第8話 帰る

 おどけた調子の声だ。本気ではないとすぐに分かる声であったが、銀狼の隣のひなにとっては、そうと聞こえず思わず腰を浮かし、火を吹くような眼差しで天外を睨みつけている。


「肝の一つくらいは構わん。半日も寝ていれば元に戻るからな。ただし、ひなに教える術に手抜かりは許さんぞ」


 ひなの激昂も、天外のからかいも無視して、銀狼は極めて真剣に答えた。自分の冗談に食ってかかるかと思っていた天外は、こちらの肌を泡立たせる迫力を滲ます銀狼の様子に、くくっと髭の奥に隠された口の端を吊り上げた。邪悪と見えなくもない光が、細い目に輝いていた。


「お前さんがそこまでいれこむか。こりゃ面白い。ついでにこの世の事も教えてやろう。術を教える前にある程度の教養があった方が、理解が早くなる。銀色、お前もついでに聞いていけ。養う少女よりもものを知らんと言うのは恥だろう?」


「別に構わんが……」


 ちらっとひなの方を見ると、ひなはこくこくと忙しなく首を縦に振っている。銀狼に対する態度で、天外に対して好ましくない印象を受けている為だろう。天外と二人きりにされる事よりも、自分の眼の届かない所で銀狼が何をされるのか分からない事が不安なのだ。

 ひなと銀狼の態度を面白げに見つめながら、天外は両手を叩いた。その拍子に砕けないのが不思議なくらいにか細い手である。

 滲むようにして天外の背後に、左右の端を棒に支えられた黒緑色の板が出現し、ひなの目の前には紙束と筆、硯、墨壺が現れた。同じものが銀狼の足元にも置かれている。無からモノを取り出す術を行使したのだろうが、初めて目にする現象に、ひなの目はまんまるに見開かれている。対して銀狼は、この爺さんならこれ位やるだろう、と気にしていない様子だ。


「弟子を取ったのははて、何時の事だったかよく憶えておらぬが、まあ簡単な所から始めるとしよう。嬢ちゃん、読み書きは出来るかね?」


「簡単なのなら、父から教わりました」


 武芸者であった父の教育によって、ひなは村の娘としては珍しく、一通り、文字の読み書きができた。大抵は村長や村の重役の一部に限られる。不幸な事に読み書きができると言う事が、ひなの両親の死後、村の同年代の子供達からの冷遇に繋がってしまった。

 それから天外は銀狼に視線を移して、


「お前は読めんよなぁ。なあ、銀色の?」


 にたぁ、と相手を馬鹿にしている事が明らかな笑い方だ。銀狼もそれ位は分かったから、機嫌を一気に悪いものにしている。


「必要のない生活だったのでな。それと、銀色の、ではなく銀狼と呼べ。仮だが、それが今の私の名前だ」


「銀狼……見た目そのままだな。自分で名付けたのか、それともお嬢ちゃんが名付

けたのかね?」


「銀狼と決めたのは私だ。本命はひなに付けてもらう予定なのだ」


 どことなく照れ臭そうな銀狼の様子に、天外は興味を隠せない様子だ。以前、銀狼と顔を突き合わせた時に比べ、はるかに感情が豊かになっている。元々善の性質を持った妖魔であったが、人間の少女を引き取ったことで劇的に精神が変化している節が見られる。


「なら銀狼と呼んでやる。お嬢ちゃんが文字を書けるなら、お前はお嬢ちゃんから教われ。わしは別の事をお前達に教えてやろう。運が良いぞ、世の万人が知らずにあの世に行くようなこの世の様々な事を教えてやるのだからなまず、この世界の事から教えてやろう。この国をはじめ、よその大陸も含めた大地を、壺中星と呼ぶ。そのうち、誰かが違う名前を付けるかもしれんがな」


 天外は腰の裏を叩きながら仰々しげに立ち上がり、背後の板になにか白い棒のようなもので、壺宙星、と書いた。


「夜空に輝く数々の星も、大半は同じような壺宙星だ。中には太陽や月もあるがね」


「あの」


「質問は挙手と共にするように」


「は、はい」


 ぴしゃりと言われ、おずおず手をあげ直してから、ひなが質問をした。


「えっと、天外様の言う通りだと、夜に見える星のほとんどに私たちみたいに人が生きていると言う事ですか? なんだか、とても信じ難いというかなんというか」


「だが事実だ。ま、九割九分九厘の人間は知らん事よ。下手に口外しない方がいいぞ、頭がおかしいと思われるからな、で、だ。その無数の星を含むこの世の全部をひっくるめて壺宙界という。これはその名の通り壺の形をしておる」


