第9話 拾いモノ
夜であった。しっとりとした水気を含んだ夜気が、今宵はどこかさらりと乾いていた。草花を揺れしならせる風が頬を撫でて行けば、絹の布が柔らかく触れた様な感触を覚える事だろう。
滑らかな風の感触は、しかしどこかがおかしかった。
どこが、どう違うのか、何がおかしいのか具体的に言葉で表す事は、百年に一人の才能を与えられた詩人にも、生涯を宇宙の真理と生命の意味を解き明かそうと挑んでいる哲学の徒にも、神の、精霊の、世界の声に耳を傾ける宗教家にも不可能だったろう。
だが、はっきりと分かる。風の孕む異常が。夜の闇の中で、何か常ならぬ何事かが起きている事が。
だから、樵小屋の中でひなの枕代わりになっていた銀狼は、肢の上に置いていた顔を上げて、闇の何処かへと青く濡れた瞳を向けた。
銀狼の毛並みの中でも特に柔らかい腹の毛に沈みこむようにして頭を乗せたひなは、銀狼の視線に混じる胡乱な光に気づくともなく、安らかな眠りの国の住人となっている。
その安寧を守る事こそ、自分の生きる意味なのではないかと考えつつある銀狼にとって、この夜、風のささやきが伝えてきた異常は歓迎せざるものであった。
風は心臓から送り出されたばかりの鮮血の臭いと、苦痛に染められた断末魔の叫びを伝えていたのである。
蒼穹の色彩を帯びた視線の先に、果てしなく広がる闇の中、小さな白い三日月がいくつも地上に輝いては消えていた。
三日月は、一振りの刃であった。わずかに弧を描き、鍔元から切っ先に至るまで氷の冷たさを持った鋭利な刃が一か所に留まると言う事を知らず、麗しいほどに美しい舞を踊っている。
雲に隠されぬ限りにおいて、惜しみなく地上に白い光を注ぐ月が、闇夜の中で幾度も翻る白刃を冷たく美しく照らし出し、刃の操り手の姿もまた闇の衣を引き剥がして、その美貌を露わにする。
くるぶしまで届く臙脂色の長丈の羽織を身に纏った細い人影であった。腰まで届く長い髪は月明かりの下で明るい栗色に輝き、襟足で青い組紐を使って一括りに束ねられている。今は険しい光を宿しながら細められた瞳は、周囲の闇と同じ色だ。
刀を手放して薄く化粧を刷いて着飾れば、何処かの国の姫君として通じる気品を備えた美貌である。年も若い。十七、八かそこらだろう。
女だてらに刀を手にした姿から武芸者とは分かるが、土地の者達がおしなべて口を噤んで恐怖に震える妖哭山に、足を踏み入れるとは無謀としかいえない。
紅を塗らずとも赤く濡れ光る形の良い唇は、荒い息を吐きだしている。火に炙られたような熱を持った吐息は、夜気に白く染まっては消えてゆく。
女剣士の周囲をぐるりと囲む林の中を、いくつもの影が飛び回っている。俊敏な動作で女剣士が逃げられぬように囲む影は、人の姿に酷似したものであった。
眼を凝らして見れば、月光が露わにしているのは女剣士ばかりではなかった。赤茶けた大地に転がっている死骸もまた、月光は等しく照らしていた。
天空の玉座に座す月にとって、地を這う者の生死は無縁の様であった。
生者も死者も等しく照らし出す月は、今宵格別に冷たく輝き、それ故に美しかった。
こんな美しい月の晩なら、死ぬのも悪くないのではないかと、妖しい誘惑が胸の内に生じるほどに。
女剣士の白磁の肌の上を透明な滴が一筋流れた。長丁場に陥った戦いによって、体の隅々にまで溜まった疲労が流させた汗である。
ぎり、と女剣士の口の中で歯軋りの音が一つ。その背後の茂みから躍りでた影もまた一つ。
月を背に飛びあがったのは、人型に酷似した巨大な獣の影であった。白く輝く月を背に跳躍した獣は黒く塗り潰されていたが、筋肉の瘤を集めて形作った胸板は分厚く逞しい。
四肢は巨木の幹のように太く、手首や足首から先も人間のそれとはいささか造詣が異なっている。尻からは長い尾が一本ゆらゆらと揺れていた。
猿だ。それも女剣士より一回りも二回りも大きい大猿ときている。異様な体躯と瞳が赤光と共に噴出している凶悪な殺意からして、山の妖魔であろう。その逞しい腕の軽い一振りで、女剣士の首など呆気なく折れてしまうに違いない。
きょあ、と猿が奇怪な叫び声を上げる。甲高い叫び声は尾を引いてあらぬ方向へと流れていった。
背を向けていた女剣士が旋風の如く体を翻し、振るった刃が夜の闇の中でありながら、正確にその首を斬り飛ばしたのである。
辺り一帯に満ちる猿の臭いの変化か、それとも跳躍した時に何か音を立てたのか、はたまた猿の発する殺気を、女剣士が察知したのだろうか。
女剣士の傍らに重い音を立てて落ちた猿の首から、数瞬の間を置いて黒血がどっと溢れだして大地を濡らしはじめる。
既に女剣士の一刀によって命を絶たれた猿達の死骸は、この一匹に留まらず周囲に幾つもあった。それらの死骸から立ち上る血の臭いが風に乗り、銀狼にこの夜に起きている異常を知らせたのだ。
中には首のみならず四肢を斬り飛ばされた死骸や腰から両断された大猿もいる。細腕と見える女剣士に、どれほどの膂力があったものか。
