第13話 名前

 白猿王はひなと鬼無子の匂いを纏いながらあっという間に近づいて来て、銀狼が走り出してからすぐに出くわした。

 白猿王が樵小屋に向かったと気付く事無く、銀狼が魔猿達を一方的に殺していた森林の一角である。


 あたりの樹木や地面には戦いの名残がむざむざと刻まれている。

 まるで巨人の手の様に夜空へ広がっている太い枝には、真っ赤な腸の管がぶら下がり、胴と泣き別れになり苦痛をむざむざと刻んでいる魔猿の頭部、根元から骨ごめに断たれた四肢、頭頂から股間までを真っ二つに裂かれた死体がその下で、影に隠れるように転がっている。


 普段、温厚な銀狼の姿を知るひなや鬼無子からは想像もつかぬ無慈悲な所業である。

 それは、白猿王にとっても同じようで、足を止めて銀狼を待つ白猿王は、辺りに転がり、無様にぶら下がっている手下共の死骸をしげしげと見回している。

 妖哭山に産まれたのが間違いの様な性質の銀狼が、よもやここまで残忍な行いをして見せるとは。意外に思いながら、ますます銀狼が狼である事が惜しまれた。

 相手に恐怖を刻みこむ圧倒的な暴力と敵対する者に一切の容赦をせぬ非情な精神。なんと素晴らしいものを持っている事か。


「だというのに死にかけの侍を拾って助け、こんな人間の子供を養うとはなぁ。極端な奴よ。どうしてそんなに怒るのか、まったく理解できんな、銀色の」


 そう呟く白猿王の瞳の先には、闇の中からゆらりと姿を見せた銀狼がいた。隠さぬ妖気と怒気、憎悪を、向こう側が透けて見える薄衣のように纏っている。

 暢気な所のあるこの狼には似つかわしくない黒々とした感情が、大気をかき乱し氷雪を孕む吹雪の様に、白猿王へと吹きつけている。


 白猿王は物理的な感触を伴って全身を打つ暗黒の思念に、思わず左手で顔面を庇いながら、周囲の気温の低下を感じていた。

 妖魔としての本性を剥きだしにし、悪意を増した妖気を纏う銀狼は、幽冥の境で燃える人魂のような妖美さで輝いている。

 その妖しくも美しい獣の妖気が、周囲の大気を狂わせ、物理法則に些細な異常を生じさせて寒冷化現象を招いているのだ。白猿王の吐く息は霜が降りた様に白く濁っている。


 銀狼の負の感情の嵐もさることながら、辺り一帯を濃霧の如く飲み込んでいる妖気に、さしもの白猿王もかすかに気圧されている。

 ふうむ、と顎の辺りを左手で掻いていた。血はいまも滴って下顎から胸元までを赤く濡らしている。

 特に鬼無子の強い思念を受けた崩塵の霊気は、焼き鏝を当てられた様な苦痛をいまも白猿王に与えている。その程度の痛みなど、行動に何の支障もないが、煩わしさはある。


 多少、いや、大幅に銀狼の力と、死に損ないの筈の侍の執念を、読み誤ったと認めざるを得なかった。

 白猿王と対峙する銀狼は、白猿王の右手に視線を吸い寄せられた。ひなの腕くらい太い指には、ぐったりと脱力したひなの小さな体が握られている。白猿王の妖気に打たれて、ひなは気を失っている様だった。

 白猿王の手の中のひなはひどく簡単に壊れそうで、その価値を知らぬ暴漢が硝子細工をぞんざいに扱っている様に見える。


「白猿王」


 銀狼の声は穏やかであった。衰えぬ怒りの炎に反比例し、声は老いた父を労わる温厚な息子のようだった。溜め込んだ怒りを吐き出す瞬間を、じっと堪えているからこその穏やかな声なのだろう。


「森は自分達の居場所などとよくも大言を吐けたものだな。貴様の同族は、そら、残らず私に殺されたぞ」


 優しい声でなんと無惨な事を口にするのだろうか。しかし、それを聞いた白猿王は笑った。愉快な事を耳にした時の笑みである。


「くきき、そうだな、森はお前の世界でもあったようだなぁ。しかし、お前の目を晦まして侍に止めを刺して、童を攫う位は出来たぞ?