「壺?」


 天外の言う事が信じられず、銀狼が首を捻った。


「壺だ。この世が創られる時に、神さんの一柱が持っていた壺に、他の神さんがたがこの世の素となるものをぶちこんで、かき混ぜながら煮込んで出来たのがこの世なのよ。壺の中がわしらの生きておる世界。壺の外が、神々の領域たる天界となっとる。この壺の底が、あらゆる生命が死後世話になる冥界、あの世とか常世と言われておる場所じゃ。お前さんらは当分冥府には世話にならんだろうがな」


 黒板に、大きな壺の絵が描かれて、内側に壺宙星を露わす点、底の方に冥界、壺の外側に天界と文字が書かれた。天外の言う事を信じるなら、壺の中の小さな点の

一つが、ひなと銀狼らが生きている大地となる。


「で、この大地には世界を創造した十三の主神を頂点とする宗教が広まっておる。この国は特に月の女神シラツキノオオミカミを奉じておるな。十三の神々の内、壺の持ち主である道化の神が唯一不可侵の中立で、他の神は敵対関係にあったり、友好関係にあったりする。神々の総数は八十八万余、主神以外の神を崇める民族や種族もおるでな。誰かの前で、下手に神さんを馬鹿にするような発言はしない方がいいぞ」


「はあ」


「といわれても私は神々の名前など一つも知らんぞ。ひなはどれくらい知っている

んだ?」


「え~と、二、三、知っているだけです。近くの神社の神様と月の女神様のお名前だけです」


 山暮らしの銀狼は正直に自分の無知を晒し、ひなの方も必死に思い出そうとしても、それ位だった。天外はその二人の様子を馬鹿にするでもなく、ま、そんなものだろう、と髭を扱いている。癖なのだろう。


「八十八万全部とはいかんが、十三柱の主神の名前と知っておいた方がいい習慣位は教えてやる。しかし、内容を可能な限り省略してもやはり時間はかかるのう。よし、お嬢ちゃん、これを持ってお帰り」


 天外は腰帯に吊るしていた革袋に手を突っ込み、掴みだした品をひなの目の前に置いた。小さな手鏡である。青銅製の品らしいが、鏡の部分は驚くほど磨き抜かれていて、ひなの顔を完璧に映している。

 自分の顔を映す手鏡を、ひなはしげしげと見つめている。虎の様な猫の様な、狼の様な犬の様な、様々な獣が精緻に彫り込まれており、その巧みさから人生の多くの時間を技術の向上に捧げた職人の手になるものであろう。


「仙道の作った特別な道具でな、遠くの人間とやりとりの出来る遠見の鏡よ。お主らがいちいちわしの所に足を運ぶのは面倒であろうし、わしがそっちに行くのも面倒だ。次からはこれでお前らに教えてやる」


「便利なものがあるのですね」


 ふへえ、と妙な感心の溜息をついて、ひなは手鏡をぺたぺたと触りまくっている。


「もっと褒めても良いぞ。さて、話の続きだが、神さんがたの話はまた次の機会にしよう。お前さんらには滅多に関わりの無い事だろうし、もっか急いで知る必要のあるものでもなし。身近な所でこの山の話でもしようか。ここに来る途中、蛇の奴らめと一戦交えていたな」


「千里眼か、見ていたなら手を貸すくらいしてもよかろうに」


「お前さんなら自力で切り抜けられると信じていたからよ。でだ、この山には大別して七種族の妖魔が覇を競い合っておる。蛇、狼、猿、鷹、鹿、猪、虎だの。わしがここに住まいを定めた時にはもう血で血を洗いあっておったな。こいつらは山の内側での争いに忙しいから、滅多に外側には行かんが、凶暴さや単純な強さでは外側の妖魔よりも一段も二段も上じゃ。気をつけいよ。銀狼が傍におらぬ時に会ってしもうたら、まず命は助からん」


 七種族のほとんど対峙した事のある銀狼がここで実体験を語った。


「単純に一匹一匹が強いのは蛇と虎。群れを相手にすると厄介なのは空を飛ぶ鷹、連携が巧みな猿と狼だな。どれも戦わずに済んだらいいんだけどな」


「あの、大狼様……大狼も元は内側の妖魔だったのですか? 昔から何人ものお武家様やお坊様が退治しようとして、誰も帰ってこなかったのですけれど」


 妖哭山の事情を知らぬ村の住人であったひなにとっては、銀狼と出会うきっかけとなった大狼が、はたしてどれほどの存在であったか気になるのも当然の事だろう。


「大狼か。強さで言えば十指に入る剛の者じゃよ。奴はちと特別でな。銀狼と同じで母親の腹から産まれたのではない妖魔よ。妖魔にゃあ、そこらの獣や人間同様に、雄と雌が番になって産まれてくるのと、天地陰陽の気やら、なんやらがごちゃごちゃに混ざりあって産まれる場合の二種がおる。後者は珍しい例じゃ。おまけに十に七は並みの妖魔をはるかに上回る個体になる。大狼と銀狼がちょうど、この例に当てはまるの」