いや、大猿どもの命を一刀で絶った所業は、力のみに頼ったのではなく、そこに凄絶な技が加わったものだったろう。
刃によって断たれた猿達の骨や肉を見ればわかる。
彼らの死を静かに見守っていた月が骨の断面に克明に映り、肉はようやく血を滲ませつつあった。
自分が斬られた事に、今、気づいたとでもいう風である。
花咲く青春の年頃であろうに、この女剣士は果たしてどんな生き方をしてきたのか。
背後から襲い来た猿の首を斬り飛ばした女剣士は、そのまま動きを止める事無く動き出した。一息、深く肺の中に空気を吸い込み、地を蹴った。血を吸った地面はじゅく、と音を立てて抉れた。
闇の中に溶けていた黒い毛皮の猿達もまた一挙に動きだした。息を潜めていた猿達の数は十匹を下るまい。いずれも先に首を落とされた猿同様に、両腕が疲れにくたびれて動かなくなるまでの間に、一匹で人間の百人くらいは殴り殺せそうな大猿であった。
四方から迫る殺気が肌を刺し、女剣士に生命の危険が迫っている事を盛大に告げる。四肢を躍動させて地を掛ける者、飛び跳ね回り女剣士の頭上から襲いかからんとする者。
天地から襲い来る猿達をいかにして迎え撃つや、美貌の剣士よ。
女剣士が迎撃の第一刀目を送ったのは正面より迫る大猿であった。腰を沈めながら懐に飛び込む女剣士へ大猿は振り上げた両腕を振り下ろす。
技巧の欠片も持たぬ力任せの、まさしく野獣の一撃であったが、込められた破壊力は大岩を砂山の如く容易く砕く。ましてや人間の女など、ただの血と肉の塊に変えるのはあまりに簡単な事であろう。
その両腕の肘を白光が薙いだ。一瞬の事である。地を這うほどに低く身を屈めた女剣士が、踊り掛かってきた大猿の股下を転がる様にして潜ると同時に跳ねあげた刀で斬ったのである。
肘から先を喪失した事による苦痛の叫びが大猿の口から上がるよりも早く、女剣士は片膝を着いた姿勢で、自分の顔の横を流れて行く大猿の尾を掴んだ。
ぎち、と肉と骨が軋む音に続いて、肉と肉とがぶつかりあう重々しい音が連続する。
あろうことか、女剣士は尻尾を掴んだ大猿を振り回し、前と左右から飛びかかってきた三匹の大猿へと叩きつけたのである。
横殴りに同族を叩きつけられた三匹の大猿は、思い切り蹴り飛ばされた毬の様に、木々へと叩きつけられて脊髄の砕ける音と共に血反吐を吐きながら絶命する。
ひじから先を失い、挙句に尾を掴まれて振り回された大猿はと言えば、耳や鼻から血をだらだらと流し、頭蓋骨が割れて灰色の脳漿が零れている。
後方から追いすがる新たな大猿へと死体に変わった大猿を叩きつけ、女剣士は止めていた足を再び動かし始めた。
足を止めて周囲から襲い来る大猿達をいちいち斬り伏せていては、数の差に飲み込まれて、あっという間に体力を消耗して嬲り殺しにされてしまうだろう。
きいきい、と多くの仲間を殺された怒りに燃える大猿達の声が木々に木霊して、どこから追いかけて来ているのか、正確な位置の把握が出来ない。
大猿達の殺気は辺り一帯を濃密な霧のように覆い尽くし、はっきりと相手の姿を見える距離まで近づかねば、個別に殺気を判別する事は難しい。
はっはっ、と女剣士の唇からは熱を孕んだ荒い息が矢継ぎ早に零れている。ここに至るまで十匹以上の大猿達を刃の赤い露と変え、数時間に及ぶ大立ち回りを演じている事を考えれば、驚くべき体力であった。
月光を黒影が遮り、女剣士の影を飲み込む。左右上方の枝から二匹の大猿が飛びかかって来たのだ。黒い剛毛に覆われた手足のどれか一つが、女剣士の体に触れるだけで月下の死闘に決着が着く。
その事を他ならぬ女剣士自身が理解していただろう。
女剣士から見て左の大猿の顔が、鼻の辺りで一気に陥没し、ぼっとくぐもった音をたてながら頭の後部から血や脳をまき散らして体勢を崩す。女剣士の左手が投じた投げ刃の仕業である。
黒い鉄の刃は冷美な月光に一瞬の輝きを放ち、大猿の皮と肉と骨をまとめて貫いたのだ。大猿は苦痛を感じる間もなく死んだに違いない。
左の大猿の絶命を認め、女剣士の思考は右側の大猿に集中した。その眼前には大猿の右腕があった。五指は開き、薄汚れた鋭い爪が女剣士の美貌をズタズタに切り裂くべく振り下ろされる。
薄い貝殻の様な唇から、裂帛の――空を舞う小鳥たちが気絶して落ちるような気合いが迸った。
風と共に走っていた足を無理やりに止め、大きく地面を抉りながら速度を殺した女剣士の鼻先を、大猿の爪が虚しくかすめる。必殺の一撃を躱された大猿は、構わず続く第二撃を放っていた。
大きく空振った腕の勢いを利用し、縦に旋回した大猿の両足が、雪崩のように女剣士の頭上へと襲いかかる。風を巻いて落ち来る大猿の両足は股間から左右に分かれ、断面から黒い血を拭きながら女剣士の彼方へと流れていった。
大猿が体を回転させた隙に、腰を落とした女剣士が振るった縦一文字の一刀が、大猿の股間から入り、頭部までを両断していたのだ。
