第12話 魔猿襲来
銀狼が胸に抱いた予感を肯定するかのように、運命のうねりは数日の休息しか許さなかった。
天外から連絡が来る事もなくさらに数日が過ぎ、鬼無子の腕も幾分動くようになってきたある日の事であった。
夕餉を済ませて空になった鍋や椀を片付けようと、洗い場へ向かうひなを鋭く小さな鬼無子の声が止める。
「ひな、某の近くへ」
それまで朗らかに微笑していた鬼無子の顔は、今や生と死の境が極めて曖昧な、戦場に身を置く者のそれへと変わっていた。柔和な光に輝いていた黒瞳は、獲物を狙い定めた猛禽類のそれへと変わっている。
かろうじて動く左手で鉄鞘を掴み、崩塵を抜いている。燃える炎の揺らめきを受けて、微細な文字を彫り込まれた退魔の太刀は妖しく輝いていた。
鬼無子が気付いたものはすでに銀狼も気付いていて、軽く身を起こし、ざわざわと背筋の辺りの毛が波打っている。
耳は潜められた獣の吐息を聞きとり、鼻は隠せぬ臭気を嗅ぎとっていた。
狼と剣士が臨戦態勢に入っている事に気づいたひなは、質問一つせずに鬼無子の傍へ。
途中、銀狼の方へ視線をやって、鬼無子の傍で良いかと言葉にせずに尋ねる。銀狼は頷き、鬼無子へ目配せをした。
「猿だ」
「数は?」
「十七。大した数だが、これだけとは限らん。ひなは任せる」
「某が狙いなら……」
自分が囮になる、と鬼無子が告げるのを、銀狼が遮った。鬼無子に向けた狼面は笑んでいる。もし銀狼が人間だったなら、男も女も、どんな辛い状況にあったとしても救われる様な笑みだったろう。
「怪我人が余計な事を考えるな。ひな、鬼無子の言う事をしっかり聞きなさい。では」
「銀狼様、その、行ってらっしゃい」
「行ってきます、でいいのかな、この場合」
この土壇場での穏やかなやり取りに、つられて鬼無子も微笑んだ。
「ええ。それであっておりますよ」
「そうか。では、猿共の言い分でも聞いてくるかな」
おそらくはこちらを殺すつもりであろう猿達の待つ場へ向かうというのに、銀狼は少し散歩にでも行くような気楽な調子であった。
樵小屋から一歩外に足を踏み出すと、あらゆる方向から雪崩の様な悪意と妖気と殺意を混ぜ合わせた不可視の圧力が襲いかかってきた。
いまは銀狼とひなの住まいとなっている小屋は、銀狼が居座る事で銀狼の妖気が沁み込み、外部より向けられる悪意から居住者を守る機能を得ていた。目に見えぬ朝霧のごとく小屋を守る自身の妖気を確認して、銀狼はまっすぐ前の闇を見つめる。
月明かりにぼんやりと浮かぶ木々の幹の間に、あるいは枝の上に無数の光点が瞬いている。ぐるりと小屋を囲む光点からは、炎に変わらぬのが不思議なほど熱を帯びた殺意が向けられている。
大猿、いや、猿の妖魔である以上、魔猿とでも形容すべきか。
魔猿達は姿を見せた銀狼に対して轟々と威嚇の唸り声を上げ、牙を剥く。爪同様に黄色く薄汚れた牙だ。いずれも鋭く研ぎ澄まされており、肉を引き裂き、骨を噛み砕く為の牙である。
「白猿王はいるか。居ないのであれば代わりの者がいよう。いかなる用件で私の塒を取り囲む?」
猿達さえいなければ静かな夜に相応しい冷たい声に、一匹の魔猿が応じた。月光がその姿を露わにすると、周囲のどよもす唸り声がぴたりと絶える。唐突な轟音の消失は、聴力を失ったのかと錯覚しそうだ。
長い影を地面に這わすのは、他の魔猿に比べ一回り大きな体に、長年月の内に培った経験と知識の光に輝く瞳、雪の様に真白く変わった毛、そして銀狼の体を打つ静謐な気迫を持った老齢の猿であった。
その容貌からして、鬼無子に痛打を浴びせ退けた白猿王に相違ない。
足よりも長い腕を地面に着きながら、数歩前に出て銀狼と対峙する。