「産まれ方が同じ……」


「だからといって兄弟扱いはしないでくれよ。大狼の奴は、顔を合わせたらいきなり襲いかかって来たのだ」


 ひなに大狼と同類扱いされそうな事に、やや焦った調子で銀狼が弁明する。この様子からして、ひなに嫌われる事は徹底的に避けたいらしい。情けないと言おうか何と言おうか。銀狼を弁護するわけではあるまいが、天外が口を挟んだ。


「人間と同じでよ、産まれ方が同じでも性格まで同じようになるとは限らんさ。特に気が混ざり合って産まれる奴らは、何が混ざるかで性質がだいぶ異なる。大狼の奴は山で死んだ生命の憎悪や無念を核にして生まれた為に、己以外の生命を憎むことこそが本能だった」


「お詳しいんですね」


「まあ、長生きしているのでな。大狼の奴、ここ十数年は外の村へ手出しをしなくなった代わりに、山に生きている連中を執拗に殺し回りおってな。流石に目に余るとわしが手を下そうとした矢先に……」


 ここで言葉を溜めて、天外は銀狼を見た。つられてひなも隣の異常にでかい狼を見上げる。当の銀狼は、ここで自分に注目が集まる理由がよく分かっていないのか、赤子のようにきょとんとした顔をしていた。

 この表情だけを見れば、狼ではあるが人畜無害な獣と勘違いしそうなぼけっとした雰囲気だ。


「このど派手な狼めが、大狼をその爪と牙で散々に痛めつけて山に還したのよ。準備万端整えていざ決戦、と息巻いておったわしとしては拍子抜けも良い所で、がっくりきたのを今も覚えておるわい」


「お前の手間を省いたのではないか」


「それは否定せんがな。大狼は悪鬼羅刹の権化のような妖魔じゃったが、お前は穏やかな性質を持って生まれてきた善妖だったからの。大狼とは真逆の性質故、出会えば反発するのが道理だったんだの。お嬢ちゃん達を困らせておった大狼を、この銀色の派手な奴が滅ぼしたのは確かな事実じゃよ」


「……」


 ひな自身が直接大狼に害を及ぼされた事はないが、それでも銀狼を見上げる視線には尊敬と感謝の念が、強い輝きを放っている。照れ臭いらしくて、銀狼は長い尻尾を左右に振っていた。

 左右に一定のリズムで揺れる銀狼の尻尾を見た天外が、しみじみと呟いた。


「銀狼、お前、分かりやすい奴だったんだの」


「自分に嘘を吐いた事が無くてな」


「冥府で舌を引っこ抜かれる心配はなさそうだの。さて、と、妖魔の産まれ方には二種あると言うたが、実は、もう一つ例がある。といっても、これは妖魔に限らず世の万物に言える事であるがの」


「なんにでも例外があるということですか?」


「さよう。先ほど、この世はある神の持っていた壺の中に造られた、というたじゃろ。壺の持ち主であった神が、太古の昔から今に至るまで気まぐれに外の世界のものをこの世に放り込む事がある。それらを総じて、越界者と呼ぶ。これは生命以外のものも含んでおってな。この世では造られておらぬ器具や武具、技術、時には病魔であったり、植物や獣であったりする。稀にじゃが、人間や妖魔も含むの」


「外の世界とは、他の星から、と言う意味か?」


 興味深げな銀狼に、天外は白く輝く歯を見せた。握りこんだ右拳から、人差し指一本を立てて、左右に振る。洒落た仕草であったが、銀狼とひなは揃って首を捻った。


「ノン」


 銀狼の眉根が寄った。天外の口にした短い言葉の意味が理解できなかったからである。


「どこの言葉だ?」


「こっからずっと西の方にある国で、否定を意味する言葉よ。お前の答えは半分だけ正解かね。別の壺宙星から連れてこられた連中もいるが、そいつらはわしらと同じ壺宙界の住人だ。それを世界の壁を越えて来た者とは呼ばんのだ。越界者と呼ばれる者達はすべて、壺の外、すなわち神々の住まう天界の外側の連中なんじゃよ」