 いやいや、お前もようやく妖魔らしい所を見せたからなあ、この童がどうなっても構わぬと思っておるかもしれん。さて、どうだろうかなあ?」


 どうなっても構わぬかもしれぬ少女を、白猿王は高々と掲げる。それがどれほどの効果を生むか、十分に理解しているからこその行為である。白猿王の凶手にあるひなの姿を見て、銀狼は大きく動揺に揺れる。

 先ほどまで噴出していた妖気が、瞬く間もなくあっという間に霧散した。ひなを人質にした白猿王が何かの罠かと、思わず疑ったほどである。三角形の耳がぺたんと寝て、銀狼は狼面でもはっきりと分かるほど迷いを浮かべている。


 躊躇や迷いを白猿王に見せる事は悪手以外のなにものでもなかったが、そうと分かってなお銀狼は千々に乱れる心を抑える事が出来なかった。ましてや侍に止めを刺した――鬼無子を殺した、と白猿王は口にしている。

 ひなを託した、あの思い込みの激しい所があるが、気さくな侍が死んだ。

 囮になると死を覚悟した声で言おうとしたあの美貌の剣士を助ける為にも、自分は小屋の外に出て白猿王達と戦う事を決意したはずなのに。

 それなのに鬼無子は殺されてしまったのか、死んでしまったというのか。

 ならそれは、判断を誤った自分のせいではないか。自分が鬼無子を殺してしまったようなものではないか。


 もう二度と鬼無子のきっぷの良い笑い声を耳にする事はないということか。

少し遠慮がちに頬を赤に染めつつ、それでもしっかりとお代りを頼む姿を見る事はないと言う事か。

 自分と、ひなと、鬼無子と、笑いの絶えぬあの暖かで居心地の良い世界は、二度と元には戻らないと言う事か、


 そう思うと、銀狼は急に大地が崩れ去ってしまった様な、言葉では表し切れない喪失感に襲われる。

 彼にとって、それは初めて経験する途方もない恐怖を伴う感覚で、ひどく精神の水面を嵐の夜の様に荒らして、正常な判断ができない状態に追い込まれていた。

 そして、いままた白猿王の手の中で、ひなが命の危機に晒されている。

 鬼無子に続き、ひなまで自分が判断を誤って殺してしまったら?

 その考えは、白猿王が意図した以上の衝撃で銀狼の精神を揺さぶり、脅迫した方の白猿王が逆に戸惑うほどの狼狽となって表出したのである。


 苦悩する銀狼が歯の軋らせる音は、白猿王の耳にも届いた。

 白猿王はあまりの出来事に、大きく肩を震わせている。

 彼にはまったく理解できない銀狼の行動に、込み上げてくる嘲笑を抑えられぬのだ。もしや、とは思い取った念の為の策であったが、これほど効果を上げるとは。


「……く、ぐふ、ぐははは、ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃっ、き、貴様、本気で、くくくくっ。こんなちっぽけな人間の子供の為に、かかかかか、動けぬのか。

 何と言う事だ。何と言う馬鹿だ。何と言う阿呆だ。うははははははは、こ、このよう、な、奴だったとは。き、きききききき」


 白猿王の憚るもののない嘲りの笑いを、銀狼は何もできずに聞く他なかった。銀狼にとって幸いだったのは、白猿王の大哄笑を間近で浴びせられても、ひなが目を覚まさなかった事だ。

