幸福自動販売機
秋待諷月
幸福自動販売機
暗闇の中に溜息を漏らした。朧気な白は凍るような冷たい空気の中へ滲んで消えた。二十三時を回った真夜中の公園には、僕以外の人間は一人もいない。
赤錆まみれのジャングルジムの脇を抜け、小さな足跡が残る砂場を迂回し、肩を落としてとぼとぼと歩く。昼間は近所の住人たちで賑わうだろうこの空間も、今にも明日になろうかという時刻には静寂しか存在しない。
塗装が剥げ、ざらざらと砂が乗った古い二人掛けのベンチに、背中から身を投げ出すように腰を下ろしたのは無意識の行いではない。闇に覆い尽くされて冷え切った公園の中で、唯一、その場所だけに微かな温もりが備わっているように思えたからだ。
その理由はすぐに知れた。右横から伝わってくる震動のような低音と、一帯をぼんやりと照らし出す仄白い灯。
そこには一台の自動販売機が設置されていた。
陳列ケース越しに洩れる光は、僕の足元にも明かりのお裾分けを寄越してくれている。ヴー、と、唸るような作動音がどこか優しげで、その音に浸ると少しだけ心が安らいだ。
「笑い話なんだけどさ」
僕は口をついたように語りかけていた。他に誰もいない公園の中、なんの変哲もない自動販売機に向けて。
「立ち上げからずっと指揮を取っていたプロジェクトを、いきなり降ろされたんだ。後任は一つ下の後輩。あいつなら、僕よりずっと上手くやれるんだってさ」
毎日毎日、夜中過ぎまで残業して、ようやく軌道に乗ってきたと思っていた。今日、僕はその軌道上から突然、一人だけぽんと放り出された。怒りも悔しさも超越し、残されたのはあまりに大きな空虚感。抜け殻のようにカラッポになって一日を過ごし、気付けば今に至る。
「笑い話なんだけどさ」
もう一度重ねて言って、両手をベンチの上へ投げ出して星も見えない夜空を仰ぐと、僕の口から零れたのは掠れた笑い声。誰かがそれにつられて笑ってくれるわけでもなかったけれど、その代わりに。
ガコン、と。
聞こえたのは、何か重いものが滑り落ちるような、耳に馴染みのある音。どきりと小さく飛び上がり、僕は恐る恐る右横へ視線を送る。そろそろと、へっぴり腰で立ち上がる。
自動販売機が照らす舗装の上に、人影があるわけでもない。しかし、四角い機械の取出口の内部を覗き込むと、そこに収まっている紅色の缶が、まだ少しだけ揺れていた。
再度辺りをそわそわと見回してから、僕は躊躇いがちに透明なプラスチックカバーを開け、中から缶を取り出した。
微糖のコーヒー。
両手で恭しく缶を持ち、自動販売機を見つめた。作動音だけが静かに響く。
プルトップを立てて、プシュン、と、飲み口を開けた。唇に当てて中身を流し込むと、熱いコーヒーが舌に、喉に、じんわりと沁みた。痛いほどに沁みたから。
「美味ぇ」
洟と一緒に涙が出た。溢れ出して止まらなかった。
何度も何度も手の甲で鼻と顔を拭いながら、僕はコーヒーの最後の一滴までを飲み干した。
二ヶ月後、新しく立ち上がったプロジェクトの準備に奔走していた僕は、外回りの途中でふと、あの公園に足を運んだ。
古びたベンチの横には、そこに何かが置かれていたことが一目で分かる、四角く変色した舗装だけがある。
僕はしばらくの間、呆然とその場所を見つめていたが、やがて弾かれたように、口笛を吹きながらゴミを拾っていた清掃員の男性に声を掛けた。
「あの。ここにあった自販機は」
「ん? ああ。故障したとかで、ついこの間メーカーが回収していったよ。勝手に商品が出てきちまうとかでさ」
腰を屈めたまま、ぽっかりと広くなった空間へ目をやった男の返答に、僕は上の空で「そうですか」と呟いた。
男は不思議そうに僕の横顔を注視していたかと思うと、腰を伸ばして僕の横に並んだ。
「ひょっとして、あんたも、あの販売機から何か貰ったのかい」
「あんた、も?」
僕が目を瞬かせれば、男はひょいと帽子を脱ぎ、自動販売機が設置されていた場所を見つめながら目を細める。
「会社にクビを切られて、女房に逃げられ家も無くして、もう死んじまうかって思いながら――ふらっと辿り着いたのがここだった。暑い夏の日でな。金も入れないのに、あれから勝手に出てきた缶を開けたら、とんでもない勢いでコーラが噴き出してきやがった。顔一面コーラでずぶ濡れになったら、なんだか、死ぬのも馬鹿馬鹿しくなっちまったんだよ」