「天界以外にも世界が存在していると? 神の世界の外にも別の世界があるのか?」


「越界者の証言を信じるならな。そいつらが持ってきた技術や知識が、それまでこの世にあったものではなかったということから、信じるものもいる。多くの者は信じぬが、この世にはところどころ綻びとでも言うべき脆い所がある。何かの拍子にそのほころびがぱっくりと口を開いて、異なる世界の者達を連れ込む事もある」


「必ずしも神の手によってこちら側に攫われてくるばかりではないと言う事か。神という割には全知全能ならざる所があるな」


 罰当たりと言えなくもない銀狼の言葉に、天外はにやにやと笑うばかりだ。


「神々の遊び場たるこの世はな、神にも完全には御せぬ部分を持っておる。神の意図せぬ越界者の存在が良い例だ。ちなみにここもその綻びのある場所の一つよ」


「山の内側がか?」


「おうよ。時折この世のものとは思えぬ品が転がっていてな、わしはそれを集めるのを趣味にしておる。この部屋の品物の多くもそうだ」


 用途がさっぱり分からない部屋の品々を、改めてひなと銀狼は見回した。天外の言葉を信じるのなら、それらはすべてこの世の住人ではない者達の手からなるモノだという。これらの品の本来の用途は一体何なのだろうかと、ひなは思わずにはいられない。

 ふと、越界者の話を聞くうちに抱いた疑問を口にした。


「でも、どうして神様はそんな事をするのですか? 他所の世界の人達を勝手に連れてくるなんて。それでこの世界を良くする為?」


 連れて来られた側からすれば迷惑以外の何者でもないだろう。理解できないと顔に書いているひなに、天外が両肩を竦めて答えた。


「いいや、世界を賑わすためよ。停滞し変化の乏しくなった世界に、そうして刺激を与えてどんな変化が起こるかを見ておる。そもそもこの世が創られたのはな、神々の暇つぶしの為じゃ。複数の神々が持っておった技術や道具を使って、神々自身にも予測のつかぬ世界を創り、その世界を各々が思う通りに、時に協力し、あるいは邪魔をして面白おかしく楽しんでおるのよ。いわば、神々の遊戯場。わしらは盤の上で動く駒よ」


「それって、じゃあ、私達が生きている意味って一体何なのですか」


「神々からすれば楽しませてくれればそれでよし。観察され見物されておるわしらからすれば、生きている意味なんぞ、ありゃせんのかもな。意味を考えなくても生きては行けるからの。とはいえ、幸か不幸かわしらは喜び、悲しみ、怒り、楽しみ、愛し、憎む心を与えられておる。その心のままに生きれば良いのではないかな?」


「……」


 ひなが納得のいっていない事は、むすっと膨れた両頬で分かった。一方で天外の言うとおり、心の赴くままに生きてきた銀狼は、うむうむと頷いて、天外の言い分を認めている。

 姿を見る事も声を聞く事も出来ない神の思惑など気にせず、自分の好きなように生きればいいのだと、心から思っているのだ。


「お嬢ちゃんからしてそんな顔をする位だ。越界者の連中ならなおさら納得がいかんと思わんか?」


「……確かに。やっぱり問題が起きたんじゃないでしょうか」


 なにか一つ他者と違えば、それが簡単に迫害や差別に繋がる事を身をもって知っているひなだから、越界者達が受けた仕打ちは、容易に想像できた。理不尽に故郷を奪われた怒りや、親しい者達と引き離された悲しみが、世界すべてに対する憎悪へと変わる事も。


「そりゃもうたくさん起きたわい。中には自分達を攫って来た神とこの世界を憎み、壊してしまえと考えている危ない奴らもいる位だからな。ただ、中にはこの世に来た事を天啓と考えて――まあ、天と言えば天だ。なにしろ、正真正銘の神だからな――元の世界では出来なかった事をしようとした連中もおった」


「後ろ盾も何もあるまいに、身一つで何ができる?」


「持って生まれた運と才能がある。元の世界での経験もな。神の使徒と丁重に扱う宗教もあるがね。有名な所だと二百年前にこの国を統一した織田なんちゃらいう武将が越界者だ。もっともお前さん達が関わる事はないだろう。なにしろ滅多に居るものではないからの。さて、次は何の話をしてやろうかの」


 天外は再び髭を扱きつつ、思案する様に目を瞑った。


「今日はこんな所でよかろう」


 と、天外が授業の切り上げを告げたのは、授業開始から三時間ほど経過した後だった。時折休憩を挟んでいたから、銀狼やひなに疲れは見えなかったが、天外の方に飽きがきたらしい。