 眼を覚ましてしまったら、一途に銀狼を慕うこのちっぽけな少女は、自分が銀狼の枷になっている事を理解し、深く心を傷つけてしまうに違いない。

 だから、銀狼はひなが目を覚まさないでくれと願っていた。自分が殺される場面など見せたくはなかったから。


「まあ、そんな風に生まれついた己を呪うがよいさぁ、銀色の。さあ、お前達、殺されたからには殺し返すがよいぞぉおおお」


 お前達、とはまだ他の魔猿達が潜んでいたのかと考えた銀狼の周囲で、白っぽい薄靄のようなものが次々と立ち上りはじめる。

 ぐるぐると渦を巻いて一定の形に留まらぬかと思えば、それらは徐々に蠢きながら形を持ちはじめ、偽りの無い驚きに目を見張る銀狼の瞳の中で、息絶えた筈の魔猿共となった。


 その目からは尽き果てぬ怨念が流させる血の涙が滝となって流れ、口からは己らを殺した銀狼への呪いが無限に溢れている。かつて銀狼がひなを背に乗せて山の内側の森へ赴いた時、目にしたおぞましい光景の再現であった。

 しかし、銀狼達がいるのは山の外側だ。同じ現象が発生するには地理的・霊的な条件から起こり得ぬ筈であった。だからこその銀狼の驚きであった。ましてやあくまで怨念にすぎぬ筈の魔猿の死霊達が、確かな質感を持って銀狼の周囲を囲むとあっては。

 死の淵から再び姿を見せた魔猿の一匹の足元で、踏みしめられた枝がぱきっと音を立てて折れる。


「肉の体なのか?」


「くかかか、こやつらは死してなおわしの手足よ。こやつらの怨念とわしの妖気が混ざり合ってこのように蘇るのじゃ。わしが生きておる限りわしの兵が絶える事はない」


「ならば、なぜ他の猿族に敗れた? 兵が尽きぬのであれば貴様が破れる道理はない」


 二十三匹に及ぶ魔猿達の死霊とも生霊とも呼べる怨念達は、いまにも銀狼へと襲いかからんばかりに牙を剥き、青白い吐息を吐きながら牙を剥いている。

 自分達を惨たらしく殺した儀狼への恐怖はまるでなく、代わりに無限の恨みと憎悪で満身を満たし、白猿王の許しをひたすらに待っている。


「どこで知ったのやら……。そう、この術も完璧ではない。ゆえにこうして貴様の首を取りに来る羽目になったのよ。

 わしの妖気の届く範囲に留まるし、こやつらを冥府から呼び戻していられる時間にも限りがある。それにわし自身に術を施す事は出来ぬ」


 つまり、白猿王が死ねば、この術は解けると言う事だ。


「……」


「おっと、動くなよ? 時間に限りがあると言っても、夜が明けるまでは持つ」


 白猿王の言葉に、一か八か全力の疾走による一撃必殺を試みようと、かすかに四肢に力を込めた銀狼の動きを見逃さず、白猿王が銀狼にも分かる様にひなを握る右手に力を込める。

 白猿王にとってはほんのわずかな力であっても、ひなを握りつぶすには十分な圧力となる。

 たったそれだけの動作で、銀狼はもう動く事も出来ない。

 銀狼は苦し紛れに無意味と知りつつも、時間を稼ぐために話を続けた。


「いまさらになってなぜ私の命を狙う? 群れの雌どもを守り、子をなして死んだ分を補うべきであろう」


「それもそうだ。だが、お前さんを殺す事にはそれ以上の価値がある。強い妖魔の血肉はそれを食らったものの力を大幅に高める。

 特にお前さんや大狼の様に、純度の高い天地万物の気によって血肉を構成する妖魔は格別だ。徳を積んだ高僧や天孫の血肉と比べても遜色はない」


「私一匹を食った所でどうにかなるものではあるまい」


「そうかね? それにお前さんを食えば二匹分の血肉を食った事になる」


「?」


 二匹分とは、一体何を言っているのか見当のつかない銀狼の様子を、白猿公はとぼけていると判断したようだ。


「おとぼけでないよ。大狼を殺したのはお前さんだ。無論、大狼を食ったのだろう? 先程のわしの骨さえも凍らせる凄まじい妖気は、そうでもなければありえぬよ。

 大狼の奴は暴虐の限りを尽くしたので、蛇や狼、虎共もいつか首を落とし心臓を抉り出す機会を狙っておった。ついでにその血肉を食って力を高めるのをな。

 このわしのように、報復よりもそちらの方が本命だったかもしれん。みすみすお前さんに機会を掻っ攫われてしまったと知った時はぐずぐずとしていた己を嘆いたが、災い転じて福となす、大狼よりも手強いかと思ったお前さんがこの体たらくとは」


