第10話 四方木鬼無子
視線が不可視の矢と変って見つめられたものの心臓が射抜かれるような、女剣士の瞳を、好もしげに見つめ返しながら、銀狼は尻尾の動きを止めて一言呟いた。
「悪い人間ではないようだな」
「戯けた事を! そこな少女、この悪しき狼を今すぐ成敗する故、安心しなさい」
銀狼への一喝こそ力強いものであったが、布団から体を起こして戸惑っているひなに向けた言葉は労りに満ちており、なるほど、銀狼の呟き通り性根の優しい人間である事が伺える。ただ、思い込みは激しそうだ。
先ほどまでの緊張感はどこかへやってしまい、気の抜けた顔をしている銀狼であったが、誤解を解くまでは女剣士の太刀を浴びるわけにはいかなかった。
昨夜ひなに語ったとおり、女剣士の握る刀に肉を裂かれれば、かなり強力な妖魔である銀狼でも簡単には癒えぬ深い傷を負わされる。
致命の一撃を避けて誤解を解くにせよ、銀狼が大なり小なり傷を負えば女剣士の心に悔恨が残るだろうし、ひなの前で情けない所を見せたくないという思いもあった。
ひなに対する見栄はともかくとして、女剣士の心情にさえ配慮するのは銀狼の甘さ以外の何物でもない。下手な人間よりも思いやりと言うものを知っている狼だ。
刀を噛み止めるか爪で受けてなんとか叩き伏せればよいだろうか、と考えたのは銀狼。
虎や獅子よりも大きな銀狼の巨躯に驚きつつも、首を一太刀で落とすか脳天を貫く、と決めたのは女剣士。
しかして場を動かしたのはこの場で最も無力なひなであった。女剣士の誤解を解く為に、身を伏せている銀狼の首筋に、とっさに抱きついたのである。
横から伝わってきた衝撃とぬくもり、安らぎを覚える匂いに銀狼は驚いた様に目を開く。ひなの行動は、銀狼にとって予想外のものだった。
「違います、この方は大狼ではありません!」
「な、危険だ。すぐ離れなさい!」
「お侍様が刀を収めてくだされば離れます」
「く、惑わしたか、大狼め」
ひなが銀狼を庇う姿を、銀狼になにか術を掛けられたかされた所為だと、女剣士は判断したようだ。
確かに、既に大狼は滅んでいて、生贄に捧げられた少女が別の狼の妖魔の庇護下で養われているなどと――ましてや両者の関係がすこぶる良好なものであると――想像が着く筈もない。
女剣士の言い分ももっともであった。
ひなは首を大きく振っていやいやをし、銀狼の首に回した腕の力を一層強くするばかり。ひなの行動に、銀狼は目元を穏やかなものに変える。自分を思いやって危険な行動に出たひなの優しさが嬉しいのだろう。
「ひな、彼女の言う通りだ。離れていなさい」
銀狼も戦う気なのかと思い、驚いた表情を小さな顔に張り付けて見上げるひなに、銀狼はあくまで優しく言い聞かせる。
「大丈夫、争う様な事はしない。話せば分かってくれるさ。私の言う事を聞いておくれ」
「……」
これまで銀狼はひなの信頼を裏切った事は無かった。嘘を吐いた事もない。その事実がひなの腕から力を抜かせた。
忙しなく銀狼と女剣士の顔を交互に見ながら、ひなはゆっくりと銀狼から離れて行く。
その様子に女剣士が安堵の息を隠さずに吐いた。
ひなの身を案じているのは本当の様だ。
改めて銀狼に向ける敵意を研ぎ澄ます女剣士に対して、銀狼は低くしていた姿勢を正し、まっすぐに女剣士の瞳を見つめた。
銀狼の青い瞳は、女剣士の漆黒の瞳に強い意志の光を認めた。清々しいほどのまっすぐな光で、少女と言っていい年齢の女剣士の好ましい性格をよく表している。
先ほどまで警戒の気配を露わにしていた銀狼の態度の変化を、女剣士は訝しげな視線で見つめた。だからといって銀狼に対する敵意が揺らいでいるわけではない。
