柚咲が水の種類を挙げると、無津呂が呟く。

「…研究室でやったのと同じ…」

原田は横目で無津呂を見る。

「四種類ですか。確かにそれくらいで良いかもしれませんね」

「そんなに種類多くてもわからんわな」

穴吹が鼻で笑う。

「進め方としては、全部飲んでもらってどれが水道水か当ててもらうということにしようかと考えていますが…」

「それで良いと思いますね。黄田さん、大学の頃と同じ進め方ですかね?」

「あっと…そうですね。水の種類も同じで…あ、年によっては一種類増えていましたけれど…」

「水って他になんかあったっけ?」

有馬が言う。

「超純水を使ってました」

「ああなるほど。でもそれって一応蒸留水と同じだよね?」

青原が言ったことに赤崎も頷いた。

「ええ。そうなんです。だから、あまり意味ないかなということで、私が四年生の時と修士一年の時で終わりました」

黄田はそれで、と続ける。

「来てもらった人たちには、それぞれの水を飲んでもらって、四つすべての水を当ててもらっていました」

「四つすべて?それは難易度高いわ」

赤崎が笑いながら言った。

「蒸留水とか…それこそ超純水とか、知らねぇだろ一般人は」

穴吹は黄田を見据えて言った。

「はい。だから、全問正解者はいませんでした」

それは原田も納得だった。自分自身が試したとしても、硬水ぐらいの判別しかできないだろうと考えていた。

「お客さんの中には、それこそ上下水道を専門としている方もいらっしゃるでしょうが、ここは一般の方に合わせた方が良いですね」

狩鷺の意見に反対する者はいなかった。

「わかりました。では、四種類の水を使って、その中から水道水を当ててもらうという形で進めることにします」

柚咲は満足そうに言った。

「あのーちょっと質問良い?」

穴吹が手を挙げた。

「あ…はい」

「正解した客に何かあげるの?賞品みたいなやつ」

柚咲は黙った。

「その点もここで決めようとしてたことです。どうしたらいいですかねぇ」

赤崎がフォローした。

「悩ましい所ですね。あまり高価なものを賞品にはできないから…。黄田さん、どうしてました?」

再び注目された黄田は背筋が伸びていた。

「資金が無いのは大学のオープンキャンパスであっても同じことで…。でも、大学のオープンキャンパスは高校生の夏休みを狙って、夏に実施していました。だから、正解者にはジュースを差し上げていましたね」

