scene7-2
両目を押さえている感覚が、他人の物から自分の手に変わる。
ほんの瞬きの間の夢だった。
「余計なことを」
初めて会った頃のような、ひどく冷たいお兄ちゃんの声に、あたしは慌てて顔を上げた。袖で乱暴に涙を拭う。
「思い出させてどうする? お前は、彼女がいない間に違う女とよろしくやっているくせに。責任もとれないのに、勝手にかき回すのはやめろ」
お兄ちゃんは園子を一瞥した後、一歩、二歩と、樹に取り押さえられている涼に近付いていく。
涼は黙ってお兄ちゃんを睨みつけていたけど、樹は顔が引き攣っていた。うん。お兄、怖いよね……今は人間のはずだから、人間のできる範囲でしか物事は動かないと思うけど。
急いで立ち上がって、お兄ちゃんの腕に飛びつく。
「お兄、」
そう声をかけて、一番驚いたのは当のお兄ちゃんだった。
動きを止めて、あたしを見下ろして、サングラスの奥の瞳が見開かれているのが、この距離なら分かる。
こんな時だけど、お兄ちゃんの感情をそこまで動かせたことがちょっと誇らしい。
「お兄、それは前からそうだったんだよ。あたしも分かってた。だから、それには何の問題もない。あたしに問題がなければ、記憶の有無は関係ないよね?」
このままだと、お兄ちゃんは涼を一発殴りつけて、そのままどこかに行ってしまうに違いない。それが、あの場所なのか、違う何処かなのか想像もつかないけど。
あたしはお兄ちゃんを捕まえたまま、涼に視線を移す。
「涼、ありがとう。覚えていてくれて。聞きたいこととか、めっちゃあると思うけど、今は無理そう」
片手でジーンズの後ろポケットからスマホを取り出して、ラインのQRコードを表示させる。
「……トモキ」
「お兄はちょっと黙ってて」
「離せ」
掴んだ手を離させようと添えられる手に、さらに力を込めて抵抗する。そのまま、スマホを涼に差し出した。
「新しい連絡先。とりあえず。みんなには後で教えてあげて」
「トモキ」
涼が慌ててそれを読み込んでる間に、ちょっと気まずそうに佇んでる園子ににっと笑ってやる。
「園子っ……爆発しやがれ! 美由も樹も、ごめん。また今度」
「今度は、大丈夫なのか」
スマホを押し返しながら、涼が訊く。
「うん。大丈夫」
「トモキ」
「もう。うるさいな。離さないよ。離したら、逃げるかもしれない。まだ聞きたいことも言いたいこともあるんだから、話すなら車に戻ってからにして」
「もう、話すことなんて……」
「あるよ。沢山! 戸籍とか、お金の管理はどうなってるのかとか、今日の晩御飯はどうするとか、免許証だって失くしてるのに再発行もしてない。迂闊に出来ないんだよね? お兄はもう生活の一部なんだよ。勝手にいなくなられたら、あたしが困るの!」
あの人に頼まれなくても、きっと同じことを言っただろう。
だって、一年ずっと傍にいたんだから。はい、サヨナラ、なんてあたしにはできない。
「……有海……」
「と、いうわけで、ちょっととりこむから、またね」
涼はまだ納得いかない感じだったけど、まあ、それは追々。
軽い感じでみんなに手を振って、呆けているお兄ちゃんの腕を引いていく。
「――ああ。朋生だぁ……お兄さんも、苦労するねぇ」
笑いを含んだ美由の声が聞こえてきて、振り返りかけたお兄ちゃんは、代わりに空いている方の手で顔を半分覆ってしまった。
ようやく見つけた車の運転席にお兄ちゃんを押し込んで、はたと悩む。回り込んでいるうちに消えたりしないだろうか。そもそも、今でも出たり消えたり出来るんだろうか。
難しいことはよく解らないので、お兄ちゃんの上を通って乗り込もうとしてみた。
「……馬鹿。ちゃんと回って来い」
容赦なく頭を押し退けられて、首を痛めそうになる。