純白の魔猿から立ち上る妖気は銀狼の感覚を持ってしてもほとんど感じられぬほど小さい。火炎の如く生じる妖気を抑えられぬ周囲の若輩共とは、闘争に関わった年月の桁が違う。
妖魔の本能として在る強い闘争本能、殺戮衝動さえ表面に表出せぬよう制御しているのだ。
内に秘めた敵意を隠し通し、白猿王はいま好々爺然とした顔をしている。猿族で無くとも、この老いた猿は悪いものではないと、強張った体を弛緩させるだろう。大した役者と言えた。
「どうしてそんなに怖い顔をしているのだね、狼さん。わしはお前さんに酷い事をしに来たのではないんだよ。だから、おっかない顔は止めておくれな」
縁側で孫を膝の上に乗せてあやす祖父の様な優しい声だ。大泣きしている赤子も、こんな声で宥められたら、すぐに笑顔に変わるだろう。
「阿呆、その顔に騙されてのこのこ近づいた私に襲い掛かってきた時の事は忘れておらんぞ」
まだ銀狼が山の内側の森や平原で暮らしていた頃、初めて遭遇した白猿王のこの笑顔に騙されて、危うく骨まで残さず食われそうになった事があった。
いかんせん根が素直で正直、他者を疑い、騙すという事を知らぬ狼であるから、白猿王くらい真意を隠せる手合いには簡単に騙される。
流石に一度騙された相手である事と、周囲の魔猿共の殺気から、銀狼も最初から敵意を滲ませている。
「ほほ、阿呆とはひどい。昔はもっと優しい顔をしていたのにねえ」
「お前だけ嘘が上手くても、周囲の猿共がこれでは芝居の意味があるまい」
銀狼の指摘に、白猿王は困った様に顎を掻いた。猿らしい愛嬌のある仕草ではあったが、銀狼の警戒はわずかも緩まない。かつて白猿王は笑顔を浮かべたまま、銀狼へその丸太のように太い腕を振るったのだ。
「猿芝居とはまさにこれの事か。内側の妖魔であるお前らがどうして外にまで足を伸ばしているのかは知らん。だが、私の眼の届く範囲で無用な殺生は許さんぞ。何もせぬのなら、私も悪戯に牙を剥く事はせぬが」
「ふほほほ、ひひ、お前さん、口が上手くなったねえ。言葉もずいぶん知ったようだ。きき、けどねえ、わしらはお前さんに用があるのだよ。ちょっと困った事になってしまってねえ。その困った事をどうにかする為にはお前さんが頼りなのさ」
「私が?」
「そうだよ。だから、用があるのはお前さんさ」
「なら、話は簡単だな。そら、周りの猿共が待ちかねているぞ。私の肉が食いたいとな。お前の目も言っている。用があるのは私ではなく私の首だとな」
「や~れやれ、こいつらもお前さんと同じ位に知恵があれば、わしの苦労も減るんだけどねえ。お前さんがわしの一族として産まれてくれていればなあ」
心の底から同胞の無能を嘆き、銀狼が狼として誕生した事を残念がる白猿王の指が、すっと銀狼を指す。月の美しい夜に相応しい静かな死刑宣告であった。
銀狼にとっては、これはこれで好都合だ。自分が目的なら、小屋の中のひなや鬼無子に危険が及ぶ可能性が低くなる。
周囲の魔猿達の咆哮が一斉に木々を震わせ、銀狼の体を打ち、その無数に重なり合った咆哮を、銀狼の長く尾を引く遠吠えが打ち消した。
しゃなりと美しい体を仰け反る様にした銀狼の口先が細まり、
うおぉぉ――ん
うぉおお―――――んん、うぉうおお―――――ん
と水晶と水晶を擦り合せた様に透き通り、世界の果てまで届くかの如く遠く遠く、その声は乱された山の静寂を慰めるように響き渡る。
ただ鈴を鳴らす為だけに生まれた天上世界の楽士が、慎ましく鳴らしたこの世ならぬ鈴の音を思わせる美しい声に、殺気を黒い血に変えて全身に満たしていた魔猿達は、一瞬、目の前の狼へ襲い掛かる事を忘れた。
白猿王さえ戦う事を忘我した空間で、顔を下ろした銀狼の瞳孔が針の先のように細くなる。