 銀狼が大狼を殺して食べたというのは白猿王の思い違いなのだが、銀狼はそれを言っても白猿王は信じないだろうと口を噤む。実際には銀狼に敗れた大狼は、銀狼の目の前で虹色の微細な光の粒子となって山に還ったのだ。


「さああ、お喋りはここまでだよう。お前さん、そろそろ死に時さね」

 

 白猿王が二度目の死刑宣告を行った。大きく振りかぶった左腕を、断頭台の刃の様に振り下ろし、控えていた魔猿達が一挙に踊り掛かる。咄嗟に襲い来る魔猿共の腕や牙を躱そうと、体を沈めた銀狼を白猿王の声と右手が止めた。

 正確には白猿王の手の中に囚われたひなの姿が。

 息を飲んで動く事の出来なくなった銀狼の体へ、喜々として怨念と妖気で形作られた青白い牙と爪を打ちこんだ。反射的に体に妖気を通して硬度を跳ね上げようとした銀狼へ、白猿王が実に楽しげに言った。いや、命令したと言うべきか。


「ああ、妖気も力も込めるな。自分の巣に戻った時の様に、この童と共に居る時の様に穏やかな気持ちになって、お前が殺した連中の好きにさせろよぅ」


 それはなんと無惨で非情な命令であったろうか。

 たっぷりと貯め込んだ怨念の放出先を見つけ、銀狼の生命を奪う事に喝采を挙げている怨霊達に身を委ねろとは。抵抗するどころか、自分の肉を貫き切り裂く牙と爪を黙って受け入れ、肉を咀嚼され、血を啜られ、骨を噛み砕かれても何もするなとは。

 ぎしりと噛み合わせた銀狼の牙の奥から、押し殺した苦鳴が零れた。


 振り下ろされた魔猿の腕が銀狼の背を打ち、鈍器が巨大な生の肉を打つくぐもった音が絶えず、ずぶりずぶりと広げられた五指が容赦なく銀狼の毛皮を貫いて体内の筋肉や臓腑を触れまわっている。

 それでいながら膝を曲げる事もなくしっかと肢を伸ばし、何匹もの魔猿を体に纏わりつかせながら立っているのは、銀狼ならではの精神力と耐久力といえた。


「ぐぅ……」


 さすかに銀狼といえども耐え難いと見え、砕けんばかりの力強さで噛み合わせた牙からは赤い血流が次々と溢れだし、純銀の毛に覆われた口元を真っ赤に染める。

 口の端には次々と血泡が生じては弾けて、元から血の臭いに満たされていた森の夜気に銀狼の血の匂いが加わった。


 きゃあきゃあ、と残忍極まりない喜びに満ちた叫び声を上げて銀狼の肉体を削っている怨霊達には目もくれず、この上ない芳香を放つ銀狼の血の匂いに、ひくひくと鼻を動かして思い切り深く肺を満たすまで吸い込んだ。

 何と心躍る匂いである事か。

 舌の上で踊らせれば、想像もつかぬコクと深みのある味わいが楽しめるに違いない。


 喉を通り胃の腑に染み渡って行く時は、紛れもない至福の瞬間となるだろう。

 牙と牙の間で引き裂き、潰れてゆく肉の歯応えはこれまで経験した事のないものに違いない。

 あの銀色の獣の毛一本、血一滴、肉一片残さず食い尽くせば、この体にどれだけの力が溢れる事だろう!