黄田は無津呂を見る。無津呂は黙って頷いた。

「どうせならそっちもパクっちゃえば?」

「おい、言葉をチョイスしろ」

狩鷺は、パクってんじゃん、という穴吹を無視して続ける。

「とは言っても、来場者に配れるほどの飲み物を用意はできませんしね…」

青原が呟く。

「それは、ボールペンでどうでしょうか?実は、別のイベントで作りすぎてしまったものがあるので、それを使いまわしてしまおうかと…」

「それ、ロゴとか入ってないの?」

穴吹の発言は、もっともな意見だと原田は思った。

「その時のイベント名は入っていませんね」

「ならいいんじゃないの?こっちも金出さないで済むし。そちらが良ければ…ねぇ?」

穴吹は狩鷺に視線を送る。

「他にご意見はありませんか?」

場は静かだった。

「では、ご提案のボールペンにしましょう」

黄田と設楽はそれぞれの書記係であり、手持ちのノートにメモを取っていた。

「せっかくなので、きき水をやってみませんか?」

柚咲は狩鷺ら四人に向かって提案する。

「え?俺らがやんの?」

一番大きな声を上げたのは穴吹だった。

「今日、私らはきき水のセットを、一応準備してきているんですよ。どうです?やってみませんか?」

悪戯を仕掛けている子供のような顔で赤崎は言った。

こうしたお祭りごとが好きな人なのかもしれないと原田は思った。

じゃあ、と狩鷺が立ち上がると、処理センタの職員たちもつられて立ち上がる。穴吹も渋々とした表情を浮かべながら従っていた。

赤崎と青原が協力して、机を並べ替えた。

柚咲と赤崎が使っていた長机を動かして、横にすると、部屋の外に出て行った黄田がクーラボックスを肩に掛けて戻ってきた。

「おお、気が利くねぇ。クーラボックスなんて用意してきたんだ」

有馬が腕組みして言った。

「さすがに常温だと飲みにくいと思いましてね」

笑顔の赤崎が言う。

「常温の方が水の味っつーか、違いは分かるんじゃないっすか?」

穴吹の指摘は適切だったようで、赤崎は頷く。

「本当はそうなんですがね。飲みにくいっていう声が黄田の時にはあったらしいんすわ」

穴吹は、ふーん、と頷く。

「当日は常温も用意するのですか?というのは、人によっては冷たい状態が苦手だと言う人もいると思うので」

そう言う人はきき水なんてやらないのではないかと原田は思ったが、発言は控えた。

「はい、当日は用意するつもりです。実は今日も一応常温の水を用意しているんです」

料理番組のアシスタントの様に隣に立った青原が袋を持ち上げて見せる。その中にはペットボトルが四本入っていた。

「なんか楽しくなってきたかも」

大原が笑顔で原田に言う。

「大原さんはこういうの好きなの?」

「沙織で良いよ」

一瞬、原田は狼狽えた。

「え?いや、いきなりそんな下の名前っていうのは…その…大原さんも俺を上の名前で呼ぶし…」

「何?文句あるの?」

「無いです」

原田は大原から視線を逸らせて言った。その視線の先に無津呂が長机に近づくのが見えた。

軽快とは言えない、重厚なメロディーが流れたのはその時だった。

「あ、ちょっと失礼」

スマートフォンを取り出しながら、狩鷺が会議室を出て行った。

「あの曲何やったっけ?」

「ワルキューレの騎行っすよ。ほら、地獄の黙示録の」

「地獄?へー。良く知ってんな」

赤崎と青原がそんなやり取りをしている間、黄田がきき水の準備をしていた。

長机の上に、コピー用紙を並べて、AからDまでのアルファベットをそれぞれ書き込む。

「ちょっと準備しますのでこちらを見ないでくださいね」

黄田はコピー用紙をきき水用の長机に並べて言った。

自分の机に戻ると、同じようにアルファベットの書かれたプラスチックのコップを並べて、そこにペットボトルの水を注ごうとする。

「あ、どなたがきき水やりますか?常温が良い方いらっしゃいますか…ね?」

誰からも主張がなかったので、黄田は再度確認してクーラボックスのペットボトルを注いだ。原田が横目で見ると、ペットボトルにもアルファベットが記載されている。

「手伝うよ」

「ありがとうございます」

青原が黄田を手伝って、コップをきき水用の長机に持ってくる。

コップに書かれたアルファベットと対応するコピー用紙の上にコップを手際よく並べていった。

さらに黄田は小さいポリバケツを持って長机の下に置いた。

「これなんや?」

赤崎が尋ねる。

「あの…飲めなかった時にここに出してもらおうと…」

ああ、というと赤崎は頷く。

「んー…こうして並べてみると分かんねぇな。見た目じゃ」

「そりゃ分かんねぇだろ。無色透明なんだぞ」

そうだけどよ、と言いながら、穴吹と有馬は正面からコップを眺めていた。

僅かに結露が発生しているコップは結露を除いたとしても、見た目から判別できるものではない。

「どうする?やる?」

穴吹が有馬を促す。

「狩鷺にやらそうよ。あいつ偉そうだから、当てられなかったらめちゃめちゃ言ってやろうぜ」

有馬は嬉々として言った。

「じゃあ、俺、やりましょうか?」

青原はグダグダになっている場を締めようと自ら志願した。

「いや…それはあんたのところの企画だからなぁ」

穴吹は渋った。

「じゃあ、俺がやるよ」

有馬がコップの前に立つ。

先程興味を持っていたから、やりたくなったのだろうと原田は考えた。

「順番とか関係ないよな?」

「はい。無いです。好きなように飲んでください」

有馬は暫くじっとコップを見ていたが、悩んでもなぁ、と言ってCのコップを手に取る。

「うん。普通」

一口飲むと言った。

次にB、A、Dと一口ずつ飲み進める。

「うーん、Bは、えぐいというか、口の中が張る感じだったな。Aは飲みやすい印象だったな。Dは…ただ液体が口に入ったって感じがしたかな…。こう、無味、っていう表現がばっちりな…」