女剣士に対して話をしようとした銀狼は、はたして何と呼べばいいのか、一瞬躊躇した。
これまで銀狼が接触した事のある人間は、俗世と隔絶された存在である仙人の天外に、山の外の世界とは異なる掟に生きる凛達山の民と平凡な村の娘であったひなである。これらの人物の中に、侍や武家の者はいなかったから、それらの人種との接触は今が初めてだ。
ゆえに名前が分からない時、侍をどう呼ぶ事が適切なのか、とっさに判断が着かなかったのである。とりあえずひなに倣う事にした。
「お侍、刀を収めろとまでは言わぬ。だから、落ちついて私とひなの話を聞いては貰えぬだろうか」
声を聞くに限れば、穏やかな笑みを浮かべた青年を思わせるが、外見は常識はずれの巨躯を誇る狼とあって、女剣士は深く刻んだ眉間の皺を解きはしなかった。
「妖魔の言う事など信じられるものか。下らぬ話の陰で何を企んでいる」
「私を疑う気持ちは分かる。しかし、私にはお侍もこのひなも傷つけるつもりは毛頭ない。天地神明に誓ってよい。信じられぬのなら、刀はそのままでいいから話を聞いてくれ」
女剣士は、微動だにせず穏やかに語りかけてくる銀狼と、心底心配そうに銀狼と自分の対峙を見守っているひなの様子に、若干の違和感を覚えたようだ。
山に登る前に聞いた大狼とはかけ離れた銀狼の態度と、生贄の筈のひなが、銀狼に対して全く怯えを見せずその身を案じる様子が、術に掛けられた者とは思えぬほど真摯なものに見えたからだ。
「私を大狼と思っているようだが、私は大狼ではない。奴とは別の、銀狼と言う狼の妖魔だ。大狼はすでに私が滅ぼし、この世にはない」
「本当です。この方は大狼などではありません!」
一匹と一人の言葉に、女剣士の顔にかすかな動揺の色が見えた。いささか素直すぎる性格の様だ。
「仮に、お前が大狼ではないとして、なぜ村の娘を返さないのだ。それにそのひなという娘が生贄として差し出された時、銀色の狼が大狼を名乗り、村に掛けた呪いを解くと告げたと村人は言っていたぞ。たばかるつもりか!」
ひなと出会った翌朝、生贄用の小屋を訪れた村人達に、銀狼が大狼のふりをして脅しつけた時の事であろう。後になってこのような形で厄介事を招くとは、銀狼にもひなにも予想外の事であったろう。
「それは、ひなの為にした事だ。村でこの娘はひどい扱いを受けていたようだから、帰すのは忍びなかった。それに一度は差し出した生贄が村に戻る事は許されない事だったろう」
女剣士の黒瞳はひなを見つめた。銀狼の言い分に対して、この少女がどのような反応を見せるか確認するためだろう。差し出した生贄が村に戻る事で、大狼の怒りを買う事を村人達が恐れていたのは、女剣士も知っていた。
ひなの瞳は潤み始めていた。小さく握った手を胸元に寄せて、懸命に女剣士に訴える。
「私が銀狼様にお願いしたのです。私は父も母もいなくて、村に居場所はありませんでした。誰も優しくはしてくれなかったし、名前で呼ばれる事さえもほとんどなかったです。生贄に選ばれた時は正直、怖かった。でも、もうあの村に居なくてもいいって、安堵したのも本当です」
「村長が引き取って育ててくれていた筈では? それでも辛い生活だったと?」
「私を率先して生贄に推したのは、村長様です。恨んではいません。父母が死んだ後の私を引き取ってくれた事に感謝はしています。でも、村に戻ろうとは思いません。銀狼様は、とても優しいお方です。父母以外に私にここまでして下すった方を、私は銀狼様しか知りません。それに川を流れていたお侍様を、助けてと私が言うよりも早く、銀狼様は貴女様を助ける為に動いていらしました」