「く、くひひ、くひひひひひひひひっ、食うぞ、食うぞ、啜るぞ、しゃぶるぞ、食い尽くしてやるぞ!」


 性欲にも似た食欲に突き動かされて、白猿王は高らかに笑う。夜に活発的に行動する山の獣や、外側に存在する妖魔達、静寂を破られて怯えていた木々のみならず、猿の妖魔の長の悪魔的な狂笑に、妖哭山そのものが震えているかのよう。

 その狂ったような笑い声に、白猿王の手に握られていたひながようやく目を覚ました。かすかに瞼が震えはじめ、やがて稜線が白み始めるのに似て、瞼の奥の瞳が覗き始める。


 銀狼のものとは全く異なる邪悪な妖気に打たれたひなの意識が目を覚ましたのは、偶然を通り越して奇跡と言ってよかった。

 常人では到底耐えられぬほとんど瘴気といってよい邪悪な気配だ。白猿王の気配の欠片にでも触れれば瞬く間に細胞が衰弱し、その場で昏倒して二度と醒めぬ眠りの世界の住人となってしまう。


 銀狼と四六時中行動を共にしていた事で、妖気そのものに対する耐性ができていたのかもしれない。

 熟睡の状態から目を覚ます気だるさとは違い、ひどい頭痛と耳の中で鐘を打ち鳴らされている様な耳鳴りと共に、ひなは開いた目に銀狼の姿を映した。ひながこの世で最も美しいと心から感心驚嘆した銀の獣に、青白く仄光る魔猿共が食らいついている。

 銀と青白いものとの間で滴っている赤いもの何か、理解したひなは喉の奥で小さな悲鳴を上げた。

 血、血だ。血を、銀狼様が流している。

 すぐにでも駆け寄って、銀狼様の体に拳を叩きつけ、牙を突き立て、爪で引き裂いている猿の妖魔達を引き剥がして助けなければ。


 実際には、ひなの百倍も何百倍もの腕力を持つ魔猿達相手では、何もできなかっただろう。それを聡明なひなも理解はしているだろう。だが、出来る出来ないの問題ではなく、ひなはそうしなければならないという衝動に突き動かされていた。

 銀狼様を助けたい。銀狼様に救ってもらった命と心、銀狼様を助けられるのならいくらでも捧げて構わない。

 だが痛切な願いに反し、ひなは何もできなかった。駆け寄ろうと動かした体は鋼の拘束をされて、わずかなりとも銀狼に近づく事は出来なかった。


「おや、目を覚ましたか」


 どろりと耳の奥に粘っこく残る様な悪意に満ち満ちた声に、ひなが振りかえる。そう遠くない所に、初めて目にする白く巨大な猿が、確かに笑みと分かる表情でひなをしげしげと見つめている。

 鬼無子が決死の思いで斬り伏せていた黒い大猿達より一回りも二回りも大きく、はるかに豊かな知性を持っている事が分かる。その知性が、決して理知的であるとか、道徳を解しているとか、善性へ結びついているわけではない事も。


「見てみい。銀色のが血に塗れておる。月光が毛皮に変わった様に眩いあやつの体が、自分の体の中を滔々と流れる血で濡らしておるぞい。

 くちゃくちゃと音が聞こえるな? ごぶごぶと飲む音が聞こえるな? ぶちぶちと千切れる音が聞こえるな?

 奴の肉を咀嚼する音、奴の血潮を飲む音、奴の皮を毛を引き千切る音よ。おうおう、泣いておるの、悲しんでおるの、怒っておるの。ぐげげげげげげ」


 ひなの目には白猿王が言う様に悲しみと怒りが強く輝きを放ち、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちている。小さな口を囲む肉造りの薄い唇はきつく結ばれて、この少女のどこにあるのかと驚く力強さで、白猿王の瞳を射抜くように見つめていた。


「ぐぶ、ぐぶふふふふ、良い目をした童じゃのう。そういう目をした子供は美味いと相場が決まっておるでのい。わしの腹の中で、銀色のと会うがよかろうて。わしの慈悲という奴だぁ」


「白猿王……」


「銀狼様!」


「おや?」


 全身の肉を毟られ食われつつも、震え一つない銀狼の声に、ひなは胸の張り裂けそうな悲しい声を、白猿王はまだ死なんのかと意外そうな声を出す。


「私を食いたいと言うのなら好きにしろ。しかし、ひなには手を出すな。でなくば、私が死した後、我が魂が如何なる呪いを貴様に与えるかこの私にも分からぬ。死霊を冥府より招く貴様なら、それがどれほど恐ろしい事か分かるであろうな?」