「お前の食レポ…水レポは聞きたくねぇよ。答えは何だよ」

ツッコミを入れながらも穴吹は回答を促す。

「うーん…Aが軟水、Bが硬水だな。間違いない。Dが多分、蒸留水じゃねぇかな。Cが水道水だ。これでどう?」

有馬は決め顔で黄田に問いかける。

なんとなく全員の視線が黄田に集まる。黄田がコップに注がれた水の種類を知っている。

「正解です。有馬さん素晴らしい感性ですね」

「ほれー、穴吹、凄いだろ」

「偶々だ。それにわかりやすかったんだろう」

「どっちの意見だよ。偶然なのか、わかりやすかったのか?」

有馬の意見に原田は頷く。

「いいんだよ。四つとも個性が強いから、わかりやすいんだよ」

教科書に載るレベルの言訳だった。

「さっき、冷えていると分かりやすいって言ってなかったか?」

うるせえ、と悪態を吐く穴吹は横でじっと見ている無津呂の肩を叩いた。叩かれた無津呂は労わる様に叩かれた肩を摩る。

扉が開く音が聞こえると、原田はそちらに視線を向ける。

原田と大原だけは僅かに離れてきき水を見ていたので、その音に気が付いた。

入ってきたのは狩鷺だった。

しかし、その顔は、会議を円滑に進めていた時の精悍な狩鷺の顔ではなかった。

酷く狼狽し、青ざめていた。

「狩鷺、お前これやってみろよ。お前みたいな生真面目なヤツ、ぜってぇ当てられねぇぞ?」

その発言で全員が狩鷺に注目し、そしてその異変に気が付いた。

「狩鷺さん?どうかされました?」

柚咲が尋ねる。

すぐに狩鷺は答えなかった。力なく歩くと、集団に近づく。

「警察からだったよ」

それだけ言うと穴吹と有馬、そして設楽を順に見る。

「…華葺さん…ですか?」

声を上げたのは無津呂だった。

「ああ…沈砂池で見つかった死体、あれ、華葺だったそうだ」

空気が張り詰めるという言葉を原田は身をもって知った。

「お前が言った中で一番つまんねー冗談だなぁ、おい」

今までの穴吹の発言の中で一番攻撃的な言葉だと原田は思った。

「冗談ではない。これから警察がここに来る」

穴吹たち処理センタの職員よりも動揺していたのが、浄水場の職員たちだった。

「あの、すみません、良く判ってないのですが…死体って?」

柚咲も動揺していた。

「ああ…ええ…」

狩鷺の表情には諦めの色が浮かんでいたことに原田は気が付いた。

柚咲ら浄水場の職員たちに狩鷺が説明している間、彼らの表情は晴れるばかりか逆に曇って行った。

特に顕著だったのが、柚咲だった。

「柚咲さん、顔色が悪いけど、大丈夫ですか?」

狩鷺が心配するほどだった。

「あの…狩鷺さん、その殺された方は…刃物で刺された…ということですか?」

「そのように言っていました。まだ詳しくは分かっていませんが…」

「ふざけんな、なんであいつが殺されてるんだ」

穴吹が大声で叫ぶ。

「おい、落ち着けよ」

有馬は諭すように言った。穴吹と一緒になって野次を飛ばすような人物像としては珍しい発言だと原田は思った。

「おい、課長、あれ、やっぱり届け出た方がいいんやないのか?」

赤崎は意気消沈している柚咲に投げかける。青原も黄田も同じような表情で柚咲を見つめていた。

「まだあれがそうだって決まっていないでしょう?」

「でも状況的にそうやろ。犯人が捨ててったって考えれば、筋は通る」

「わからない。まだ…」

狩鷺にはその意味が解らなかったようだった。

「狩鷺さん、実は、昨夜こちらの施設でもちょっとありまして…」

柚咲は決心した表情で狩鷺に詰め寄る。

その時、低いうめき声が会議室に響いた。

それぞれがお互いの顔を確認する。

誰かがその声を発したためであり、その発声元を探していた。

「おい、有馬。何してんだ?」

穴吹の声と共に有馬が膝を崩す。有馬は口元に手を当てて、咳き込んでいる。

穴吹の隣に狩鷺が近づく。

同時に、大きく咳き込む。

「有馬、どうした?水が合わなかったか?」

口元に手を当てていた有馬は、脱力したように膝から崩れ落ちる。

片膝でかろうじて体勢を保っているが、目が虚ろになっている。

穴吹はそんな有馬の目を覗き込んでいた。

そして。

全員が見ている中、有馬は床に倒れて動かなくなった。

穴吹が再び近づこうとすると。

「ストップ!」

無津呂が叫んだ。彼を知っている誰もが、驚くような大きさだった。

「救急車…呼んで。早く」

すぐに元々の声量に戻って原田に言う。

原田はスマートフォンを取り出して番号をプッシュする。

柚咲や黄田が会議室を飛び出して行く。青原と狩鷺は机をどかしてスペースを開けた。無理に動かしたためか、コップが倒れて水が机にこぼれた。

その間、有馬は泡を吹いて痙攣していた。

「おい、有馬」

穴吹の叫ぶ声は有馬には届いていなかった。



同日、午後三時四十分。

「有馬さんが亡くなりました」

寿の報告は素っ気ないものだった。その報告に唯一反応したのは、穴吹だった。大きく息を吐き、顔を天井に向けた。

寿に報告は続く。

丁度、原田が救急に電話をしたところで、警察が到着した。一瞬で状況を判断した寿が緊急車両で先導しながら病院へと搬送された。

寿は有馬の搬送が終わったのを見届けて、再びプラザへと引き返してきた。

その途中で有馬の死が報告された。

「こちらとしても…なんとも良く判らないのですが…何があったんですか?」

狩鷺と赤崎が、寿に対して、何が起こったか、なぜ自分たちがここで集まっていたのか、その説明を行った。

「はあはあ、つまり、処理場で狩鷺さんが言っていた外での仕事っていうのが、この打ち合わせだったわけですね」

最初に会議室にいた警察関係者は寿と私服警官が二人だった。彼らの目的は報告だけだったので少人数だったわけである。

寿が説明を受けている間に、数人の制服警官と鑑識が入室していた。

「有馬さんのご遺体は解剖に回させていただいています。死因を特定致しますが…」

寿は言い淀んでいる。

「持病はありましたか?」

「聞いたことねぇな」

「聞いてないです」

付き合いの長い穴吹と狩鷺は各々言った。設楽も頷いている。

「そうですか…まあ、それは解剖の結果を待ちましょう」

それで、と寿は続ける。

「処理場で見つかった遺体の事ですが…結果、それは…華葺さんの遺体だったわけですが」

処理場で寿と無津呂たちが話をした時に、無津呂自身は浄水場の人間だと決め打ちするのは辞めた方が良いということを進言していた。

寿はそれに従いつつ、朝から連絡が取れない華葺の所在を調べていたところ、行方が分からなくなっていたのである。華葺の自宅で採取した髪などからDNA検査をした結果、死体のDNAと一致したということから、死体を華葺と断定させた。

「死因なのですが…うん。刃物による刺殺ということで間違いはありません。ですが…まだ凶器となる刃物が見つかっていません」

先程までの会議室の机を使いながら説明を行っていた。寿は立っていたが、関係者は五台の長机を詰めながら使っていた。

その隅で柚咲が手を挙げる。

「刑事さん…その事で、お話ししなければならないことがあります」

柚咲の顔は青ざめていた。その顔を見ていた赤崎が代わりに説明を始める。内容は昨日からの自分たちの動きだった。

「その時にワシらが見つけたのが、このナイフです」

青原に目配せすると青原は自分の鞄からポリ袋に入れたナイフを取り出した。

「ちょっと拝見します」

寿はナイフを受け取ると、袋越しに中身を確認した。

「随分錆びていますね…。発見した時のままですか?」

「ええ。そうです。発見したのは私ですが、その時から状態は…見た目としては変わってないですね」

真剣な顔で赤崎は説明した。

「わかりました。ちなみに発見してから警察に報告が遅れたのはなぜです?」

「こちらとしては、異物が浄水に混入したということの方が重要なんです。まずその対応をしていました」

寿は黙ってその話を聞いている。

「それに、まさかそんな人を殺害したナイフには思えなかったっていうのもあります。錆びてはいましたが、血なんかついていませんでしたし」

「それは…そうかもしれませんね。それに、現時点ではまだこのナイフが華葺さんに致命傷を与えたナイフだという確証はありません。このナイフはこちらで調べさせてもらいますね」

寿は後ろの刑事にナイフの入った袋を渡す。

「こういう時は、皆さんの仕事の重要性は理解しているつもりですが、一度警察にもご連絡ください。今回は不問にしますが、罪に問われる可能性もあります」

柚咲を始め、浄水場の職員たちは反省した表情を浮かべていた。

「とは言ったものの…」

「何かあるのでしょうか?」

狩鷺が尋ねる。

「遺体は顔の眉から下が燃えていました。体内も口や食道、肺が焼け焦げていて、焼かれている時に燃えた空気を吸ったものと考えています。ですが…ちょっと不思議なことがありまして。解剖の結果、彼の体内から毒物が発見されました」

狩鷺は動揺していた。

寿は手帳を取り出して捲る。

「えっと、リン化…アルミニウムっていう薬品らしいのですが…。聞きなれないですよねぇ。殺虫剤の成分らしいんですけれどね…。これが…良く判らないんですよ」

黙ってはいたが、全員、何がわからないのか、という気持ちだろうと原田は思う。

「…どっちが先か…」

原田の隣の無津呂が呟く。

無津呂を挟むように座っていた原田と大原は二人で無津呂を見る。

「つまりですねぇ…。毒物を飲んだ後に刺されたのか、刺された後に毒物を飲んだのか」

「なんか関係あんの?」

ぶっきらぼうを通り越して、やさぐれてしまった穴吹が言う。

「毒物を飲んだ後に刺されたのであれば、自殺の可能性もあります」

腕を組んで寿は言った。

「それなら…どっちの場合も自殺の可能性が無いとは言えないんじゃないの?」

青原は寿に言った。

「どういうことでしょう?」

「刃物で自殺するってことは、まあ難しいでしょうけど、ありえないとまでは言えないでしょう?ナイフで刺した後に、とどめってわけじゃないけれど、薬を飲むってこともないとは言えない」

「自分で刺せへんかったら、何かに括り付けて自分から刺しに行くってこともできるかもしれへんな」

赤崎もそれに続く。

「おい、お前ら、華葺が自殺する人間だと思ってんのか?」

掴みかかろうと立ち上がる穴吹を狩鷺と設楽が抑えた。

「穴吹さん、気持ちはわかりますが、可能性の話です。自殺なのか他殺なのかってことすらはっきり断定できていません」

「自殺なら、なんで投げ捨てられてんだ?」

穴吹の怒りは寿に向かった。頭の中では沈砂池に浮かんでいる華葺の死体が思い描かれているのかもしれないと原田は考える。

この時点で原田の穴吹に対する見方が変わっていた。それは、仕事に不真面目な人物像だと思っていたが、仲間に対する思いが強い人間だというものである。実は優しい人間なのかもしれないと原田は思い直した。

「自殺だとしても、自分の遺体の処理を頼んでいた可能性は考えられます。ご存知かわかりませんが、世の中にはお金を払えば、死んだ後の遺体の処理なんか請け負う人間はいるんですよ」

寿の意見は穴吹を落ち着かせることはできなかったが、椅子に座らせる程度には納得させることができた。

「とにかく、華葺さんに関してはこのまま捜査を続けます。皆さん、連絡先を教えていただけますか?今後判明したことは報告させていただきますし、またお話を聞かせていただくこともありますので…」