必死な様子のひなの言葉に、女剣士の瞳に動揺が大きく揺らぎ始めていた。村を訪れて、娘を生贄に差し出したという話を聞いて回った時、村人達の誰にも後悔や自責の念にかられた様子はなかった。
ひなを生贄に差し出し、幼い命の犠牲で自分達が助かった事に対して、なんの負い目も感じていなかった事が、一目で分かる態度だった。
その事と、凶悪な妖魔とは信じられぬ銀狼の態度とひなの一心に銀狼を庇い慕う様子とが、女剣士の心の中で疑惑の渦を巻いている。
迷う様子を見せていた女剣士が、不意に膝を折った。目を覚ましてから銀狼と対峙している最中も、肩の傷が発する痛みに耐えていたが、限界が来たのであろう。
それでも刀の切っ先は銀狼へと向けられている。肉体の上げる悲鳴を精神が完全に、とはいかぬまでも大部分を抑え込んでいなければ、こうはいくまい。
白蝋の肌には脂汗が滲み始め、牡丹の艶やかさを持った唇からは、乱れた吐息が吐き出されはじめる。
「傷が塞がっていないのに、無理をするからだ。ひな」
「はい」
慌ててひなが女剣士に肩を貸して、崩れ落ちる体を支える。
「……かたじけない」
ひなに礼を一つ言い、女剣士は険しい視線を銀狼に向けた。針の筵に立たされている気分にされる視線を浴びた銀狼は、女剣士に警戒されぬようにとその場を動かなかった。
「はやく横になってください」
「しかし……」
「私が気になるのなら、外に出ていよう。ひな、さらしを変えてやりなさい。私はしばらく外にいる」
「はい。さ、銀狼様が見ていなければいいですよね?」
「……」
言うや否や、そそくさと小屋を出る銀狼の姿を目で追い、女剣士は迷いをますます大きなものへと変えた。銀狼が確かに小屋の外へと出たのを確認してから、ひなの肩を借りつつ寝かされていた布団の上に腰を下ろす。
刀を鞘に戻して左手側――抜き打ち座に置いてから、女剣士が大きく息を吐いた。想像もつかぬ痛みを堪えていたのだろうと、ひなは痛ましげに女剣士の頬や額に滲む汗を拭う。
「失礼いたします」
「ん」
女剣士の左腕はまだ動かぬ様子で、ひなの手を借りながら着物を脱いだ。さらしの白には幸い、赤い染みが領土を広げている様な事は無かった。出血が無かった事に、ひなが小さく安堵の息を吐いた。
「そう言えば、お名前はなんと言われるのですか? 私はひなと申します。もうご存知ですよね」
「ああ、村でも聞いたから。某は
ヨモギキナコ、美味しそうな名前だなあ、と思ったが、口にはしないでおいた。おそらく同じような聞き間違いをされて、機嫌を損ねた経験があるに違いないと察せられたからだ。
「四方木様ですね」
「鬼無子と。それに様と呼ばなくていい。気軽に鬼無子さんと呼んでほしい」
鬼無子の左肩からの傷は、うっすらと肉が盛り上がりはじめており、驚くべき回復力を見せていた。天外の薬の効能が、銀狼とひなの予想をはるかに超えたものだったのだろう。肩以外には特に怪我を負った様子はないと銀狼が言ったとおり、他に骨折などした様子はなかった。
「ところで、ひな、先程の話だが」
「本当です。私は村でお荷物でしたし、真っ先に切り捨てられる立場にありました。銀狼様が私を拾ってくださらなかったら、私は村にも戻れず山で野垂れ死にしていたでしょう」
「あの妖魔に救われたと言いたげだな」
「はい、救われました、命も心も。銀狼様はとても優しいお方です」
誇らしげに言うひなの眩しい笑顔に、鬼無子は考え込む様子で顔を俯かせた。ひなが銀狼に対して全幅の信頼と慕情を寄せている事は、その笑顔だけで分かる。刃を向けた自分の方が過ちだったのだろうか。
「では日照りの件は? あれは大狼の祟りではなかったのか?」