 銀狼の言葉に、それまで余裕をたっぷりと全身に満たしていた白猿王の顔が、たちまちの内に固まる。銀狼ほどの妖魔の魂が肉の殻という制約から解き放たれ、自由になって牙を剥いた時、白猿王の一族は今度こそ根絶やしになるだろう。

 妖哭山の持つ妖気を食らい、呪い殺した妖魔達の魂を食らい、際限なく憎悪と怨嗟と断末魔の叫びを飲み込んで、銀狼の魂は大狼以上の暴虐をこの山にもたらすだろう。


 白猿王は、一瞬前まで圧倒的な優位に立っていた筈の自分の立場が、崖の上にかかった蜘蛛の糸の上に立っている様な危ういものに変わった事に気付き、牙を軋らせる。

 人質は、札の切り方次第で己の首を絞める鬼札だ。

 銀狼の言葉は人質と言う手段の欠点を痛く突いていた。


「いいよいいよ、お前さんが黙って食われて、山に還るなら、この童は生かしておいてやろう。もっとも、その後どうなるかまでは知った事ではないぞ」


「ひなが無事なら、それでよい」


 白猿王は、銀狼の顔に浮かんだものを心底理解できぬと首を捻った。

 銀狼は笑っていた。死への恐怖からくる自暴自棄の為ではない。体も口も血に濡れた狼は、なによりも大切に思う少女に、最後は笑った顔を見ていて欲しかったのかもしれない。


「っ」


 自分に微笑みかける銀狼の姿に、ぼろぼろと涙を流して、ひなは自分の体を握りしめる白猿王の指へ歯を立てた。

 白猿王にとっては蚊に刺されたほどの痛痒も感じぬささやかな、それこそ痛みにもならぬ刺激であったが、かすかな苛立ちを持ってひなへ注意を向けた。


 この時、白猿王の注意は銀狼から離れた。まさに千慮の一失。

 故に銀狼が白猿王の背後に何かを見つけ、白猿王の注意が逸れた一瞬に四肢の筋肉を爆発させてひと蹴りで最高速度へと達し、体中に魔猿の怨霊を食らい付かせたまま、襲い掛かってくるのに反応するのが遅れた。


「ぐるぅああああっ!!!!!」


 魔猿の音量の群れに食らい付かれて青白い小山と化した様な銀狼は、それでも疾風の速度を維持し、白猿王の頸動脈を狙って牙を唸らせる。

 完全に不意を突かれたとはいえ、流石に妖魔の一族の長とあって白猿王は反応し、銀狼の牙を咄嗟に振り上げた左腕で受けた。


 丸太の様な白猿王の左腕を、銀狼の顎は霞が形を成した者の様に、あっさりと噛み切る。

 銀狼は噛み切った白猿王の左腕を吐き捨てる。どぼっという、くぐもった重い音と共に黒い噴水が、白猿王の左腕の断面から溢れる。大量の血を流しつつも、怒りに顔を赤黒く染めた白猿王は、怒りに任せてひなを握りしめている右腕に力を込めた。


「この童がどうなってもよいのかあっ!?」


 白猿王の指に歯を立てていたひなは、全身の骨をぎしりと軋らせる圧力に、肺に溜めた息を全て吐き出して、声なき悲鳴を上げた。

 銀狼はたじろぐかと思われたが、頭を下方に傾げ、跳躍の姿勢を取った。ひなを見捨てるのか、銀狼よ!