他の刑事たちが、連絡先を聞きまわっている時に、会議室に他の私服刑事が入ってきた。

寿と挨拶を交わすと、手帳を広げて、情報を交換していた。

お疲れ様です、と寿が言うと、刑事はまた現場へと戻って行った。

「皆さん、有馬さんの死因が判明しました。彼は毒を盛られたということです」

「毒?」

狩鷺は驚く。

「アコニチンが発見されています。恐らくですが…トリカブトではないかと思います」

寿は続ける。

「毒ってことは…やっぱりあれか…」

赤崎の視線の先にはきき水のセットが置かれた長机があった。

「…あれの説明を詳しくお願いできますか?」

赤崎は頷くと、黄田にも視線を送った。

黄田は怯えていたが赤崎の視線を受けて頷いた。

黄田の説明は所々赤崎のフォローも入ったが、正確なものだった。

「有馬さんが倒れる前に口から摂取したもの、きき水以外で、何でも良いのですがありますか?」

「三階で昼頃に軽食を食べてます」

狩鷺が言う。

「だったら俺らも死んでるだろうよ。あいつらも死んでるって」

穴吹は無津呂たちを顎で指す。

狩鷺は、それ以外には何も、と寿に言った。

「うーん…狩鷺さんたちが知らないところで食べていたっていうこともありますが…。やはり黄田さんがお持ちになったペットボトルか、プラスティックのコップの確率が高いですね…」

調べてもよろしいですか、と尋ねる寿に黄田は頷いて、クーラボックスとコップが入ったビニル袋を渡す。

「これは…ペットボトルとコップは最初から分けられていたんですかね?」

「そうですね。あ、これもお渡ししたほうがよろしいですか?」

青原は袋にはいったペットボトルを示す。

「こちらは…二セットあるんですか?」

黄田から受け取ったペットボトルとコップを他の刑事に渡してから、寿は青原の掲げる袋を受け取った。

「クーラボックスに入ったものは冷えているんですけど、人によっては常温じゃないと飲めないっていう人もいるので」

「ああ、なるほど。確かに」

寿は頷いて、僕もそうです、と言った。

「ではこちらも調べさせてもらいますね」

再び同じ刑事に渡してから、寿は向き直る。

「さて、そうなると…有馬さんは自分で毒を飲んだのでしょうか?」

寿の視線は穴吹に向けられていた。

「華葺以上に自殺なんかありえねぇよ」

寿の意図を汲み取ったかのように穴吹は伝えた。

「悪いが、俺はあんたらの誰かが毒を入れたと思ってるよ」

穴吹は柚咲ら浄水場職員たちを睨み付けた。

狩鷺が、穴吹やめろ、と止めるが無視している。

「この状況ならお前らの誰か、いやお前ら全員かもしれねぇなぁ」

「それは聞き捨てならんな」

赤崎が反応する。

「何でワシらが飲料水に不純物入れなあかんのや?それやったら、お前らの方が汚れた水に慣れてるから毒物入れるのも抵抗ないんやないか?」

「ふざけるな」

それに反発したのは設楽だった。穴吹も赤崎も驚いている。

「そんな…そんな思いで僕らは仕事しているんじゃない。それを冒涜するのは誰であっても許さない」

その剣幕に会議室全員の動きが止まった。鑑識の人間も振り向いて止まってる。

原田は地獄だと思った。

「設楽さん…落ち着いて下さい。今の時点では何もわかりません。これから私たちも捜査しますから」

寿の言葉に、すみません、といって設楽は着席した。

それで、その場は解散になった。寿からは捜査の進展によってはまたお話を伺いに行くので、遠出はしないで欲しいということが最後に伝えられた。



四月二十九日、午前十時。

夏日である。

とても日差しが強く、五月になろうかという時期に至って、服装に迷う日でもある。

原田はTシャツに紺色のシャツを羽織ってチノパンという格好を選んだ。

世間的には大型連休である。

大学へ向かう道中では、家族連れや若いカップルが目立っていた。

しかし、これは頻繁に言われていることだが、理系の学生にとっては連休や祝日など意味は無い。それよりもしなければならない実験やレポートなどで休日どころではないというのが世間のイメージだろう。

原田が実際に経験したところでは、やる気のある学生はそのイメージ通りだが、連休を謳歌する学生は一定数いる。

環境工学研究室に関しては四年生がきっちりと分かれる。

流石に大学院生ともなれば、ほぼ毎日、研究室に顔を出している。原田は進学なので、毎日顔を出していた。

大原はきっちりと連休を謳歌するグループだった。

寿刑事から遠出はするなと言われていたが、自分は関係ないと思っているのか、他の研究室の友人と旅行に出かけるのだと言っていた。

あの日、解散された原田たちは、無津呂の車で再び処理センタまで戻り、サンプルを回収して大学に戻ってきた。

処理センタでは、華葺と有馬が立て続けに死んだということで大騒ぎになっていたが、無津呂は関係なく穴吹からサンプルを受け取り、帰ってきた。

穴吹も全くと言って良いほど喋らず、原田は逆に心配になった。

帰りの車で疲れ果てて大原が寝たのを横目に、原田は無津呂と会話を試みた。

『穴吹さん、大丈夫でしょうか?』

外は太陽がすっかりと身を隠し、その残像のような光が空を照らしている。昼と夜との間、不思議な空間の中、蛙のような姿の無津呂は、真直ぐ前を向いたまま口を開いた。

『…落胆してたね…』

『確か同期だったんですよね?悲しいですよね』

『…うん…』

『でも、こんなに一日で人って死ぬんですね』

『…毎日何人もの人間が死んでいるよ…』

『それはそうですけど…』

『…何が違うの…?』

『穴吹さんにとって大切な人じゃないですか』

『…毎日死んでいる誰かだって…誰かにとっては…大切な人だよ…違いはない』

『それはそうですけれど…穴吹さんにとって知らない人じゃないですか?』

原田は同じことを言っていると思った。無津呂はそれを理解した上で口を開く。

『…知らないからと言って…大切じゃないとは言えない…知らない人が自分を生かしてくれている場合もある…』

『宗教ですか?』

『…信仰に近いかな…』

『同じじゃないですか?』

『…全く違うよ…』

無津呂が言い終わると、目前に大学があった。

原田は五号館一階の実験室に籠っている。センタから帰ってきた翌日からサンプルの測定を行っている。大原は連休に入る途中まで手伝ってくれていたが、今は原田一人である。

無津呂はさすがに量が多かったのか、手分けしてサンプルを測定するように指示した。原田と大原がいないときは無津呂が一人で行っているらしいが、原田はいないのでわからない。

実験室は人口密度が小さくなり、ゆったりとしたスペースで作業している。

一時間前から測定を行っていて、その時に大学院生が一人いただけだった。今は誰もいない。

一週間ほど経過したが、寿からの連絡は一切なかった。また、報道を見ても、センタで死体が見つかって捜査中としか報道されておらず、また、柚咲が言っていた浄水場でナイフが見つかったということも現時点まで報道されることはなかった。

測定器にサンプルをセットすると、今までに測定できていたデータを測定器からノートPCに吸い上げる。後は待つだけなので、その時間を利用して無津呂の元に報告に向かう。

ノートPCを抱えて五号館を出ると、裏手へ回る。

プレハブに近づくと、その後ろからツナギ姿の男女が出てきて、原田とすれ違う。背の低い女子学生は背の高い男子学生を罵倒しながら、器用にお尻を蹴って文句を言っている。プレハブの裏手はコンクリート工学研究室の実験棟である。同じように休日関係なく実験を行っているのだろうと原田は同情する。