「銀狼様が言うには単なる天候の問題だそうです。私が生贄に差し出されなくても雨は降ったそうです。それを教えられた時にはちょっとがっくりきましたけれど」
「笑って済む問題ではないだろう」
「だって、私が拗ねてもどうしようもないじゃありませんか。それにちゃんと雨が降ったから、村の人達への責任は果たせたわけですし、気が楽になったと思えるようになりました」
そのひなの笑顔で、鬼無子にはこの少女が村への未練や執着を捨てた事が理解できた。捨てたからあの銀色の狼との暮らしを受け入れたのか、銀色の狼との暮らしを受け入れたから、村への未練を捨てたのかは分からない。
だが順序は別としてひなが山での暮らしに幸福を見出している事は間違いなかった。
ひなから聞いた話と村人達の態度を考えるに、たぶん、それは良い事なのだろう。
「村に戻る場所は無い、か。では生涯この山で暮らすつもりか? あの狼と」
「できたら、そうしたいです。銀狼様とずっと一緒に居られたらいいなって、そう思っています」
その言葉は何よりもひなの心を表していると鬼無子には良く理解できた。にっこりと笑うひなの顔は、これが幸福でないのなら、世界の誰もが不幸な人間だという位に輝いている。
「そうか」
その笑顔を前にして、鬼無子に言えるのはその一言だけだった。それは自分の間違いを認める言葉でもあった。
「はい、巻き終わりましたよ」
「ありがとう」
「お腹は空いていませんか? すぐに朝餉の支度をいたしますので」
「何から何まで、かたじけない」
小さく頭を下げる鬼無子に、ひなはくすりと笑いかける。
「頭を上げてください。鬼無子様に頭を下げていただくようなことはしていません。お薬は、お腹をいっぱいにしてからにしましょう」
ほどなくして小屋の中に味噌の香りが漂い始めた。
*
鬼無子とひなに気を使って外に出た銀狼は、ひくひくと鼻を鳴らした。味噌汁か煮物でも作っているのか、なんともいい匂いがしている。
空腹や満腹という感覚を知らない銀狼には、美味いも不味いもあまり分からないのだが、食事の度に美味しそうに笑いながら食べているひなの様子を見ているので、なんとなく食事に対する憧憬めいたものが銀狼にはあった。
銀狼は所在なさげに小屋の外で腰を下ろしたまま青い空を見上げていた。ひなと出会う前はよくこうして空を見上げてぼんやり過ごしていたものだ。流れる雲をなんとなく目で追い続けていると、あっという間に時間が過ぎる。
そうしていればその内にひなからお呼びの声が掛かるだろうなあ、とこれまたぼんやり考えているらしい。
一枚の画の様に佇んでいる銀狼の姿は、当の銀狼の心情を別にすれば、多少絵心のある者なら思わず筆を取らずにはおれぬ美しさであった。
まるで帰らぬ主人を待つかのように小屋の前に立ち、遠い誰かを見る様に空を見上げる白銀の儚げな獣の姿にはそれだけの魅力がある。ま、本人にはそのような自覚は欠片もなく、ただぼうっと空を眺めているだけなのだが。
ぼけっとしていた銀狼は嗅ぎ慣れた匂いと、聞き慣れた足音に視線を巡らせる。ほとんど足音を立てぬ見事な消音の歩みは凛のものに違いない。
銀狼の耳と鼻の確かさを証明するように、土産物を包んだ風呂敷を片手に提げた凛の姿が、木々の合間から見えた。変わらぬ熊皮の衣装に、腰帯に差した山刀とこれもいつも通りだ。
「よう、銀狼。外で何をしているんだ? 洗濯物も干していないようだが、どうか
したのか」
「うむ。ちょっと拾いものをしてな。今、ひなはその世話をしている所だ」
「お前が外に出されたって事は、獣の子供か何かか? 犬か猫辺りか?」
「人間」
「……ん?」
聞き間違えたかな、と眉を寄せる凛に、銀狼はもう一度言い直した。