黒い毛皮や分厚い脂肪、柔軟さと剛性を併せ持った大猿の肉体をものともせぬ太刀筋は、なにか神秘的な秘密を持った技法によるものとしか思えない。
どちゃ、と音を立てて落ちた大猿の体の内から、湯気を立てて臓物が零れ落ちる。吐き気を催す臓物には目もくれず、女剣士は歯を食い縛って、無理をさせた足からの苦痛を堪える。
死地を幾度も潜った戦人でも絶望の甘い毒の囁きに屈してもおかしくはない状況でありながら、わずかな怯えも恐怖もない瞳は、この美貌の女剣士の精神の強靭さをよくあらわしている。
諦めを拒絶する強い意志が絶望の暗闇に一筋の光明を差し込む事は確かにあるが、この女剣士にとっては、そのたった一筋の光明は縁なきものであったのかもしれない。
星の一つでもあれば昼の如く夜の闇を見通す女剣士の闇色の瞳に、ひときわ巨大な猿の影が映る。長く白い毛に覆われた老いた猿である。周囲には一回り小さい猿の影がいくつもある。
先程までの大猿達の襲撃が、自分をここに追い込むものであった事を悟り、女剣士が岩の様に結んだ唇から一筋の血が流れた。迂闊な己を呪うあまりに唇を歯が噛み破ったのである。
紅を塗った様な唇が、己の血でより妖しく美しく星と月の明かりの下で濡れ光る。
他の大猿よりも額と下顎が突き出た白い大猿が、鼻をひくひくと鳴らしている。女剣士の唇を濡らす血の臭いを嗅いでいるのだろう。白猿の歪んだ口元を見て、女剣士の顔に嫌悪の色がありありと浮かぶ。
白猿が浮かべたものが笑みであると見抜き、それがひどく不愉快な、弱者をいたぶる喜びに満ちた人間的な笑みに見えたからだった。
*
朝陽の差し込む樵小屋の中で、銀狼は普段は腹ばいになって眠る所を珍しく仰向けになって眠っていた。その仰向けになっている銀狼のお腹の上に上半身を預けるような姿勢で、ひなが健やかな寝息を立てながら寝入っていた。
銀狼の名の下となった銀色の毛並みは、初夏の時節にもかかわらず一本一本が長く伸びて傾国の美女の艶髪にも勝る輝きを放っているが、体の内側、つまりお腹や肢の内側の毛は短い。
銀狼のお腹の毛は特に柔らかで、短い毛が白銀の平原のように広がっているその極上の感触は一言では表し難い心地よさがある。
預けた体をどこまでも沈むように柔らかな感触が受け止めるが、ある程度の所まで来ると銀狼の体がほどよい反発力で受け止めて、ごく自然に最も快適な柔らかさと姿勢に導いてくれる。
最近、銀狼に対して遠慮がちにではあるが、銀狼の体を触らせてもらえるようひながお願いをし始めており、ひなに何か頼まれるのが嬉しい事のこの上ない銀狼は、狼面ながらにも満面の笑みを浮かべてひなの望むようにさせている。
そのうちのひとつが、このようにひなの布団や枕代わりになる事だった。
「ふぅ………ぅうん」
かすかな声を挙げながらひなは目を覚ました。虐げられていたに等しい村長の家での暮らしと違い、こうも早い時刻に目を覚ます必要は無いのだが、数年をかけて体に染み付いた習慣はそう簡単には変らず、銀狼と暮らし始めてもひなの朝ははやい。
まだ眠たい寝ぼけ眼を小さな手でこしこしと数度擦ってから、ひなは掛け布団代わりの銀狼のふさふさと触れる指が心地良い尾を、宝物のように丁寧な扱い方で除けて、顔を洗うべく土間に下りて水瓶の所まで歩いてゆく。
蓋の上に置いてある柄杓で水を掬い、手に取ってからなるべく音を立てぬようにして顔を洗う。ややぬるい水に触れた神経はゆっくりと目を覚まし始め、ひなは頭の中に残っている眠りの国の魔の手をすべ取り払うことに成功する。
「ふう」
蓋と柄杓を戻して手ぬぐいを取って顔と前髪を濡らした水を拭う。一日の始まりである
「あ、銀狼様」
振り返れば仰向けの体勢から腹ばいの体制になり、どこまでも青い月光が凝縮された様に美しい瞳が、ひなの無垢な黒瞳と見つめあう。
「おはよう、ひな」
どこまでも穏やかで優しさに満ちた銀狼の声。
「おはようございます、銀狼様」
挨拶を交わす相手への信頼と親愛に満たされたひなの声。
互いを見つめあいながら挨拶を交わすこの一時が、一人と一匹にとっての一日の始まりを告げる合図だった。
*
すっかり歩き慣れた川へと続く道を、ひなはいつものように銀狼と肩を並べて歩いていた。途中、木々の根の間に顔を覗かせている食用・薬用に使える植物を採取しながらの道行なので、まっすぐ川に向かうよりは時間がかかる。
洗濯物を入れた竹籠はひなが背負い、摘み取った瑞々しい新芽や傘を広げている茸、土まみれの植物の根を乗せた笊と空の桶を銀狼が咥えている。
ひなは、時折ちらっと銀狼の横顔を盗み見ている。目を覚ました時からなんとはなしに感じていたのだが、銀狼の様子がいつもと少しだけではあるが違うのである。