プレハブのサッシのドアを叩いて、中に入る。

奥の机に座っていた無津呂と目が合った。

「…お疲れ様」

「お疲れ様です。終わった分のデータを持ってきました。見ますか」

無津呂は頷くと、USBメモリを手に持ってヒョコヒョコと歩いて来た。

「…データ見てみた?」

USBをノートPCに差し込んでデータを移動している間に無津呂は尋ねる。

「まだですね」

「…全部測定できているかな?」

それは独り言だった。

「チラチラ見ていましたけれど、いくつかノットファウンドだったものがあったと思います」

三分ほどでデータの移行は終わった。

「…じゃあ、データ見てみようか」

無津呂は原田が持ってきたノートPCでデータを確認することにした。

「…結構確率高いよ…九割測定できている…。やはり原田君の試料づくりは適切だね…」

原田は配属されてからずっと他の先輩の手伝いをしてきた。その過程で教えてもらい、かつ自分でも工夫してきたことが、ここで報われたように感じた。

「ありがとうございます」

原田の口元に笑みが浮かんでいた。無津呂には悟られていないかと言う点が原田の気がかりだった。

プレハブの扉を叩く音がしたのは、データのチェックが丁度終わった頃だった。

「はい」

無津呂より先に原田が返事をする。

「失礼…しまーす…スゲェ」

入ってきたのは寿だった。一人で頭を少し下げて入室する。これは扉のサッシが僅かに低いためである。

寿は天井や、壁など、原田が初めてこの部屋に来た時と同じようなリアクションをしていた。

「…いらっしゃい」

無津呂は呑気に歓迎している。

「刑事さん、どうされたんですか?」

「ここ凄いねぇ。秘密基地みたい。ここ無津呂君だけで使っているの?」

無津呂は頷く。

「…どうぞ」

来客なのでソファを進める。無津呂はヒョコヒョコと自分の椅子と原田の椅子を持ってきた。その間、原田はPCや書類を片付けて無津呂の机にまとめて置いた。

ソファに寿を座らせ、原田と無津呂はその向かいに座る。

「あの…炭酸水しかありませんが…」

冷蔵庫から炭酸水のペットボトルを取り出すと、そっと寿の前に置く。

「…ごめんなさい…コップが無くて」

「ああ、気にしないで。そのまま飲んだほうが気持ち良いから」

寿は笑顔でキャップを開けると十秒ほどラッパ飲みした。

「今日は暑いねぇ。炭酸水がばっちりな気候だよ」

スラックスのポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭った。シャツが透けるほど汗をかいているように原田は思えたが、吹いたのは顔と額だけだった。

「今日はどうされたんですか?」

「あの女の子は?えっと…大原さんだっけ?」

「…言いにくいんですけど、友達と旅行してます」

原田が言い終わる前に寿は笑った。

「そりゃそうだよね。連休だし」

「すみません」

「君が謝る必要は無いでしょう。まあ、君らだったら問題ないよ」

はあ、と原田は答えるが、寿はその理由を語らなかった。

「改めて聞きますけど、今日はどうされたんですか?」

「うん、あれからまた分かったことがあったからね。その報告に来たんだ」

まず原田の頭に浮かんだのは、なぜ無津呂と原田に報告に来たのか、ということだった。

それを察したのか、寿は二人を見ながら言った。

「いや、深い意味はないんだけれどね。処理センタで君らと会話した時に、無津呂君の意見を聞いていたおかげで遺体の身元判明に繋がった。だから君と話をしていればまた何か発見できるかもしれないと思ったんだ」

「そんな…捜査情報を一般人に教えても平気なんですか?」

原田の心配をよそに、寿は手帳を取り出してソファの前のテーブルに置く。

「いや、教えないよ。ただ事件関係者の前で、独り言で、今まで調べたことを整理するだけさ」

原田は鼻から息を吐く。寿はいつもこのような捜査方法なのだろうかと考える。

「…それを…僕らに話してどうするのですか?」

「さっき言ったでしょう?好きに質問や推測をしてもらって構わない」

「…ただ話を…聞くだけになるかも…」

構わないよ、と言って寿は笑った。

「さて、まず浄水場の方についてだけれど、発見されたというナイフは間違いなく華葺さんの殺害に使用されたものだと断定された」

二人を見据えるように寿は言った。

「改めて彼らが話したことを整理すると、浄水施設の見回り点検の際にナイフは発見された。でも最初に柚咲と青原が見回りをした時にはナイフは発見されなかった」

「でも、その次に赤崎さんと…えっと黄田さんでしたっけ、その二人が見回りをした時には浄水池でナイフが発見されたんでしたよね?」

「そうだね。えっと午後十一時半ごろだったそうだよ」

「ということは、柚咲と青原が見回りを終えて、赤崎と黄田が見回りを始めるまでに誰かがナイフを浄水池に入れたってことになりますね」

寿は頷く。

「彼らも独自に調べたようだが、浄水池っていうのはかなり警備が厳重なんだろう?」

「…テロの時に…標的にされることもある…」

無津呂が言う。

「うん。確かに飲み水だからな。人命に関わる。もちろん北可士和浄水場の警備も厳重そのものだったよ。警察も警備会社にまで出向いて監視カメラの映像をチェックした。少なくとも外部から浄水場に忍び込む人間はいなかったよ」

「なら…」

「うん。ナイフを浄水池に投入できたのはあの時、夜番だった四名と」

寿はまだ続けるようだった。

「まだいるんですか?」

「ある時間だけ、事務員の相良緑詩という女性が施設内にいたことがわかった」

「…それは…職員の方たちは…知っていたんですか?」

無津呂が口を挟む。

「彼らで調べたら、施設入り口の脇にある警備員の詰め所に記録が残っていた。本人が警備員に言ったところでは、用事を思い出したから戻ってきた、ということだったらしい」

具体的な理由までは警備員に話す必要はない、ということである。

つまり、警備員としては職員である以上、施設の中で何をしていたかを把握している必要は無い。

「…どのくらい…いたのですか?」

「午後…九時から一時間、午後十時には帰って行ったということだ」

無津呂は机を凝視すると目玉をクルクルと回す。

そして再び寿に向き直る。

「その時間帯で…見回りをしていたのは?」

「午後九時から、柚咲と青原が見回りだった。ちなみに戻ってきたのは十時半で、その後、仮眠していた赤崎を青原が午後十一時に起こしている」

「ちょうどその事務員さんが戻ってきた時間帯ですね」

原田の発言に頷きながら寿は炭酸水を飲む。原田も飲みたくなる気にさせた。

「うん。ちなみに柚咲も青原も相良とは会わなかったと証言している」

仮に相良がナイフを投げ込みに来たのであれば、二人共、その姿を確認しているだろうかと原田は考えたが、すぐに考えを棄却する。本気で捨てに来たのであれば、隠れながら機会を伺うだろう。