銀狼の巨躯から目に見えぬ妖気が津波のように噴き出て、その場にいた全ての魔猿達を飲み込む。
ゆら、と夏の陽炎の如く白銀の獣の体が揺らいだ――と見えた瞬間、白猿王の目の前に銀狼の姿があり、狼の青い目には初めて目にする凶悪な光が瞬いていた。
「ひょほっ」
がちん、と銀狼の牙は大きな音を立てる。間一髪、後ろに飛んだ白猿王の喉元で噛み合った真珠色の牙は火花を散らし、銀色の風に遅まきながら気づいた他の魔猿達がようやくに動く。
闇の中で蠢く影達が、銀狼へと殺到する。それは己より美しいものへの憎悪に駆られ、その存在をこの世から隠蔽しようとしているかの様な勢いであった。
天地からわずかに時間をずらしつつ襲い来る魔猿達の間を、銀狼の体は一陣の風となって走った。どんな生き物にも捕まえられぬと見える、まさしく疾風そのものの動き。
月を遮るもののない夜空に黒い血潮が盛大に噴き、丸みを帯びた四角い物体が、喜劇のようにくるくる回りながら宙を舞う。物体が旋回する度に黒い雨が降りそそいた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
魔猿の首である。
首を失った逞しい体が連続して音を立てて地面に崩れ落ちる。仲間の首が宙を舞った事に意識を奪われた魔猿達は、自分達が敵にした者の恐ろしさにようやく気づき、隠し切れぬ動揺と恐怖が体を凍らせた。
魔猿の死骸の真ん中で、銀狼は白猿王に問うた。殺すと決めた相手に対して、あまりに優しい声であった。祖父を思いやる孫にこそ相応しい声だろう。
善の性質を持って生じたとはいえ、やはり銀狼もまた妖魔なのだ。ひとたび牙を剥けば、そこには他の生命を奪う事に僅かな躊躇もない殺戮者の姿がある。
「年経た知恵ある猿よ。その生命には敬意を表しよう。そして生命の終わりには哀悼の意を」
「きゃきゃ、ようやく本気になったな。そうでなくては殺し甲斐がない。森はわしらの場所じゃ。狼よ、それを教えてやろうぞ」
きききき、と耳障りな声を上げて白猿王の白い姿が背後の闇に溶けて行く。長の声に従って、他の魔猿達もまた毛皮と同じ色の世界へと向かって動き始める。
折り重なる木々が落とす闇と影は、優しく冷たい月の光をもってしても完全に払拭する事は叶わず、猿達は漆黒の世界へと帰ってゆく。
森の中から感じられる気配は最初の時より多い。伏せていた猿達が合流したのだろう。銀狼は迷わず地を蹴って追い始めた。
小屋から離れ、敵の狙いが自分だけに絞られるのは好ましい展開だ。
ざざざざ、と魔猿が飛び移り多くの葉が散っている。銀狼の目は、正確に森の中を飛び回る魔猿の姿を追っていたが、白猿王の姿だけはすでに映ってはいなかった。
引き連れていた魔猿共が巧みに白猿王の姿を隠し続け、気づけば折り重なる木々の中に消えていたのだ。
一番厄介な敵を見逃した事に、銀狼は牙をぎりぎりと噛み合わせて軋らせる。人の腕ほどもある木の根とぼうぼうと生い茂る草だらけの大地を駆け、銀狼は軽く跳躍して近くの木の枝に飛び移る。
風と遊んでいるように軽やかな跳躍は、着地点で大きく乱れた。銀狼が踏みしめた枝が着地と同時に落ちたからだ。ささいな重量が加わるだけで落ちるように切れ目が入っていたのだ。足場を失った銀狼目掛けて細長い影が殺到する。
生木を割いてつくったひどく原始的な木の槍だ。この手の罠は凛との戦いで慣れてはいたが、猿達が使うとは意外であった。
銀狼は落ちた木の枝を蹴ってその場を跳躍し、自分を貫くはずだった木の槍のことごとくを躱した。銀狼の視界の端に映った木の槍の鋭い切り口が、薄紫色に濡れている。