「人間。侍と言う奴だ。初めて見たが、お前やひなより大きかったな。同じ生き物とは思えなかったよ」
胸が。
と口にしなかったのは賢明といえただろう。
この狼、人間の身体的特徴の相違に興味を抱いたらしい。その内情欲や性欲と言った欲求に繋がるかもしれない。
「お前、人間を普通拾いものとかいうようには言わないぞ。しかし、侍か。ひなと二人っきりにして大丈夫なのか?」
「かなりの怪我人で、まだ体は自由に動かないみたいだ。それにあれは善人だよ。多分、大狼の生贄に差し出されたひなの話を聞いて、救いに来たのだと思う」
こいつ、他人の事簡単に信じすぎだろう、と凛は銀狼の事を心配そうに見た。思う所はあるが、凛は別に銀狼に対して憎しみを抱いているわけではないし、銀狼を慕っているひなの事は気に入っている。
銀狼の無防備はそのひなの身の危険に繋がってしまいそうで、つい心配してしまうのだと、凛は自分に言い聞かせた。
銀狼が凛の事をお人よしと評したことがあったが、実に正鵠を射た意見だったようだ。
「余所者だな。大狼を退治しようと言う連中はこのあたりではもういないだろうからな」
「で、今日はどんな用だ。懐にいくつか武器を隠しているだろう。いつもより物騒だな」
「そこまで気付くのか、まったく……。まあ、その侍をお前達が拾ったのは運が良かった。ちょっとその事で話がある。かなり厄介な話になるかな」
「侍を拾った時からなんとなく想像は着いたがね」
そう言って、銀狼は首を捻って小屋の方を振り返り、声をかけた。
「ひな、来客だ。そろそろ入ってもいいか?」
「あ、はーい。大丈夫ですよ」
行くか、と頷いて凛を促し銀狼は戸をくぐった。馬鹿みたいにでかい銀狼と横並びに戸を通る事は出来ないので、凛は銀狼の後に続く。
小屋に入った途端、煮炊きの気配と味噌や醤油の臭いが立ち込めて、凛の鼻をくすぐった。布団の上で体を起こし、野菜の煮物の椀と箸を手にした鬼無子と鍋をかき混ぜているひながこちらを見ている。
ひなが凛の姿を見つけて道の端で風に揺れている小さな花の様に笑いかける。銀狼との関係は気になるが、自分の事をそれとなく気遣い優しくしてくれる凛の事を、ひなは好いている。
「凛さん、おはようございます」
「おはよう。お侍さん、あたしはこの山で暮らしている者で凛っていうんだ。よろしく」
「四方木鬼無子だ」
山の民が珍しいのか、鬼無子は興味深げに凛の顔を見ている。ひなは山の民が自分達と変わらぬ人間である事に拍子抜けしたようだが、この女剣士はどんな感想を抱いた事やら。
ひなが何か言う前に凛は草鞋を脱いで床に上がっており、どっかと腰を下ろしていた。小屋に入ってきたのとは逆に、銀狼は凛の後に続いた。
「ヨモギキナコか。変わった名前だな」
不思議そうに呟く銀狼に、鬼無子が一語一語区切る様に言う。
「四方木が名字で鬼無子が名前になりもうす。名字がなにか、ご存じない?」
「いや、名字のある人間と会うのが、初めてなので判断できなかった。ふむ、侍は名字があるのか。ひとつ勉強になったな」
「なるほど」
小さく笑う鬼無子から先程までの研ぎ澄まされた刃のような緊張感が去っているのに気づき、銀狼はおや、と思った。鬼無子は椀を傍らに置くと、抜き打ち座に置いていた刀を右手側に置き直し、居住まいを正して銀狼に向き直る。
刀を利き手側に置く事は相手に対し敵意が無い事を示す作法なのだが、銀狼はそのような作法は知らないので、鬼無子の行いの意味は分かりかねた。
ただ、先程の立ち回りからして鬼無子の利き腕は右腕と知れていたから、これでは咄嗟に刀を振るう時動作に遅れが生じるな、とは思った。わざと自分からそうする事で、敵意が無い事を示しているのだろうとも。