「きい、貴様ぁ!」


 あまりに脆く儚い生命に過ぎないひなが、白猿王の手の中でもの言わぬ小さな肉の塊に変わるその刹那、白猿王の背後から飛来した流星が、その右肘を貫き白い光の球が生じたと見るや、ひなを掴んだ右腕が宙を舞って地面に落ちる。

 白猿王の右腕と共に地面に落ちたのは、一振りの刀であった。

 三尺二寸三寸の刀身にびしりと文字が刻みこまれたその刀は、間違いなく崩塵。刀身に宿る霊力によって青い炎に燃えているように崩塵は輝いている。この霊力によって、貫いた白猿王の右肘を吹き飛ばしたのだ。


 驚きに身を強張らせる白猿王のはるか遠い背後には、一人の女剣士の姿があった。

 鬼無子だ。銀狼が白猿王の背後に見つけたのは、闇の中を疾駆する鬼無子の姿だったのだ。

 しかし、これが鬼無子か。

 死肉を漁る禿鷹の様に群がってきた魔猿達との戦いで負ったのか、左頬の肉は大きく抉られ、肩にも腹にも太ももにも、無数の傷跡があり、衣服はぼろぼろで全身が赤く濡れている。


 鬼無子自身が流した血と魔猿達の返り血であろう。まるで血の海から産まれたといわんばかりに髪の毛から肢の爪先から、崩塵を投じた右手の指先に至るまで、全身から血の滴が滴り落ちている。

 なにより、その瞳だ。眠りをもたらす安らぎの夜の色ではなく、全身を濡らしている血と同じ色の光を放っている。瞳孔は針の先のように細まり、剥き出しにされた並びの良い歯列は一本残らず、杭の様に凶悪に尖った牙へと変わっている。


 噛み合わせた牙からは、うううう、と獣の唸りよりも低く凶悪な声が漏れだしている。

 数多の妖魔が蠢く妖哭山に足を踏み入れ、白猿王の一撃によって死に瀕した事が、鬼無子の中に眠っていた妖魔の血を目覚めさせたと言う事か。

 目覚めた妖魔の力を使い、群がる魔猿共を皆殺しにし、白猿王と銀狼の闘争の気配を察知してここまで来たのだろう。

 銀狼とひなの姿を認めた鬼無子の瞳から、地獄の底で罪人を燃やす炎の様な凶光が、ふっと退いて、本来の闇色の光が戻った。


「銀狼殿っ!」


 凛烈な鬼無子の声にはっと銀狼を振り返った白猿王は、自分の首を貫く冷たい感触に気づいた。白猿王の右肘が消失するのと同時に、その首を目掛けて銀狼は跳躍していた。


「お、おごぁああ、ぐが、ごぉぼあっ」


 ぞぶ。

 首の骨ごとまとめて、銀狼が白猿王の首を噛み切った音である。血流の噴出に圧されて、白猿王の首は宙を飛んで、彼方の茂みに落ちた。白猿王の首なしの胴体が仰向けに倒れるのと同時に、銀狼もまた大地にどっと落下した。

 白猿王の絶命を牙応えから確信し、もはや四肢を動かす体力も気力も失ったのか、横倒れにぐったりとした姿勢から、ぴくりとも動かない。白猿王の死によって術が解け、現界に舞い戻った魔猿の怨霊達は消滅している。


 鬼無子は崩塵を投じ、銀狼に声をかけた事で精根尽き果てて倒れていた。

 流星と化した崩塵によって落ちた白猿王の手から、ひなはなんとか逃れて、銀狼に駆け寄ろうとしたが、死してなおも白猿王の指はしっかりとひなの体を捕まえて放す様子が無い。

 鬼無子が崩塵を投じたのは本当に際どい間合いで、ひなは気付いていないが、体には白猿王の指の跡が青黒い痣になっている。


「銀狼様、銀狼様」


 ひなの声は銀狼の耳に届かないのか、目を閉じた銀狼はぴくりとも動かない。自身と白猿王の首から溢れた血に濡れた顔は、どこか安らかであった。ひなを守れたという誇りが、そうさせたのだろう。

 銀狼の名を呼ぶひなの声が、静寂を取り戻した山の夜に、いつまでも、いつまでも木霊した。

 月は変わらぬ冷たく美しい光で、少女と狼を照らしている。


*


 かんかんかん、と木槌が釘を打つ音が朝方から続いている。

 分厚い筋肉の鎧をまとい、獣の毛皮を着た浅黒い顔の男達が、休むことなく動き回り、魔猿に破壊された樵小屋の修復に勤しんでいる。

 男達は山の民であった。そして男達をここへ案内したのは、凛であった。

 いつもと同じ布で髪を纏め、珍しく小豆色の小袖姿の凛は、切り株の上に腰を落ち着けている鬼無子を振り返った。


 自前の着物がずたぼろになってしまったので、またひなの着物を借りて着用している。必然的に短くなる裾からこぼれる手足には、薬液を染み込ませた薬布が何重にも巻かれている。