「…相良さんとは…から…話は聞けましたか?」

「うん。見回りをした職員たちと相良は同じフロアの別の場所で普段は働いているらしい。本人はその自分の机に忘れ物を取りに来たから会うことはなかったと」

無津呂は視線を寿に向けたまま何か考えている。

「…相良さんが…部屋に入った時に…職員の方は誰かいましたか?」

「うーん、誰もいなかったと言っているなぁ…。柚咲たちが座っている机の周りだけ電気が点いていたって言ってるね」

省エネで夜番担当のところしか電灯が点いていなかったのだと寿は付け加えた。

寿は手帳のページを捲ると、ああ忘れていた、と言った。

「浄水場で見つかったナイフについても詳しく調べてもらった。その結果が出ているよ。まず、えっと…あのナイフは市販品じゃないってことがわかった」

「お店で買ったものではないってことですか?」

「そういうことだね。つまり凶器の足取りはちょっと難しいなぁ」

苦笑する寿をじっと見ていた無津呂が口を開く。

「…では…ナイフはどこから?」

「作られたもの…っていうか、こう一切れの鉄から削り出して作ったナイフじゃないかと分析した連中は言っている。手作りだな。持ち手の所なんか、雑に握りしめれば構わないくらいの作りだったそうだ」

「よくあるんですか?ナイフを自作する犯人って」

原田は純粋に疑問だった。

「俺は初めて聞くね。頻繁にあるもんじゃないと思うけれどなぁ」

「買ったりした方が早そうですよね」

そりゃあな、と寿は頷く。

「ナイフでなぁ、不思議なんだが、刀身、刃の部分が腐食してたんだ」

それはプラザの会議室で寿がナイフを観察していた時に原田も気が付いていた。

「それの何が不思議なんです?」

「腐食の状況がなぁ。数時間水にさらされただけじゃあ、そんな腐食の仕方にならないっていうんだよ」

「全体的に錆が浮いていて、所々、点々と深い錆びがあるんですよね?」

うん、と寿は言いながら髪を掻き上げる。

細かい謎に止まっていても先には進まないだろうと考えて原田は先を促す。

「ちょっと話ずれますけれど、事務員さんは何を忘れたんですか?」

本筋とは関係ないかもしれないが、原田は尋ねる。

「本、だそうだ」

「本?」

「友人から借りていた本を昼休みに読んでいて、そのまま自分の机に出しっぱなしにして忘れていたんだってさ。結構おっちょこちょいな性格らしいよ」

寿は浄水場の職員たちから聞いた投光車のエピソードを二人に話した。

「職員の人たち、寛容ですね」

「本当にそう思うよ。ウチだったら…」

寿の表情が暗くなる。原田はこの件についてはそれ以上掘り進めなかった。

「…毒物の入手ルートは…」

「追っているけれどまだ結果はでていない」

寿は首を横に振る。

「有馬さんの時の毒物もそうですか?」

寿は頷く。

「でも、毒の摂取ルートは分かった」

「どのコップに入っていたかってことですよね?」

「…AとC…」

無津呂は机の上をじっと見つめながら呟く。

寿の顔が強張る。原田は怪訝な表情で無津呂を見る。

「どうしてそう思うの?」

恐る恐る寿は尋ねる。

「…毒を入れた水を…しっかり飲ませないと…意味がない。硬水と蒸留水だと…飲めなくて…吐き出す場合もある」

原田は黄田が飲めない時のためにバケツを用意していたことを思い出していた。

「それに有馬さんはちゃんと全問正解していた。ということは飲みやすかったのはAとCの軟水と水道水の組み合わせだということですね」

原田は補足する。無津呂は頷いた。

「その通り、軟水と水道水が入っていたコップからトリカブトの毒が見つかった。正確に言えば、コップではなく、ペットボトルの中に入っていた」

寿は解説する。

「…状況的に…黄田さん…」

無津呂の指摘に寿は頷く。

「そうだな。確かに黄田が怪しい…というか黄田しか混入できないだろう。そう俺らも思った」

「違うんですか?」

「黄田には警察に来てもらって、話を聞かせてもらったんだけれど、黄田が言うには、前日に準備しておいたっていうんだよ」

「…ナイフ騒動の前ですか?」

「いや、後らしい。ナイフを発見して…まあ隠そうとしたわけだな。それから後で準備したらしい」

「良く準備できましたね」

深夜に硬水や蒸留水を準備するのは難しいのではないかと原田は思っていた。

「その日の午後に黄田が購入してきたということだ。蒸留水は施設内で備蓄していたものがあったからそれを使ったそうだ」

原田は頷いた。

「同じ形状のペットボトルを準備してそれに詰め替えてから冷蔵庫に入れて保存しておいて…」

寿は手帳に目を落とす。

「ああ、そう。それで当日打ち合わせに出るまで保存しておいて、直前にキャップにビニルテープを巻いてから、クーラボックスに入れた…と。常温の水も、出発ギリギリで準備したそうだ」