「銀狼殿、先程の無礼、心よりお詫び申し上げる。ひなと話して、貴方が悪い妖魔ではない事は分かった。まだ、信じられぬ思いがあるのは事実だが、某が目を覚ましてからの貴方の態度に、某を害しようと言う意図が感じられなかったのも事実」
「いや、分かってくれればそれでいいよ」
あくまで寛容な銀狼の態度に鬼無子は苦笑するばかりだ。自分から詫びを入れることを決めた時、銀狼の爪に裂かれても仕方がないと腹をくくったと言うのに、当の銀狼の態度がこれとは。
いや、そもそもまだ心を許しておらず警戒心を剥き出しにする自分とひなを二人きりにする位だ。ひなの言葉を信じるのならわざわざ勘違いで生贄に差し出された少女の願いを聞き、さらには面倒まで見ているという。相当なお人好しに違いない。
そんな銀狼からすれば命を狙ってきた相手に対しても、この程度の態度で済む問題なのかもしれない。
「聞けば、川を流れていた某を救ってくださり、このように手当てまでしていただいたとか。恩人とも知らず刃を向けた事、重ね重ねお詫び申し上げる。これ、この通り」
そう言って、鬼無子は手を床に着いて深く頭を下げる。妖魔相手に侍が頭を下げるのか、とひなと凛は驚いているが、銀狼の方は素直に鬼無子の謝意を受け取っていた。
「頭を上げてくれ。その事はもう水に流してくれて構わないから。ところで聞きたい事があるのだが、君はどうしてこの山に足を踏み入れたのだね? 大狼退治
か?」
顔を上げた鬼無子は、銀狼の問いに頷く。
「さようで。某、諸国を旅し剣術の修業に明け暮れていたのですが、近くの村を訪れた時、この山に住むそれは恐ろしい妖魔の事を聞きました。そして、昨今の日照りの原因が山の妖魔の仕業であり、怒りを鎮めるために生贄を差し出した事も」
「それで生贄にされたひなを救うために単身で山に乗り込んだのか。無謀な、と言
いたい所だが、よほど自信があったのだろう? 例えばその刀とか」
銀狼が顎をしゃくって鬼無子の手元の刀を示した。鍛冶衆としての興味をそそられて、凛も面白そうに刀へ視線を送っていた。
鬼無子は刀を手に取り、鉄鞘から刀身を半ばまで抜く。三尺二寸三分の刀身は囲炉裏の火を映して火焔の色に彩られていた。
また銀狼に斬りかかるのかとひなは軽く腰を浮かせたが、鬼無子と銀狼が穏やかな表情でいる事に気づいて、一度は浮かせた腰を元に戻した。
「我が四方木家に代々伝わる霊刀”崩塵(ほうおう)”です。三尺二寸三分の刀身には総数三千四百六十七字の退魔真言を刻んであります。
四十日間、食と水を断ち、身の穢れを取り除いた刀鍛冶が妖魔の骨と玉鋼から打ち上げて、さる宗門の開祖が七日掛けて刀身に真言を刻んだと伝わっております。四方木家は父の代で没落してしまいましたが、この刀と私だけは残りました」
鬼無子の口調は柔らかい。没落した生家の事を語る時は幾分自嘲しているようではあったが、残された家宝の刀に対する誇らしさが聞き取れた。
穏やかな鬼無子の様子に、もう銀狼に斬りかかる様な事はなさそうだとひなは安心して平たい胸を撫で下ろした。
ちん、と音を立てて純銀の刀身は闇色の鞘の中に隠れた。
霊刀に興味を隠さぬ視線を向けていた凛が、もっとよく刀を見たいと言う欲求を堪えて口を開いた。
「ちょっといいか。鬼無子さんよ、あんた、昨日の夜に猿の妖魔共を斬り殺したろう? 今朝、うちの若い連中が森の中で十二匹分の猿の死体を見つけて大騒ぎだ。
どいつもこいつもどえらい斬られ方で死んでいるものだから、どんな化け物がどんな切れ味の獲物でやったんだって話題でもちきりなのさ」