 鉄鞘に収めた崩塵を左肩に預け、てきぱきと動く山の民達をぼんやりと眺めている。最初は手伝おうとしたのだが、傷が完治には程遠い状態であったため、見物に徹しているのだ。


「凛殿、傷の手当てといい小屋の修繕といい、いや、かたじけない。頭が下がります」


 言葉通りに頭を下げようとした鬼無子だが、全身に走った電流の様な痛みに、びしっと体が固まった。目尻に涙さえ浮かべている鬼無子に、凛は苦笑した。このお侍、どうにも憎めない所があるな、とその笑みが語っている。


「いいさ。あの猿共が闊歩してからあたしらも迷惑してたんだ。それを片づけてくれたってんだから、これ位はね。しかし驚いたよ、祈祷師の爺様の言う通りにしたら、あんたらと猿共の死体が森の中に転がっているんだもの」


 白猿王一派との戦いで危うく死にかけた鬼無子を見つけ、傷の手当てをし、命を救ってくれたのは、凛をはじめとした煉鉄衆の者達だった。


「某が未熟なせいで、銀狼殿とひなには迷惑を掛けてしまった」


「迷惑ねえ、銀狼はそうは考えてなさそうだけどねえ」


 呆れる様な声で凛は呟き、木陰で寝転がっている白い塊を見た。

 鬼無子同様、薬布で木乃伊の様にぐるぐる巻きにされた銀狼である。

 力無く横倒れになり、時折、


「あ、骨が繋がったかなぁ」


 などと微妙に甘ったるい声で、自分の怪我の治り具合を実況中継していた。銀狼なりに構って欲しくて、甘えているつもりらしい。

 銀狼は頭をひなの膝の上に預け、撫でてもらい、喉の辺りをさすってもらうと機嫌よくぐるぐると唸った。

 大好きな飼い主に大きくなっても甘えたがる飼い犬の様な姿である。自身の命を捨ててまでひなを救おうとした凛々しさは、欠片もない。

 銀狼にとっては至福の瞬間であろう。

 銀狼の頬を愛しげに撫でていたひなが、ふと口を開いた。銀狼の耳がぴくぴく、ゆっくり動く。耳まで幸せに蕩けて動きが鈍っている。


「銀狼様」


「何だね」


 声まで蕩けていた。その声を聞いた凛は、おええ、と舌を出し、鬼無子は笑いを

堪え切れずにぷっと笑い声が漏れた。


「私、銀狼様のお名前を考えたんです」


「そうか」


 むくりと銀狼は頭を起こした。青い目は期待でらんらんと輝いている。根が単純だから、喜びの表現に遠慮がない。こんな目で見られたら、どんな面倒くさがりでも期待に応えたくなるだろう。


「鬼無子様が言われたように、銀狼様のお姿は、時折、おひさまの光に輝く雪原の様に眩くお美しいです。だから、そこから名前を取りました」


「うん、うん」


 しきりに頷く銀狼の尻尾は、千切れんばかりに左右に振られている。そうされると、まるで自分がもったいぶって焦らしているようで、ひなはちょっと困った様に笑った。銀狼を見つめる眼差しは、無垢な赤子を見る様に優しい。


「雪の様な輝きで、雪輝ゆき。どうでしょうか」


「雪の様な輝きか。ふふ、いいな。綺麗な名前だ。うん、気に入った」


 銀狼――雪輝は名前をもらったお礼に、ひなの頬をぺろりと舐めて、頬を寄せた。今のところ、雪輝が示す最大の愛情表現だ。

 ひなも、自分から雪輝の頬を抱きしめて、口づける様に頬を寄せ合った。

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生贄少女とモフモフ狼 永島 ひろあき @heidesu2020

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