妖哭山特有の毒草や死の花から取った猛毒に違いない。全身麻痺に陥るかすぐさま死ぬかの二つだろう、と銀狼は見当をつけた。
地に降りた銀狼へ唸りを上げていくつかの飛翔物が襲いかかった。同じように毒を塗った石つぶてや木の枝である。
重い音を立てて地面に突き刺さるも、それらはすべて銀狼の残していった虚影を貫いていた。地を走りながら一本枝を折り、それを振るって前方から飛翔してくる毒槍を打ち落とす。毒に触れた木の葉がたちまちの内に萎れて腐れ落ちる。銀狼の予想を上回る毒の強さだ。
口に加えていた枝を捨てて、銀狼は魔猿の一匹が飛び移った木の幹を一気に駆け上がった。森に無数の罠が仕掛けられていても、それを知る魔猿達が飛び移る木にまでは仕掛けられていない事を看破したのだ。
一息つくよりも早く巨木を駆けのぼった銀狼は、もっとも近い魔猿へと飛びかかった。その背には見えぬが確かに力強く羽ばたく翼があるに違いない飛翔であった。
森の闇にぎゅお、と醜い声と濡れたものがぶちまけられる音が連続する。
脳天を割られた魔猿が二匹、醜い苦悶の表情で落下し、臓物と黒血で構成された花を大地に咲かせる。魔性の猿達が全て命の花を散らすのが先か、銀狼がその銀の毛並みを自らの血の色に染めるのが先か。夜の森の死闘は、始まったばかりであった。
*
遠ざかってゆく魔猿達の気配に、鬼無子は小さく息を吐く。左腕が満足に使えぬ状況では、自分一人でも魔猿達の襲撃を凌ぐのは難しい。ましてや無力なひなを守りながらとあっては、これはもう死は確定事項という他ない。
魔猿達を一手に引き受けた銀狼の安否が気になる。
銀狼殿は無事だろうか、そう思わずにはいられなかった。
背に庇ったひなのぬくもりと右手に握る崩塵の確かな存在感が、鬼無子の身を強張らせる緊張を和らげる。
「鬼無子さん、銀狼様、無事に帰ってきますよね」
「大丈夫、銀狼殿なら何でもない顔をして戻られますよ。……静かに」
消えた筈の魔猿達の気配が一つ二つとまた小屋の周囲を囲み始めている。
銀狼がやられた、と考えるには、魔猿達が戻ってくるのが早過ぎる。風貌に似合わず温厚な性格の銀狼であるが、聞かされた素性や目を覚ました時に目にした身のこなし、普段は抑制されている妖気の強さを考えれば、如何に猿共の数が多くても、そうやすやすとはやられまい。
だからこそ、囮になると言う自分を庇って、外に出る銀狼を止めなかったのだ。
囮になったのは、銀狼だけではなく魔猿達の方も同じと言う事か。
鬼無子はふっと息を吐いて火を消した。樵小屋の中に暗闇が落ちる。正面から戸を開けては来ないだろうと思うが、鬼無子の視線は正面の戸に、意識は四方に伸ばされていた。
幼い頃から視線を正面に向けつつほとんど後方までを同時に視界に収める特殊な目視法を学んだ成果で、鬼無子には背後のひなの顔色も見えていた。
がたっと音を立てて戸が開き、黒い影の様な魔猿の顔が覗く。
「……正面から来たか」
こけかけるのを堪えて、鬼無子は丹田に意識を集中する。丹田より生じ、増幅された気が、熱と共に徐々に五体へと広がってゆく。
背にひなを庇う以上、派手には動けない鬼無子は、正面の魔猿の一挙一動、呼吸さえも逃すまいと神経を尖らせる。
暗闇の中で魔猿の大きな影が動いた。
鬼無子の背後から、ぶち破った樵小屋の壁の破片と共に。
正面から堂々と戸を開いて入ってきた魔猿は囮という事だろう。
自らの背後に迫る魔猿に、鬼無子は気付いているのかいないのか。
闇夜の中でも輝く一刀は、横一文字に走り、魔猿の腰から上を斬り飛ばした。
かっと小気味よい音を立てて刃が骨を断つ音がひとつ。肉を裂く水っぽい音ではない。肉の奥にある骨を断つ音だ。