感情を隠すと言う事が下手な銀狼と、他者の感情の変化に敏感なひなである。隠し事に関しては、隠すにしても見破るにしてもひなの方が銀狼よりも上手なのだ。 銀狼の方は珍しくひなの視線には気付かぬ様子で、考えごとに耽っているようだ。
川に着くか小屋に戻ってから話を聞こう、とひなは結論し、銀狼の方から話さない限りは、なにかあったのかとは聞かぬ事にした。
木々が織りなす壁を抜けると、歩き慣れたのと同じように見慣れた水の流れとせせらぎがひなと銀狼を迎えた。
銀狼の庇護下に在る為、妖魔や獣に襲われる事のないひなにとって、豊かな水源と自然に支えられた山での生活は、村での暮らしよりもはるかに快適で過ごしやすいものだった。
よーいしょ、と言って、ひなは川辺の手頃な石に腰かけて、背中の竹籠から洗濯物を取り出す。沢爺に挨拶しなきゃ、と思い立って水面から顔をあげようとしたひなの目に、ゆらゆらとほぐれた糸の様に水の流れの中をたゆたう赤いものが映る。
血だ。
驚きながらひなが顔を上げて銀狼に血です、と言おうとした時にはすでに銀狼が動いていた。
とん、と小さな音を立てて川の流れの中に顔を覗かせている岩を蹴り、小川の真ん中の岩の上に器用に立って、血の流れの源を見つけ出している。
上流から流木にかろうじてしがみつき、流れてくる女の姿を銀狼の瞳は映していた。腹の辺りから水に垂らした墨汁の様に赤いものが広がっている。
どれだけの間、血を流していたのかは分からないが、かなりの量の血を失っているに違いない。というよりも普通の人間なら、とっくに死んでいると、川面を染める血の量から銀狼は判断していた。
しかし、同時に銀狼の聴覚はかすかな女の吐息を聞きとってぴくぴくと小刻みに動く。
「生きている」
「ええっ! た、助け……」
「ふむ」
と、まったく焦っても急いでもいない返事をひとつして、銀狼はひなが助けないと、と言い終わるよりも早く、ざぶん、と音を立てて赤いものが混じる水の流れに身を躍らせた。
川面に潜った銀狼の顔が浮かびあがり、四肢をゆったりと動かして水を掻き始める。いわゆる犬掻きだ。
水を掻く脚力が尋常ではないせいか、水妖かと見間違える速さで泳ぎ、銀狼は見る見る内に女へと近づく。
上流からの流れに浮かぶ女が捕まっている流木の端を咥え、力強く水を掻いてひなが待っている川岸へと方向を転じる。
銀狼は、女の右手に一振りの刀が固く握られているのに気付いていた。この女は無論、昨夜、猿の妖魔達と死闘を演じていた女剣士である。
(昨日の胸騒ぎの理由は彼女か?)
女剣士の、血の気を失って大きな白蝋の塊から削り出したように白く透き通った顔色を見つめつつ、銀狼は面倒な事にならなければよいが、と心中で憂いた。十中八九、いや百に九十九くらいは面倒になりそうだとなかば諦めていたが。
ざばっ、と水音を立てながら川岸へと上がって咥えていた流木を離し、川岸の石に頭を打ち付けぬよう、注意して女剣士の体を横たえた。華奢な体つきが印象的だった。
武芸者でありながらろくに鍛錬をしていないのか、鍛えても体型の変わらぬ体質なのか。
仰向けに転がった女剣士の左肩から左乳房の上の辺りに掛けて、太く深い爪痕が斜めに横断している。流血の原因はこの一条の爪痕であった。
最悪、心臓まで達しているかもしれない。
一般的な人間の生命力がどの程度なのか銀狼はよくは知らなかったが、それでも女剣士がまだ息をしている事は何かの間違いとしか思えない。ぶるぶる体を震わせて、銀狼は全身から滴る水の滴を払った。
女剣士の傍らまで駆け寄ってきたひなに、手早く銀狼が指示を出した。ひなは目の前で死に瀕している女剣士の姿に、動揺を隠せず慌てている。こういう場面では、やはり銀狼の方が肝は座る様だ。
「ひな、傷口を拭ってから、天外に貰った薬を塗れ。それから私の背に乗せて小屋まで運ぶぞ。処置を急げば、なんとか助かるかもしれん」
「ははは、はい」
腰帯に括りつけている革袋から、天外に貰った薬箱を取り出し、ツンと鼻を刺激する臭いを放つ例の軟膏薬の蓋を取る。
いまだに臭いに慣れておらず、銀狼は思わず顔を顰めるが、ひなは構わず指にたっぷりと緑色の薬をすくい取り、大急ぎで女剣士の傷跡に塗り込んで行く。
欠損した血肉を薬で埋め終えた女剣士の体を、銀狼の背に乗せて落ちないように縛りつける。
途中、何とか刀を放させようとするが、女剣士は固く握って離さない。まるで最初からそう彫琢された石像の様であった。
とはいえ刀を握ったままでは、銀狼が疾走する間あまりに危険なので、ひなはなんとか凝り固まった女剣士の指を開こうと努力したが、時間を惜しんだ銀狼が止めた。
「ひな、君も私の背に乗って彼女の右手を抑えていなさい。彼女の体に覆い被さる様にしてしがみついていろ」
「はい」
飛びかかる様にして銀狼の背の女剣士に覆いかぶさり、刀を握ったままの手を抑えてひなががっしりと掴まる。
「行くぞ」
ひなの返事を待たずに銀狼は駆けだした。小屋から歩いて来てもさほど時間のかからない川だ。
