かわっていくからだ

高良 洲

つい先刻まで記憶を失っていた男の話

 いきなり目の前のもやが晴れたようだった。

 スン、と鼻へ抜ける香ばしさの源である、常連だったらしい喫茶店で出されたコーヒーを口にしてから、すぐに。

 ひと口、ふた口と飲み進めるごとに細部の記憶までどんどん鮮明になっていく。

 たった今まで自分の名前さえ分からずにふらふらしていた存在が、なにか大きな力でぎゅっと引き寄せられた。

 そして、ラベルの付いたビンに詰め込まれた、そんな感覚があった。

「お口に合いませんでしたか?」

「いや、そうでなく。……あの、おかしなことを言いますがね。私、たった今、全部思い出したんです。この店のことも、自分のことも。……その、このコーヒーを飲むまで実は記憶を失ってまして」

 じっと飲みきったカップを手にしたままの私を気にしていたらしい。

 マスターへ向けた弁明だったが、改めて口にすると実に奇妙だ。

 飲むと失われた記憶を回復するコーヒーとは。冗談と取られても仕方のないような話だが、人の好いマスターは頭から私の話を信用してくれたようだった。

「ほお、記憶は嗅覚と繋がっているとは言いますが、急にすっかり全部とはまた珍しい。 ……ところでウチの店へはどうやって?」

「実は妻の提案なんです。よく出入りしてたから、もしかしたら記憶を取り戻すきっかけの一つぐらいにはなるんじゃないかって。いや、まさか全部戻ってくるとは思いませんでしたよ」

「それは奥さまに感謝しなければいけませんね。お祝いに今日は私にご馳走させてください。まず、コーヒーのおかわりはいかがでしょう」

「ありがとう、頂くよ」

 マスターが注いでくれたコーヒーは、湯気と共にあの芳醇な香りを届けてくれる。

 この香りが肌を撫でるだけで、まるで自分の細胞の一つひとつが上書きされていくような、不思議な感触があった。

 黒い液面に映る自分もまるで生まれ変わったかのように晴れやかな表情をしている。

 少し距離があるような妻との関係も今ならきっと修復できる気がする。

 全てが良い方向に進んでいくような、そんな予感があった。

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