「……ちょ」
「心配しなくても、ちゃんと待ってる」
じっと見ても、もうお兄ちゃんは元の冷静なお兄ちゃんだった。そっと手を伸ばしてサングラスを外す。抵抗はなく、ただ瞳が伏せられる。
「じゃあ、人質ね」
意味のあることかどうか分からなかったけど、そのまま信じるのは不安だった。
そのサングラスを自分でかけて体を起こすと、お兄ちゃんが微かに、ほんの微かに口角を上げた。
「……似合わない」
「ひっど」
気持ち強めにドアを閉めて、足早に助手席へ回り込む。言葉通り、お兄ちゃんは待っていた。エンジンがかかる。
「思い出したんだろう? 何故、まだ兄と呼ぶ」
あたしは少し呆れて、お兄ちゃんを指差してやった。
「名前、知らないもん。他に呼びようがないじゃない」
一瞬だけこちらを向いた視線が、思ってもみなかったと語ってる。あたし達は自己紹介すらしていない。
「気に食わないならちゃんと教えてよ。本名でも、設定? でも。会社ではなんて名乗ってるの? それとも、仕事も実はしてないの?」
だとすると、お金がどこから出てたのかすごく不思議だ。
「仕事はしてる。ちゃんと。さすがに貯金だけでは回せない。人の世は面倒臭い」
「そう。で? 名前」
「トモキ、全部思い出して、ココロも戻ったならもう俺の役目は終わりだ」
「言うと思った。馬鹿言わないで。あたしは思い出しても、両親や、親戚や、涼達以外の他のみんなは違うんじゃない? 辻褄が合うように。あたしは、『有海朋生』ではなくなってる。それに兄として関わっているのに、途中で投げ出すの?」
「トモキの兄は海外に行ったって、事故に遭ったって構わない」
「やだよ」
「元々、時が来たらそうするつもりだった」
「やだよ」
お兄ちゃんは今度はゆっくりとこちらを向いた。
「どっちにしたって、得体のしれないモノと同じ家になんて暮らせないだろう?」
「なんで? 今までと同じでいいじゃん」
「……ちょっとは考えろ。もう俺は『記憶の曖昧な妹』を気にかける兄でいる必要はない。このまま山奥に連れて行って置きざりにしたっていい」
怖い顔して腕を引かれたって、怯むような事じゃない。色のついた景色は現実味が薄い。お兄ちゃんはずっとこの世界に生きていたんだなぁ。
「それ、お兄に何の得があるの? ね、じゃあ、この一年、お兄は何もかも演じてた? 全部嘘だった? 楽しいことなんて一つもなくて、ただただ嫌な時間を過ごしてた?」
逸らされた瞳と、小さな舌打ちがあたしの自信になる。
「じゃあ、何か問題が出てきてから考えよう? それに、あそこの家賃ひとりで払うの辛い。引っ越すのもお金がかかるし」
「後悔するぞ」
お兄ちゃんは投げやりにそう言って、ギアをドライブに入れた。
「誰が?」
もう一度、呆れたような視線を受け止める。
「あたし、ずっと“お兄ちゃん”が欲しかったんだよねぇ」
「俺は、戻りたくなんてなかったんだ」
それが過去形だったから、あたしは聞こえないふりをしてシートベルトを締めた。お兄ちゃんはしばらく前髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜていたけど、やがて諦めたように車を発進させた。差し込んできた夕陽に眩しそうに目を細めながら。
返せと言われたら、返すつもりだったサングラス。結局、いつまでたってもお兄ちゃんの口からその言葉は出なくて……
「今晩何食べようか」
「……ハンバーグ」
不機嫌な声は、初めてのリクエストをぶっきら棒に告げた。
*オズを探して おわり*
オズを探して ながる @nagal
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