ひなと女剣士を振り落とさぬように速度を落としても、銀狼の足ならばすぐに到着できる。ましてや銀狼の庭と言っていい場所だ。天外の小屋を訪ねた時と違って、邪魔が入る要素もない。
銀狼の四足が忙しなく躍動し、あっという間に生活の場である小屋へと戻って、慌ただしく中に入る。縛っていた女剣士を急いで下ろす。
「火を焚いて湯を沸かせ。体がすっかり冷え切っている。湯の半分に薬を溶かして薬湯にしよう。すぐに用意しなさい」
「はい!」
長い事水に浸かっていたのか、すっかり冷え切っている女剣士の体を温めるべく、銀狼は布団の上に仰向けに寝かせた女剣士の服を、口と爪を使って器用に脱がせ始めた。
囲炉裏に火を熾していたひなが、一瞬咎めるような目線を銀狼に向けたが、その行為が純粋に女剣士を救うものであると納得し、火を熾す作業に戻る。
次いで土間に戻って竈の火の具合を見て、湯を沸かす用意を始めだした。水甕にはたっぷりと水を蓄えてあるから、ほどなくして用意は整うだろう。
羽織を脱がせ、腰帯を解き、袴を口に咥えて脱がす。たっぷりと水を吸った生地は女剣士の白い肌に張り付き、脱がそうとする銀狼に抗ってくる。
加減を間違えて牙で服に穴を開ける様な事や、女剣士の肌に傷をつけぬように注意し、銀狼はあくまで丁寧に少しずつ脱がす作業を進めて行く。
作業の途中、ひなが置いていった手拭いで、時折水の滴を纏う女体の首筋や頬を拭う。
太陽が顔を覗かせ始める早朝から、とっぷりと日が暮れるまで農作業に駆り出されていたひなの肌は、苛烈な太陽の日差しを浴びて焼けていたが、この女剣士の肌は驚くほど白い。
ほとんど致死量の血液を失い、皮膚の内側を流れる血管の色が薄くなっている事もあろうが、それを抜きにしても武に生きる者とは思えぬ艶めかしい肌つやだ。
絹の様な手触りの肌理細やかさもさることながら、肌から薫る甘い香りといい、銀狼に今少し獣としての本能があり、腹を空かしていたなら、すぐさまむしゃぶりついていたに違いない。
最後の一枚を脱がせ終え、濡れた衣服を傍らに放った銀狼は女剣士の体を見つめた。紐を解いて女剣士の背にざあっと栗色の風の様に広がっている長い髪は、一本一本が光の粒を纏っているように美しい。
閉じた瞼を縁取る睫毛は細く長く、力無く閉ざされた唇は血を失ってもなお、牡丹の花びらのように赤く扇情的であった。
浅い呼吸で緩やかに起伏する胸は大きな山の線を描いており、ひなも大きくなったらこうなるのだろうかと、銀狼はなんとなく考えたが、この女剣士の様に成長したひなの姿は、いまひとつ想像がつかなかった。
どのような鍛錬を積んだのかは想像もつかぬが、白い裸身を晒す女剣士の体は淫らと言ってもいい豊さだった。胸や尻、太ももなどにはしっとりと脂が乗っているのに、腰の辺りは驚くほどくびれていて、手首や足首も細い。
なまじ白磁の人形に血を通わせた様に美しい体つきだけに、左肩から乳房の上までを切り裂いている爪痕が、ひどく無惨なものに見える。
刀に残る妖気と獣の臭気から、この女剣士がかなりの数の妖魔を斬り捨てた事に、銀狼は気付いていた。しかし女剣士の武芸者と言うには艶のあり過ぎる体つきと、どこかあどけなさを残している美貌から、多数の妖魔を屠った剣技の持ち主とは信じ難い。
とりあえず口に咥えた手拭いを使ってほっそりとした腕や足、魅惑的なくびれを描く腰、張りのある乳房を、構わずごしごしと拭う。いくら意識を失い生死の境を彷徨っているとはいえ、裸に剥いた女人に対してあまりに遠慮のない行為だ。
さらしを巻こうとしたひなが、銀狼の無遠慮な様子を見て呆れた顔をして、たしなめた。
「銀狼様、そんな乱暴にしてしまっては、お侍様が目を覚ました時に怒られてしまいますよ」
「なぜだ? そんなに乱暴にしてはいないぞ。それに体がこれ以上冷えてしまってはよくないだろう」
「う~ん」
どう言えば銀狼様が理解してくれるのかしら? とひなは首を捻ったが、今は一刻を争う状況なので後回しにした。銀狼の行いが純粋な好意に基づくものである事は、紛れもない事実だけにややこしい。
「とにかく、さらしを巻きますからおどきください」
「まあいいが」
ひょい、とどいた銀狼の代わりに、ひなが寝かせた女剣士の体を起す。村ではこんな大怪我をした者はいなかったから、本格的な怪我の手当てをした経験はない。それにしては手際良くさらしを巻いてゆく。
亡くなった父から怪我をした時や山で遭難した時の対処法を習っていた成果である。
ぐったりと脱力しきっている女剣士の体を銀狼に支えてもらいつつ、ひなはさらしを巻き終えた。
「怪我だが爪で裂かれている以外には、骨が折れている様子もないし、打ち身もないな。どこから川に落ちたかは知らぬが、運が良い。あるいは」
「あるいは?」
「川を流れている間に治ったのかもしれん」
「銀狼様、いいですか。人間はそんな頑丈にできていないのですよ。銀狼様は大変頑丈で、傷の治りも早いそうですが、勘違いしてはいけません」