「…ありがとう…ございます」

「ということは、黄田を含めて誰にでも毒を入れることはできた」

「そうなっちゃうんだよなぁ。時間的にも十分余裕はあっただろうし」

二人は無津呂の方を見たが、じっと座って黙ったままだった。

「でも…何で二つのペットボトルに入れたんですかね」

「保険じゃないかな…よくわからないけど」

寿は顎に手を当てて言う。

「まあ、そこは犯人捕まえればわかるから良いんじゃないかな」

「刑事の発言とは思えませんね」

「刑事っぽくはないって言われるよ。特に頭髪辺りが」

確かにそれはそうだろうと原田は思う。天然パーマだから仕方ないとは思うが、初見では個性的だというのが印象だろう。

「あと…失礼ですけど名前もそうですよね」

「それも良く言われる。とくに殺人事件の現場に顔を出すには不謹慎じゃないかと…」

「悲しいですね」

「慣れたよ」

寿は笑顔で原田に返すが、諦めともとれるような悲しそうな笑顔だった。

「ま、俺のパーソナルひとくちメモはとりあえずとして…」

寿は無津呂を見る。

「今の時点でなんかわかった?」

無津呂は手を膝の上に乗せて行儀よく座っている。

キャラクタの蛙が切株に座っている場面を切り取ったようだと原田は思った。

「…いえ…何も…」

「何も、かぁ」

仕方ないな、と呟く寿は、無津呂が、ただ、と言うと、身を乗り出す。

「死んだ…華葺さんの…足取りはどうですか?」

「ああ、ちょっと待ってくれ」

寿は手帳をパラパラと捲る。

「うん、華葺の足取りは…まず、当日は仕事が午後三時に終わっている。これは退勤票から分かった。タイムカードってやつだね」

無津呂は黙って聞いていた。先程から座ったままの姿勢で変わりはない。

「それから…えっと午後四時には家着いたらしい。これは住んでいるマンションの隣の住人が証言してくれた」

「タイミング良く帰宅時に出くわしたんですか?」

「当日は隣人の子供が塾の日だったらしくて見送っていたら丁度帰ってくるのが見えたんだそうだ。挨拶程度の付き合いだったそうだから本当に姿を見た程度だな」

「…ちなみに…その人は…変わった様子はなかったんでしょうか?」

無津呂が口を開く。

「ん?華葺のことかな?そうだね。いつも通り陰気な感じだったって言ってたよ」

原田は華葺の事を知らなかったが、人付き合いは悪い方なのだろうと想像する。

「それから次に目撃証言があったのは…可士和市ギャラクシープラザだ」

「え?プラザにいたんですか?」

「そうなんだよ。午後五時に目撃されている。ちょっと驚いたんだけれどね」

でも、と寿は続ける。

「おかしい話ではないんだ。彼が目撃されたのは三階の軽食が食べられるフロアなんだ」

「夕飯ですか?」

「うん。その確率が高い。ちなみに他のフロアは十七時までしか使えないんだけれど、三階は二十時まで営業している。高校生とか、よく使っているみたいだな」

確かに広いフロアだったと原田は思い出す。

その時間まで営業していれば高校生や会社帰りに簡単に食事を済ませることも可能だろうと思う。

「マンションも近いんだよ。独身だしな。死んだ人間を悪く言う訳じゃないけど、食事を作ってくれるような恋人もいないだろうし」

十分悪く言っていると原田は思う。それに、そうした関係の人を作らないようにしていた可能性もある。それはその人の生き方だから、他人がとやかく言うことはないと原田は思っている。

「それからはどうなんですか?」

原田は先を促す。それ以上は自分が聞きたくなかったからだった。

「そこから全くわからない」

「午後五時に目撃されてからそれ以降は分からない…」

「…あの…死亡推定時刻は…聞いていなかった…」

「あ、そうか言ってなかったな。えっと…難しいんだが、午後五時から午後十一時の間らしい」

午後五時には目撃されているのでそれ以降ということになる。それまで華葺はどこで何をしていたのかが不明な点である。

「…ナイフが…見つかった時間を考えると…間違いはなさそう…」

原田は頷く。

死亡推定時刻の話である。

「…十一時半に…ナイフが見つかっている…。ならば…それより前に殺されているはず」

寿は頷く。

「なんかぐちゃぐちゃというか、煩雑な話になってきましたね。大きく分けると…処理センタで見つかった華葺さんを刺したナイフが、遠く離れた浄水場で見つかった…」

うん、と頷く寿を見て原田は続ける。

「そのナイフも堅牢な警備の浄水場の中で、しかも浄水池の中で発見されている」

「わざわざ浄水池に入れてるもんなぁ」

「そして、有馬さんの毒殺…。華葺さんのこともそうだけれど、なぜ処理センタの人たちが立て続けに殺されているんだろう…」

整理しているように見せているが、原田の頭の中では煩雑になっていた。

「…警察は…連続殺人だと…考えていますか?」

無津呂が口を開く。

「うん、そこなんだよな。同じ職場の人間が連続して死んだ。どちらも自殺するような理由は無いっていう証言はあるけれど…人間なんてどんな理由で自殺するかわからんからなぁ」

「華葺さんと有馬さんをちゃんと調べた方が良いかもしれませんね」

警察に忠告している原田自身が滑稽に思えてきた。ただの一般市民である。これは隣に座っている無津呂のせいである。寿も無津呂の意見を聞きに来ていることは明白である。

「捜査としては他殺として進んでいるんですよね?」

寿は頷く。

「…彼の…言う通り…センタの職員…死んだ二人のこと…調べてみてください…それからでも…遅くはないですから」

何が遅くないのか、原田には分らなかったが、寿は無津呂の意見を手帳に書き込んだ。ペンが走る音が小気味良かったことが原田の印象に残った。

「じゃあ、また何かわかったらここに来るよ」

「もう一度聞きますけれど大丈夫なんですか?捜査状況をこんなところで報告してしまって…」

「独り言だって言っただろう?」

寿はそう言うと炭酸水のペットボトルのキャップを開ける。炭酸の抜ける音がプレハブの中に響いた。



同日、午後十三時。

昼食後、原田はまだプレハブにいた。

寿が帰った後、サンプルの分析を全て終わらせると、少し遅めの昼食となった。無津呂と共に学食へ行くが、閉店していた。

連休中は休みであることを二人共忘れていたのである。

仕方がないので、学外へと出向いて行った。

一番近くの中華料理店に入ると、部活動の学生と思われる三人がテーブルに座っており、カウンタには二人の客がいた。

無津呂と原田は空いているテーブル席に向かい合って座り、ランチを注文した。

「何も考えずにここに入りましたけれど、無津呂さん、ここ来たことありますか?」

「…結構よく来る…店長とは…顔見知り」

そう言うと、無津呂はキッチンに立っている店長に手を挙げる。

恰幅の良い店長は笑顔で、毎度、と言った。

「そうだったんですね。意外です」

数分すると、二人の前にはランチメニューが運ばれてきた。

今日は中華丼と餃子のセットであることを原田はメニューを見て知っていた。

しかしもう一品、杏仁豆腐が運ばれてきた。

戸惑いながら、店長を見ると、サービス、と笑顔を浮かべて無声で言った。

他の客がいるからだろうと原田は思いながら会釈する。

「寿さん帰ってから、ずっとなんか調べてましたよね」

サンプルの測定とデータの取り込みまで原田に任せて、無津呂は自分のPCで必死に何かを調べていた。

「…うん…論文検索していた…」

「リン回収の奴ですか?」

「…まあ…そんなところ」

そうですか、と言いながら原田は不思議だった。

無津呂の事だから、この研究を始める前に沢山論文を読み込んでいるはずである。多少の取りこぼしはあるだろうが、今更必要だろうかと思った。

「そう言えば、寿さん、わざわざこんなもの残していきましたね」

原田は無津呂より食べるのが早かった。むしろ、無津呂が遅いのである。少しずつ口に運んでしっかりとよく噛んで食べている。

原田の手には一枚の用紙がある。折り畳んでシャツの胸ポケットに入れていたのである。

それには、事件関係者たちのナイフ発見当日、つまり華葺が殺害されたとされる日の動きが書かれていた。

寿が全部説明できないから捜査資料のコピーを置いておく、と言って残していったものである。こんなものを一般人に見せて、しかも残しておくことは職務上良くないことではないかと原田は考えて、プレハブに残さずに持参してきたわけである。

寿の身を案じて動いている自分が滑稽にも思えたが、あまり考えないようにした。

自分の行動に明確な意図が無ければいけない、というわけではないと原田は思うようになった。成長か後退かは分からないが、少なくとも以前の自分では考えられないことなのは間違いがない。

