どうしても満たされない女の話

 まるで出口のない迷路を彷徨っているみたいだった。

 もう嗅ぐだけで憂鬱になる香りなのに、ここに足を運ぶことを止められずにいる。

 通い始めたころは確かに痛みを取り除くためにコーヒーを頼んでいたはずだ。

 それなのにいつからコーヒーのために通うようになったんだろう。

「マスター、いつものコーヒーをお願い」

「奥さま、どうかなされましたか。あなたはもうコーヒーは注文なさらないと思っておりましたが」

 そう、マスターの言う通り。本当はコーヒーを注文する必要なんてない。

「ええ、あなたのお陰であの人はとても優しいわ。前とは全く別の人みたい」

「では、どうしてまたコーヒーを?」

「だって、私は彼にあんなことをしたのに、あの人が私を大切にしようとするなんて、とても耐えられないわ!」

 私は確かに夫の性格を矯正してほしかった。

 だから、結婚以来ずっと続いていた夫のひどい横暴に初めて抵抗したあの夜は、絶好のチャンスだと思った。私の投げた小さな置物が彼の側頭部を直撃したのだ。

 意識を取り戻した彼が全ての記憶を失っていたことを知ったとき、私は救急車よりも先にこの店のマスターへ連絡していた。

 元々この店には、私が彼から受けた辛い仕打ちの記憶を癒すために通っていたから、話はスムーズに進んだ。妻に優しい夫であり、子煩悩な父である、そんな記憶を作って、コーヒーと共に彼に流し込んでもらって、それで全ては丸く収まったはずだった。

 それが、結局この有様だ。

 夫は人格者として社会に溶け込み、日々充実した様子で、サラリーマンと一家の父を行き来している。それこそ、コーヒー一杯さえ飲む暇もなさそうに。

 その陰で私は少しも変わらないままだ。

 夫を丸ごと変えてしまった事への罪悪感はあるけれど、同時に望み通りになったはずの夫に勝手に違和感を覚えているし、全く違う人間になれたことを羨む気持ちもある。

 でも私には自分を変えてしまうなんて大掛かりなことをする度胸はない。

 だから結局コーヒーを手放せないままで、今日もまたちびちびと嫌な記憶を置き換えている。

 コーヒーの苦みが私の喉を過ぎるとき、自分が内側から崩れていくような嫌な感触をもう何度繰り返しているだろう。

 元々の私なんて、本当はもう飲み干したカップに残る数滴程度しかないのかもしれない。

 変われないまま変化していくこの循環から、私はまだ抜け出せそうになかった。

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かわっていくからだ 高良 洲 @kakiflyjam

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