「わかっているさ」
幼い子供に言い聞かせる調子のひなに、銀狼は小さく苦笑する。とはいえ、女剣士の怪我以外にも気になる事はある。少なくとも銀狼が大狼を滅ぼして以来、武芸者や退魔士の類が妖哭山を訪れた事はなかった。
なのに、この女剣士が今になって、どうして山を訪れたのか。その目的が銀狼には気がかりだった。
「巻き終えました。後は体を温めてなんとか意識を取り戻してもらわないと」
囲炉裏で燃える火に照らされる女剣士の体は微妙な陰影を描き、赤色に染まる裸身は時折血に染まったように見え、生死の境を彷徨っているせいか背徳的な妖美さを、目には見えぬ羽衣として纏っている。
「こう言う時は人肌で温めるといいって、お父さんも凛さんも言っていました」
銀狼に語りかけると言うよりは自分に確認する様に言って、自分の帯を解こうとしているひなを、つんつんと銀狼の鼻先がつついた。
「私の方が温かいぞ。毛皮があるからな」
言われてみれば確かに、とひなは頷いて銀狼のふんわりとした毛並みを見つめる。時折枕代わりにし、時には布団代わりに銀狼に抱きついて眠るひなは、銀狼の言い分の確かさが良く分かる。
「でも」
「潰さないようにちゃんと肢を突っ張るぞ」
「えっと、そういう問題では」
ひなにとっての問題は、裸の女性に銀狼が覆い被さると言う事だ。銀狼に淫らな意図はまるでないし、ひなも銀狼の提案に感じている抵抗がなんなのか正確には分かっていなかった。
もっとも、生物に基本的に備わっている種を残すという本能が、銀狼に備わっているのか甚だ怪しい。
天外や凛が口にしたが、銀狼は母の腹から産まれたわけではない。そんな素性の持ち主である彼に、はたして子孫を残す能力や本能があるのか、当の銀狼とて知らないだろう。
銀狼の子種を欲する狗遠の事を考えれば、一応備わってはいるのかもしれないが、狗遠とて実際に試したわけではない。
口をもごもごさせていたひなは、銀狼のまっすぐな視線を受けて、自分の考えを改めたようで、
「潰しちゃだめですよ」
と、念を押した。どこか哀願するような、はたまた縋る様な声であった。どうしてそんな声を出すのか、銀狼はさっぱり分からなかったが、とりあえず頷く。
銀狼に女剣士を助けようと言う気持ちはあっても、自分の体で押し潰そうなどと言う考えは欠片もなかったのは事実であったが、ひなの声音に含まれている感情に気づくには、彼にはまだ経験した事のない感情が多すぎた。
「気をつけよう」
再び寝かされた女剣士の体の上を跨って、銀狼はそのやたらと大きな体を慎重に下ろしはじめる。女剣士が窒息させてしまっては元も子もないから、首から先に圧し掛からぬよう注意しなければならない。
ひなは火の具合を見つつ、女剣士の長い髪が吸った水を丁寧に拭う事を繰り返していた。
「それにしても、この方はいったいどうしてこんな目に遭われたのでしょうか」
「爪痕からして猿だな。ただの猿ではない。妖気の残滓からして相当齢を重ねた強力な奴だ」
「天外様が言っていた、山の内側の妖魔ですか?」
「そうなるな、おそらくやったのは白猿王。猿達は同じ猿同士の部族の中でも、いくつかの部族に分かれているが、その中でも最大の武闘派の長老だ。
まあ、温厚な性格の連中などいないも同然だけどね。紅牙ほど強くはないが悪知恵が回るから敵にすると厄介だな。しかしなんでまたこう立て続けに大物と遭遇するのかな」
嘆息する銀狼を心配そうに見上げ、ひなが質問を重ねた。
「あの、このお侍様は山の内側に行かれたのでしょうか?」
「どうかな。血の臭いを辿ればどこで戦ったかも分かるだろうが。ただ、この女人は相当に腕が立つのは間違いない。
それに獲物もいい。刀の刀身にびっしりと細かい文字が彫り込んであるだろう? 意味はよく分からんし、読めんが、魔を退け霊験を帯びる類の経文か呪言だな。
それで斬られたら、私でもかなりの深手を負う。大抵の妖魔などその刀の霊気だけで近寄る事さえ嫌がるだろうね」
女剣士の枕元に置いた刀を見てからひなは、へえ、と感嘆の吐息を吐いた。闇色の鉄鞘といい、通常より一尺長い三尺二寸三分の太刀と合わせて考えれば、女の細腕には到底似合わぬ獲物である。
「名刀は打った方の魂が込められているから、ただそれだけで霊気を帯びるって父に教わりましたけど、刀そのものにそういう特別な事がされているのなら、とても貴重なものなのでしょうね。きっと名のある名家の方なのでしょう」
「それならそれで、どうして供の者も連れずに一人で山に足を踏み入れたのか気になるな」
「ん~~、武者修行中なのではないでしょうか? 腕試しに山の妖魔退治に赴いたとか」
「だとしたらまさしく命知らずだな。実際、こんな目に遭っているわけだしな。とにかく、怪我の事は天外に連絡が取れないのが痛いな。手当ての適切な仕方や山の状況もあいつに聞けば確実なのだが」