腰を横断した白線はたちまち朱の色に変わり、たちまちのうちにどっと血が噴き出す。
背のひなを支点にぐるりと回転した鬼無子が、浴びせた鋭い一刀の成果である。襲い掛かった時の勢いを乗せて、斬り飛ばされた魔猿の上半身が、どんと音を立てて天井にぶち当たり、ばしゃばしゃと血が床を叩く。
鬼無子はぷん、と香る血の臭いにかすかに眼を細め、輪切りにした下半身を蹴った。半分だけとは言え魔猿の重量は細身の鬼無子とそう変わるまい。
それを無造作な一蹴りで破った壁の向こう側へと大きく蹴り飛ばす脚力、大根でも斬るかの様に魔猿の巨躯を斬る腕力、見た目からは想像もつかぬ剛力の主であった。
「きゅおあああ!」
仲間を殺された怒りを露わに飛び掛かってくる魔猿を、鬼無子は振り返らなかった。見る見るうちに、瞳の中で大きくなる魔猿の姿にひなは小さな体の内側を恐怖で塗り潰し、思わず目を瞑る。
大きく広げられた魔猿の両腕が弧を描きなら無防備な鬼無子の背へ。魔猿の腕が歪な満月を描くその真ん中を、一筋の銀光が貫いた。
左脇を通して背後の魔猿めがけて突いた崩塵の刀身である。鬼無子の右腕の筋肉が一瞬ぐおっと膨らみ、たっぷりと空気を貯めた肺腑から裂帛の気合いが迸る。
「ぬああああっ!」
鬼無子は魔猿の眉間を崩塵の刀身で貫いたまま大きく振りかぶり、壁の破れた所から侵入しようとしていた三匹目の頭を目掛けて叩きつける。
頭蓋骨ごと脳を串刺しにされ、さらにその脳を崩塵の霊気によってぐずぐずに破壊された魔猿は即死し、その魔猿を叩きつけられた三匹目も、同胞の頭蓋に頭を割られ、どれほどの衝撃が伝わったものか、丸い目玉が二つ、神経線維を千切りながらぽん、と間抜けな音を立てて飛び出る。
鼻や耳、口から黒々とした血が流れている姿は、痛みを感じる間もなく死んだことを証明している。
耳を打つ凄まじい悲鳴と奇声に、ひなは固く瞼を閉じる。空気には血の香りが漂い、小屋の中はひどく荒れた有様だ。つい先程まで、二人と一匹が談笑していた安楽の場所ではなくなっていた。
あっという間に三匹の仲間が殺された事に怒ったか、あるいは焦りを募らせたのか、魔猿達の妖気が帯びる熱が一気に熱量を増す。
敏感にそれを察知した鬼無子の肌には、大粒の汗の滴が浮き上がりはじめる。小屋が壊された事で沁み込んだ銀狼の妖気が霧散し、魔猿達の妖気と殺気が容赦なく鬼無子とひなの心身を打つ。
いや、そればかりかぐらぐらと樵小屋が揺れ始め、ぱらぱらと天井から木屑が落ちてくる。
「ここを壊す気かっ」
魔猿達の怪力は身に染みて理解している。老いた樵が残していった小屋は、しっかりとした造りではあるが、この世の闇から生じた魔性の猿達に数で来られては、あっという間に壊されてしまう。
このまま小屋ごと潰されるのを待つか、外に出て魔猿達と斬り結ぶか。
自分だけなら小屋が潰れても身を庇う事は出来るし、外に出る選択肢を選ぶのも悪くはない。しかし、左腕は満足に動かず、守らねばならぬ少女もいる。鬼無子は大きく選択肢と動きを拘束されていた。
わずかな迷いを抱く時間は無く、鬼無子は選んだ。間違っているのか正しいのか、考える暇さえなかった。
崩塵を口に咥え、右腕にひなの腰を抱いて外に弾丸の勢いで飛び出る。空が目に見えぬ魔猿達の妖気で埋まり、大地は月明かりに落ちる影によって埋まり、夜気は無数の魔猿達の体から発せられる獣臭で満ちている。
きょああ、くほう、と幾つもの殺気と食欲に満ちた奇声が広場を震わせた。
口に咥えた刀身を右手に持ちかえ、切っ先は地面へと向ける。ひなは、鬼無子の腰に縋りつくようにしている。