無くなっちまって寂しいな、と。彼は目を伏せながら、ほろ苦く笑った。
目深に帽子を被り直し、せっせと火バサミでゴミを拾い始めた男を背に、僕はあの夜、そこにあった自動販売機の姿を思い浮かべる。
そして、真っ直ぐに向き合って頭を下げた。
ゆっくりと、それが一礼であるのだと、誰の目にも分かるように。
***
「幸福の自動販売機になりたいんだ」
あんたはありもしない目を輝かせてそう語った。俺は胡乱げにあんたを見下ろして、「ふん?」と気の無い返事をしたっけ。
そんな俺に臍を曲げることも無く、なおもあんたは続けたもんだ。
「オスカー・ワイルドの短編を知っているかい? 金箔の王子様の像が、町の人々を幸せにしようと自分の体から金箔や宝石を剥がしては贈ってあげる話だよ。僕はね、あの王子様のように、誰かに幸せを分けてあげられる自動販売機になれたらと思うんだ」
「その話なら知ってるよ。だがあんたが贈るのは、金じゃなくて缶飲料一本だ。今の金相場なんざ知らないが、幸せの額面の桁が違うだろうよ」
「仕方がないよ、僕の体には金箔が貼られていないのだから。百二十円分の幸せでいいんだ。それが百二十円分の笑顔に変わってくれれば、僕は嬉しい」
あんたは自分のしていることに、なんの疑問も持っていなかった。そんなことをして、誰があんたに見返りを寄越すわけでも、感謝してくれるわけでもないだろうに。
俺は拗ねたような気分になって、意地悪く物語の結末を聞かせた。
「貧乏人に金箔を与え尽くしてみすぼらしくなった王子は、最終的に処分されちまう。王子を手伝った燕も、冬から逃げ損ねて死んじまう」
「そうだよ。だから僕は、君に手伝いを頼んだりはしないんだ。だって、僕の我儘で君が死んでしまったら嫌だもの」
そもそも俺に手伝えるわけないだろう、と、切り捨てながら、俺は心の中では「そういう問題じゃない」と罵った。
入金もないのに商品を吐き出す自動販売機がどうなるかなんて、あんただって分かっていただろう? それなのにあんたは、寂しげな人間を見る度に缶を落とすことを止めはしなかった。
上級生に虐められてベソをかいていたチビに冷たいジュースを。俯いてのろのろとベビーカーを押していた若い女に甘いココアを。話し相手もなく、ベンチで彫像のようになっていた老人に暖かい緑茶を。
今にも死にそうな顔をしてフラついていた中年の男に、シェイクしたコーラを贈ったこともあった。トドメになるのではと見ていてひやひやしたが、コーラまみれになった男は急に笑い出したかと思うと、やがて吹っ切れたようにすっきりとした顔で歩いていった。
小さな笑顔に出会うたび、満足そうにありもしない顔を綻ばせるあんたに、俺は口を尖らせて言ったんだ。
「あんたは幸福の自動販売機なんかじゃねぇよ」
今、あんたがいたあの場所には、四角く跡が残った吹き曝しの舗装だけがある。
いつかこうなることは分かっていた。あんたがしていたのは、お節介以外の何物でもなくて。メーカーにしてみれば、あんたは故障品の以外の何物でもなくて。
ゆるゆると春の風が吹き始め、暖かい陽気が満ち始めた公園の隅に、あんたがいなくなったこの場所だけがあまりに寒々しい。
何も無くなってしまった。あんたは馬鹿みたいに誰かの幸せだけ願って、何も残さず消えてしまった。
いつもあんたと一緒に眺めていた景色を、独りでぼんやりと眺めていた俺の視界に、ふと、入ってきたのはスーツ姿の冴えない男。
近くにいた清掃員と二、三言葉を交わしていたかと思うと、男はじっとこちらを見つめて。
ゆっくりと一つ、礼をした。
あんたが存在していたこの場所に向かって、確かに。
ああ。あんたは幸福の自動販売機なんかじゃない。
羽根を震わせ、俺はチュン、と、小さくないた。
だってそうだろう。あんたは幸福を売ってなんかいやしなかった。あんたに名前をつけるなら、呼ぶべき名は、そう。
幸福自動贈呈機だったのだから。
Fin.
幸福自動販売機 秋待諷月 @akimachi_f
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