遠見の鏡によってわざわざ山を行き来せずとも話ができるのは良かったが、天外から渡された鏡は、天外の側からしか連絡を取る事が出来ない代物であるらしく、おおよそ三日に一度の頻度で、夜になると唐突に鏡面が光り出すと天外の皺面が浮かびあがり、ひなと銀狼に宿題の確認をしてゆくきりだ。
こちらからはどう鏡をいじくっても天外と連絡が取れず、なんとも中途半端な品を渡されたものである。悪い事に天外から連絡が来たのが昨晩であったから、連絡が取れるのは二日後の夜となる。
しかし、天外からの連絡は向こうの気分次第で数日のずれがでるから、必ずしも二日後に連絡が取れるとは限らない。
銀狼と言葉を交わす間も女剣士の髪を拭っていたひなが、手を止めた。できる限り水気は取ったから、あとは囲炉裏の火で自然に乾くのを待つしかない。
天井から垂れている自在鉤に鍋を吊るし、竈の方で沸かしておいた湯を移してから、例の途方もない臭いを放つ薬を溶かして薬湯にする。あっという間に緑色に濁っていく湯からは、不思議とあの強烈な臭いが消えていた。
臭いに備えていた銀狼が、空気の成分に何の変化もない事に、訝しげに眉を寄せたほどだ。湯に溶けた事か、あるいは熱を加えられた事で成分に変化が生じたのかもしれない。
「この人、助かりますか?」
「私達に拾われたくらいだ。運もあるだろうから、何とかなるとは思う。その薬湯が毒でなければね」
意味ありげに鍋の中の薬湯を見た銀狼の言葉に、ひなは無言で鍋の中の緑色の液体を見て、
「薬、ですよね?」
と、信じている様な、信じていない様な微妙に力の無い声を出した。
「たぶん」
答える銀狼の声も、確信の無い曖昧なものだった。しばらくひなは匙を持ったまま躊躇していたが、このまま何もせずにいても女剣士の容態が良くなるわけでもないと結論した。
銀狼の毛皮と体温、囲炉裏の火で女剣士の体が温まり出すのに、そう時間はかからなかった。女剣士の呼吸は少しずつ力強さを取り戻し、白蝋の頬に血の気がさしてうっすらと桜の花びらの様に色づきはじめている。
「そろそろ薬も飲めるだろう」
女剣士の体から銀狼が巨体を除けて、床の布団と体の間に前肢を滑り込ませて小
石でも拾うみたいに少しだけ起こした。
氷雪の精が美女の形を成したのかと見紛う美貌は、厳寒の冬が終わりを告げて、春のうららかな陽気がゆっくりと訪れ始めた様に熱を取り戻し始め、懸命に生きようとしている事を告げていた。
「生きられるのなら、生きたいものな」
銀狼の声には慈しみの心が込められていた。
「飲んで下さい。お薬ですから」
ひなはうっすらと開かれた女剣士の唇へ、少しずつ薬湯を流し込んで行く。飲み下す力はまだ通り戻せてはいないのか、緑色の薬湯は女剣士の小さな口の端から零れてしまう。
何度か同じ事を繰り返してから、ようやく、こく、と本当に小さな飲み下す音が女剣士の口の奥からした。
「飲みました! やっと飲んでくれましたよ」
「やれやれ、もう少し飲ませたら、服を着せて様子を見よう。後は彼女の体力と運
次第だ」
「はい」
女剣士の服は乾かしている最中だから、ひなの着物を着せる事になった。だいぶ丈が短くなってしまうが、気にしている場合ではなかった。
「頑張ってください。生きて、生きてくださいね」
口から流れ込んできたものが、自分にとって役に立つものだと本能的に分かるのか、女剣士は、ひなが口元へ運ぶ薬湯を懸命に飲みだした。
その後も銀狼とひなが、どたばたと女剣士の容体の変化に右往左往していると、あっという間に小屋の外は漆黒の闇が舞い降りていた。
時折訪ねてくる凛が来れば、有無を言わさず手伝いをさせる所だが、運悪く今日は凛の訪問は無かった為、銀狼とひなは丸一日女剣士に付っきりとなり、炊事や洗濯は後回しとなった。
幸い、傷跡から入った悪意ある妖気は天外の薬のお陰か無害なものとなっており、また化膿する事もなく、高熱を発する様子もなかった。もしそうなっていたら、銀狼とひなはさらに大騒ぎしながら一日を過ごす羽目になっていただろう。
ゆっくりと起伏する女剣士の胸元を見て、ほっと安堵の息を吐くひなに、銀狼が声をかけた。少女の横顔には濃厚な疲労の影が差している。
「今日は疲れただろう。もう眠りなさい。私が彼女の様子を見ておくから」
「私も……いえ、そう、ですね。じゃあ、今日はお言葉に甘えます」
銀狼の気遣いに、一度は断りを入れようとしたひなだったが、自分まで体調を崩しては銀狼に申し訳がないし、女剣士の面倒を見る人手が減ってしまうと考え直し、申し出を受け入れた。
ふわぁ、と小さな口を押さえながら可愛らしい欠伸を堪えて、ひなは女剣士の傍らから立ち上がり、寝床の用意を始めた。その姿を横目に見て、銀狼は穏やかに笑っていた。
*
ひなと女剣士二人分の寝息とちゅんちゅん、という雀の鳴き声だけが銀狼の耳にする朝の音であった。夜の間、女剣士の容体に変化が無いか気を入れて見守っていた銀狼は、東の空が白み始めるにつれ、ぬくみを帯びて行く朝の空気に目を細める。