再び襲い掛かってくるかと息を呑む鬼無子に向けて、銀狼に放たれたのと同じ毒塗りの木の槍、石つぶてが一気に投げられた。ひなを守る以上は自由に動けぬ鬼無子に対し、実に有効な戦術であった。
鬼無子は崩塵を地面に突き立てて、自分の羽織を脱いでそれを思い切り振りまわした。羽織はすぐさま生臭い大気をかき乱す臙脂色の旋風となる。
四方木家に代々伝えられていた霊刀とは異なり、長旅に耐えてはいるがただの布切れの筈の羽織は、鬼無子の手に内にある時、鋼の硬度を持った布となって、飛来する石つぶてや木の凶器のことごとくを叩き落す。
のみならず、布のうねりに巻き込んだ石つぶてと木の槍や矢を、鬼無子は周囲の闇へと投げ返した。魔猿達が殺気を隠さず、お前の肉を食うぞ、おれは骨をもらう、ではおれは右の目玉だと騒ぎ立てている闇へ。
いくつかのくぐもった音と、ぐちゃりと水気をたっぷり含んだものが潰れる音が聞こえた。咄嗟の反撃は多少なりとも成果を挙げたようである。
飛得物の連続攻撃が止んだ一瞬の隙を、鬼無子は逃さなかった。こうなれば森の彼方へ消えた銀狼と合流し血路を開くしか、生き残る道は見出せない。
「ひな、某に思い切り抱きつけ、この場は」
「鬼無子さん、上!」
「っ!」
自身の影を、はるかに巨大な影が塗り潰している事を、鬼無子はひなの叫びで悟った。猿らしい、しかし猿にはあり得ぬ跳躍力で宙を舞った魔猿が、鬼無子の頭上から月を背に舞い降りて来た。
鬼無子がその猿の歪んだ口元を見るのは二度目だった。人間ではない癖に、人間によく似た邪悪な笑み。その笑みを見せられると、人間もまたこいつと同じような邪悪さを持っていると感じるから、鬼無子は不愉快な思いに駆られるのかもしれない。
白い魔猿の名前を、鬼無子は銀狼から聞かされていた。
「白猿王!」
「きょきゃきゃきゃきゃきゃ、あの時の侍かっ!」
ああ、銀狼が静かなる怒りと殺意と共に追った筈の白猿王が、彼の目を晦まして姿を消したのが、こうして鬼無子とひなを襲う為だったとは!
この老いた賢しい猿は、鬼無子とひなが銀狼にとって弱点足り得ると知っていたのだ。
鬼無子の手は大地に突き刺した崩塵の柄を握る。
全てを押し流す波濤の迫力でもって襲い来る白い災いへと、崩塵は地面から美しい死の弧月を描きながら挑んだ。
ぐしゅ、と濡れた音が一つ。木枯らしに吹き散らされた最後の一葉の様に、鬼無子の体が宙を飛んで幹に激突してようやく止まった。
脊椎損傷、内臓破裂、加えて肋骨の全てが折れた、と言った所か。いや、そもそも白猿王の拳の一撃を受けた頭が、熟れすぎた柿のように潰れなかったのは奇跡といえた。
うつ伏せに倒れかける体を、鬼無子は崩塵を杖代わりにする事でかろうじて支える。紅色の唇からは夥しい量の血が吐き出され、地面と鬼無子の間を赤い流れが繋ぐ。地面を濡らす赤いものは際限を知らぬように溢れ続けた。
立つ事もままならぬ瀕死の鬼無子ではあったが、およそ人間にはあり得ぬ耐久力だ。白猿王の拳を受けて死なぬ人間は、決して人間ではあり得ない。
白猿王は自分の顎と胸元を探った。じっとりと白い毛を黒みがかった赤い液体がどろりと濡らし始めている。拳の一撃を当てる寸前、月光を燦然と跳ね返しつつ白猿王の皮と肉に触れた崩塵の一刀が残した縦一文字の傷であった。
さほど深い傷ではなかったが、一宗派の開祖が刻んだという退魔の文字と霊力は、じくじくと傷痕から沁み込み始め、白猿王の肉を苛烈に焼いている。血は止まるだろうが、傷痕は生涯残るかもしれない。
指先に付着した生暖かい自分の血を一嘗めし、白猿王は鬼無子へ興味深げな視線を送った。
「ほうほほう。侍、お前、ただの人間じゃないなあ? かといって妖魔でもないなぁ、混じりものか。混じりものだな?