この用紙は先程、無津呂も目を通している。

昼休憩に出る前に原田がシャツの胸ポケットに突っ込んだのである。

最初に書かれていたのは浄水場の職員たちの動きだった。

当日の夜番は急遽決まったようで、柚咲たちは振替として午後から休暇を取っていたようである。夜番の午後六時までは個人行動となっていた。

赤崎だけは家が遠いところにあるようで、家に帰って、身支度をしてすぐに引き返してきたということだった。

残りの三人は浄水場から比較的近くに家があるようで、家に帰ってからも自由行動をしていた。

柚咲は実家住まいで、年老いた両親と暮らしているらしく、家に帰ってからも二人の夕食を作るために買い物や家事などをしていたと供述している。それらが終わってから再び仕事に戻ったわけである。

青原は兄弟と住む自宅に戻った後、買い物をするために市街地へと向かったと証言していた。生活雑貨や書店に寄ったと供述しており、警察も青原が足を運んだ店舗からその証言と監視カメラの映像を提供されている。また、青原が向かった市街地はプラザのある地域である。

黄田は、公用車を借りて、きき水に使う硬水や自分の生活必需品などを購入しに街に出る。その後、一人暮らしの家に戻り、身支度などを整えてから、浄水場へと戻っている。これも訪れた店などが判明しており、青原と同じく、裏は取れていた。

原田は一旦、そこで用紙から目を離す。無津呂は餃子を齧っていた。

浄水池にナイフがあったことから、あの夜に施設内にいた四人、相良を入れれば五人にその機会があったと考えて間違いはないだろうと原田は考える。それだけではなく、有馬を殺した毒を混入できるのも、同じで理由である。

無津呂は自分の考えを全く話さない。寿の前でも疑問点を挙げて、かつ毒物の入れてあるペットボトルを断定したくらいである。

本当は何も考えてないのかもしれないと思いながら、用紙に再び目を落とす。

次に処理センタの職員たちの動きが簡単にまとめられている。

狩鷺は、夕方六時の定時で仕事を終えて、車で自宅へと帰った。帰宅時間は狩鷺の妻からも証言が取れている。当日の早朝、部下の設楽から死体発見の連絡が入るまで普段通りの生活をしていたとのことだった。

穴吹も同じく、定時で終わり、家に帰る途中にパチンコ屋に寄っている。これまでと同様に裏は取れている。そのまま午後九時までパチンコをすると、チェーン店の牛丼屋に寄ってから真直ぐ帰宅する。

穴吹は一人暮らしで帰宅後のアリバイは無い。狩鷺と同様に設楽からの連絡を受けてセンタへと向かうが、ほぼ平日通りの通勤だったようである。

そして有馬はその日当直だった。つまり一晩中センタにいたわけである。他の職員からの証言は取れていない。誰も有馬が一晩中センタにいたのか、証言できていないが、見かけた職員はいる、ということらしかった。

本来、当直ではなかったが、以前に穴吹と交代してもらったことがあった。

その埋め合わせをしていたわけである。

設楽は処理センタから車で二十分ほど離れたところにあるマンションで、妻と娘と暮らしている。当日は有馬と同じく当直だった。

これも有馬と同じ理由で、死んだ華葺から当直の担当を代わってもらったそうである。さらに有馬と違う点が、当直担当だった他の職員から仮眠を取っているとき以外は同じ部屋にいたという証言は取れている。

顔を上げて用紙を胸ポケットに仕舞うと、無津呂が最後の餃子を頬張っているところだった。

「…杏仁…食べないの?」

原田の前には店長からのサービス品が行き場なく佇んでいる。

無津呂が杏仁豆腐を、杏仁、と略すのかと分かって少し微笑む。

「…原田君も…杏仁好き?」

無津呂の目が輝いていた。

「半分いかがですか?流石に全部は店長に失礼なので半分食べますけれど…」

「え?本当?」

そう言うと無津呂は何度も頷いた。

どうぞ、と原田は器の中の杏仁豆腐の半分を無津呂のさらに移動させる。

笑顔の無津呂は餃子よりも勢いよく杏仁豆腐を頬張っていた。



同日、午後五時。

ランチは無津呂の奢りだった。

中華料理屋の店長も、無津呂が同期の学生以外で人を連れてくることは稀だったようで。料金の端数をサービスすると申し出てくれた。

無津呂は丁寧に断って、しっかりと料金を支払ったが、原田はどれだけ無津呂の交友関係が狭いのか、と不安になった。

無津呂個人の問題だということは間違いないだろうが、それで良い、と本人も思っていることが原因の一つだろうと原田は想像する。

五号館の実験室で、無津呂から追加で頼まれたサンプルを測定しながら原田は考える。

事件のこと、無津呂のこと、これからの自分のこと。

思考は無限にできる。

頭の中では制限はない。人を殺していたって、捕まることは無いのである。

測定終了を告げるアラームが鳴り、ぼうっとしていた頭が現実と対面する。

追加の測定は先程、測定できなかったサンプルだった。

念のため、もう一度測定してみることにしようと、無津呂から提案があったからである。

原田としても、せっかく採取したのだから、全て結果が出て欲しい。

接続されているPCを使って、測定器の管理ソフト中でデータを確認する。

すべてのデータが取れていることが確認できた。

他の院生が一人で作業をしているので、静かに握り拳を引いた。

テキパキと後片付けをすると、データを吸い出して無津呂の元へと向かう。

五号館を出ると、空には雲が増えてきた。

ところどころ黒い雲が見えるから、雨が降る可能性がある。

足早にプレハブに戻る。

「無津呂さん、残り全部測定でき…まし…た」

入口で原田は立ちすくんだ。

無津呂はソファに座ってスマートフォンを耳に当てていた。

時々、うん、や、はい、と喋っていることから誰かと通話をしているようだった。

原田が立ちすくんだ原因は、無津呂の向かいにあった。

水槽が乗っている作業台の端に、黒ずんだビーカが置いてあり、その奥の壁も天井に向かって黒く煤が付いたかのように汚れている。

作業台の上には同じく黒ずんだ薬品瓶が置いてあり、僅かに見えるラベルには『塩酸』と書いてあった。

午前中はこんなことはなかった。

帰ってきて、原田が測定に向かっている間にこうなったということである。

もう一度原田は無津呂を見るが、部屋の住人は落ち着いていた。

そもそも冷静さを欠くような言動を見たことはない。

落ち着き払って、一点を見つめ、電話の相手に聞き入っていた。

「…わかりました…ありがとうございました…」

通話を切ると、原田に向かって、お帰り、と言った。

「…データ…どうだった?」

「いや、それは…上手く測定できましたけれど…」

原田は壁の煤を再び見る。

「これ、何なんですか?」

ん、と無津呂は壁の方を見た。

「…うん…実験していた…」

「実験?失敗ですか?」

「…いや…成功…」

「これで?」

どう見ても成功したとは思えない状態だった。

もう一度、成功、と言った無津呂は満足げな表情だった。

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