山のどこかに大猿の死骸と血塗れの大地が広がっているとは信じられぬ清澄な朝であった。囲炉裏を挟んで女剣士の反対側に眠っているひなの、安らかな寝顔を見る、という日課を行おうとした銀狼の耳が女剣士の魘される様な声を捉えて、はたりと動く。
長い睫毛がかすかに震えはじめ、瞼がゆっくりと開こうとしている。
左肩から胸に掛けて深く抉られたというのに、仙人の調合した薬を使ったとはいえ、一夜で意識を取り戻そうとしている事実は大した生命力の一言で済ます事は出来ないだろう。
今もいくつかの疑問は胸に渦を巻いてはいたが、それは後で聞けばわかる事だ。銀狼は鼻先を寄せて赤い舌で女剣士の頬をぺろりと舐めた。別に美味しそうだ、とかそういう意図はない。
以前、山の中で母犬が産まれたばかりの子犬を愛おしげに舐めていた光景を思い出し、元気づけるつもりで頬を舐めたのである。ひなに対しても似た様な事をした事があった。
生暖かい感触に、ぱちりと女剣士が目を開いた。吸い込まれそうな錯覚を覚えるくらい深い闇色の瞳は、最初焦点をぼやかせていたが、すぐに自分の顔を覗き込んでいる冗談の様に大きな狼に気付くや凍った。
意識を取り戻した女剣士の顔を良く覗きこもうと、銀狼が動いたのが良くなかったのかもしれない。銀狼の挙動に女剣士は反応して、掛けられていた掛け布団をはね上げて、銀狼の視線を遮る。
「ん?」
銀狼の方はなんとも気の抜けた声を出したきりで、その間に女剣士は自分の枕元に置かれていた愛刀を手にしていた。
周囲を探った様子はなく、まるで目に映さずとも刀の位置を把握していたように迷いなく掴み取ったのは、どういうわけか。
間抜け面をしていた銀狼の顔に緊張のさざ波が起きたのは、はね上げられた布団を銀光が貫き、狙い過たず銀狼自身へと迫ってきた時である。
氷の様に冷たい殺気を受けて顔を傾けた銀狼のすぐ横を、光る刃がかすめた。間一髪という文字そのままに、斬られた銀毛が一本、はらりと刀と銀狼の間隙の空間に落ちる。
刀が布団を貫いた時と同じ速さで引き戻された、と銀狼の目が認めた時、布団を回り込んだ女剣士の足が床板を踏み抜きかねぬ強さで踏み込み、だん、と大きく音を立てていた。布団はまだ落ちてもいない。
刀を振るう女剣士にとって、屋内での立ち回りは望むべからざる所ではあったろうが、銀狼の巨躯と小屋の中と言う状況を考えれば、持ち前の素早さを活用できぬ銀狼の方が不利だろう。
びょう、と風を裂く鋭い音を立てて走る一刀を、銀狼は水に沈む様に身を伏せて後方に低く飛んで躱した。女剣士の達の速さもさることながら、銀狼の身のこなしも野の獣の範疇を越える速さであった。
とはいえ、銀狼の巨躯からすれば狭い小屋の中である。身を伏せた姿勢はかなり苦しいものであり、続く二太刀目を躱すのは至難の業であろう。
ひなの物である為、膝までしかない短い丈の着物からは、女剣士の瑞々しい太ももが露わになっていた。いつでも四方に動けるよう適度な緊張と、力みのある両足は水が滲むようにして小屋の中を照らす朝陽に、白々と輝いている。
刀を振り回すよりも、刺突を主体とする戦法に切り替える為、ゆるゆると刀身を動かす女剣士と身を伏せた銀狼が、互いに次の動作へ移るきっかけを探り始める。
そんな時である。よりにもよってと言うべきか、ひなが唐突に小屋の中を満たした緊迫の雰囲気に目を覚まして、すぐに銀狼と女剣士が対峙している事に気づいて体を起こした。
はね上げられた布団がようやく落ちた。
あっと驚いた声がひなの口から零れるより早く、ひなに気づいた女剣士が凛とした声で言う。声そのものは金鈴の音とはこれか、と驚くほど美しい響きなのに、血飛沫の舞う戦場の最前線で、萎縮する味方を鼓舞する勇猛な将軍に相応しい凛々しさである。
「おのれ、貴様が大狼か、この人食いの化生め!」
なんと説得したものかと頭を悩ませていた銀狼は、女剣士の台詞に、んん? と首を捻った。最近どこかで誰かに同じような勘違いをされたばかりである。
状況把握に努めていたひなも、女剣士の台詞に銀狼同様、あれ? と小首を捻っている。最近どこかの誰かに同じような台詞を言ったばかりのような気がする。
「近隣の村々を呪い無辜の村人達を苦しめ、大地を乾かし野の獣達さえも苦しめるに飽き足らず、いたいけな幼子を食らわんと生贄に求める所業、断じて許し難い。今ここで、我が刀の錆にしてくれる!」
火炎の息を吐かんばかりに熱く語る女剣士に対して、銀狼はふむ、とひとつ頷き、ぱた、と長い尾が床を軽く叩く音がした。
これは、アレだ。
山の民にも近隣の村々の者達にも、そしてひなにもされたアレ。
すなわち勘違い。
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