 その証拠に盛大な欠伸をし、天外は自分の湯呑を口元に運んで一口飲んだ。ひなも、二杯目の白湯で喉を潤した。銀狼の方はひなが書き写した紙の文字を見て、何と読むのか、授業内容と照らし合わせて、うんうん唸りながら考えている。


「お嬢ちゃんは物覚えがいいの。銀狼は、まあ、文字を覚えるところから始めんと

アカンな。記憶力はいいんだがなぁ」


「……これは、『雨のち晴れ』か?」


 と、銀狼は天外を無視して、隣のひなに大きな首を傾げて問うた。銀狼が鼻先を押し付けて示した一文を見て、どれどれとひなが覗きこむ。これまでは銀狼が、慣れぬ山の暮らしに戸惑うひなに懇切丁寧に教えていたのだが、今回ばかりは正反対の様子であった。

 腰を下ろしても成人男性と同じかそれ以上に高い肩高の銀狼が、真剣な眼差しで机の上の紙を見ているのは、どこか愉快で、天外は邪気のない笑みを浮かべる。この一匹と一人の組み合わせは、実に面白い。


「さて、今からお前さん達の塒に戻れば、日が暮れる前に着くだろう。どれ、新しくできた弟子にいいものをくれてやろうかね」


「『思い立ったが吉日』?」


「当たっています。銀狼様、良く分かりますね」


「ふむ」


 と満更でもない様子の銀狼。自分を無視する一匹と一人に、天外は釈然としない様子で背後の棚を漁り始めた。変に声をかけても疲れるだけだと思ったらしい。

 目的のものを見つけて、改めてひなと銀狼へと振り返った天外の手には、黒と赤の小箱が乗せられていた。どちらも掌よりやや大きい。

 蓋に金粉を使って鶴や亀、獅子といった獣が描かれている。獅子が雄々しく吠える声が耳を打つ錯覚を覚える精緻さ、優雅に羽ばたく姿を幻視するような鶴の生き生きとした躍動感、まるで小さな山の様な圧倒的な迫力を伝える亀、と見る者の心を衝撃で揺さぶる見事な品である。


「おい、お主ら、いい加減一匹と一人の世界から帰って来い」


「む」


「え、ああ、すみません」


「別に謝らんでもいいが、ほれ、これ持って行け」


 ぐいと押しつけられた小箱の蓋を取って、その中身をひなと銀狼がしげしげと見つめようとして、ふぎゃ、と変わった声を出して顔を顰めた。

 ツンと眼の裏まで刺激する強い臭いの、なにやらどろりとした薄緑色の物体が一杯に詰められている。


「な、なんですか、これ?」


 鼻を押さえながらのひなである。銀狼の方は、両方の前肢で黒いぽっちみたいな鼻をしきりにこすっている。大蛇の猛烈な臭気やむせかえる様な血の匂いは平気でも、小箱の中身が発している臭いは、耐えがたいようであった。


「わしが特別に調合した薬よ。打ち身、擦り傷、切り傷、骨折、捻挫、発熱、下痢、なんにでも効能がある。山の中には強い毒を持った食い物も多いし、虫や蛇も多いからな。困った時にはそいつを使え。水に小匙一杯の分量で飲むもよし、指ですくって塗ってもよしじゃ」


「この臭いは何とかならんのか。私には毒としか思えん」


 あまりの臭いのきつさに、今にも泣きだしそうな位に顔を歪めている銀狼の文句を、天外はさらっと聞きながらした。


「たわけ。仮にも仙人たるこのわしが調合した特別製じゃぞい。骨まで届く傷でも一塗りでさっと治る。良薬口に苦しと言うてな。苦い薬の世話になりたくなければ、健康であるよう気をつけて暮らす事よ。お前さんはやたらと頑丈だから、お嬢ちゃんにしか用の無い代物だが」


「一番欲しいのはひな用の品だから、問題はないな」


「蓋を閉めますね」


 これ以上の臭気に耐えられなかったひなが、珍しく誰かの許可を得る前に行動に移った。まさしく臭いものには蓋をしろ、というわけだ。あまりに銀狼とひなが臭そうにするものだから、気の毒になったのか、天外が懐から乾いた葉を二枚取り出して、それを指先ですり潰した。

 ぱらぱらと小さな破片になった枯れ葉が指から零れると、たちまち立ち込めていた臭いが嘘のように消える。消臭の効能がある葉っぱだったらしい。

 あまりの効能に、おお、とひなと銀狼が驚きの声を上げると、天外は得意げににやにやと笑う。皺だらけの顔が、さらに深い皺に埋もれて人間の顔なのか、かなり怪しくなった。

 枯れ枝に皮を張り付けたような指を服に擦りつけて拭った天外が、懐から巾着袋を取り出した。全く膨らんでおらず平坦だった懐のどこに入っていたのか。巾着袋の中には何かが一杯に入れられているようで、パンパンに膨れている。

