第11話 三人暮らし

 朝餉を終えて薬湯を飲み、一休みした後、木の枝で作った即席の杖に助けられながら、小屋の外に出た鬼無子は畑仕事をしているひなの姿を見守っていた。借り物だったひなの小袖から、着用していた自分の筒袖に着替えている。

 傷はまだ完全に塞がってはおらず時折鈍い痛みと熱を発して疼くが、歩きまわるのには支障ない。

 銀狼も鍬代わりに自分の肢を使って地面を耕すのを手伝っている。一回肢を動かすごとに驚くほどの量の土が掘り出されるが、これでも手加減はしている方だ。最初の時など、思い切り全力で地面を掘ったものだから、畑を耕すのではなく、穴を掘るという有様だった。


 肢先や鼻面を土で汚しながら、一生懸命になって土いじりをしている銀狼の姿は、見た目はともかくとして生まれて間もない子犬が、無邪気に遊んでいるようにも見えてなかなかに微笑ましいものがある。

 きこり小屋の建っている広場の大部分を耕した畑は、移り住んでからそう日は経っていないので収穫はまだ先の事だが、疲れ知らずの銀狼が手伝っている事もあり、開墾の速度は異常の一言に尽きる。


 ひなにあわせて銀狼は開墾作業を止めているが、銀狼だけに任せれば二日か三日程度で二千坪くらいは耕してのけるだろう。

 凛の助けも借りているし、きっと実りは豊かなものになるだろう。鍬を振るう手を止めて、頬を流れる汗を拭ったひなが、鬼無子の視線に気づく。


「鬼無子さん、怪我の具合はどうですか」


「ああ、大事ない。薪割位ならやっても大丈夫だと思うのだが」


「だめですよ。怪我が治るまで安静になさってください」


 腰に手を当てて怒ったように言うひなに、鬼無子は穏やかに笑い返す。小さい体ながら物怖じせずに言ってくるひなの事をかなり気に入っているようで、ひなを見つめる深い色合いの黒瞳には、優しげな光が揺らいでいる。


「しかし、鬼無子は傷の治りが早いな。私もかなり治りは早い方だが、同じ人間でも侍は体が頑丈なようにできているのか?」


「そのような事はありませんよ。仙人から頂いたと言う薬のお陰でしょう。この具合なら左手で茶碗を持つ位なら、二日後には出来るでしょう」


「それは良かった」


 と銀狼。鬼無子の傷の治りが早い事を本心から喜んでいるようで、ぶらんと垂れていた尻尾がゆらゆらと左右に揺れている。銀狼の機嫌が良い時の表現だと、ひなから聞いている。

 無邪気に喜ぶ銀狼の姿は、確かに近隣の村々を恐怖で震わせた妖魔というには、無垢な子供みたいな可愛らしさの様なものがある。それ以上に巨躯と狼面が迫力を醸し出し、見る者を威圧してしまうが。


「所でひな、せめて右腕を使う位は許してもらえないかな。このままでは刀の振り方を忘れてしまいそうだ」


「……分かりました。でもあんまり激しく動いちゃだめですよ」


「ありがたい」


「鬼無子もひなに頭が上がらないか。面白いな」


 からかうというよりは、言葉通りに面白がっている銀狼に、鬼無子は笑い返した。


「まったくで」


 杖を地面に横たえて、腰に差しっぱなしにしていた崩塵に手を掛けて腰帯からゆっくりと抜く。ただし鉄製の鞘ごとだ。

 通常の刀に比べおよそ一尺長い分、抜刀の仕方に工夫があるのだろうが片手しか使えない状況では、その工夫を凝らした抜刀が行えないのだろう。

 銀狼とひなの目線の先で、鬼無子は鉄鞘と崩塵の鍔を紐で結びつけた。刀が鉄鞘から抜けない為の用心だ。鉄鞘に収めたまま崩塵を肩の高さまで持ち上げてゆっくりと左右に振りはじめる。

 てっきり素振りでもするのかと思っていた一人と一匹は、ちょっと拍子抜けした調子で刀を優雅な舞の様に動かす鬼無子から視線を外して、互いに顔を見合わせ、


「やっとおの訓練とはああいうものなのかい?」


「さあ?」


 と互いに首を捻るばかりだ。

 一匹と一人がはてな、と視線を合わせながら疑問を呈している傍ら、鬼無子は両者の評価など知らぬ様子で、あくまで真面目な顔で足幅を広げ、腕を曲げ、腰を回しながら舞の様な動きを演じていた。