「化け物か、これは手厳しい。まだ人間をやめたつもりはいのだけれどな。ただ猿達と立ち回りをしたのは確かだ。
その、村人達に聞いた大狼の巣だと言う小屋には誰も居なくて、そのまま山に踏み込んだのだが、道が分からず遭難している間に夜になり、これは野宿かと途方に暮れた時に、猿達に襲われたのだ」
「なるほどね。しかしあいつら全部山の内側の妖魔共だ。それがこっちに来るのはおかしな話だな」
「それはどういう意味だ?」
山の事情など知らぬ鬼無子は、山の内側と言う凛の言葉の意味を知りたい様子であった。これについては銀狼がひなに説明した時と同じ事を口にした。もともと内側で発生した妖魔である銀狼の方が、内側の事情に関しては凛よりも詳しい。
「なるほど。では某は出会う筈のない妖魔と遭遇し、戦ったというわけですな」
「嫌な予感が的中したな」
鉛を飲んだ様に不機嫌そうな銀狼である。ひなとの安住の地である山の外側の小屋に帰ってきたと思ったら、また内側の妖魔の話が出てきたのである。うんざりした調子になるのも無理はないだろう。
それに、ひなはまだ身を守る術を学んでいない。万が一目を付けられた時、ひなに加えて怪我を負った鬼無子を抱えていては、両者を守り抜く事は如何に銀狼といえども荷が重いだろう。
「鬼無子、一つ聞くが、猿の中に白い毛の老いた奴がいなかったかな? 君の傷口に残る妖気が、奴の妖気に似ている」
いきなり呼び捨てにされた事に鬼無子は少し驚いたようだが、すぐに頷いて銀狼の言葉を肯定した。
「白猿王で決まりだな。猿達の中でもかなり手強い連中だぞ。こちらに来た数はそう多くはあるまいが、凛、集落に戻ったら子供らが外に出歩かぬよう注意しておいた方がいい。お前くらいの腕が無いと、出くわした時に逃げる事もできんぞ」
「そんなに強いのか?」
銀狼の言葉が本当なら、かなりまずいと顔に書いている凛が、問うた。
「厄介なのは個々の力よりも必ず複数で協力し合いながら襲ってくる事だ。殺し合いが日常茶飯事の山で磨き抜かれた連携だ。手強いという言葉だけでは足りぬ」
「お前は嘘を吐かないからな。言う通りなのだろうが」
凛は渋い顔をした。小生意気だが熟しきらぬ若い魅力が形になったような美少女だから、そんな顔をしていてもなかなか愛らしい。
鬼無子は白猿王に刻まれた傷を着物の上からなぞり、敗北の屈辱を噛み締めている。白猿王の方も、多くの同胞を斬られて今頃は怒りに燃えている事だろう。
「とりあえず皆に注意するよう伝えておくよ。銀狼、邪魔したな。鬼無子さん、ゆっくり養生しな。この犬もどき、根っこは優しいから信じてもいいと思うよ。ひな、また後でな」
「はい。凛さんも帰り道にはお気をつけて」
「うん。あ、これ胡瓜と茄子だ。食ってくれ。じゃ」
風呂敷包みを軽く叩いてから、凛は小屋の外へ出て行った。
山に姿を見せた脅威を一刻も早く集落の仲間達に伝えるべく、凛は急ぎ足で走り去る。
「ふう」
傷が治りきらぬ状態で長話をした所為か、鬼無子は疲れた様子であった。
「大丈夫ですか、鬼無子様」
阿りも偽りもないひなの労わりの声に、鬼無子はタンポポの綿毛がかろうじて飛ぶ程度に、小さく笑う。
「鬼無子様ではなく鬼無子、と」
「え、えっと、鬼無子……さん」
「うん、それでよろしい。せっかくの料理が冷めてしまったな。温かいのを頂けるかな」
「はい」
ひなはにっこりと笑って、鬼無子が差し出した煮物の椀を受け取る。二人の打ちとけた様子を見て我が事のように喜んだ銀狼も、にっこりと笑った。
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