人間の赤い血の中に妖魔の黒い血が流れる半端者。きゃきゃきゃ、きゃきゃきゃ、これは愉快。天外孤独の妖魔が、人間にも妖魔にも馴染めぬ嫌われ者を拾ったのか。うききき、お似合いだなぁ、半端者と孤独な奴どうし、仲良く今宵死ぬがよいさあ」
白猿王が指摘した妖魔の黒い血と人間の赤い血を持つ妖婚の血脈。それが鬼無子の秘密か。
魔猿の巨躯を木の枝のよう軽々と振り回し華奢な腕の一振りで、分厚い筋肉の鎧を纏う肉体を容易く両断する膂力、夜の闇の中でも月と星の灯りさえあれば真昼の様に見通す視力、白猿王の一撃を受けて死なぬ肉体の耐久力、それらはすべてその身に宿る妖魔の血によるものか。
自らの血に白皙の美貌を朱に染めて凄艶なものにした鬼無子は、いつ死の国へ旅立ってもおかしくない様子であったが、その瞳に宿っていたのは衰える事を知らず燃え盛る闘争の炎であった。
鬼無子の耳にはひなを任せると告げた銀狼の、信頼に満ちた声が何度も反響していた。
黒く濡れた瞳が吠え猛っている。それに応えねばならぬ、この命に換えても、と。
「きひ、貴様には随分殺されたが、これで留飲が下がるというものよ。さて、童、お前さんには来てもらおうかい。銀色めは、どうもお前さんに執心らしいじゃないかぇ」
ひなの首など簡単にもげる大きな白猿王の手が伸び、笑う膝を叱咤して立ち上がろうとする鬼無子には、魔猿達の影が無数に踊り掛かった。
鬼無子の姿が、どこか好色な響きを交えた咆哮を挙げる魔猿達の影の中に消えるのに、さしたる時間は要らなかった。
*
おかしい。
その考えが先程から銀狼の思考の中に明滅していた。
何が、と言えば森の中に仕掛けられた罠や襲い来る魔猿達にはおかしな様子はない。強いて言えば、白猿王が姿を消して、何もせぬままであると言う事がおかしいと感じる源だろうか。
あの邪悪で賢しい猿族の長が、この程度の策で自分へ襲い掛かるだろうか。
十匹目の魔猿の頸動脈を切り裂き、血飛沫が舞うよりも早くその懐から飛び去った銀狼は、一旦走るのをやめ、周囲の闇を見回す。
銀狼が走るのを止めたのに合わせて、魔猿達も息を潜めて身を隠し、銀狼の様子を伺っている。魔猿達の無数の視線を浴びつつも銀狼に臆した様子は欠片もないが、自分が取った行動が正しいものではなかったのではないかという疑念が、大きく鎌首をもたげている。
だがいくら考えても己の胸に湧いた疑念を払う答えは見つからなかった。血の巡りが悪い自分の頭を、銀狼は強く呪った。
結局、周囲にいる魔猿の数を零にする事しか思いつかない。手下どもが皆死ねば、白猿王も姿を見せるだろうと考えたのだ。
鞭のようにしなる枝の特性を利用した即席の投石機から、斜めに断たれた木の枝が突き出した泥玉や、細かく割いた木の枝というよりは針が次々と飛来する。
その全ては銀狼が残した残像を貫いたが、回避した銀狼の姿を捉えた魔猿達が、薄汚れた鉤状の爪、丸太の様な腕を各々振り上げて踊り掛かった。中には石斧や棍棒といった極めて原始的な武器を手にしている者もいる。
その程度の知恵は、白猿王に比べれば年若い者達にも備わっているようだが、銀狼にとってはさしたる問題とはいえなかった。
不用意に姿を見せる魔猿共の間を縫って銀狼の爪が閃く度、黒血が噴水のように噴き出て森の木々と草花を朱に染めて行く。妖気と怨念がたっぷりと込められた血を浴びたそれらは、その場で腐れ果てて行く。
妖魔の血ほど正常な生命にとって毒となるものは他にあるまい。
次々と死骸になって大地に転がる魔猿共へ、無駄に命を散らす、と銀狼は淡々とした感想を抱くきりであった。
妖哭山の内側で生じた妖魔としては異例な事に、己以外の生命への無制限の憎悪を持たぬ銀狼であったが、ひとたび敵とみなした時、冷酷と言ってもよいほど非情となる性質を持っていた。
敵とみなすまでは極めて寛容な態度を取るし、普通に――というのもおかしいが――一度や二度命を狙われた位なら、特に気にしないほどだ。