 重い音を立てて巾着袋はひなの手前に置かれた。


「これもやろう。飴じゃ」


 天外が顎をしゃくって促し、ひなは巾着袋を手に取って中を覗きこんだ。銀狼も同じように覗きこんでいるが、若干距離が離れている。

 またぞろとんでもない臭いでもするんじゃなかろうかと警戒しているのだろう。

自分の十数倍以上の巨躯を誇る妖魔に平気で挑みかかる割に、妙に臆病というか小心者の態度をとる事もあるようだ。

 ひなにとって危険なものではないと判断しているから、このような態度をとるのかもしれない。

 きれい、と短いが偽りのない言葉がひなの薄い花びらの様な唇から零れ落ちた。

 巾着袋の中には、天外の言ったとおり色とりどりの飴玉でいっぱいだった。青、赤、緑、黄、白、黒、桃、金と煌びやかな色彩が一杯に詰まっていて、それはさながら夢のような美しさだった。

 まんまるい飴の甘美な味よりも、その見た目の美しさにひなは惹かれているようで、まるで飽きる様子もなく巾着袋の中身を見つめている。

その背後ですんすんと鼻を鳴らしていた銀狼は、害はなさそうと判断したのか小さな溜息を吐いている。


「甘くて美味いぞ。ただ一日一個だけにしておけ。あんまり食べ過ぎても体に毒だからな。それと、銀狼、お前はこの飴玉を舐めるなよ。これはお嬢ちゃんの為の飴玉だからの」


「分かった」


「お嬢ちゃんが二個以上食べないように注意しておけよ。銀狼様、食べたいです、と猫撫で声で言われてもダメと言えよ」


「………………努力する」


「過保護はお嬢ちゃんの為にならんぞ」


 たっぷりと間を置いて返事をした銀狼を、天外は呆れた目で見た。こいつダメだ、となにがダメかは分からぬが、とにかく心底思ったらしい。

 天外にとっては、たった一人のちっぽけな少女と出会った事で、この狼が良くも悪くも大きく変貌している事を、改めて実感させられた気分であった。

 天外はわざとらしい咳払いを一つして自分の気持ちに区切りをつける。


「とりあえず明日、夜になったら遠見の鏡で呼びかけるから、出られるようにしておけ。後、今日教えた事は忘れんように復習しておくように。特に銀狼、お前は文字が読めるようによおっく、お嬢ちゃんに教わる様に」


 よおっく、という所に力を込めて言う天外に、白銀の獣は生真面目な調子で頷き返した。どこか正確に抜けた所があるせいか、相手の皮肉や嫌みに気づかない性質らしい。

 大げさに言えば、自分に向けられた悪意に気づかずに生きていけるのだから、幸せな性格と言えるだろう。


「うむ。あまりひなに面倒を掛けては悪いからな、すぐに覚える」


 こいつ、本当にこのお嬢ちゃんに懐いておるな、と呆れた様な感心した様な気持ちになり、天外はしみじみと銀狼の狼面とひなの小さな顔を見比べる。

 このまま銀狼がひなに手懐けられていったら、一生、ひな、ひな、と言っていそうな気がした。

 ひなが銀狼の扶養家族と言うよりは、銀狼がひなの従順な番犬、いや、狼だから番狼に見えてきた。

 ま、当の銀狼は何の不満もない様だから、何も言うまい、と天外は心中で零す。


「似合いだな、お主ら」


 我知らずぽつんと呟いた言葉に、銀狼は嬉しそうに目を細め、ひなは頬をぽっと火が灯ったみたいに赤くして、両手で熟した林檎の様な色合いの頬を挟んだ。


「えへへ、そう見えますか?」


「ふむ」


 どちらも満更でもないどころか心底嬉しいらしい。これは第三者が何を言っても無駄だろう。


「人間と妖魔の婚姻――妖婚の実例が近いうちに増えるかもしれんな」


 その天外の呟きには、あまりふざけた調子はなく、未来を確実に予知する予言者めいた響きがあった。


「そう言えば、ここに来る途中猿の群れが何やら逃げている様子だったのだが、何か知らぬか?」


「んん~? ああ、確か猿の部族同士の間でかなり大規模な戦いがあったからそれの負けた方ではないかな。どうも手を組んだ灼猿公と角猿伯が、他の部族を叩き潰したらしいぞ。猿共の間で大きく勢力が変わるから七種族の力関係にも影響があるだろの。多分、お前さんにも飛び火するぞ」