 ゆったりとした動作ではあるが高い所から低い所へと水が流れる様に決して止まる事は無く、直線ではなくいくつもの曲線を組み合わせた動きだった。

 軸足を右に左にと変え、右手の鉄鞘は闇色の軌跡を虚空に幾重にも重ねて行く。

 鬼無子が幼い頃から学んだ剣術の型であろう。一つ一つの動作の意味までは分からぬが、指の先、足の爪先、瞳の動き、呼吸に至るまで鬼無子の意識が大樹の根の様に張り巡らされ、自分自身の体を完全に掌握している動きだ。

 動きを目で追ううちに、ひなは時折鬼無子の振るった鉄鞘の先に誰かがの姿が見えた様な気がして、何度か目を手の甲で擦った。

 例えば、いま、鬼無子は大上段から振り下ろされた敵の刀を半身になって躱し、敵の喉に刃を当てて引き斬り、その勢いを利用して、体を旋回させながら腰を屈め、背後から襲いかかってきた敵の胴に横薙ぎの一刀を見舞う型を演じている。

 その一つ一つの動作に、斬りかかる仮想敵や舞散る血飛沫、刃と刃の交差による甲高い音や小さな星の様な火花までが見え、聞こえてくるかのよう。

 斬り結ぶ敵の姿が虚空に映るほど巧みな動きであった。


「きれいな動きですね」


「山の民の剣とは全く違うな。あっちは獣や妖魔を相手にしたものだが、鬼無子のは同じ人間を相手に歴史を積み重ねてきたものだからかな」


 そういう銀狼であったが、鬼無子の動きの中にときおり明らかに人間ではないものとの戦いを想定した動きがある事を、なんとはなしに察していた。銀狼がその身でしっているのは、山の民の振るう野の獣や妖魔を相手取る事を想定した、力づくで生き残る剣法。

 いわば対人間を想定した正道の剣法と比較した場合、邪道と忌み嫌われる類のソレである。

 その邪道剣法を良く知る銀狼からすれば、鬼無子の振るう剣法は清濁合混ざったというよりは、むしろ邪道を主とする類の邪剣と見えた。

 夜の山に踏み入り、内側の強力な妖魔である大猿たちの多くに死を与えたのが真実であるのなら、むしろ鬼無子の振るう剣は、邪法の殺戮剣であるほうが納得は出来る。

 それにもうひとつ、銀狼が気にしていることがあった。流木に掴まった姿勢の鬼無子を助けるときに、赤色に染まっていた川から嗅ぎ取れた鬼無子の血の匂いの中に紛れていたモノ。

 大猿たちを斬殺せしめたその実力を考えればどこかの家に使えていてもおかしくない実力だというのに、開国武者修行と称して素浪人の身に甘んじている理由が、そこに隠されているのかもしれない。

 ひなは、銀狼が内心で色々と考えている事はさすがに察せず、無粋と言えば無粋な銀狼の感想を聞かなかった事にしたようで、鬼無子が痛たた、と声を漏らして鉄鞘を下ろすまで、流麗な舞に見入っていた。


「大丈夫ですか?」


 慌てて駆け寄ったひなに、鬼無子は少し恥ずかしげに笑った。情けない所を見せたと思っているのだろう。


「いや、つい左腕を動かしてしまって、面目ない」


「もう、治るものも治りませんよ」


「はは」


 乾いた鬼無子の笑い声には、申し訳なさと恥ずかしさが少しばかり混じっていた。

 穏やかな光景であった。銀狼はひなが笑顔でいてくれればいいと願うとの同じくらいに、鬼無子とひなが穏やかに話をしているこの光景が続けばいいと願っていた。願わくば、自分もその光景の輪の中にいられるといい、と。


 

 銀狼の願いはそれから数日の間叶えられた。

 数日の間の生活で、ひとつ分かった事がある。

 鬼無子は、良く食べる。

 健啖家という言葉はまさしく彼女の為にあると言ってよかった。

 玄米飯と焙った魚の干物に、豆味噌を塗って焼いた茄子、煎り酒と味噌、塩で味を調えた里芋の煮っ転がし、塩揉みにした胡瓜と、普段よりも豪勢な食卓は傷を負った鬼無子に精をつけてもらおうというひなの心遣いだ。