白猿王や先に対峙した紅牙にしても過去に一度は命を狙われたにもかかわらず、あちらから牙を剥いてこない限りは、銀狼の方から戦いを挑む事はないだろう。
しかし、ひなと暮らし始めた事で明確な変化が、銀狼の心に一つの厳然たる掟となって生まれていた。
すなわち、ひなを傷つけようとするものには報いを。
その命を狙うのなら、狙った者の命を。
死の対価は唯一死のみ。
ひなと出会うまで、ほとんど空っぽな心と幾ばくかの知識しか持っていなかった銀狼にとって、ひなと出会ってからの日々はそれまでの日常が色褪せて見えるほどに輝いていた。
むしろひなと出会ってからの日々からこそが本当に生きていると言えるものだった。例えて言うなら鉛と黄金、石と玉、いや、もはや比較するものがない位に、圧倒的に後者が輝きを放っている。
だから、その日々を脅かし、奪わんとする目の前の猿共への情けや容赦は、銀狼の心から影も形もなく消え去っている。
だから、背を見せて逃げようとする魔猿へと襲いかかり、広いが恐怖に怯えるその背中に爪を立てても、銀狼には何の感慨もなかった。
魔猿達は最後にはくぐもった叫びをあげつつ、その全てが絶命していた。樵小屋を取り囲んでいた十七匹に加えて、途中で新たに姿を見せた六匹を含めた二十三匹の魔猿達がもの言わぬ躯となって、月光に白く照らされている。
喉笛をぱっくりと切り裂かれた者、頭蓋ごと脳を割られて脳漿と血をまき散らしている者、心の臓に届くまで深く胸部を切り裂かれている者、腹部を割られ、内圧によって血塗られた腸が飛び出ている者。
酸鼻なる光景は、白い月の紗幕を被せてもなお赤々と世界を濡らし、呪っているかの様。それでも月は光を注ぎ続ける。
親が子に向ける無償の愛情の様に。
むごたらしい死の世界の中心に、銀色の獣がいたから。
人間の兵士では五倍の数を持ってしてようやく互角の魔猿達を全て屠ってなお、銀狼には傷一つ付いていない。牙も、爪も、毛にも血の汚れは見受けられなかった。銀の装いには赤の斑は無く、その美しさは変わらぬままである。自ら流した血は一滴もなく、魔猿達の返り血もまた一滴たりとも浴びてはいないのだ。
鬼無子が誉め称えた様に、誰も踏みしめていない処女雪が巨大な狼の形に集まって、月夜をおのずから照らし出すように輝いているかのよう。
この銀色の狼は、太陽や月が天空が存在しない真性の暗闇の底へと落とされても、変わらぬ清澄な輝きを放つに違いない。
周囲はこの場所にだけ雨雲が血の雨を降らしたように赤く染まり、時折絶命した魔猿達の死肉がぴくりぴくりと蠢き醜悪極まりない惨状であった。その醜さの中でなお銀狼の超自然の結晶のような美しさは際立っている。
一つの例外もなく惨殺された魔猿達は、血濡れの酸鼻地獄の中に立つ銀狼を照らす為に、月が仕組んだ舞台劇の犠牲者達だったのかもしれない。
銀狼の鼻先が、ついと背後を振り向いた。
鼻や口の中まで血に染まりそうな空気の中に、安らぎを思える匂いが混じっている。銀狼の顔には紛れもない驚愕の色が浮かんでいる。その匂いが白猿王と共にある事が、銀狼の愚かさを何よりも雄弁に物語っている。
殺すと決めた相手と守ると決めた相手、そして銀狼にとっての宝を託した相手の匂いが混ざっている。
「ひな、鬼無子……」
口蓋を吊り上げ苛立ちと共に真珠色の牙が剥き出しになる。銀狼の口から目から体から、憤怒に煽られた妖気がおどろおどろしく噴き出す。
触れれば小動物どころか人間でも簡単に気死し、意識を保てても確実に日常生活に支障をきたす後遺症を患うのは間違いない凶悪さであった。
いまほど濃密に敵意に満ちた妖気を発するのは、銀狼にとって初めての事であったろう。抑制するどころか次から次へと、汲めど尽きぬ泉のように溢れだしている。
胸中の自己への怒りや嫌悪、後悔を秒瞬毎に強めながら、銀狼は地を蹴った。ひなと鬼無子、二人の身を案じつつ。
その背中は、自らの手で殺したばかりの魔猿共の事など、もう忘れたと告げている。
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