「なんでだ? 私はこちらに関わる気はないぞ」


「その気が無くともお前さんは強い。それにこちら側の連中とも顔見知りだし、狼族の長がご執心なのも山では有名な話だ。何も起きんとは限らんぞ~う?」


「面白そうな顔をするな」


 ぐふふふ、と底意地の悪い天外の笑いに、銀狼は眉間に深い皺を刻んで文句を言ったが、ひなと銀狼が部屋を出るまで、ぐふふという笑い声は聞こえ続けた。

 また、あの距離というものが分からなくなる無限の長さを誇る廊下を歩いて帰った。行きと同様彼方にある筈の出口は、白い霧の様な薄い光に閉ざされ果ては見えなかい。

 銀狼とおしゃべりしながら歩いていると、天外の居た部屋に繋がっていた戸が生じたのと同じように、唐突に奈落が口を開いた様な黒い出口が視界の先にあらわれた。

 一点の光も見えぬ真の闇が外の世界を覆い尽くしているかのようで、ひなは少なくない躊躇を覚えたが、すたすたと銀狼が臆する様子もなく歩いて行くので、安全なのだろうと考え直し、従容と銀狼の後に続いた。

 無常館とたいそうな名前の小屋に入った時と同様の眩暈の様なものに襲われ、とっさに閉ざした瞼を開けば、広がっていたのは一枚の絵画の様な湖畔の光景であった。

 驚いたのはいつの間にか外に出た時、太陽は天外の小屋へ足を踏み入れた時とそう変わらぬ位置にあった事だった。木々の緑を照らし出す陽光のかかり具合や、大気のぬくもりにほとんど変化が見られない。

 まさか、丸一日経ったのだろうか、と首を捻るひなの隣で銀狼が言った。


「無常館の中の時間がねじ曲げられていたのだろう。あの館の中と外とでは時の流れに差が生じたのだ」


「???」


「簡単に言えば、あそこで一日過ごしても、外ではほとんど時間が経っていないと言う事だ」


「ええっ! それって、とても凄い事なのでは……」


「どうだろう。仙人ならば誰でも時を操る位は出来るのか、それとも天外が特別なのか。他の仙人を知らんから何とも判じ難いな。とにかく用事は済んだ。帰ろうか」


「はい、帰りましょう」


 帰る。一人と一匹にとってあの樵小屋こそが、帰る場所になっていた。もともと帰る場所を持たなかった銀狼と、帰りたいと願う場所を両親と共に失ったひな。

その一人と一匹が共に同じ言葉を口にした事が、両者の絆が着実に構築されている事を証明していると言えよう。

 元気よく返事をしたひなの手には、天外から渡された風呂敷に包んだ小箱二つと、飴玉入りの巾着袋に、筆や墨壺、紙束を含む筆記用具一式があった。

一つも落としたりしないように、ひなの手にはあらん限りの力が込められているようで、小さな握り拳は白く変わっている。

 ぺたり、と腹這いになった銀狼の背に、来た時同様にひなが跨る。荷物が増えたので、手が片方塞がってしまうのだが、そこは銀狼の背中とひなの体の間に風呂敷包みを挟むことでよしとした。

 さて、と銀狼は浅く息を吸う。二度吸ってから一度吐いた。ひなの姿勢を考えれば来た時よりもいくらか速度を落として行かないと辛いだろう。

 来た時と同じ道を辿れば、今度はおそらく狼の一族との遭遇は避けられまい。狼の妖魔達の大半は、ひなという荷を背負っていても撒く自信はあるが、長の狗遠やその異母弟である飢刃丸あたりだと逃げきるのはまず不可能だろう。

 特に狗遠と出くわすと、毎度しつこく追い回されてばかりなので、銀狼は狗遠との接触はできるだけというより絶対に避けたかった。

 特にひなを連れた状態での接触を極めて危険なものになると、予感がかつて経験した事が無い位の確実さで訴えかけてくる。

 別に牙を剥かれたり爪で脅されたりはしないのだが、甘える様にしてすり寄ってくる狗遠の事がどうにも苦手なのだ。

 銀狼が色事に関する欲求や知識をそんなには持ち合わせていないのと、どこか抜けた所のある性格の為だろう。

 不安要素ばかりが頭の中でぐるぐると渦を巻くが、帰り道に関しては天外が手を打ってくれたのは幸いだった。

 帰り際、天外が帰り道の間だけ効力を発する魔除けの術をひなに施してくれたのだ。といっても、虹色に輝く塩の様な結晶の粉を、ひなの頭から爪先に至るまで振りかけただけである。