 鬼無子は箸を休める暇もなく食べ続け、玄米飯を三杯おかわりして味噌汁もがぶがぶ飲み、干し魚は頭からばりばり音を立てて骨ごと食べた。

 気持ちの良いくらいの食べっぷりに、差し出される椀におかわりをよそっているひなと見物していた銀狼は、感心と呆れが半分ずつの顔だ。

 最後に出された薬湯を啜ってほうっとと満足な溜息を吐いてから、ようやく鬼無子は一人と一匹の視線に気づいて、恥ずかしげに横を向いて顔を逸らした。


「何か?」


「とってもお食べになるなあ、と」


「腹がいっぱいではいざという時に動きが鈍るのではないのか?」


「いえ、腹が満ちたからといって満足に剣が振るえぬようでは未熟というもの。まあ、某も未熟者故、動きが鈍るのは確かですが、そこはそれ傷を負った身です。

 動きは元から鈍っておりますので、腹がいっぱいか腹八分かはあまり関係ありませぬ。それよりもたくさん食べて失った血肉を補わねばなりません」


 そういうや鬼無子は、あっはっはっは、と繊細な美貌の主には似つかわしくない豪快な調子で笑い始めた。肩肘を張った家の生まれではないらしい。


「怪我人に食欲が無いよりはいいか」


 食が細いよりはモリモリ食べる方が確かに傷の治りは早そうだと、銀狼はのほほんと呟く。香りか味が気に入ったのか、二杯目の薬湯を啜っていた鬼無子が、銀狼の方をまじまじと見つめてきたので


「何だね?」


 と銀狼は聞き返した。鬼無子の瞳に妖魔への嫌悪の情や危険視する光は無く、むしろ逆の光が灯っている。鬼無子は、銀狼をまっすぐに見つめ、ひとつ頷くと口を開いた。


「それにしても銀狼殿はつくづく見事なお姿でいらっしゃる」


「私が? 普通の狼よりは大きいし毛の色は珍しいが、見事と褒められる様な見た目でもないだろう。やたら図体が大きいし」


 自分がやたらめったら体が大きい事を気にしているらしい。

 鬼無子は大きく頭を振った。


「とんでもない。色々な土地で銀狼殿同様の狼の妖魔や犬など多くの獣を目にしましたが、銀狼殿ほど体が大きく、それでいてこうも美しい獣は初めてですよ。体が大きい事を気にしていらっしゃるが、実に堂々とした迫力で良い事ではありませんか」


「褒めてもらって嬉しいが、そこまで言われるとこう、耳の裏の辺りがむず痒くなる」


 かしかしと銀狼は左耳の裏を後肢で掻きだした。分かりやすい銀狼の仕草に、ひなは口元を手で隠してくすくすと忍び笑いを漏らす。


「太陽の光や炎に照らされている時の銀狼様の姿は、なんともいえぬ輝きを放って美しいですぞ。銀の毛色といい、まるで凪いでいる時の海の様なその毛並みの見事さといい、脆弱さなど欠片もないその威風堂々たる体躯。どれをとっても、いやまったく素晴らしい」


 かしかしと耳の裏を掻く音はなお続いている。

 寝床から目覚めたばかりの時に、銀狼に崩塵の切っ先を突きつけた時の迫力はどこへやら、鬼無子は心底惚れ抜いたという表情で、銀狼を誉め称える。

 武人が名馬を一目で気に入るのと似たような心理かもしれない。


「特に朝方、小屋の外で陽の光を受けている時や満天の星と月の光を浴びている時の銀狼殿の姿は格別です。

 そう、まるで、地を埋め尽くすほど降り積もった雪が、光の雨を浴びて大地の彼方までも眩く輝き、それが狼の姿に凝縮された様な。そうは思わないか、ひな」


「雪ですか。雪……。ああ、本当に、本当にそう思います」


 鬼無子の言葉に、ひなは心から納得したようで、しきりに頷いて銀狼の姿を見ている。

 かしかしかしかしかしかしかしかしかし、と血が噴き出るんじゃないのかと言う位、銀狼は耳の裏を掻いている。

 流石に痛くなったのか、掻くのを止めたと思えば、今度は反対側の右耳の裏を掻き始めた。かしかし、ではなく、がしがしがしがしと力強さを増している。


「銀狼様、そんなにしては血が出てしまいますよ」


 あまりに力強く掻き続けるものだから、心配になったひなが声をかけて、ようやく耳の裏を掻くのを止める。

 銀狼が一言、ぽつりと呟いた。


「……痛い」


「もう!」


「ふふ、二人の仲の良い事。二人の様子を見ていると、誤って斬りかかった過去の自分を止めたくなります」


「こちらに遺恨はないさ」


「某自身の心の問題ですから」


 銀狼には、頑として譲らぬ鬼無子の性格は好ましく思える。それにこの調子なら鬼無子の怪我はすぐに治りそうだ。

 怪我の事は安心してもよさそうだが、銀狼の心の中では、山の外側に姿を見せた猿達の事が黒い渦となって残っている。


 白猿王率いる猿の一族がまるまる外側に移り住むと言うのなら、これは血と死と滅びの嵐が吹き荒れるのは火を見るよりも明らかだ。

 血の色をした火の粉は確実に銀狼とひなに降りかかってくるだろう。

 静かに、そして穏やかにひなと暮らしていきたいだけなのに、そうはさせじと運命のように途方もなく大きな流れの様なものが、妨げてくる予感がしていた。

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