 結晶の粉の輝きと匂いが、妖魔の多くが毛嫌いするもの、とは天外の言だ。その効能に関しては、全身には虹色の輝きを羽衣の様に纏うひなを前にして、思わず数歩あとずさった事で証明された。

 ちなみに無意識にとは言え、ひなから遠ざかった事に銀狼は少なからず驚き、多少傷心してしまって、無常館を出る道中、ひなに話しかけられるまで無言で通しひなに気を遣わせてしまった。

 ひなの方はそれで銀狼への評価を変えはしなかったが、天外の方は微妙に下方修正した節が見られた。

 この狼、他者との積極的な交流が乏しかったせいで、些細な事で機嫌が大きく変動し、落ち込んだり発奮したりと忙しい。

 第三者からすれば、よほどひなの方が落ち着いていて、外見を考慮しなければ、保護者と非保護者が逆の様に映るだろう。

 とりあえずひなに頭を撫でられて、落ち込んだ状態から復活した銀狼は、天外の魔除けがどれほど効果を発揮するか、身を持って体験した為にそれなりに信頼して走り出した。

 銀狼の各知覚器官でもっとも確実にかつ素早く敵意ある存在を発見するのは、嗅覚である。天外の調合した薬の劇臭を嗅いだせいでやや感覚が麻痺しているようで、若干の不安は残ったが、深く息を吸い風に乗っている他の妖魔の臭いを分析する。

 天外の張っている妖魔除けの結界を越えた途端に、津波のように押し寄せてくる濃密な血臭は相変わらずであったが、蛇の臭いはいくらか薄らいでいる。紅牙が一族を率いて巣へと引き返したのは間違いないだろう。

 となると大蛇の死骸を漁ったに違いない狼と鳥の連中の所在が気になるが、上空に羽ばたく影は見受けられず、狼の臭いも残留している分を除けば近くからは嗅ぎ取れない。

 しばらく襲撃はあるまいが、かといって気も抜けない。結局、警戒を密にしつつ森の中を走るのは変わらないのだ。

 とん、と軽やかに岩を蹴って川を飛び越えて、銀狼は舞落ちる木の葉や、目の前に広がる地面、前後左右に広がる樹木、絶えず対流する気流に疑わしい変化が無いか逐一確認しつつ走る。

 ひなの方は銀狼の毛並み具合で周囲に危険が無いと判断しているようで、両手両足を使って銀狼にしがみついた姿勢のまま、常に流動する周囲の光景を見ている。

 速度を抑え気味にしているとはいえ、銀狼の移動速度はかなりのものだ。ひなの目では水で溶いた絵の具の様にしか映らず、木の一本一本や慎ましく咲いている白い花を見分ける事は不可能である。

 はっきりとは認識できぬ光景だが、ひなはさほど気にしていない様子で、銀狼の背中で揺れていられることそれ自体を楽しんでいる。

 銀狼が感じている心労を知らぬと見えるが、銀狼にとっては、ひながこんな風に苦労も何も知らず、笑ってくれていればいいと心底願っているから、一匹と一人の関係はこれで良いのだろう。

 また、銀狼の心配は幸運な事に杞憂に終わった。天外が施した魔除けの術の効力は確かなものであり、銀狼が呆気ないと思うほど簡単に小屋へ到着したのである。

たった数時間離れただけだが、奇妙な事に小屋を前にした銀狼の胸に湧きおこったのは懐かしさと帰ってきたという感慨であった。

 背から降りたひなが、ふわあ、と伸びをしながら弛緩しきった声を出す。どこで覚えたのか、自分で肩を叩いて、肩が凝りましたなあ、などとのんびり呟いている。本当にどこで覚えたのやら。

 一方で、これはどういう事だろうかと首を傾げて、奇妙だが胸の中が暖かくなる感覚に戸惑っている銀狼にひなが声をかけた。

 冬の厳しい寒さに閉じこもっている蕾が、思わず綻んで花を咲かせたくなる――そんな暖かな笑み。狼面に皺を寄せていた銀狼が、そのひなの笑みに見惚れてどこか間抜けだが、愛嬌のある表情を浮かべた。

 体が大きすぎてどうにも近寄りがたい雰囲気を無意識の内に放っているが、この狼、愛玩動物としてもなんとか生きていけるのではあるまいか。


「早く入りましょう、銀狼様」


「……うむ」


 銀狼の返事が遅れたのは、ひなの笑みに見惚れた自我を取り戻すのに時間を要したからだ。一人と一匹は仲良く横に並んで――残念ながら両者の身体的相違によって手を繋ぐ事は出来なかったが――彼らの家へと帰った。

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